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論語詳解451陽貨篇第十七(17)巧言令色*

論語陽貨篇(17)要約:おべっかや作り笑顔する奴には気を付けろ。論語の冒頭、学而篇にあった言葉が再登場します。

    (検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

子曰、「巧言令色、鮮矣仁。」

論語学而篇3と同文。

校訂

武内本

唐石経此章傍添。

定州竹簡論語

子曰:「巧言令色,鮮矣532……

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 言 金文令 金文色 金文 鮮 金文已 金文仁 甲骨文

※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「巧」が論語の時代に存在しない。「令」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、たく『みのことのはうるはしのかんばせなまぐさなりよきひと

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
先生が言った。「巧みな言葉、うるわしい笑顔だと、ひどく生臭くなってしまう、貴族らしい態度が。」

意訳

孔子 ぐるぐる
おべっかと作り笑いで迫られては、せっかくの貴族らしい立ち居振る舞いも、インチキ臭さがプンプンにおう。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「ご機嫌とりにろくな人間はいない。」


*本章は、三章と全く同一で、重出である。同一の訳文をくりかえす代りに、ここでは思い切り。くだけた意訳を試みてみた。三章と対比されたい。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「花言巧語、滿臉堆笑的人,很少有仁愛之心。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「飾り立てた聞き心地の良い言葉と、満面に笑顔をたたえた人には、思いやりの心が甚だ少ない。」

論語:語釈

 、「     。」

巧(コウ)

巧 楚系戦国文字 巧 字解
「巧」(楚系戦国文字)

論語の本章では”よく作られた”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。原義は”細かい細工”。現行字体の偏は工作を意味し、つくりは小刀の象形。中国の字書に収められた古い文字(古文)では、へんがてへんになっているものがある。上掲楚系戦国文字は、「〒」も「T]もおそらく工具で、それを用いて「又」=手で巧みに細工することだろう。詳細は論語語釈「巧」を参照。

現行の書体「工」+「丂」は、当然ながら中国を統一した秦の文字の系統を引いているが、それ以外の系統の文字では、へんは扌であったり木であったりする。楷書化した字体も巧 異体字 や巧 異体字など多様性がある。
巧 書体
「巧」古文一覧:Image via http://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccdb

「丂」は『学研漢和大字典』は屈曲して線につかえたさまといい、「工」とともに巧みに加工された成果を指すとするが、『字通』は曲刀といい、「工」とともに加工の手段とする。いずれにせよ人為的に巧みに作られた意とし、つくりもの、あるいはニセモノを意味する。

言 金文 音 金文
「言」「音」(金文)

論語の本章では”言葉”。初出は甲骨文。論語の時代では「音」と書き分けられない場合があったが、音はカールグレン説では「言」ŋi̯ănと「音」ʔi̯əmで異なり、諸家とも異音であることは一致している。

原義は『学研漢和大字典』は「辛(刃物)+口」で、不明瞭に言うのを音、明瞭に言うのを言だという。『字通』は「辛(入れ墨の刃物)+𠙵さい(祝禱のりとを収めた器)」で、言葉に偽りがあれば入れ墨刑を受けるという誓いだという。「音」は𠙵ではなく「曰」とする字体が多い。詳細は論語語釈「言」を参照。

令(レイ)

令 甲骨文 令 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「麗」と同じく”うるわしい”。初出は甲骨文。字形は「シュウ」”あつめる”+「セツ」”ひざまずいた人”で、原義は”命令(する)”。甲骨文では原義で、金文では”任命する”・”褒美を与える”・”寿命”の語義がある。ただし”美しい”の語義は、初出が前漢初期の『爾雅』で、論語の時代以前に確認できない。詳細は論語語釈「令」を参照。

色(ソク)

色 金文 色 字解
(金文)

論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。

鮮(セン)

鮮 金文 鮮魚
(金文)

論語の本章では”生臭い”。初出は西周早期の金文。字形は「羊」+「魚」。生肉と生魚のさま。原義はおそらく”新鮮な”。春秋末期までに、人名、氏族名、また”あざやか”の意に用いた。”すくない”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「鮮」を参照。

伝統的に”すくない”と解されてきたのは、後漢の説文解字に初出の「尟」”すくない”の字と同音だったためで、後漢儒がもったいを付けて”すくない”に「鮮」の字を当てはめただけであり、要するに幼稚な自己顕示欲である。現代人がまじめに付き合う理由は全くない。
儒者の捏造

後漢儒のこうした不真面目については、論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)…であるぞ”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 貴族
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

「巧言令色」は論語公冶長篇(24)にも見える。だが戦国時代の儒家はおろか、他学派も「巧言令色」を言っていない。再出は前漢の『説苑』臣術篇から。ここから論語の本章には、前漢時代に創作された疑いがある。その場合は「鮮」も”すくない”と解するのが正しく、全体の現代語訳は全く従来訳の通り。

論語の本章が学而篇と重複している事情については、武内義雄『論語之研究』(1939)によると次の通り。まず論語で最も古く成立したのは論語前半(いわゆる上論)の雍也篇~泰伯篇の元・河間七篇本で、その次が論語後半(下論)のうち先進篇~衛霊公篇、および子張篇~堯曰篇。

これを斉論語(古論語から派生した斉論語とは別)と言い、子貢派の手によるとする。その次に成立したのは斉魯二篇本で、論語学而篇と郷党篇(現伝論語の第十)であり、子貢派と曽子派・有若派の言葉が併記されていることから、孟子が斉に遊説してから後の成立とする。

そしてこの論語陽貨篇は、論語のうち上論の子罕篇、下論の季氏篇・微子篇、それに現伝論語の堯曰篇に含まれている子張問章を独立させた篇(子張問篇)と共に、後世の付加とし、最も新しいのは戦国末、あるいは秦漢まで成立が下るという。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21
学而 為政 里仁 八佾 公冶長 雍也 述而 泰伯 子罕 郷党 先進 顔淵 子路 憲問 衛霊公 季氏 陽貨 微子 子張 堯曰 子張問

これが現在、学界でもおおむね定説として受け入れられているようで、となると本章は学而篇の同一文の章よりもさらに後で、論語に加えられたことになる。ただ武内博士の研究はあまりに古く、定州竹簡論語の存在すら知られていなかった時代で、すでに価値を失っている。

だから重複の理由は知りようも無いし、学而篇より本章が新しいと言えるわけでもない。ただ言えるのは、学而篇の同一文は定州竹簡論語に無いのに対し、本章はあるという事実、そして2021年現在、最古の論語の版本は定州竹簡論語だ、ということだ。

定州竹簡論語は現代人による発掘の前に、すでに盗掘に遭って焼けていたばかりでなく、発掘後に研究所に暴れ込んだ紅衛兵どもが、一旦滅茶苦茶に壊したという事情もある。だから学而篇の同一文が無いことは、前漢の昔に無かったことを必ずしも意味しない。

中国人は本章の重複を、取り立てて意味は無いとしており、古注ではそもそも本章が含まれていない。『論語集釋』に引く江戸儒者の山井崑崙『七経孟子考文』に、「古本、足利本無此章」と記しているが、京大所蔵本の該当部分にはその記述が無い

清儒
これは『論語集釋』編者の程樹徳が勝手に書き加えたかは分からないが、うっかり中国人を信用するとだまされそうだ。元データに当たることの重要性を、今さらながらに思いもする。だから以下、『論語集釋』からの孫引きと断って、その訳を記しておく。

論語集釋
『読書叢録』にいう。唐石経では本章が元は刻まれていなかったが、後になって補注として刻み加えた。蔡邕が責任者となって刻んだ漢石経の陽貨篇には、おしまいに「全部で二十六章」と書いてある。

だが今流通している『論語集解』本には、本章が含まれている上で、全部で二十四章になっている。蔡邕の漢石経が「唯上知下愚」(論語陽貨篇3)章と、「謂伯魚曰」(論語陽貨篇10)章を、それぞれ独立の一章として扱うから、二章増えて「二十六章だ」というわけだ。

宋代初期の『太平御覧』巻三八八には、論語の陽貨篇を引用してこう言っている。「巧言令色、鮮矣仁」。つまり漢や魏の古い本には、全て本章が含まれていたのに、後の世の者が、削ってしまったのだ。

葉徳輝が日本の天文本『論語』に書き加えた校勘記では、「正平本(日本の南北朝時代に出版された古注本)には本章が無い」と書いている。

おそらく論語の本章の、元ネタは公冶長篇24であり、前漢前半までに作られたと見るべきだが、では一体誰が、何の目的で創作したかについては、論語公冶長篇24余話を参照。

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