(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「惡紫之奪朱也、惡鄭聲之亂雅樂也、惡利口之覆邦家者*。」
校訂
武内本
唐石経章末者の字あり、者は也と同義。
定州竹簡論語
[子]曰:「惡此a之奪朱也,惡鄭□之乳b樂c也,惡利口[之覆]533……[家也d]。」534
- 此、今本作”紫”。此、紫之省。
- 乳、今本作”亂”字。作乳誤。
- 今本”樂”前有”雅”字。
- 也、阮本作”者”。皇本作“也”字。
→子曰、「惡此之奪朱也、惡鄭聲之亂樂也、惡利口之覆邦家也。」
復元白文(論語時代での表記)
覆
※惡→亞・聲→(甲骨文)。論語の本章は覆の字が論語の時代に存在しない。「之」「亂」の用法に疑いがある。本章は戦国時代以降、おそらくは前漢の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、紫之朱を奪ふを惡む也、鄭聲之雅樂を亂るを惡む也、口利くもの之邦家を覆すを惡む也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「紫色が朱色に取って代わるのを嫌ったり、鄭の器楽が周の雅楽を乱すのを嫌ったり、口上手な者が国や王家を潰すのを嫌うのだ。」
意訳
近ごろは紫色や、転調の利いた鄭の楽曲がはやりらしい。だが一時の流行はともすると、国や王家を滅ぼしてしまう。いかんいかん。
従来訳
先師がいわれた。――
「私は紫色が朱色を圧して流行しているのを憎む。鄭声が雅楽を乱しているのを憎む。そして、口上手な人が国家を危くしているのを最も憎む。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「我厭惡用紫色代替紅色,厭惡用鄭聲攪亂雅樂,厭惡用妖言顛覆國家。」
孔子が言った。「私は紫色で赤色の代わりにするのを嫌い、鄭の音楽でみやびな音楽を乱すのを嫌い、怪しい話で国家を転覆するのを嫌う。」
論語:語釈
惡(悪)
(金文大篆)
論語の本章では”憎む・嫌う”。上掲の字形は秦で通用した大篆で、それ以前の甲骨文・金文には見られない。古文では「亜」と区別無く書かれ、「亜」は建物などのくぼんだ基礎のこと。『学研漢和大字典』によると、くぼんだ所に押し込められるような気分を意味する。詳細は論語語釈「悪」を参照。
紫→此
(金文)
論語の本章では”むらさき色”。初出は春秋末期の金文。カールグレン上古音はtsi̯ăr(上)。『学研漢和大字典』によると、此は足がちぐはぐに揃った形であり、赤と青、ちぐはぐな色で糸を染めたのが紫という。詳細は論語語釈「紫」を参照。
定州竹簡論語の「此」の初出は甲骨文。カールグレン上古音はtsʰi̯ăr(上)で「紫」の近音。「ʰ」は有気音を意味し、日本語では「意味漏れする音」と言う以外、なんとも表現しがたいので、wikipediaを参照されたい。”むらさき”の語釈は『大漢和辞典』にも無い。上掲注釈に言うように、「糸」を省略して書いたと思うしかない。論語語釈「此」を参照。
前漢の時代、紫色は大将軍など高官のはんこに結ぶひもの色として用いられ、これを「金印紫綬」という(『漢書』)。また太一星を祀る際、神官は紫色の地に刺繍した装束を用いた(『史記』武帝紀22)。高貴な色ではあったが、嫌われる理由が見当たらない。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の…”。(主部)-之-(述部動詞)で、”主部が述部動詞をすること”という名詞句を形成している。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
奪
(金文)
論語の本章では、”取って代わる”。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると、人が脇に挟んだ鳥を抜き取るのが原義だという。詳細は論語語釈「奪」を参照。
朱
(金文)
論語の本章では”朱色”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると指事文字で、「木+ー印」。木の中央を一線でたち切ることを示す。つまり、切り株を示す。株の原字だが、切り株の木質部のあかい色をいうのに転用された。高貴な色で、夏(カ)王朝を代表する色とされた、という。詳細は論語語釈「朱」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
鄭聲(声)
「鄭」(金文)・「声」(古文)
論語の本章では、”鄭の民謡”。
「鄭」の初出は西周末期の金文。春秋諸侯国の一つで、孔子とは一世代上の子産という名宰相によって、小国ながらよく国を保ったとされる。wikipediaを参照。文字的には論語語釈「鄭」を参照。
「声」の初出は甲骨文。金文では未発掘。『学研漢和大字典』によると声は、石板をぶらさげてたたいて音を出す、磬(ケイ)という楽器を描いた象形文字。殳は、磬をたたく棒を手に持つ姿。聲は「磬の略体+耳」の会意文字で、耳で磬の音を聞くさまを示す。広く、耳をうつ音響や音声をいう、という。詳細は論語語釈「声」を参照。
孔子が生前、「鄭の音楽はみだらだ」と言った証拠はただの一つも無く、論語衛霊公篇11に「鄭声は淫らなり」とあるのも前漢帝国の儒者によるでっち上げ。
亂(ラン)→乳
(金文)
論語の本章では、”乱す”。新字体は「乱」。初出は西周末期の金文。ただし字形は「乚」を欠く「𤔔」。初出の字形はもつれた糸を上下の手で整えるさまで、原義は”整える”。のち前漢になって「乚」”へら”が加わった。それ以前には「司」や「又」”手”を加える字形があった。春秋時代までに確認できるのは、”おさめる”・”なめし革”で、”みだれる”と読めなくはない用例も西周末期にある。詳細は論語語釈「乱」を参照。
「乳」秦代隷書
定州竹簡論語では、現伝本「亂」が「乳」と記されている。定州本の注に「今本作”亂”字。作乳誤。」とあるが、前漢時代、「亂」は「乳」に近い字体で記されていたことが、他の資料から分かる。小学堂「亂」条より引用。
従って定州竹簡論語の「乳」は「亂」と判断した。辞書的には論語語釈「乳」を参照。
雅
(金文大篆)
論語の本章では”みやびな”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はŋɔで、同音に牙とそれを部品とする漢字群。『大漢和辞典』によると、牙は雅と音通。詳細は論語語釈「雅」を参照。
「雅楽」で”古風でみやびな音楽”。藤堂本では「荘重で古典的な周の雅楽」という。
利(リ)
(甲骨文)
論語の本章では(口車を)”うまく回す”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「禾」”イネ科の植物”+「刀」”刃物”。大ガマで穀物を刈り取る様。原義は”収穫(する)”。甲骨文では”目出度いこと”、地名人名に用い、春秋末期までの金文では、加えて”よい”・”研ぐ・するどい”の意に用いた。詳細は論語語釈「利」を参照。
口
(金文)
論語の本章では”口”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると人間のくちやあなを描いた象形文字。詳細は論語語釈「口」を参照。
覆
(金文)
論語の本章では”滅ぼす”。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、復の右側は、包みかぶさって二重になるようなぐあいに歩く、つまり復(もとにもどる、うらがえし)のこと。のち彳を加えた。覆は「襾(かぶせる)+(音符)復」で、かぶさってふせる、おおうの意、という。詳細は論語語釈「覆」を参照。
邦家
(金文)
論語の本章では、”国と王(帝)室”。
「邦」の初出は甲骨文。前後の漢帝国では、「邦」の字は高祖劉邦のいみ名であるため、避諱して「國」と書くのが決まりであり、本章の定州竹簡論語が「邦」の部分を欠いているものの、「國」と記していたことはほぼ確実。辞書的には論語語釈「邦」を参照。
古注が下記の通り「邦」と書いているのは、すでに後漢が滅んでいたため。だが前漢の人物として後世でっち上げられた孔安国の注では、ちゃっかり「國」と書いている。このあたり、創作者の芸が細かい。
子曰惡紫之奪朱也註孔安國曰朱正色紫閒色之好者惡其邪好而奪正色也惡鄭聲之亂雅樂也註苞氏曰鄭聲淫聲之哀者惡其奪雅樂也惡利口之覆邦家也註孔安國曰利口之人多言少實苟能悦媚時君傾覆其國家也
本文「子曰惡紫之奪朱也」。
孔安国「朱色は正しい色であり、紫色は混ざり物の色である。そんな色を好む奴のよこしまと、好きこのんで正しい色を汚すのを憎んだのである。」
本文「惡鄭聲之亂雅樂也」。
包咸「鄭の音楽はみだらである。そんな音楽を好む奴の、みやびな音楽に取って代わろうとするのを憎んだのである。」
本文「惡利口之覆邦家也」。
孔安国「口が回る者は、口先だけ立派で実行が伴わない。そんな奴がもし時の君主に気に入られたら、その国と王家を滅ぼすのである。」(『論語集解義疏』)
「家」の初出は甲骨文。論語の時代での「家」には、「国家」のように公的な概念をまだ持っていない。「国家」の「家」は、諸侯の領地である「国」に対する、卿大夫の領地を意味する。「国家」がstateやdynastyを意味するようになったのは、秦帝国による帝政の開始から。
者(シャ)→也
(金文)
論語の本章では”そういうもの”。この語義は春秋時代に確認できない。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
武内本に「也と同じ」とある。またこの文字は唐石経にあり、日本の清家本では欠くという。
論語:付記
論語の本章は、「覆」の字が戦国末期にならないと現れないこと、「国家」が国や王朝の意味で使われていることから、前漢の儒者による捏造と思われる。上記のように孔子が鄭の音楽を嫌った証拠は無く、紫色をなぜ嫌ったかの理由も分からない。
古代ではどの文明圏でも、紫色に染めるにはコストがかかったと言われる。それゆえに高貴な色ともされた。日本の冠位十二階もその一例。東洋ではムラサキソウの根=紫根から染めたとされ、乾燥させた根から微温湯で染料を採り、アルカリで繊維に定着させたという。
ローマなど西洋世界では、貝の一種が出す分泌液から染料を採り、一説にローマ皇帝専用の色とされるほど貴重だったという。新古の注にある儒者の理屈は、五行で朱色は正色だが紫は間色だからいけないという。加地本ではそれを承けて、以下のような表を載せる。
五行 | 土 | > | 水 | > | 火 | > | 金 | > | 木 | > | |
正色 | 黄 | 黒 | 朱 | 白 | 青 | ||||||
間色 | 駵黄 (黄黒) |
紫 (黒赤) |
紅 (赤白) |
碧 (白青) |
碧 (青黄) |
五行とは中国古代の疑似科学(オカルト)で、右から木は金属の刃物で切れるから金が勝ち、金属は火で溶けるから火が勝ち、火は水で消えるから水が勝ち、水は土の堤防で防げるから土が勝ち、土には木が巣食って生い茂るから木が勝ち、木は…というたわいのない理屈。
だから間色の紫はいけないのだそうだ。ますます分からなくなっただけではないか? また五行説が現れたのはどう早く見積もっても戦国時代で、孔子の生前にはその萌芽すら無い。だから五行を理由に孔子が紫を嫌ったはずがなく、帝国儒者の利権がらみとしか思われない。
リンク先で加地本をデタラメと断じている理由はここにもあり、それ以外もいっぱいあって一々記せないのだが、五行説の何たるかを調べもしないで、中国儒者の書いたでっち上げを猿真似するから、学者として無能であり、妙な金稼ぎをするから、人間として卑劣だという。
というわけで、孔子に「紫が嫌いだ」と儒者が言わせた理由は分からない。
もっと分からないのは孔子が鄭の音楽を嫌った理由で、論語衛霊公篇11(偽作)で「鄭声は淫ら」とあるのを理由に、儒者は口を揃えて鄭声を非難した。論語の時代では声は楽器の音を意味し、音は人間の歌声を意味する。しかし楽譜が残らなかったため、どう淫らか分からない。
従来訳の注では「極めて淫猥なものであつた。」とまるでその耳で聞いたかのように記している。ただし『詩経』に残された歌詞から見ると、鄭の民謡には特徴がありはする。漢文が一般に四言句を好むように、『詩経』に残された歌詞もその大勢は、四言句で成り立っている。
カンカンとなくミサゴは、川の州にあり。
たおやかな淑女は、君子の良きつれあい。
(『詩経』国風・周南「關雎」)
論語でも二ケ章に引用されたミサゴの歌も、このように四言句で歌われる。『詩経』に収められたのは民謡から宮中の雅楽まで多彩だが、たまに調子を破る非・四言句はあるものの、それは歌に付きものの技巧や転調というもので、基本はミサゴの歌と変わらない。
ところが同じく『詩経』に収められた鄭の民謡も、四言句が基本ではあるものの、収録冒頭の歌から、もうすでに調子を破っている。
黒き衣がよく似合う、ヘイ! 破れた? ではまた改めて縫いましょう、ホイ!
あなたは今日もお務めへ、ヘイ! お帰り? ではご膳を上げましょう、ホイ!
(『詩経』国風・鄭風「緇衣」)
「兮」の字は鳴子の象形で、掛け声や合いの手を意味する。鄭風には21の歌が収められているが、そのうち四言句だけで歌われたのは8つしかない。崩し方も一番の中に一カ所二カ所だけ、というわけではなく、始めから調子を崩した歌が多い。
対して孔子が息子の鯉に学べと言ったことになっている(論語陽貨篇10)、周南の歌では11中8、召南の歌では14中7、お行儀よく四言句が並んでいる。鄭風のお行儀率が38%であるのに対し、周南が73%、召南が50%ということになる上、破格の句は一首の中で一つか二つ。
それもまた儒者が孔子の片棒を担ぎ挙げて、わざとそういう歌を鄭風に入れた、あるいは書き換えた、または冒頭に調子を崩した歌を載せた、その可能性は高いものの、疑い出せばきりがない。その疑い無しに『詩経』を見ると、確かに鄭の歌は変わってはいる。
だがそれが淫らかどうか、ワイセツとまでは言えないだろう。騒がしい程度ではなかろうか。
なお論語の本章は、戦国時代の『尹文子』大道篇に引用があるが、この書は偽作の疑いが晴れていない。確実に見られるのは『漢書』の杜周伝で、「酷吏」(ハゲタカ)と嫌われた杜周の孫、杜欽の、前漢成帝への上奏文に、ウンチクとして論語の他の章と共に引用されている。
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