論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「色厲而內荏、譬諸小人、其猶穿窬之盜也與。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「色[厲而內荏,辟a諸]□人,其猶穿[媮b]之盜也c?」525
- 辟、今本作”譬”。古通。
- 媮、今本作”窬”。
- 今本”也”字下有”與”字。
※辟bʰi̯ĕkまたはpi̯ĕk(共に入)、譬pʰi̯ĕɡ(去)。
→子曰、「色厲而內荏、辟諸小人、其猶穿媮之盜也與。」
復元白文(論語時代での表記)
※荏→恁・譬→辟・穿→川・媮→兪。論語の本章は、「之」「也」「與」の用法に疑いがある。
書き下し
子曰く、「色厲しくし而內に荏かなるは、諸を小人に譬ふれば、其れ猶ほ穿ち媮む之盜のごとき也る與。」
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「表情が険しいのに、内心はおびえている者は、これをつまらない人間にたとえるなら、穴を開けて入る泥棒のようなものだろうか。」
意訳
いかつい顔して心の弱さを隠している者は、こそ泥同然だ。
従来訳
先師がいわれた。――
「見かけだけはいかにも厳しくして、内心ぐにゃぐにゃしている人は、これを下層民の場合でいうと、壁をぶち破ったり、塀を乗りこえたりしながら、びくびくしている泥棒のようなものであろうか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「外表威嚴而內心怯懦的人,用小人作比喻,就象挖牆洞的小偷吧!」
孔子が言った。「表面的な威厳があって内心は怯えている人は、つまらない人間のやることにたとえるなら、塀に穴を開けて入るこそ泥そっくりだな!」
論語:語釈
色(ソク)
(金文)
論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。
厲(レイ)
(金文)
論語の本章では”厳しい・険しい”。初出は西周中期の金文。
牡蠣の殻のように、手を切りそうなほど鋭く尖っているさま。経験者にはご存じの通り、手袋無しでカキ殻にさわると、あっという間に手指を切られて血だらけになる。『学研漢和大字典』による原義は萬(毒さそり)+厂(石)で、毒のように激しくこすれる砥石。詳細は論語語釈「厲」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…するときに”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
漢文の並立構造を構成する機能語で、「~て」と訳す。並立構造の前後は、同じ重さの意味を持つ。
荏(ジン)
(篆書)
論語の本章では”無力でだらしがないさま”。論語では本章のみに登場。始皇帝による文字統一で制定された小篆から見られるようだが、確実な初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。上掲の文字は『説文解字』のもの。結論として同音同調の「恁」が論語時代の置換候補になる。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、壬(ニン)は、やわらかく包みこむ意を含む。荏は「艸+人+(音符)壬」で、種をやわらかく包みこんだ植物、という。詳細は論語語釈「荏」を参照。
譬(ヒ)→辟(ヘキ)
(金文大篆)
論語の本章では、”たとえる”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。部品の辟は甲骨文からあり、『大漢和辞典』に”たとえる”の語釈を載せる。『学研漢和大字典』によると、辟(ヘキ)は「人+辛(刃物)」からなる会意文字。人の肛門(コウモン)に刃物をさして横に二つに裂く刑罰。劈(ヘキ)(よこに裂く)の原字。譬は「言+〔音符〕辟」の会意兼形声文字で、本すじを進まず、横にさけて別の事がらで話すこと、という。詳細は論語語釈「譬」・論語語釈「辟」を参照。
諸
(金文)
論語の本章では、”~を~に”。「之於」(シヲ)がつづまって一語になったことば。『学研漢和大字典』による原義は、ある場所に大勢の人が集まったさま。詳細は論語語釈「諸」を参照。
小人
論語の本章では”つまらない人”。庶民、無教養の人、凡人を意味するが、ここではどろぼうにたとえているのでこのように解した。孔子の生前、小人とは君子=貴族に対する平民を意味するに過ぎなかったが、孔子より二世紀後の荀子になると、”下らない人間”という差別的な意味が加わった。詳細は論語憲問篇7付記・論語における君子を参照。
其(キ)
(金文)
論語の本章では”それ”という代名詞。「小人にたとえるなら」を受けている。『学研漢和大字典』による原義は、農具の箕。詳細は論語語釈「其」を参照。
猶(ユウ)
(金文)
論語の本章では、「なお~のごとし」と読み下す再読文字で、”~のようだ”。『学研漢和大字典』による原義は、酒の香りがただようさま。詳細は論語語釈「猶」を参照。
穿
(古文)
論語の本章では”穴を開ける”。論語では本章のみに登場。初出は戦国時代の篆書。論語の時代に存在しない。
だが同音の川は甲骨文から存在するし、『学研漢和大字典』川条は「穿と最も近い」と言う。結論としてこれが論語時代の置換候補になる。詳細は論語語釈「穿」を参照。
窬(ユ)→媮(トウ)
(古文)
論語の本章では、”穴を開ける”。他人の家の塀に穴を開けて泥棒に入ること。ただし「窬」は「踰」と音が通じ、”越える”の語義もある。武内本では「窬は踰の借字こゆる也」と注にある。その場合は、穴を掘ったり塀を乗り越えたりして泥棒に入ること。
論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。部品で同音の俞に”えぐる・移る・越える”の意があり、論語時代の置換候補となる。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、兪(ユ)は、矢印型の刃物で木の中みをくり抜いて丸木舟をつくることを示す。窬は「穴(あな)+(音符)兪(ユ)」で、くりぬいて穴をあけること。偸(トウ)(中の物を抜きとる)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「窬」を参照。
定州竹簡論語の「媮」は『大漢和辞典』にも条目が無く、小学堂での異体字「偷」tʰu(平)も条目が無い。「媮」の小学堂によるカールグレン隋唐音(≒日本の漢音)はtʰə̯u(平)で、同音に「黈」”黄色”があり、ただし声調が異なり上声で、『大漢和辞典』に「トウ」と音を載せる。
「偷」はおそらく芥川の小説で有名な「偸」”ドロボウ”の異体字で、『康煕字典』では「偸」を用いる。『大漢和辞典』で同音同訓の盜(盗)dʰoɡ(去)の初出は甲骨文。但し音が遠くて音通と言えない。
「媮」を「婾」の異体字とするならば、『大漢和辞典』に”わるがしこい・ぬすむ・ごまかす・かりそめに・あなどる・うすい・たのしむ”の語釈を載せる。結論として、論語時代の置換候補は「窬」と同じく部品の「兪」。詳細は論語語釈「媮」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、「の」と読んで名詞句を形成する機能語。「穿窬之盜」で一つのフレーズを形作り、後ろに「也」を伴って、「其」を主部とする述部を形成している。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
それは穴を開けて入る泥棒のようだろうか。
盜/盗
(金文)
論語の本章では”泥棒”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「盗」の上部「次」は水+欠(人があごを出すさま)で、よだれを垂らす姿。それに皿がついて、ごちそうを物欲しそうに見ていること。詳細は論語語釈「盗」を参照。
白川静『孔子伝』によると、論語の時代にも戸籍のようなものはあり、本籍を離れてさまよう人々=流民も「盗」と呼ばれた。孔子の弟子・子路の義兄で、孔子が初の衛国亡命の際、その屋敷に逗留した顔濁鄒は、大盗=流民の首領だったと伝説にある。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
また論語の本章で詠歎の”だなあ”と取れないことも無いから、それでもかまわない。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…か”。疑問を示す。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
論語:付記
論語の本章の言う通り、脅しは実力を伴わなければハッタリにしかならない。
だが儒者どもは孔子がこう言ったのをいい事に、「小人は邪悪で兇暴で強欲で…。」と実は自分らの方がそれであるはずの価値判断を「俺も俺も」と書き付けている。一通り読んだ上で、暇つぶしにもならずばかばかしいから記さないことにした。
代わりにこういうこういうたとえでもよかろうか。恐怖の独裁者スターリンが死んだ時、後継者はベリヤ、つまり最も強大な権力を握る秘密警察の親玉、のはずだった。それが阻まれたのはただ一つ、独ソ戦の英雄・ジューコフ元帥が、戦車師団に命じたからに他ならない。
「踏み潰せ。」
なお顔濁鄒が大親分だった記録は『呂氏春秋』にもあり、そうなるとただの伝説や創作とは言えなくなってくる。『後漢書』の列伝にも引用されていることから、ほぼ史実に近い話と思われていたようだ。
顔喙聚(=顔濁鄒)は、梁父に根城を置く流民を配下に置く盗賊の大親分だった。(『淮南子』氾論訓)
顏涿聚(=顔濁鄒)は、梁父に根城を置く流民を配下に置く盗賊の大親分だった。(『呂氏春秋』孟夏紀・尊師)
左原者,陳留人也。為郡學生,犯法見斥。林宗嘗遇諸路,為設酒肴以慰之。謂曰:「昔顏涿聚梁甫之巨盜,段干木晉國之大駔,卒為齊之忠臣,魏之名賢。蘧瑗、顏回尚不能無過,況其餘乎?慎勿恚恨,責躬而已。原納其言而去。
左原は、陳留の出身である。郡の学生だったとき、法を犯して退学処分になった。林宗がたまたま道で出会い、左原のために宴会を開いて慰めた。
林宗「なあ君、むかし顔涿聚は、梁甫の大泥棒だったし、段干木は、晋国の暴れ者だった。しかしあっという間に顔涿聚は斉国の忠臣として名を残し、段干木は魏国の賢者として名高くなった。衛の名臣・蘧伯玉や、孔子の弟子・顔回のような人でも、罪を犯さないではいられなかった。」
「…まして普通の人間なら当然だろう? 慎み深く暮らして、恥ずかしがったり怒ったりしないことさ。しでかしたことは、自分で引き受けるしかないからね。」
左原はその言葉を受け入れて去った。(『後漢書』郭符許列伝)
顔濁鄒と孔子の関係は、『史記』に子分が多く入門したことを記すのみで、あまりよく分かっていない。しかし孔子一門の政治活動の背景には、顔濁鄒が大きく関わっていると訳者は睨んでいる。
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