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論語詳解435陽貨篇第十七(1)陽貨孔子に*

論語陽貨篇(1)要約:孔子先生のライバル・陽貨。動乱の時代の中で、ほぼ同じ道を歩んだ人物。同志として孔子先生を招こうとしますが、似た者同士は反発するのか、先生は避けて通ります。無理やり対談して勧誘する陽貨、という作り話。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

陽貨欲見孔子、孔子不見、歸*孔子豚。孔子時*其亡也、而往拜之、遇諸塗*。謂孔子曰、「來、予與爾言。」曰、「懷其寶而迷其邦、可謂仁乎。」曰、「不可。」「好從事而亟失時、可謂知*乎。」曰、「不可。」「日月逝矣、歲不我與。」孔子曰、「諾、吾將仕矣。」

校訂

武内本

釋文云、歸、鄭本饋に作る。史記世家遺に作る(確認できず)。皆贈の意なり。孟子滕文公篇此事を述ぶ時をに作る、時は伺の借字。論衡実知篇塗を途に作る。唐石経智を知に作る。

定州竹簡論語

……[遇諸涂a。謂孔子曰:「來!予]與壐言。」曰:「𢸬b其葆c而503……

  1. 涂、今本作”塗”、『釋文』云、”塗、當作途”。
  2. 𢸬、今本作”懷”。
  3. 葆、今本作”寶”。音同、葆可通寶。

葆p(上)寶p(上)


→陽貨欲見孔子、孔子不見、歸孔子豚。孔子時其亡也、而往拜之、遇諸涂。謂孔子曰、「來、予與壐言。」曰、「𢸬其葆而迷其邦、可謂仁乎。」曰、「不可。」「好從事而亟失時、可謂知乎。」曰、「不可。」「日月逝矣、歲不我與。」孔子曰、「諾、吾將仕矣。」

復元白文(論語時代での表記)

陽 金文谷見 金文孔 金文子 金文 孔 金文子 金文不 金文見 金文 帰 金文孔 金文子 金文豚 金文 孔 金文子 金文時 金文其 金文亡 金文也 金文 而 金文往 金文拝 金文之 金文 遇 金文者 金文涂 甲骨文 謂 金文孔 金文子 金文曰 金文 来 金文 余 金文与 金文爾 金文言 金文 曰 金文 褱 金文其 金文宝 金文而 金文其 金文邦 金文 可 金文謂 金文仁 甲骨文乎 金文 曰 金文 不 金文可 金文 好 金文従 金文事 金文而 金文亟 金文失 金文時 金文 可 金文謂 金文智 金文乎 金文 曰 金文 不 金文可 金文 日 金文月 金文𠧟 金文矣 金文 歲 金文不 金文我 金文与 金文 孔 金文子 金文曰 金文 諾 金文 吾 金文將 甲骨文事 金文矣 金文

※欲→谷・涂→(甲骨文)・壐→爾・𢸬→褱・葆→寶・仁→(甲骨文)・逝→𠧟・將→(甲骨文)・仕→事。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

陽貨やうくわ孔子こうしはんともとむれども、孔子こうしはず。孔子こうしぶたおくる。孔子こうしきをときとする、しきてこれたづぬるも、これみちへり。孔子こうしひていはく、きたれ、われなんぢはむ。いはく、たから𢸬いだくにまどはすは、よきひといはく、不可ふかなり。ことしたがふをこの亟〻しばしばときうしなふは、いはく、不可ふかなり。日月じつげつとしわれともならずと。孔子こうしいはく、よしわれまさつかむとす、と。

論語:現代日本語訳

逐語訳

陽虎 孔子

陽貨は孔子に会おうと思ったが、孔子は会わなかった。孔子に豚を贈った。孔子は陽貨が留守の時になると、行って挨拶をしようとしたが、途中で陽貨に出くわした。陽貨が孔子に言った。「来なさい。私はそなたと話をしよう。」
陽貨「自分の宝を心に持ったまま国を迷わせるのは、情け深いと言えるか。」
孔子「言えません。」
陽貨「政治に携わろうとして何度もその機会を逃すのは、知と言えるか。」
孔子「言えません。」
陽貨「日々は過ぎていく。歳月は私と共にはいない。」
孔子「承知しました。私は近々あなたにお仕えしましょう。」

意訳

魯国の実権を握った陽虎は、名声のある孔子を配下に加えたいと願っていたが、孔子は避けていた。そこで陽虎は孔子に豚の丸焼きを贈り、答礼に出てこざるを得ないように仕向けた。孔子は陽虎の留守を狙って出かけたが、途中でばったり出会ってしまった。
陽虎「これはこれは孔子どの。さ、拙宅でお話でも。」

改めて対座すると、陽虎は話を切り出した。
陽虎「ご貴殿ほどの才能を持ちながら、動乱に苦しむ我が魯国を助けようとしない。それは情け深いと言えるだろうか。」
孔子「申せませぬな。」

陽虎「政治を取りたい志がありながら、何度もその機会を逃す。それは知と言えるだろうか。」
孔子「申せませぬな。」

陽虎「こうしている間にも日は暮れゆく。歳月は自分を待ってはくれない。わしの心はおわかりであろう?」
孔子「よろしいでしょう。近いうちに、あなたにお仕え申し上げましょう。」

従来訳

下村湖人

魯の大夫陽貨が先師を引見しようとしたが、先師は応じられなかった。そこで陽貨は先師に豚肉の進物をした。先師は陽貨の留守を見はからってお礼に行かれた。ところが、運わるく、その帰り途で陽貨に出遇われた。すると陽貨はいった。――
「まあ、私のうちにおいでなさい。話があるから。」
先師が仕方なしについて行かれると、陽貨がいった。――
「胸中に宝を抱きながら、国家の混迷を傍観している人を、果して仁者といえましょうか。」
先師――
「いえません。」
陽貨――
「国事に挺身したい希望を持ちながら、しばしばその機会を失う人を、果して知者といえましょうか。」
先師――
「いえません。」
陽貨――
「月日は流れ、歳は人を待ってはくれないものですが……」
先師――
「よくわかりました。いずれそのうちには、私もご奉公することにいたしましょう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

陽貨想見孔子,孔子不見,他便送給孔一隻熟乳豬,想讓孔子去他家緻謝。孔子乘他不在家時,去拜謝。卻在半路上碰到了,他對孔子說:「來,我有話要說。」孔子走過去,他說:「自己身懷本領卻任憑國家混亂,能叫做仁嗎?」孔子說:「不能。「想做大事卻總是不去把握機遇,能叫做明智嗎?「不能。「時光一天天過去,歲月不等人埃「好吧,我準備做官。」

中国哲学書電子化計画

※埃→唉の誤字と判断した。

陽貨が孔子に会おうとしたが、孔子は会わなかったので、彼は孔子に子豚の丸煮を一匹贈り、孔子に彼の家へ返礼に来させようと図った。孔子は彼の留守中を狙って、出向いて返礼した。だが帰り道で出くわし、彼は孔子に言った。「来なさい。私に話すことがあります。」孔子は歩き始めた。彼は言った。「自分の身に才能を持っているのに、国が乱れるままに任せているのは、仁と言えますか?」孔子は言った。「言えません。」「大きな志望を持ちながら全くきっかけをつかみ取れないのは、明智と言えますか?」「言えません。」「時は毎日過ぎていく。歳月は人を待ってくれないものだよ。」「いいですね。私は仕官の用意をしましょう。」

論語:語釈

()。 、「 (。」、「𢸬( ( 。」、「 。」「 。」、「 。」「 。」 、「 。」


陽貨

陽 金文 貨 金文大篆
「陽」(金文)・「貨」(金文大篆)

論語では古来、陽虎という人物を指すことになっている。だが陽貨と陽虎は本来別人で、論語の本章をいじくり回した後漢儒が、勝手に「虎」の字を「貨」に書き換えたに過ぎない。詳細は後述するが、論語の本章での「陽貨」はあくまで「陽虎」である。

孔子との関わりでは、はじめ魯国門閥家老家筆頭・季孫氏の使用人として現れる。孔子17歳ごろ、季孫氏が「士」を饗応しようとした宴会に出かけたが、陽虎に門前払いを食わされている。ここからおそらく、陽虎は孔子よりも年長だったと想像できる。

次に孔子47歳の年(BC505)、季孫氏の当主・季平子が死去し、執事になっていた陽虎が、跡継ぎの季桓子を捕らえ、家政・国政の実権を奪った。翌年、陽虎は鄭を攻め、キョウのまちを奪取。正式に魯の執政となる。この頃孔子を招いたとされる。

その二年後(BC502・孔子50歳)、陽虎は三桓の当主排除を図って反乱を起こしたが、鎮圧されて斉に逃亡した。その際魯国の三種の神器と言ってよい「宝玉大弓」を盗み出したとされる(『春秋左氏伝』定公八年)。

斉に亡命した陽虎は、斉の景公に魯への出兵を促し、景公はそれを許したが、鮑文子の諫言によってとりやめた(『説苑』権謀篇)。斉は態度を変えて陽虎を捕らえたが、陽虎は脱走に成功して西北の大国・晋の趙簡子の配下となった(『史記』斉世家)。

その頃、趙簡子の下にはやはり亡命してきた衛の元太子・蒯聵カイカイがいて、趙簡子は陽虎に蒯聵の帰国工作を担当させる。孔子59歳の年(BC493)、衛の霊公が死去すると、その機に乗じて陽虎と蒯聵は衛国内に潜入、あとを継いだ出公に対抗する。

孔子が73歳で死去する前年(BC480)、蒯聵はクーデターに成功して衛国公に即位する(荘公)。その時の陽虎の足跡は史料になく、すでに世を去っていた可能性が高い。

陽虎は易に長け(『春秋左氏伝』)、白川静『孔子伝』によると、孔子同様に古典に造詣が深く、知識人としての新興勢力として孔子のライバルだったと描く。

「陽」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると昜(ヨウ)は、太陽が輝いて高くあがるさまを示す会意文字。陽は「阜(おか)+(音符)昜」の会意兼形声文字で、明るい、はっきりした、の意を含む、という。詳細は論語語釈「陽」を参照。

「貨」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。『学研漢和大字典』によると「貝+(音符)化」の会意兼形声文字、という。詳細は論語語釈「貨」を参照。

欲 楚系戦国文字 谷
「欲」(楚系戦国文字)・「谷」(金文)

論語の本章では”もとめる”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。ただし『字通』に、「金文では谷を欲としてもちいる」とある。『学研漢和大字典』によると、谷は「ハ型に流れ出る形+口(あな)」の会意文字で、穴があいた意を含む。欲は「欠(からだをかがめたさま)+(音符)谷」の会意兼形声文字で、心中に空虚な穴があり、腹がへってからだがかがむことを示す。空虚な不満があり、それをうめたい気持ちのこと、という。詳細は論語語釈「欲」を参照。

見 金文 見
(金文)

論語の本章では”会う”。現代中国語でも意味は同じで、”見る”の意には「看」を用いる。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「目+人」の会意文字で、目だつものを人が目にとめること。また、目だってみえるの意から、あらわれるの意ともなる、という。詳細は論語語釈「見」を参照。

歸/帰

帰 金文 帰
(金文)

論語の本章では”贈る”。「帰AB」で”BをAの元に送り届ける”の意。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると𠂤(タイ)・(カイ)は土盛りの堆積したさまで、堆・塊と同じことばをあらわす音符。歸はもと「帚(ほうき)+(音符)𠂤」の形声文字。回と同系のことば。女性がとついで箒(ほうき)を持ち家事に従事するのは、あるべきポストに落ち着いたことなので、「キ(クヰ)」といい、のち止(あし)を加えて歩いてもどることを示した。歸は「帚(ほうき)+止(あし)+(音符)𠂤」の形声文字で、あちこち回ったすえ、定位置にもどって落ち着くのを広く「キ」という、という。詳細は論語語釈「帰」を参照。

なお武内義雄『論語之研究』によると、何晏カアンの論語注釈書には、後漢の儒者・ジョウ玄が「歸」はもと「饋」だと言った言葉がある、とするが、訳者の手元やネット上にある何晏の注釈書にはなぜかその部分がなく、『論語之研究』が参照しただろう原文がないので、紹介に止める。

歸孔子豚、鄭本作饋、魯讀饋爲歸、今従從古。
古注 鄭玄
「歸孔子豚」は、鄭玄の本では「」が「」になっている。魯論語では「饋」を「歸」と書いてあるが、今は古論語に従って「歸」とする。(『論語之研究』昭和十八年第四刷p.13/陸徳明『経典釋文』)

引用文中の魯論語・古論語については、論語の成立過程まとめを参照。

」は『学研漢和大字典』によると”食物や金品をおくり届ける”・”ごちそうをうずたかく積み上げる”こと・”食事”。電化鉄道の架線やアンテナに給電する電線のことを饋電線(feeder)と言うが、おそらく明治時代の訳語だろう。えらく古い言葉を持ち込んだものである。

豚 金文 豚の丸焼き
(金文)

論語の本章では、”豚の丸焼き”と古来解する。「豚」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。ただし字形は〔豕〕。現行字体の初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると「肉+豕」の会意文字、と言う。詳細は論語語釈「豚」を参照。

豚は黄河文明発祥の頃から飼われた重要な家畜だが、文字の形としてはにくづきのない〔豕〕と書かれることが多い。最高級のもてなしとされる「大牢」にも、牛・羊と共に豚が入っている。

亡 金文 亡
(金文)

論語の本章では”留守”。『学研漢和大字典』による原義は塀で見えなくすることで、語義は死去に限られない。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意文字で、L印(囲い)で隠すさまを示すもの、という。詳細は論語語釈「亡」を参照。

拜/拝

拝 金文 揖 拝礼
(金文)

論語の本章では”答礼に行く”。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると「整ったささげ物+手」で、神前や身分の高い人の前に礼物をささげ、両手を胸もとで組んで敬礼をすることを示す。貝(バイ)(二つに割れるかい)・廃(ハイ)(二つに割れる)などと同系で、組んだ両手を左右に分けて両わきにもどすこと、という。詳細は論語語釈「拝」を参照。

孔子は高額な贈り物を貰ったので、出かけざるを得なかった、と古来解する。

遇 金文 遇
(金文)

論語の本章では、”たまたま出くわす”。初出は西周末期の金文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、禺(グウ)は、頭が大きくて人に似たさるを描いた象形文字で、よく似た相手や二つのものがペアをなすとの意を含む。遇は「辶(足の動作)+(音符)禺」で、AとBが歩いていき、ふと両者が出あって、ペアをなすこと、という。詳細は論語語釈「遇」を参照。

訳者はロシア語以外の横文字をことのほか苦手とするが、いつの世も、自分ならぬ誰であろうと”Boy meets girl”とは、まことに良いけしきではないかと思う。

予 篆書 吾
(金文)

初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdi̯o。同音に、野などで、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいう。「豫」は本来別の字。詳細は論語語釈「予」を参照。

論語の時代、一人称に用いられるのは通常「吾」で、「予」は重々しく言う場合に限られる。「予」の原義は”押しやること”で、”自分”の意に用いるのは音を借りた仮借。

諸 金文 満員電車 慎 諸
(金文)

論語の本章では”これに~で”。「之於」(シヲ)に音が通じた転用の語法。原義は一カ所に人が大勢集まること。詳細は論語語釈「諸」を参照。

塗→涂

塗 古文 塗 古文
(古文1・2)

論語の本章では”道”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。同音同訓の「涂」が甲骨文より存在する。論語の時代に通用したかも知れない古文では、塗 外字塗 外字の形に書かれ、始皇帝の文字統一に伴って出現した篆書から現在の形となった。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、余は、こてや、スコップでおしのけることを示す会意文字で、どろを伸ばしぬる道具を示す。涂(ト)は、どろどろの液体をこてで伸ばしてぬること。塗は「水+土+(音符)余」。覇に、さらに土を加えた、という。詳細は論語語釈「塗」を参照。

定州竹簡論語の「涂」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。金文は未発掘。『学研漢和大字典』によると「水+(音符)余(ヨ)・(ト)(のびる)」の会意兼形声文字、という。詳細は論語語釈「涂」を参照。

爾(ジ)→壐

爾 金文 爾
(金文)

論語の本章では”そなた”。原義は大きな判子で、二人称に使うのは音を借りた仮借。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると柄にひも飾りのついた大きいはんこを描いた象形文字で、璽(はんこ)の原字であり、下地にひたとくっつけて印を押すことから、二(ふたつくっつく)と同系のことば。またそばにくっついて存在する人や物をさす指示詞に用い、それ・なんじの意をあらわす、という。詳細は論語語釈「爾」を参照。

定州竹簡論語の「壐」は「璽」の異体字。初出は楚系戦国文字。『学研漢和大字典』によると爾(ジ)は、はんこの形を描いた象形文字で、璽の原字。上部はつまみで左右に飾りのひもがついており、下は印にほった文字の形。璽は、爾がのちに指示詞に用いられるようになったので意符の玉を添えたもの。璽は「玉+(音符)爾」の会意兼形声文字。紙などに押してくっつける印、という。詳細は論語語釈「璽」を参照。

懷/懐→𢸬/壊

論語の本章では”(心に)いだく”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。同音は同訓の褱と異訓の壊。詳細は論語語釈「懐」を参照。

定州竹簡論語の「𢸬」は「壊」”壊れる、壊す”の異体字。初出は戦国末期の秦の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。『学研漢和大字典』によると「土+(音符)褱(カイ)(ふところ、うつろに穴があく)」の会意兼形声文字、という。詳細は論語語釈「壊」を参照。

語義は”壊れる・壊す”なのだが、定州竹簡論語と同じ前漢の馬王堆帛書では、「𢸬」を「懐」の語義で用いた例があり、定州竹簡論語でもおそらく同義で用いられたと思われる。また春秋時代まで、「褱」が「懐」「壊」両方を意味した。従って論語の本章では”(心に)いだく”。

それはよいのだが、現伝論語のほとんどは、後漢の時代に話が確立する。それを行った後漢儒の果てしない頭の悪さは、論語解説「後漢というふざけた帝国」に書いた。所説に根拠が一切無い事に目をつぶるとしても、言っていることが相互に矛盾すればそれは出任せに他ならない。

註馬融曰言孔子不仕是懐寶也知國不治而不為政是迷邦也

馬融
馬融「孔子が陽虎に仕えなかった理由は、心に宝を抱いていたからだ。また、政治がもうどうしようも無いことを知って政治に携わらなかったのは、国が迷走していたからだ。」(『論語集解義疏』)

さらに馬融は、下掲のように他の箇所では孔子が政治に携わろうとした、と書きながら、ここだけ”宝を抱いていたから携わらなかった”とテケトーなことを書いている。政治に関わりたがらない作用があるはずの「宝」が、他の章では発動しないのを何と説明するのだろうか。「迷邦」であると知りながら、ここだけ政治と距離を置こうとしているのはなぜなのか。

註馬融曰韞藏也匵匱也藏諸匵中也沽賣也得善賈寜賣之耶

馬融「韞とは仕舞い込むことだ。匵とは宝箱のことだ。宝箱の中に自分を仕舞い込むことを言ったのだ。沽とは売ることだ。よいアキンドが来たら、どうして売らないでおこうか、と言ったのだ。」(『論語集解義疏』子罕篇15)


註馬融曰君子所居者皆化也

馬融「どんな蛮族がウホウホと蛮行にふけっていても、君子が来るとあっという間に、皆おりこうさんになる。」(『論語集解義疏』子罕篇16)

だが馬融のように、バカはバカなことをするのが理の当然であり、バカのするバカの理由を求めるのはバカらしい。バカは獣欲に引きずられて、出任せを言ったりやったりしているだけだからだ(→例)。なお皇侃による付け足しも、馬融のデタラメを引き継いでいる。

云曰懷云云者此是貨與孔子所言之辭也既欲令仕已故先發此言也此罵孔子不仁也寳猶道也言仁人之行當惻隠救世以安天下而汝懐藏佐時之道不肯出仕使邦國迷亂為此之事豈可謂為仁乎

古注 皇侃
「懐」うんぬんとは、陽貨と孔子の会話内容である。陽貨は孔子に出仕させようとすでに企んでおり、だからこそ自分から「懐」うんぬんと話を切り出した。”お前は不仁じゃないか”と罵ったのである。

ここで言う「宝」とは、道のことである。つまり仁者は世を憐れんで、天下太平に力を尽くすのが本分である。だから陽貨は、”お前は君主の補佐をする道を重々知りながら、出仕しないのは国を惑わすのと同じではないか。それのどこが仁者だ”と言ったのだ。(『論語集解義疏』)

新注を書いた朱子も同様。

懷寶迷邦,謂懷藏道德,不救國之迷亂。


「懐宝迷邦」とは、心に道徳をやどしながら、国の混乱を救わないことを言う。(『論語集注』)

どうでしょうか読者諸賢。儒者の言うことを真に受けるのは、もうやめにしませんか。

寶/宝→葆

宝 金文 宝
(金文)

論語の本章では”たから”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「宀(かこう)+玉+缶(ほとぎ)+貝(かいのかね)」の会意文字で、玉や土器や財貨などを屋根の下に入れてたいせつに保存する意を示す、という。詳細は論語語釈「宝」を参照。

定州竹簡論語の「葆」は論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。『大漢和辞典』に同音の「寶に通ず」という。詳細は論語語釈「葆」を参照。

迷 金文 迷
(金文)

論語の本章では”迷わせる”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。上掲金文は『字通』オリジナルで出典不明。『学研漢和大字典』によると「辵(あし)+(音符)米(小つぶで見えにくい)」の会意兼形声文字、という。詳細は論語語釈「迷」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”常にあわれみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。

亟(キョク)

亟 金文 亟
(金文)

論語の本章では「しばしば」「しきりに」と読み下し、”しきりに”と訳す。くりかえされる行為・動作の間が短い意を示す。論語では本章のみに登場。

『学研漢和大字典』によると会意文字で、上下二線の間に人を描いて頭上から足先の端までの間を示し、それに人間の動作を示す口と手とを加え、からだの端から端までを緊張させて動作することをあらわす、という。詳細は論語語釈「亟」を参照。

逝(セイ)

逝 金文 逝
(金文大篆)

論語の本章では”過ぎ去る”。原義は”ふっといなくなること”。初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。ほとんどの同音には”いく”の語義が無い。例外の噬”およぶ”の初出は同じく『説文解字』。『学研漢和大字典』によると「辵+(音符)折」の会意兼形声文字で、ふっつりと折れるようにいってしまうこと、という。詳細は論語語釈「逝」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…てしまう”・”(きっと)…である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

歲(歳)

歳 金文 戊 鉞
(金文)

論語の本章では”歳月”。時間を意味する。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「戉(エツ)(刃物)+歩(としのあゆみ)」の会意文字で、手鎌の刃で作物の穂を刈りとるまでの時間の流れを示す。太古には種まきから収穫までの期間をあらわし、のち一年の意となった、という。詳細は論語語釈「歳」を参照。

諾 金文大篆 諾
(金文大篆)

論語の本章では、受諾を意味する”はい”・”わかりました”との返答。やや間を置いて返答すること。初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると若(ジャク)は、それ、その、の意をあらわす指示詞で、是(これ)や然(それ、その)を返事に用いるように、そうと承認する返事に用いる。諾は「言+(音符)若」の形声文字で、やや間をおいて、考えて答えることをあらわす。言語行為なので言印をつけた、という。詳細は論語語釈「諾」を参照。

中国の時代劇では、家臣が君主など目上に”承知しました”と言うとき、「諾」(nuò、ただし日本人の耳にはほどんどノアと聞こえる)を用いる。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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仮に陽貨=陽虎だとする。

「陽虎」(以下トラ)と呼ばれた人物が、なぜ「陽貨」(以下ゼニ)と論語の本章に記されたのか。この人物は前漢まではほぼ、「陽トラ」と記された。例外は『孟子』に一章『墨子』に一章、「陽ゼニ」とあるのみで、さかんに「陽ゼニ」と書かれたのは、後漢に始まる。

『孟子』は論語と同様、孟子の発言か疑わしい箇所が多数あり、『孟子』を論拠に漢語の時代特定をするには、面倒くさい手続きが要る。しかも『孟子』に「陽トラ」と記す箇所が一章あったりもする。そもそも貨幣のほのかな論語時代、貝の付く字が出たら疑った方がいい。

対して『墨子』に「陽トラ」の記載は見られない。「陽ゼニ」の記述は次の通り。

孔丘與其門弟子閒坐,曰:「夫舜見瞽叟孰然,此時天下圾乎!周公旦非其人也邪?何為舍其家室而託寓也?」孔丘所行,心術所至也。其徒屬弟子皆效孔丘。子貢、季路輔孔悝亂乎衛,陽貨亂乎齊,佛肸以中牟叛,桼雕刑殘,莫大焉。夫為弟子,後生其師,必脩其言,法其行,力不足,知弗及而後已。今孔丘之行如此,儒士則可以疑矣。

墨子
孔子が弟子を集めて、こういう要らん説教をしたらしい。

「聖人聖人とワシは世間に言うたが、実は全部でっち上げだ。いにしえの聖王舜は、バカ親父の顔を見る時に限り、米つきバッタのようにペコペコした。王がそんなバカに頭を下げれば、舐められて国が滅びかねなかった。周公旦も人でなしだった。家族を放置して、留守にしっぱなしのまま趣味の政治いじりに励んだ。」

こういう発言を聞くと、孔子の腹は真っ黒で、仕出かした政治的陰謀はその表れだ。孔子の弟子どもはみな、そろって孔子の真似をした。子貢と子路は、衛国で小悪党の孔悝を焚き付けて反乱を起こさせ陽貨は斉国で謀反を起こし佛肸は中牟に立てこもって独立を企んだ。漆雕開は何を仕出かしたか知らないが、ともかく捕まって足切りの刑にあった。こうした孔子一党の悪行は、数え上げたら切りがない。

そもそも弟子入りとは、師匠よりあとに生まれたことを自覚して、師匠の言葉通りに努め、行い通りに真似るものだ。未熟者だし、智恵も師匠より劣っているからだ。だから今や、孔子が腹黒と分かった以上、その弟子を名乗る今の儒者どもも、大いに疑ってかかるべきである。(『墨子』非儒篇下)

「舜」の初出が戦国中期で、墨子が論じるはずも無いことを踏まえた上で。

トラが孔子の弟子などでないことはもちろんだ。『史記』の記述が確かなら、若造だった孔子を季孫家の宴会場で門前払いを食わせたのはトラだし、孔子が世に出る以前、トラはすでに政戦両面で魯国で活躍していたことは、『左伝』にも複数の記述がある

陽虎
トラは孔子の弟子どころではない。少なくとも一世代は上の先駆者だった。だが孔子と生まれ代わるように春秋末から戦国の時代を生きた墨子の証言を信じるなら、孔子の弟子にトラならぬゼニがいて、斉国で騒動を起こしたという。

『左伝』の記述では、トラは魯国を逃げ出して斉に亡命はしたが、さっさと捕まって監禁され、八百屋の車に潜みネギをかぶって脱出し、晋国に向かったとされる。とうてい「謀反を起こした」とは言えない。ならば弟子のゼニが起こした謀反が、今伝わらないだけではいか。

そもそも、陽貨ゼニ=陽虎トラ説を言い出したのは、実在も怪しい孔安国である。

註孔安國曰陽貨陽虎也季氏家臣而専魯國之政欲見孔子使仕也

孔安国
陽貨とは陽虎のことだ。季氏の家臣で、魯国の政治を勝手に牛耳っていた。孔子に会って、自分の配下に加えようとしたのである。(『論語集解義疏』)

前漢までは誰もトラをゼニとは書かなかった。後漢になってからそう書かれるようになったが、なおトラと書く人もいた。後漢儒の知的低劣は知れきったことだが、おそらく馬融・鄭玄あたりがトラとゼニを混同したものの、自分の説だと人に聞いて貰える自信が無かった(ふらちな後漢儒)。

だから創作した孔子の子孫である孔安国に、デタラメを語らせただけだろう。従って論語の本章ではその偉そうな態度から、「陽貨」=ゼニと書かれているが実は「陽虎」=トラで、孔子より身分も年齢も上の者と見るべきだろう。その後の儒者はそれに気付きもしていない。

陽貨者季氏家臣亦凶惡者也所以次前者明於時凶亂非唯國臣無道至於陪臣賤亦竝凶惡故陽貨次季氏也
古注 皇侃
皇侃オウガン曰く、陽貨は季孫家の家臣で、凶悪な者である。本陽貨篇が季氏篇に続けて書かれたのは、当時の凶悪な動乱を明らかに伝えるためである。その乱れたるや、魯公の直臣である季孫家以下の家老が無道だっただけでなく、バイ臣=家老の家臣であるはずの者までが、凶悪で愚劣だったほどだ。だから魯公を脅かした季氏の事を記した篇に続けて、凶悪な陽貨を取り上げて陽貨篇を記したのである。(『論語集解義疏』)

陽貨,季氏家臣,名虎。嘗囚季桓子而專國政。欲令孔子來見己,而孔子不往。貨以禮,大夫有賜於士,不得受於其家,則往拜其門。故瞰孔子之亡而歸之豚,欲令孔子來拜而見之也。


陽貨とは季孫氏の家臣で、名を虎と言った。以前、季孫氏の当主を監禁して国政を好き勝手に動かしたことがある。それで今度は孔子を自邸に参上させようとしたが、孔子は空気を読んだ上でシカトを決め込んだ。

そこで陽貨は贈り物をしたのだが、当時の礼儀として、大夫(上級貴族)が士(下級貴族)に贈り物をする場合には、士が大夫の屋敷に出向いて、門前でヘコヘコとお辞儀して受け取る事になっていた。だが孔子のシカトがあまりにきついので、陽貨は孔子の留守を狙って、格下にもかかわらず豚を届けてやったのだが、それは自邸まで孔子に来て貰いたかったからだ。(『論語集注』)

どちらも見てきたような出任せを書いているが、朱子は勝手に「陽貨のあざ名が虎である」とまで言い出した。中国人のウソツキは今に始まったことではないし今なお盛んだが、ウソを定着させるにもこういう年季の入り方をしていると、もう誰にも疑われない。

白川静
白川静『孔子伝』によると、陽虎は孔子と出身階層・教養・社会への希望がほとんど同じ人物で、孔子は自分の幻影として陽虎を恐れた、と書いている。陽虎も孔子も共に亡命の日々を送ったが、孔子は陽虎のいる土地を避けており、衛国から出たのもそれゆえだ、という。

これもまた白川博士の勝手な妄想と言うべきで、史料的根拠はかすかしかない。史実はそうでなく、孔子は若き日の屈辱を忘れはしなかったろうが、ともに社会の底辺から貴族へ成り上がろうとした者として、さらに先行者として、陽虎をよく観察し、その失敗から学んだ。

陽虎既犇齊,自齊犇晉,適趙氏。孔子聞之,謂子路曰:「趙氏其世有亂乎!」子路曰:「權不在焉,豈能為亂?」孔子曰:「非汝所知。夫陽虎親富而不親仁,有寵於季孫,又將殺之,不剋而犇,求容於齊;齊人囚之,乃亡歸晉。是齊、魯二國已去其疾。趙簡子好利而多信,必溺其說而從其謀,禍敗所終,非一世可知也。」

子路 あきれ 孔子 せせら笑い

陽虎が斉へ逃げ、そこでも追われて晋に逃げ、趙氏の客分になった。

子路「…だそうです。」
孔子「こりゃあ趙氏の家はしばらく荒れるな。」
子路「なぜです? まだ陽虎が執権になったわけじゃありませんよ。」
孔子「いや荒れるな。

お前さんは知るまいが、陽虎は権力を盗る悪ヂエばかり働いて、社交界での礼儀を知らなんだ。だから貴族のお坊ちゃんたちが、ボンヤリ鼻を垂らしている中で出世はできた。季孫家の執事に成り上がり、当主殿をあの世へ送って成り代わる寸前まで行った。

じゃが結局は袋だたきに遭って逃げ出した。斉へ逃げても、誰も引き受けなんだのは、悪い評判が広まっていたからじゃ。じゃからとっ捕まった。抜け出して晋に逃げたのは、魯や斉にとってコレ幸いというものじゃ。

趙氏の当主、簡子どのはやり手じゃが、しょせんはお坊ちゃんで、陽虎の言うがままになるじゃろう。そのせいで趙の家は数代はひどい目に遭うじゃろうが、寿命のある人間には一生かかっても、陽虎のまき散らす災いの終わりを、見届けることは出来ぬのよ。」(『孔子家語』弁物7)

この伝説には史実の裏付けがある。趙簡子の祖父・趙武子は、赤ん坊の頃に敵対した貴族によって一族皆殺しにされ、多くの人々の犠牲により、辛くも生き延びて趙氏を再興した。趙簡子の血統も、孫の代で互いに殺し合いを初め、趙桓子の一族は皆殺しにされている。

春秋政界では、失脚したら殺されるのが当たり前で、殿様でさえ例外ではなかった。ところが成り上がり者の孔子は失脚しても、殺されなかったばかりか追っ手の一つも掛けられていない。そればかりか、貴族の籍すら削られなかったらしい。

放浪中も一時帰国し定公の葬儀に列席している。それは上掲に言う、「仁」=貴族界の礼儀作法や気配りに「親」しんでいたからで、陽虎の失敗の原因を「仁」の欠如にあると孔子は見ていた。仁が孔子一門の奥義となったのは、それゆえである(→論語における仁)。

大英帝国の最盛期、ヴィクトリア朝の貴族にとって、society=”社交界”の繁雑極まる礼儀作法や常識は、彼我の呼びかけの一つですらしくじると、家名に傷が付きかねない何事かだった。だから成り上がろうとする産業資本家は、莫大な富を持ちながら、その習得に必死になった。

集っている人々は誰で、目の前の相手はどんな人で、自分は相対的にどの位置にいるか。それによって言葉から服装から立ち居振る舞いまで、全部変わってくるのである。ガーター勲章が英国の最高勲章たり得る由来は、その何事かの繁雑さの度合いを、現代にまで伝えている。

論語に言う仁も同じである。”情け深さ”や”教養”といった、曖昧な言葉では決してない。

『論語』陽貨篇:現代語訳・書き下し・原文
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