論語493子張篇第十八(22)叔孫武叔大夫に朝にて

論語子張篇(22)要約:孔子先生より弟子の子貢の子貢の方がよっぽど偉い、と門閥家老。確かに子貢の政治外交の才は抜群ですが、子貢は否定にかかります。いや先生の方が偉い。先生の偉さが分かるのは、分かるものだけだ、と。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

叔孫武叔語大夫於朝、曰、「子貢賢於仲尼。」子服景伯以吿子貢。子貢曰、「譬之*1宮牆*2、賜之牆也及肩、窺*3見室家之好。夫子之牆數仞、不得其門而入*4、不見宗廟之美、百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云、不亦宜乎。」

*武内本1:清家本諸に作る。2:清家本也を補う。3:清家本闚に作る。邢本・釈文窺に作る。4:清家本也を補う。

書き下し

叔孫武叔しゆくそんぶしゆく大夫たいふてうげていはく、子貢しこう仲尼ちうぢよりまさると。子服景伯しふくけいはくもつ子貢しこうぐ。子貢しこういはく、これみやかきたとふるに、かきかたおよび、室家すまひきをうかがん。夫子ふうしかき數仞すうじんなり、かどらざらば、宗廟みたまややむごとなき、百なすつかさめるをず。かどものあるひすくなから夫子ふうしへること、おほいむべならず

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逐語訳

叔孫シュクソン武叔ブシュクが家老たちに言った。「子貢は孔子より偉い」と。子服景伯がその話を子貢に告げた。子貢が言った。「その話を屋敷の垣根に例えるなら、私の垣根は肩の高さで、住居の立派さが外からのぞき見られます。先生の垣根は大人の背丈数人分で、垣根の門から入らなければ、祖先祭殿の立派さや、仕える人々の多さが見えません。そしてその門を見つけられるのは、場合によっては少ないでしょう。叔孫どのが仰ったのも、まことにその通りではありませんか。

意訳

叔孫武叔「子貢は大したものだ。孔子より偉いではないか。」
子服景伯「…というようなことを家老連に語っていましたが。」

子貢「買いかぶりですな。屋敷の塀に例えるなら、私は肩ほどの高さです。その気が無くても、通りがかれば住まいの立派さがよく見えるでしょう。しかし先生の塀は大人の背丈数人分です。祖先祭殿の立派さや、使用人の多さは、門から入らねば見えません。しかも誰もが門を見つけられるとも限りません。叔孫どのには、無理でしょうなあ、あははは。」

従来訳

叔孫武叔が朝廷で諸大夫に向っていった。――
「子貢は仲尼以上の人物だと思います。」
 子服景伯がそのことを子貢に話した。すると子貢はいった。――
「とんでもないことです。これを宮殿の塀にたとえて見ますと、私の塀は肩ぐらいの高さで、人はその上から建物や室内のよさがのぞけますが、先生の塀は何丈という高さですから、門をさがしあてて中にはいって見ないと、御霊屋みたまやの美しさや、文武百官の盛んな装おいを見ることが出来ないのです。しかし、考えて見ると、その門をさがしあてるのが容易ではありませんので、大夫がそんなふうにいわれるのも、或は無理のないことかも知れません。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

叔孫武叔(シュクソンブシュク)

論語 叔 金文 論語 孫 金文
「叔孫」(金文)

論語では、孔子在世当時の魯国門閥三家老家の一家・叔孫氏の当主。三家=三桓のうち、筆頭の季孫氏は孔子や弟子を雇うなど、一門との関係は浅くなく、孟孫氏は孔子を押し上げる後ろ盾になったことから関係が深い。しかし叔孫氏とは、これと言ったつながりの記録がない。

大夫

論語 大 金文 論語 夫 金文
(金文)

論語では”家老”。国君の家臣の内、国政に携わるような階級を言う。

論語 朝 金文
(金文)

論語の本章では”朝廷”。論語の時代、諸侯国の政府は未明に一度、午後に一度、都合二度開かれた。

子貢

論語 子貢

論語では孔子の弟子で、弁舌の才を孔子に評価された孔門十哲の一人、端木賜子貢のこと。

論語 賢 金文
(金文)

論語の本章では”優れている”。吉川幸次郎によると、”かしこい”より”偉い”に当たるという。『学研漢和大字典』による原義は、宝箱を抜け目なくじっと見つめて管理するさまで、さちおこと、抜け目のないこと、油断のないこと。

論語 於 金文 論語 於
(金文)

論語の本章では、”~に”・”~より”などの意味で用いられている。『学研漢和大字典』による原義はそこにじっとつかえて止まることで、ここから”~に”などの意となった。漢文では、動作や叙述の起点・終点を意味すると理解すれば応用が利く。

仲尼(チュウジ)

論語 尼 古文 論語 孔子 不気味
「尼」(古文)

論語では、孔子のあざ名。『史記』孔子世家によると、孔子の母(顔徴在)が出生前にキュウに祈って孔子が生まれたので、仲尼とあざ名が付いたという。

ただし「尼」の字は甲骨文・金文・戦国文字には見られず、古文に見られるが、それがどれほど古い書体なのかは分からない。あるいは、仲尼というあざ名と、尼丘の伝説が後世の創作である可能性すらある。後者はほぼ間違いなくそうだろう。

「尼」は『学研漢和大字典』によると会意文字で、。「尸(ひとのからだ)+比(ならぶ)の略体」で、人が相並び親しむさまを示す。もと、人(ニン)(親しみあうひと)と同系。のち、「あま」の意に専用されたが、尼の原義は昵懇(ジッコン)の昵の字に保存された、という。

一方『字通』では、人が二人、たがいにもたれ合う形。『説文解字』八上に「後ろより之れに近づく」とし、「に従い、声」とするが声が合わず、人がもたれ合う親昵の状を示す字である。色・卬・抑・迎などみな二人相る形で、尼・色・卬はいずれも男女のことを示す字。ゆえに尼声の字に、和らぐ・安んず・愛す・したしむなどの意がある。この字を尼僧の意に用いるのは、最も字の形義にそむくものである、という。

いずれにせよ孔子のあざ名の内、「仲」が次男を意味する(男の子が生まれると「伯仲叔季」の順で名付ける)ことは多くの同意を得られるだろうが、「尼」が何を意味するのか分からない。

『学研漢和大字典』によると、「尼」の上古音はnɪerまたはneɪであり、「二」の上古音nierと近い。ここからもとは「仲二」と書き、単に”次男坊”を意味すると想像したくなる。孔子はおそらく母が取った客の子であり、言わば社会の最底辺の出身だったからだ。

つまり、もともとは敬称の一種であるあ名があったと考えがたく、あ名が後世重々しい字で書かれるようになっただけではなかろうか。

子服景伯(シフクケイハク)

論語 服 金文 論語 景 古文
「服」(金文)・景(古文)

論語では、孔子在世当時の魯国の家老の一人。『春秋左氏伝』にも名が載り、子貢と共に魯国の外交で活躍したさまが記されるが、その一方で「景」の字は甲骨文~戦国文字には見られず、年代不明の古文に見られるのみ。

吿(告)

論語 告 金文 論語 吿 解字
(金文)

論語の本章では”告げる”。『学研漢和大字典』によると、もとは牛に付けるかせ(梏)だったが、音を借りて”つげる”の意になったという。

譬(ヒ)

論語 譬 篆書
(篆書)

論語の本章では”たとえる”。この文字は甲骨文~古文では未発掘で、孔子在世当時の文字まで遡れない。つまり論語の本章が、後世の創作または文字の書き換えである可能性を示している。これは同じ”たとえる”では「喩」(喻)も同じ。

宮牆(キュウショウ)

論語 宮 金文 論語 牆 墻 金文
(金文)

論語の本章では”宮殿の垣根”。論語の時代の「宮」は、神や君主の住まいに限らず、大夫階級の屋敷にも「宮」と呼んだ例が『春秋左氏伝』に見える。

賜(シ)

論語 賜 金文 論語 子貢 礼
(金文)

論語の本章では、子貢の実名。自称であることから、へりくだって実名を用いている。

論語 肩 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”肩”。

『学研漢和大字典』によると会意文字で、「かたから手の垂れたさま+肉」。かたくて平らなかたのこと。上部は戸(=戸)ではない。堅(ケン)(かっちり)・幵(ケン)(かたくて平ら)などと同系のことば、という。

窺(キ)

論語 窺 古文
(古文)

論語の本章では”のぞき見る”。甲骨文~戦国文字には見られず、年代不明の古文から見られる。但し字形は大きく異なっており、上掲は論語 窺 異体字と記されたもの。他の字形は更に異なる。
論語 窺 古文字形

室家

論語 室 金文 論語 家 金文
(金文)

論語の本章では”住まう建物”。漢文ではシッカと音読みし、”家庭・家族・一族”の意味で用いられることがある。

夫子

論語 夫 金文 論語 子 金文
(金文)

論語の本章では”先生”、または”あのお方”。愚直に読み下せば「きみ」=あのお方で、師匠や貴族に対する丁寧な呼称だが、論語ではおおむね孔子を指す。本章でもa「夫子之牆」はそれでよいが、b「夫子之云」については叔孫武叔の可能性があり解釈が分かれる。

b夫子之云、不亦宜乎。
訳ア:先生のお話は、まことにもっともではありませんか。
訳イ:叔孫武叔どののお話も、まことにもっともではありませんか。
=叔孫武叔どのに先生の偉さが分からないのも、無理はないですね。

a夫子之牆が孔子を指すと断定できるのは、a以前の文脈による。

叔孫「孔子より子貢の方が偉い」

子貢「私の垣根は低い。a夫子の垣根は高い」

ではb以前の文脈を見ると以下の通り。

子貢「先生の垣根は高く、門からしか入れないが、誰でも入れるわけではない。b夫子の話は、もっともではないか」

bを孔子と解した場合、同文内で夫子の語義にブレはなくなる。”夫子の話は、もっともではないか”は、”叔孫どのは先生をおとしめたが、先生の話はすばらしいものだ”の意となる。ただこの解釈はわかったようでわからない。要するに面白く無い。

bを叔孫と解した場合、夫子の語義がブレる。しかしb部分の解は”叔孫どのがそう仰るのは無理もない。門から入れるだけのおツムが無いんですなあ、わははは」という子貢の哄笑となって面白い。また叔孫をタネに孔子を権威付け、ついでに子貢の才も目立たせる。

訳者の見解では、おそらく夫子は叔孫を指すのだろう。論語の本章が金文までさかのぼれない事は上記の通りで、本章の成立は新しい。元ネタになるような伝説はあったが、話そのものは孔子や子貢に箔をつけたい、後世の儒者による創作だろう。

數仞

論語 数 金文 論語 仞 篆書
「数」(金文)・「仞」(篆書)

論語の本章では”大人数人分の高さ”。『学研漢和大字典』によると、「仞」はからだを横にねじ曲げ、右手を上に左手を下に伸ばすと、半月形のD型となる。その弦(右手先から左手先まで)は、手尺ではかって七尺になる。半月形は刀に似ており、その弦は刀の刃にあたる部分だから、これを仞(ジン)という、とあるが、要するに手を広げた幅で、ほぼ身長に近い。

なお「仞」は甲骨文~古文まで見られず、秦漢帝国以降に現れた字。

宗廟

論語 宗 金文 論語 廟 金文
(金文)

論語の本章では”祖先祭殿”。「宗」は祭祀を共にする一族、そこで祭られる先祖を指し、「廟」は亡き人の霊魂を祀る祭殿を指す。

百官之富

論語 富 金文
「富」(金文)

論語の本章では”広間・広場に大勢の使用人が集まっているさま”。個々の使用人がどれほど金持ちであろうとも、それを見て感心する人がいるとは思えないので、そこにいる使用人の数に富む、と解釈すべき。

「官」はもと屋敷に集まった大勢の人のことで、主として公的な使用人=役人を意味するが、必ずしも役人を意味しない。

猶衆也、此与師同意。
また大勢の人を意味する。これは「師」と同じ意味である。
『説文解字』

また訳者はその見解を取らないが、論語八佾篇22の「官事不攝」の解釈は、”使用人の役目を兼任させない”と多くの論語本は言う。

寡矣

論語 寡 金文 論語 矣 金文
(金文)

論語の本章では”少ないでしょうなあ”。「寡」は”少ない”、「矣」は完了・断定・詠嘆を意味しうるが、上記「夫子」で考察したように、子貢はあざ笑うかのように叔孫を罵倒しているのであり、詠嘆と理解するのがふさわしい。

論語 云 古文 論語 云
(金文)

論語の本章では”お話”。『学研漢和大字典』による原義はもくもくとわき上がる雲で、口中で息がとぐろを巻くように口ごもること。転じて、”話(す)”の意になったという。

不亦宜乎

論語 宜 金文
「宜」(金文)

論語の本章では”まことにもっともではないでしょうか”。「亦」を「また」と読んで”それもまた”と解釈するのは一つ覚えと言うべきで、ここでは”おおいに”の意。

「宜」は『学研漢和大字典』によると「宀(やね)+多(肉を盛ったさま)」の会意文字で、肉をたくさん盛って、形よくお供えするさまを示す。転じて、形がよい、適切であるなどの意となる。義(よい)・儀(形のよい姿)などと同系のことば、という。

論語:解説・付記

孔子が68才で放浪の旅から魯国に戻る数年前から、子貢は子服景伯と共に、覇者気取りで何かとうるさく干渉してくる、呉国との折衝に当たっていた(『春秋左氏伝』哀公7)。その後も魯の外交官として八面六臂の活躍をしているから、叔孫の評価には無理がない。

一方孔子は、帰国当時こそ国老の扱いを受けていたが、70才(BC482)に呉国が滅亡した途端、息子の葬儀費用にも事欠くような立場に追いやられている。論語の本章がその前の事情を記したとすると、孔子の帰国は魯国の門閥にとって歓迎しがたかったことを見て取れる。

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