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論語詳解254先進篇第十一(1)先進の礼楽や’

論語先進篇(1)要約:やれやれ、やっと孔子塾に入れた。これで就職まで一安心。とだらけている新入生に、これ、だらけちゃイカンよ。不真面目者は、就職の口利きをしてやらんよ、とたしなめる孔子先生。文法的には後世の作ですが…。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰先進於禮樂野人也後進於禮樂君子也如用之則吾從先進

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰先進於禮樂野人也後進於禮樂君子也/如用之則吾從先進

後漢熹平石経

…之則吾…

定州竹簡論語

……[用之,則]吾從先進。」260

標点文

子曰、「先進於禮樂野人也。後進於禮樂君子也。如用之、則吾從先進。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 先 金文進 金文於 金文礼 金文楽 金文 野 金文人 金文也 金文 後 金文進 金文於 金文礼 金文楽 金文 君 金文子 金文也 金文 如 金文用 金文之 金文 則 金文吾 金文従 金文先 金文進 金文

※論語の本章は、「也」「如」の用法に疑問がある。

書き下し

子(し)曰(いは)く、先進(さきだちもの)の禮樂(れいがく)於(に)ては野人(さとびと)也(なり)、後進(おくるるもの)の禮樂(れいがく)於(に)ては君子(もののふ)也(なり)。如(も)し之(これ)を用(もち)ゐば、則(すなは)ち吾(われ)は先進(さきだちもの)に從(よ)らむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

論語 孔子
先生が言った。「先の人は礼法と音楽については庶民らしいのである。後の人は礼法と音楽については役人らしいのである。もしこれらを雇うのなら、私は先の人からにする。」

意訳

論語 孔子 居直り
諸君の先輩たちは、自分がまだ庶民のつもりで、成り上がりに燃えて一生懸命礼楽の稽古に励んだ。ところが新入生諸君は、もう役人になったつもりでお辞儀の真似をしたり、楽器をチンチンと叩いている。それじゃあものにならないぞ。もし私が役人に雇うなら、先輩たちから選ぶね。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「礼楽の道において、昔の人は土くさい野人、今の人は磨きのかかった上流人、と、そう世間で考えるのも一応尤もだ。しかし、もし私がそのいずれか一つを選ぶとすると、私は昔の人の歩んだ道を選びたい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「平民因學習優秀而獲得官職。貴族因世襲了官職而去學習。如果我用人,就用平民。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「平民は学業優秀なら官職に就ける。貴族は官職を世襲してから学業を始める。もし私が雇うなら、平民からにする。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

先進(センシン)

論語の本章では、”孔子塾の卒業生”。具体的に誰を指すか、儒者は想像を膨らませてきた。

古注『論語集解義疏』

註先進後進謂士先後輩也


注釈。先進後進と言うのは、士族になった時期の先輩後輩を言うのである。

新注『論語集注』

先進後進,猶言前輩後輩。


先進後進とは、先輩後輩のような意味である。

史実の孔子塾は、庶民から宰相に出世した実績のある孔子が教師となり、小麦栽培の普及や弩=クロスボウの実用化に伴う社会変動の中で、庶民が学んで貴族の最下級である士族を目指す場だった。新古の儒者は先進後進の定義をするに当たって根拠を言っていないが、孔子塾の実態と矛盾していない。従って論語の本章のこの部分に限っては、説を受け入れていいだろう。

ただし「士」の定義を儒者はしていない。論語に注を書き付けた儒者の生きた時代は、士とは官途に就いた者を指す。ゆえに官僚と同様の教養を持ちながら、仕官しない人を「処士」と呼んだ。早くは孔子没後一世紀に生まれた孟子が言っている(『孟子』滕文公下「處士橫議」)。

孔子塾の卒業生の場合、仕官した記録のある弟子は数多くいるが、中には仕官しないままの人も居た。孔子最愛の弟子とされる顔淵は、仕官しないから論語雍也篇11「陋巷に在り」”場末の長屋住まい”の生活を送った。おそらく孔子一門の謀略を担ったからだが(孔門十哲の謎#もっと侮れない顔氏一族)、顔淵が「士」でないとは孔子も思わなかっただろう。

従って論語の本章に言う「先進」とは、孔子塾の卒業生を意味するのだが、必ずしも仕官した者を意味しない。

「士」は「王」と同根の字でまさかりの象形、武装した貴族全般を指す。うち所領を持つ者を「卿大夫」といい、うち「卿」は城郭都市を所領に持つ貴族。卿大夫に対比させる場合、士は所領を持たない貴族を指した。つまり商工業などの生業が無いわけにはいかなかった。詳細は春秋時代の身分秩序を参照。

先 甲骨文 先 字解
(甲骨文)

「先」の初出は甲骨文。字形は「止」”ゆく”+「人」で、人が進む先。甲骨文では「後」と対を為して”過去”を意味し、また国名に用いた。春秋時代までの金文では、加えて”先行する”を意味した。詳細は論語語釈「先」を参照。

進 甲骨文 進 字解
(甲骨文)

「進」の初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~では”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

禮樂(レイガク)

論語の本章では、肉体的技能を除いた”貴族の教養”。孔子塾での必須科目は六芸と呼ばれ、礼(貴族の社会常識)・楽(音楽と詩歌)・射(弓術)・御(戦車の操縦)・書(歴史と古典)・数(算術)だった。いずれも当時の役人と戦士を兼ねた君子に必要な技能教養で、詩歌が必要だったのは、当時の国際語として古語が話せないと、外交交渉をしくじったからだった。

本章では本来「礼楽書数」と言うべき所、「礼楽」だけで代表させている。くだくだしいからでもあるし、時代が下ると「数」が重んじられなくなったからでもある。孔子生前の「礼」は礼儀作法だけでなく、貴族の一般常識を言う。詳細は論語における「礼」を参照。

いわゆる儒教の国教化が進んだ漢帝国では、「礼」は礼儀作法だけになり、君子が戦士だったことも忘れられ、「射」と「御」は抜け落ちて、「書」に加えて「春秋」が「五経」に加えられ、楽譜は散逸したから歌詞だけ「詩経」として残り、「数」の代わりに「易」が入った。

六芸

貴族の社会常識

音楽と詩歌

弓術

戦車の操縦

古典と歴史

算術
五経
礼経
礼儀作法
詩経
ポエム
書経
古典と歴史
春秋
歴史
易経
占い

つまり儒学が、武術を伴う技芸からからひょろひょろの口車に、語学からメルヘンに、数理からオカルトになったのである。

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

「禮」の新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。

楽 甲骨文 楽 字解
(甲骨文)

「樂」の初出は甲骨文。新字体は「楽」原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。

野人(ヤジン)

論語の本章では”庶民”。原義は春秋の邑=城郭都市の外に住む庶民。詳細は春秋時代の社会:国野制を参照。論語の時代、都市住民は商工民でも戦時には従軍し、その代わり参政権があった(『春秋左氏伝』定公八年現代語訳)。「士」にはそうした商工民も含まれる。対して野人とは城郭外に住み、従軍の義務がない庶民を指した(『春秋左氏伝』荘公十年現代語訳)。

都市の商工民は、春秋後期まで戦場の主力だった戦車こそ持たなかったが、個人装備は自前で武装できたから戦士たり得た。だが孔子晩年ごろから弩の実用化に伴い、庶民も徴兵されて揃いのはっぴを着せられた「卒」のされ、国が用意した弩を持たされて戦った。

この歩兵隊が戦車隊を圧倒できたので社会が変わったのだが、そうした社会変動の中で都市住民でありながら零落して士族の身分を失い、城郭外に住みながら従軍する者が現れた。論語の本章はそれを踏まえて理解すべきで、言葉と意味内容の乖離を承知の上で、あえて二文字で「野人」と言っている。春秋時代の漢語には原則として熟語が無く、「庶」「民」もどちらも「庶民」を意味したから、後出の「君子」に対句となるべき言葉が、一字では修辞上収まりがよくないからである。

なお春秋の漢語として”庶民”を意味するための「平人」は、文法上おかしくないが、用例が無い。

野 甲骨文 野 字解
(甲骨文)

「野」の初出は甲骨文。ただし字形は「埜」。「ヤ」(上)の音で”のはら”、「ショ」(上)の音で”田舎家”を意味する。字形は「林」+「土」で、原義は”原野”。春秋末期までに確認できる語義は、原義のほか”野人”のみ。詳細は論語語釈「野」を参照。

周代、周王朝や諸侯国に従わない者を野人といい、従う国人と区別した(→国野制)。つまり論語が成立した当時すでに、”勝手気ままに振る舞う連中”という語義があったことになる。

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

後進(コウシン)

論語の本章では、”孔子塾の新入生”。

後 甲骨文 後 字解
(甲骨文)

「後」の初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「ヨウ」”ひも”+「」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。

君子(クンシ)

論語 貴族 孟子

論語の本章では”仕官した者”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれる。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。

春秋時代では公務と家職の区別が曖昧で、士=下級貴族は生業と兼業で、卿大夫=上級貴族は家職として公務を担った。孔子を世に出した孟孫家は、家職として司法と土木を代々司ったから、その縁で孔子も法に詳しくなり、魯国の大司冦=最高法官に就任できた。

だが小麦による経済の、弩による軍事の活性化が始まると、社会が複雑化して家職を継いだ者でも、職務をこなせなくなりつつあった。だから社会の底辺に生まれた孔子が能力によって宰相になれたわけで、孔子塾は成り上がれると知った庶民で賑わった。

従って塾生はもとから官職目当てで入門したわけで、目指すべき「君子」とは役人に他ならない。樊遅のようにもとから「士」だった塾生もいたが、戦時に従軍するだけでなく、ふだんから役人として安定した俸給を貰い、世にはばかる役人になりたかったのである。

だから論語の本章に限って言えば、「君子」とは官職を持つ貴族のことで、顔淵の裏長屋住まいを真似したがる塾生が、多数派だったわけではない。官職無しの貴族と解してしまえば、本章で孔子が言う説教が何を説教したのか、分からなくなってしまう。

「そんなんじゃ就職できないぞ。」孔子はそう言って脅したのである。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
(甲骨文)

論語の本章では”もし”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

用(ヨウ)

用 甲骨文 用 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”用いる”→”採用する”。宰相経験のある孔子が、「もしワシが君たちを役人として採用するのなら」と、実績を背景に説教したのである。

初出は甲骨文。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”~で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これら”→”君たち”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”必ず”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

「すなわち」と訓む一連の漢字については、漢文読解メモ「すなわち」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

從(ショウ)

従 甲骨文 従 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”従う”→”~から”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の前篇の検証から、この論語先進篇は、概ね前漢の時代に成立したと思われる。もちろん全ての章がそうだとは断定できないが、基本的には前漢の作だと考えてよい。

論語の本章に限ると、前漢中期の定州竹簡論語に含まれ、また文字史的には全ての漢字が春秋時代にまで遡り得る。「也」の用法に疑問は残るが、省いても文意は変わらない。

ただ後世の引用が、前後の漢帝国のいずれかに編まれた『小載礼記』を除けば、「先進」の”先を歩む”の意味ですら前漢末期の劉向『戦国策』、明らかに論語の本章と同じ”先輩・先達”の意では後漢初期の『漢書』になる。

だが今は文字史から判断して、史実の孔子の発言として扱う。

解説

前漢の論語と現伝の論語との比較をざっと言えば、戦国時代の孟子が孔子の儒学を儒教に作り替えたあとを受けただけあって、必ずしも孔子の言葉や思想を伝えるとは言いがたいが、のちの後漢を覆った信じがたいほどの偽善からは免れており、ある程度の原始性を有する。

後漢儒の偽善について詳細は後漢というふざけた帝国を参照。

論語の本章に用いられた「君子」という言葉もその文脈で理解すべきで、孟子は「君子」に教養人だの道徳人だのといった面倒くさい意味を練り込んだが、前漢では原義の「貴族」の語義がまだ生き残っていた。前漢の『史記』や『孔子家語』はそれを前提にして記している。

孔子之楚,而有漁者獻魚焉。孔子不受,漁者曰:「天暑市遠,無所鬻也,思慮棄之糞壤,不如獻之君子,故敢以進焉。」於是夫子再拜受之,使弟子掃地,將以享祭。門人曰:「彼將棄之,而夫子以祭之,何也?」孔子曰:「吾聞諸惜其務䭃而欲以務施者,仁人之偶也。惡有仁人之饋而無祭者乎?」

孔子家語 孔子聖蹟図 受魚致祭
孔子が楚に旅したときのこと。漁師が出てきて魚を差し出した。孔子が遠慮していると、漁師は言った。

「今日は暑くて、市場まで保ちそうにありません。近場に売れる所もないので、畑の肥やしにするよりは君子﹅﹅に差し上げようと思いまして。どうぞ、受け取って下さい。」

聞いた孔子は丁寧に礼を言って受け取り、早速弟子に命じて地面を掃除し、祭壇をしつらえて「いただきます」に伴うお供えの用意をさせた。仕事をしながら弟子がブツクサと文句を言った。

「漁師は捨てようとしていたんですよ? なのに先生は、わざわざお供えにしようとなさる。どうしてですか。」

孔子が言った。「一生懸命働いたのが無駄になることを嫌って、その精華を人に差し出す者は、身分が低かろうと仁人=貴族の仲間だと言う。仲間からの贈り物なら、どうしても、丁寧にお供えしないわけにいくまいよ。」(『孔子家語』致思2)

ここでの「君子」を道徳人や教養人と解しては、わけが分からない。日本風なら、「どうぞお武家様」と言ったのだ。なおこのページに落下傘降下した諸賢もおられようから、重複を気にせず記すと、長らく三国魏の偽作とされた家語は、定州漢墓竹簡により前漢まで遡った。

さてそのようなわけで、論語の本章が描いた景色は、孔子塾でのある授業の一コマと言うべきで、先進とは卒業生、後進とは孔子が目の前にしている在学生である。現代人がうっかりすると、自分が君子のつもりで論語を読むように、在学生も入門したことで、心が弛んだのだ。

いわゆる五月病だろうか。しかし孔子は入門を願いすらすれば、誰でも受け入れたと論語述而篇7で言っているから、孔子塾に入試があったわけではない。それでも塾長の孔子が上級貴族であり、その口利きで仕官はほぼ確実だったろうから、気が抜けたのは事実だろう。

それを「これ、だらけちゃいかんよ。まじめに稽古しなさい」とたしなめたのが本章の孔子の言葉とみるべきで、従来の日本の論語本は、ほとんど誤訳をしている。訳し終えてから現代中国での解釈を参照したが、訳者の思う所とピタリ一致してニヤリとした。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰先進於禮樂野人也後進於禮樂君子也註先進後進謂士先後輩也禮樂因世損益後進與禮樂俱得時之中斯君子矣先進有古風斯野人也如用之則吾從先進註苞氏曰將移風易俗歸之純素先進猶近古風故從之


本文「子曰先進於禮樂野人也後進於禮樂君子也」。
注釈。先進後進とは、仕官した者の先輩後輩を言う。礼楽は時世時節に順って増えたり減ったりする。後進は礼楽の稽古の取り組んでも、時代の風潮に合わせようとするから、さっさと君子の身分を得る。だが先進は古風を保ったままでいるから、野人のままでいるのである。

本文「如用之則吾從先進」。
注釈。包咸「俗悪化した世の中を躾けるには、質素と素朴に立ち返らせるしかない。先進は世に古びてはいても、それでも古風を保つので、従うなら先進だ、というのである。

新注『論語集注』

子曰:「先進於禮樂,野人也;後進於禮樂,君子也。先進後進,猶言前輩後輩。野人,謂郊外之民。君子,謂賢士大夫也。程子曰:「先進於禮樂,文質得宜,今反謂之質朴,而以為野人。後進之於禮樂,文過其質,今反謂之彬彬,而以為君子。蓋周末文勝,故時人之言如此,不自知其過於文也。」如用之,則吾從先進。」用之,謂用禮樂。孔子既述時人之言,又自言其如此,蓋欲損過以就中也。


本文「子曰:先進於禮樂,野人也;後進於禮樂,君子也。」
先進後進とは、先輩後輩のような意味である。野人とは、城郭都市の外に住む民である。君子とは、教養のある知識人を言う。

程頤「先進は礼楽については、外見も内面も充実しているのに、今ではかえって雑であると言い、田舎者であると言う。後進は礼楽については、外見ばかりで中身が乏しいのに、今はかえって博学の人だと感心され、君子だともてはやされる。たぶん周の末期では外見を飾るのが流行り、だから当時の人はこのように言い、自分がうわべだけの人間になっているのに気が付かなかった。」

用之とは、礼楽を政治の場で用いることである。孔子はまず当時の人の言葉を取り挙げ、自分では先進の素朴に従うと言った。たぶんうわべの飾りを削って、内外の釣り合いを取ろうとしたのかも。

程頤の言う「質朴」「彬彬」とは、論語雍也篇18「質、文に勝らば」(偽作)を踏まえている。

余話

豚を食うかえ

むべ山風を嵐といふらむ

異文化は衣食住全般にわたって受け容れがたい。同じ中国でも、米を食う華南人は、麦を主食にする華北の食生活をいやがる。同じ麦食でも、小麦になれた人は大麦のパサパサを嫌がる。そして概して、もっちりとして食味の濃い穀物は、栽培が難しかったりする。

例えば小麦は大麦や燕麦より栽培が難しい。中国での栽培も大麦より遅れた。

在皂角树二里头文化遗址中,发现有栽培小麦,且占粮食作物的第四位。说明在夏代,麦子是主要粮食作物之一。殷墟出土的甲骨文有“告麦”、“食麦”记载。《诗经·周颂·清庙思文》:“贻我来牟”,亦作“麳麰”。三国魏张揖(3世纪)《广雅》有:“大麦,麰也;泪科,麳也”的记载。以后的古代文献中,将小麦简称为麦,其他麦类则于“麦”前冠以“大”、“穬”等字,以与小麦相区别。根据《诗经》中提及的“麦”所代表的地区,说明公元前6世纪,黄河中下游已普遍栽培小麦。

一个有趣的现象是,最早的大、小麦出现在中国东部地区而非西部。出土于山东省赵家庄遗址的一粒碳化小麦,校正后的碳十四年代是2562-2209 BC,是目前中国最早的有直接碳十四年代的西亚作物遗存 (10) 。最早的有直接测年的大麦样品,来自福建黄瓜山遗址,年代超过4000 BC。


二里頭文化(BC19C~BC16C)の遺跡から、小麦栽培の痕跡が見つかっている。ただし主食としての地位は第四位だった。夏王朝*の時代、大麦小麦は主要な作物の一つだった。殷墟から出土した甲骨文には、「麦に祈る」「麦を食べる」の記載がある。『詩経』周頌・清廟思文には、「麦を与え給え」、「小麦・大麦」と記している。三国魏の張揖(3世紀)の『広雅』に「大麦は麰という。穂の垂れる穀物は麳という」とある。以後、古代の文献では小麦を麦と呼び、その他の麦は前に「大」「穬」などを付けて小麦と区別した。『詩経』にある「麦」の字に根拠を置くと、紀元前6世紀には、黄河下流域で小麦の栽培が始まっていたことになる。(「百度百科」小麦条)

興味深いことに、最も初期の発掘では、大麦も小麦も中国の西部ではなく東部から現れていることだ。山東省趙家荘遺蹟からは炭化した小麦が一粒、炭素14の測定により2562-2209BCのものとされる**。つまり中国では早い時代に、西アジアの農作物と同じ炭素14が見つかったことになる。対して大麦の最も早い出土は、福建省黄瓜山遺蹟からで、年代はBC4000年よりさらに古い。(「百度百科」最新研究揭示:大麦和小麦是如何传入中国的?条)


*夏王朝は歴史用語ではなく、古さを誇るための政治用語で、「神国日本」と同じ。文字のない時代に夏王朝などあるわけがない。

**小麦条と記述が食い違う。暫定的に、小麦の栽培が「実用化」し「普及」したのはBC6世紀=論語の時代として扱う。

ある添乗員さんの話では、一番苦労するのは老人が言い出す食の不満らしい。訳者は若年時中国へ団体旅行したことがあるが、一行中の老人が食べられないというので、粥を出して貰うよう厨房に行って交渉したことがある。当時は改革開放直後で、外国人には鷹揚だった。

ただそれも、共産党が外国人向けに用意した「官製人民」だからそうだったので、お上とは関係の無い「老百姓」(ラオパイシン。一般人民)だと、まことに中国人らしい連中で、もの売りはカネを掴むと品を渡さずそのままずらかるありさまだった。…話をお粥に戻そう。

特別扱いで出して貰えたが、自分が食べたわけではないから、何の粥だったか今は知れない事が残念だ。当時は中国の食糧配給制が廃止される前後だったはずで、簡単に好みの穀物が用意できたとは思えない。だがさすがに中国人だけあって、キビやアワのお粥もうまいらしい。

日中共に二次大戦後は長らく食糧(食料とは別。主食の穀物類)管理制度が続いた。訳者の若年時まで、法の立て前としては外食するには外食券が必要だった。だが一度も見たことが無い。対して中国では厳しい配給制が前世紀末まで続き、地域ごとに統制に差があったらしい。

多くの国では、最も豊かな食生活を享受できるのは首都になる。昭和恐慌で東北では餓死者が出るさなか、東京ではグルメが流行っていた。「昔は良かった教」がデタラメなのはここでも明らかだが、中国は国土が広いだけあって北京だけグルメを楽しむわけにいかない。

従って食糧の配給も、種類まで当局に規制されて、「全部小麦で欲しい」と言っても通らなかった。前世紀ではむしろ上海の方が統制が緩く、種類の選択が自由だったという。そもそも漢人主体の地域でも、中国は淮河を境に南北で気候も風土も主食も、食の多様性も違う。

首都北京のある華北は麦が主食で、華南は米が主食になる。面積当たりの収量は米の方が多いから、歴代王朝は華南から米を収税して華北へ運んだ。これが滞ると直ちに帝都で反乱が起きるので、南北の沿岸海運や大運河の物流は、王朝の命取りになりかねない課題だった。

人間は主食の他に必ず塩が要るから、帝国の流通では塩も課題だった。明を滅ぼした李自成の乱は、もとは物流関係者の起こした反乱で、清を揺るがした太平天国の乱も、長江の船乗りが加わったことで規模が大きくなった。「民人は食を以て天と為す。」(『史記』酈生伝)

現代中国語では小麦料理全般を「面(麺)」と言い、いわゆるそばやうどんの類を面条と言う。細く成形した小麦料理の意。華北では小麦をあんなし饅頭にして主食にするが、華南人はいやがる。ただし小麦がきらいなわけではなく、点心(おやつ)にするなら喜んで食べた。

甲乙同食餛飩一盂。甲舉筯如飛。乙為停手。須臾噉盡。止留一隻。乙不堪。謂曰。何不并啖此隻。荅云。麵食。一說妻病。夫問曰。想甚食否。妻曰。除是好肉餛飩想喫一二隻耳。夫為治一盂。意欲與妻同享。方往取筯回。而妻已染指噉盡。止餘其一矣。夫曰。何不并啖此枝。妻攢眉荅云。我若喫得下此隻。就不害病了。


甲乙二人で一椀のワンタンを食べる。甲がパクパクと素早く食ってしまい、乙はあきれて手を止めた。最後の一個だけ残ったところで、乙はうんざりして言った。「もう一個も食ってしまえよ。」甲「麺食」(=免食。食うのを止めた。『笑府』編者の馮夢竜は華南人で、広東語で「麺」はmin6、「免」はmin5)。

妻が病気になって、夫が問うた。「お、お、奥様、何か召し上がりたいものはございませんか?」妻「肉入りワンタンなら少し欲しいわ。」夫は一椀たっぷり作って差し出し、妻と一緒に食べようとした。台所の火を消して妻の所へ戻ると、妻はすっかり食べ尽くし、一個だけ残っていた。

夫「それも召し上がればいかがでしょう。」
妻「無茶言わないでよ。食べきれるくらいだったら、病気になってないわよ*。」(『笑府』巻十二・餛飩)


*『笑府』には恐妻家をネタにした話が複数ある。明朝の当時、女性の方が威張っているのは当たり前だったことを伝えている。「大明一統」と讃えられた世の中が、天下太平だったことを物語る。

ワンタンや餃子など、小麦の皮にあんをつめた料理は、中国北方の騎馬遊牧民にとって定番料理で、「饅頭」を語源とする「マントウ」はトルコ料理にも見られるし、ロシア料理にも「ペリメニ」としてある。一方ヌードルについては、中国人は明確に発明者だと自慢する。

黄河源流に近い青海省に約4,000年前の喇家遺跡があり、地震か洪水によって瞬時に埋没したため、「東方のポンペイ」と称するとwikiが言う。密閉されたその遺蹟から、ひっくり返った茶碗の裏から麺が見つかった。ただし当時は小麦はおろか大麦も無かったらしい。

発見された麺も、うるちともちのアワで出来ていた。小麦と違って粘るグルテンがない。だから一度は麺ではないと疑われた。だが食にはうるさい中国人だけあって、学者が本気で分析と再現に取り組み、みごとうるち・もちアワでヌードルが出来ることを証明した。

こういう歴史研究こそ、人類にはずいぶん必要なのではないかと思っている。ナニナニ人だからアレソレを食わねばならない、というのは環境適応の妙でもあるが、環境が変わっても工夫次第で食えた方がいい。「あの顔で、豚を食うかえ、楊貴姫」と江戸人も言っていたのだ。

付け足しで上記『史記』の訳を記す。

酈生因曰:「臣聞知天之天者,王事可成;不知天之天者,王事不可成。王者以民人為天,而民人以食為天。夫敖倉,天下轉輸久矣,臣聞其下乃有藏粟甚多。楚人拔滎陽,不堅守敖倉,乃引而東,令適卒分守成皋,此乃天所以資漢也。方今楚易取而漢反卻,自奪其便,臣竊以為過矣。且兩雄不俱立,楚漢久相持不決,百姓騷動,海內搖蕩,農夫釋耒,工女下機,天下之心未有所定也。願足下急復進兵,收取滎陽,據敖倉之粟,塞成皋之險,杜大行之道,距蜚狐之口,守白馬之津,以示諸侯效實形制之勢,則天下知所歸矣。方今燕、趙已定,唯齊未下。今田廣據千里之齊,田閒將二十萬之眾,軍於歷城,諸田宗彊,負海阻河濟,南近楚,人多變詐,足下雖遣數十萬師,未可以歲月破也。臣請得奉明詔說齊王,使為漢而稱東藩。」上曰:「善。」


漢高祖劉邦
(劉邦は秦を滅ぼし漢王になってから三年が過ぎたが、項羽にボコボコにやられて追い詰められた。「何とかしてくれ」と劉邦が言い出した。)

儒者の酈生食(レキイキ)「やつがれが聞くところでは、天がなぜ天と貴ばれるかの理由を知って実践できる者が、天下の王者になれると言います。理由も知らずに暴れ回る項羽のような奴は、いずれ落ち目になるに決まっております。(そうがっかりしないで下さい。)

王者は民を天と心得てその希望を実現し、民が天と崇めるのは食い物に他なりません。幸いにも秦が設けた穀物倉が焼け残っており、天下の穀物を蓄え始めてから日が長いですから、うわさでは大変な量の蓄えがあるとのこと。項羽は栄陽のまちを守備するのに手一杯で、穀倉の守備隊は手薄で、しかも更に東へ兵を分散させて成皋まで保とうと力んでいます。これは天が漢に味方したと言えましょう。

今は項羽の勢いが盛んで我が漢は逃げるしかありませんが、自分でこんな兵力分散を仕出かしているのは、項羽もうっかりが過ぎると思います。漢王殿下は項羽とは共存できないのが定め、互いににらみ合ったままでグズグズしていると、いい加減にしろと民百姓が騒ぎだし、天下の者は右往左往し、農民はやってられないとスキを投げ、女はもううんざりと機織りを止めます。これも殿下と項羽が決着を付けないからです。

©SY Qi:斉/Han:漢/Chu:楚/Xing yáng:栄陽
Xiang Yuとあるのがこの時の項羽の進路

さっさと兵を進めて栄陽を落としなされ。穀倉を奪い取ってしまいなされ。成皋は包囲し、大行山脈の峠を閉鎖し、蜚狐の関所を固め、白馬の渡しを確保するのです。今どっちに付こうか迷っている大名も、殿下がここまでやれば味方に付くでしょう。

我が漢はすでに燕と趙は手に入れましたが、斉だけを取りこぼしています。もと斉の王族を名乗った連中が現地で王者を気取り、二十万の兵を抱えて威張っており、歴城に根拠地を置いて、楚漢の死闘をよそに鼻歌を歌っております。

ですが斉は半島の上に国境に川がありますから守りやすく、しかも項羽の本拠地である楚の隣でもありますから、気分は楚の方に傾いているでしょう。加えて古くからの大国ですから住民はウソつきが多くて信用ならず、殿下が数十万の兵で攻めても容易には破れぬでしょう。

ですからここは口車の回るやつがれにお任せあれ。斉王をたぶらかして味方に付け、漢の配下にさせてみせます。」

劉邦は大喜びで「おーおーよー言った、そうしてくれい。」と頼んだ。

もともと町のヤクザで礼儀作法と儒教が大嫌いだった劉邦が、儒家を受け容れたのは酈生食に始まる。武帝時代に口車とニセ文書を事として、いわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒とは違い、酈生食は敵中に一人で向かう豪胆さがあった。そして向かった先の斉で煮殺された。

この「先進」無しで、儒教の国教化は無い。そしてたぶん、論語も残らなかったに違いない。

参考動画

『論語』先進篇:現代語訳・書き下し・原文
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