論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
顏淵、季路侍。子曰、「盍各言爾志。」子路曰、「願車馬、衣、輕*裘、與朋友共、敝之而無憾。」顏淵曰、「願無伐善、無施勞。」子路曰、「願聞子之志。」子曰、「老者安之、朋友信之、少者懷之。」
校訂
武内本
清家本もまた輕の字あり。輕の字唐石経行旁にあり、後人の加えし所、原刻輕字無きよし。
定州竹簡論語
……而毋a。顏淵曰:「願毋b伐□,毋□104……[願]聞子之志。」子曰:「老者安[之,
c友信之,少者]105……
- 毋
、今本作「無憾」。
- 毋、今本作「無」。
、今本作「朋」。「
」為「傰」之省、「傰」字読為「朋」。
→顏淵、季路侍。子曰、「盍各言爾志。」子路曰、「願車馬、衣、裘、與友共、敝之而毋
。」顏淵曰、「願毋伐善、毋施勞。」子路曰、「願聞子之志。」子曰、「老者安之、
友信之、少者懷之。」
復元白文
願
憾
願
願
※志→止・→朋・施→矢。
論語の本章は上記の文字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による捏造である。
書き下し
顏淵季路侍る。子曰く、盍ぞ各爾の志を言はざる。子路曰く、願はくは車馬衣裘、友與共にし、之を敝り而憾むこと無からむ。顏淵曰く、願はくは善に伐ることなく、勞に施ること無からむ。子路曰く、願はくは子の志を聞かむ。子曰く、老者は之を安んじ、朋友は之に信あり、少者は之を懷けむ。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
顔淵(=顔回)と季路(=子路)が近くにいた。先生が言った。「なぜ自分たちの志を言わないのか。」子路が言った。「出来るなら車馬・普段着・上着を友人と共有し、損ねても怨みがないようにしたいです。」顔淵が言った。「出来るなら善事を誇らず、苦労を人に押し付けないようにしたいです。」子路が言った。「出来ますなら先生の志を聞きたいです。」先生が言った。「老人は安心させ、友人には信頼され、若者には懐かれたい。」
意訳
顔回と子路がそばにいた。
孔子「黙ってないで、将来の希望でも言ったらどうだね。」
子路「持ち物を友人と共有し、壊しても恨みっこ無しにしたいものです。」
顔回「して上げたことを忘れ、されたくないことを人にしたくないです。」
子路「で、先生は?」
「そうさな。老人は安心させ、同世代には信じられ、若者には懐かれたい。」
従来訳
顔渕と季路とが先師のおそばにいたときのこと、先師がいわれた。――
「どうだ、今日は一つ、めいめいの理想といったようなものを語りあって見ようではないか。」
すると、子路がすぐいった。
「私が馬車に乗り、軽い毛皮の着物が着れるような身分になりました時に、友人と共にそれに乗り、それを着て、かりに友人がそれをいためましても、何とも思わないようにありたいものだと思います。」
顔渕はいった。――
「私は、自分の善事を誇ったり、骨折を吹聴したりするような誘惑に打克って、自分の為すべきことを、真心こめてやれるようになりたいと、それをひたすら願っております。」
しばらくして子路が先師にたずねた。――
「どうか、先生のご理想も承らしていただきたいと思います。」
先師は答えられた。――
「私は、老人たちの心を安らかにしたい。友人とは信をもって交りたい。年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのだ。」
現代中国での解釈例
顏淵、季路侍奉時。孔子說:「為什麽不說說各人的願望呢?」子路說:「願將車馬和裘衣和朋友共用,壞了也不遺憾。」顏淵說:「但願能做到不夸耀優點、不宣揚功勞。」子路說:「您的願望呢?」孔子說::「但願老人能享受安樂,少兒能得到關懷,朋友能夠信任我。」
顔淵(顔回)と季路(子路)が孔子の近くに控えていたとき、孔子が言った。「なぜそれぞれの希望を話さないのかね?」子路が言った。「できるなら車馬と皮衣を友人と共有して、ダメにしても怨まないでいたい。」顔淵が言った。「自分の長所を誇らず、功績を言い立てないようにしたい。」子路が言った。「先生の希望は?」孔子が言った。「ただ老人に安楽を与え、子供から懐かれ、友達に信用されたい。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
顔淵(渕)
(金文)
孔子の弟子、顔回。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。
季路
(金文)
孔子の弟子、子路の別名。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。
盍(コウ)
(金文)
論語の本章では「何不」の合音字で、”なぜ~しないのか”。『大漢和辞典』の第一義は”覆う”。この文字の初出は甲骨文で、上掲の金文は戦国末期のもの。カールグレン上古音はɡʰɑpで、同音は盍を部品とする漢字群。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、去はふたつきのくぼんだ容器を描いた象形文字。盍は「去+皿」で、皿にがぷりとふたをかぶせたさまを示す。詳細は論語語釈「盍」を参照。
願
論語の本章では”願う”。この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はŋi̯wănで、同音は元や原を部品とする漢字群だが、”願う”の語義を持った文字は無い。詳細は論語語釈「願」を参照。
裘(キュウ)
(金文)
論語の本章は、では、”皮衣”。校訂で省いた「輕」の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はkʰi̯ĕŋで、同音に傾など。語義を共有する文字は無い。詳細は論語語釈「裘」を参照。

『三才圖會』所収「羔裘」(コウキュウ、仔羊の毛皮張り)。東京大学東洋文化研究所蔵
既存の論語本では吉川本に、清朝の考証学者の成果で、古本には「軽」の字がなかったという。しかし和刻本『論語義疏』を確認すると、やはり「軽」の字がある。この本は少なくとも、中国に残ったどの本より古い。無かった説の詳細は分からないので、和刻本より以前のどの古本のことなのか分からない。
敝(ヘイ)
(金文)
『大漢和辞典』の第一義は”やぶれる”。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、敝の字の左側の部分は「巾(ぬの)+八印(左右に引き離す)二つ」からなるもので、布を左右に裂くことを示す。敝は、それに攴(動詞の記号)を加えた字。八(分ける)・別(分ける)・貝(バイ)(二つに割れるかい)・敗(割れてだめになる)・廃(割れてだめになる)などと同系。特に弊(ヘイ)とはほとんど同じことば、という。詳細は論語語釈「敝」を参照。
憾(カン)
(金文大篆)
論語中の用例はここだけ。うらむこと。論語では本章のみに登場。
この文字は論語の時代はおろか、後漢の『説文解字』にも記載が無い。同音同訓の嗛、坎、惂、愋、㦥には、甲骨文も金文も存在しない。藤堂説で単語家族とされる歉、慊(ケン、者足らず残念なこと)の甲骨文も金文も存在しない。カールグレン上古音はgəmで、同音は存在しない。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、感は「心+〔音符〕咸(カン)」の会意兼形声文字で、心に強くショックを受けること。憾は「心+〔音符〕感」で、残念な感じが強いショックとして心に残ること。歉(ケン)・慊(ケン)(もの足りず残念なこと)と同系のことば、という。
『字通』によると形声で、声符は感(かん)。感は祝禱の器である口(𠙵(さい))に、聖器の戉(鉞(まさかり))を加えて緘し、神の感応を待つ意。そのようにして人を動かすことを撼、他から憂傷を受けることを憾という。〔左伝、哀十七年〕「陳に憾有り」とは、遺恨の意。
詳細は論言における「うらみ」参照。
伐
(甲骨文・金文)
論語の本章では”(武器でおどして)誇ること”。『大漢和辞典』の第一義は”撃つ”。以下”叩く・殺す・刺す…”と物騒な語義が続く。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、「人+戈(ほこ)」で、人が刃物で物をきり開くことを示す。二つにきる、きり開くの意を含む。発(両方に開く)・廃(二つに割れる)・敗(二つに割れる)と同系のことば。
きり開いて大げさに開放するの意から、ほこると訓じられるが、発揚の発(ひけらかす)と同系。また、罰(処断する)とも縁が近い、という。詳細は論語語釈「伐」を参照。
善
(金文)
論語の本章では”善事”。論語では他に、”能力”と解する場合がある。『字通』によると原義は神に愛でられること。詳細は論語語釈「美」・「善」参照。
施
初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。日本語で同音同訓の「矢」は甲骨文から存在するが、カールグレン上古音がɕi̯ər/藤堂上古音thierで音通するかは微妙な所。詳細は論語語釈「施」を参照。
施勞(労)
「施労」(金文)
論語の本章は、では、”人に苦労を押し付ける”。
古注では”労=わずらわしいことを、施=人に押し付ける”と解し、朱子の新注では”労=自分の苦労を、施=大げさに言う”と解する。古注の方が漢字の原義に近いので、本章ではそれに従った。詳細は論語語釈「労」も参照。
聞
(金文)
論語の本章では”聞く”。論語の時代、直接聞く事を「聴」といい、間接的に聞くことを「聞」といった。ここでは対話しているのに「聞」を用いている。つまり論語の本章は、二つの言葉の区別が崩れた、戦国時代から漢代にかけての成立である可能性がある。詳細は論語語釈「聞」を参照。
懷(懐)
(金文)
論語の本章では”なつける”。『大漢和辞典』の第一義は”思う”。論語の時代部品で同訓の「褱」と区別されず書かれた。詳細は論語語釈「懐」を参照。
論語:解説・付記
既存の論語本では吉川本が珍しく古注をまじめに読んで、晋の殷仲堪の説として、「自分のものを友達にくれてやる、というのは普通の行為であって、一行に変哲もない。友達の車馬衣裘を、自分がぼろぼろになるまで使っても気がおけないということでなければならぬ」と書く。
原文に当たると確かにそう書いてある。
殷仲堪曰く、施し而恨ま不るは士之近行也。若し乃ち人之財を用いて已が非を覺え不誠を推し闇かに往しても感じ思うところ生ぜ不るあらば、斯れ乃ち交友之至りにして仲由之志たる與也。
ずいぶん図々しい願いのように思う。