論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子路問曰何如斯可謂之士矣子曰切切偲偲怡怡如也可謂士矣朋友切切偲偲兄弟怡怡
校訂
東洋文庫蔵清家本
子路問曰何如斯可謂之士矣子曰切〻偲〻怡〻如也可謂士矣朋友切〻偲〻兄弟怡〻如也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子路問a:「何如斯b謂之士矣?」子曰:「![]()
![]()
![]()
c,怡怡如也,可359……矣。倗d友![]()
![]()
![]()
,兄弟飴飴e。」360
- 今本問下有”曰”字。
- 今本斯下有”可”字。



、今本作”切切偲偲”。下同。- 倗、今本作”朋”。『説文』段注、”蓋朋黨字正作’朋’、而’朋’字其假借字。
- 飴飴、今本作”怡怡”。音同通假。
標点文
子路問、「何如斯謂之士矣。」子曰、「![]()
![]()
![]()
、怡怡如也、可謂士矣。倗友![]()
![]()
![]()
、兄弟飴飴如也。」
復元白文(論語時代での表記)





















飴飴
※「
」→「丰」・「
」→「辛」・「怡」→「〔㠯以心〕」。論語の本章は、「飴」の字が論語の時代に存在しない。
書き下し
子路問ふ、何如ならば斯之を士と謂ふ矣。子曰く、![]()
![]()
![]()
怡怡如る也、士と謂ふ可き矣。倗友には![]()
![]()
![]()
、兄弟には飴飴如れ也。
論語:現代日本語訳
逐語訳

子路が問うて言った。「どのような境地が士族にふさわしいと言いますか。」先生が言った。「相手を思いやる言葉、身を切るような誠実な言葉を語り、穏やかでにこやかなさまでいる者を、士族と言っていい。友人には思いやりと誠実を、兄弟には飴のように甘やかであれよ。」
意訳

子路「どんな者がサムライでしょう。」
孔子「心豊かに相手を思いやり、しかも言うべき事実は忠告し、されど笑顔を絶やさない者だろうな。どうもお前はいかつ過ぎる。友人に忠告してやるにも、思いやりを忘れぬように。そして兄弟は飴のように、甘やかしてやりなさいよ。」
従来訳
子路がたずねた。――
「どういう人物を士というのでございましょう。」
先師がこたえられた。――
「こまやかな情愛、かゆいところに手のとどくような親切心、春風のようにやわらかで温かい物ごし、そうしたものが士にはそなわっていなければならない。とりわけ朋友に対しては情をこまやかにして、懇切に交るがいいし、兄弟に対しては顔色をやわらげることに気をつけるがいい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子路問:「怎樣才算真正的士呢?」孔子說:「相互鼓勵、相互批評、和睦相處,可算士了。朋友間相互鼓勵、相互批評,兄弟間和睦相處。」
子路が問うた。「どうすれば、何とかまことの士族に数えられるのでしょう?」孔子が言った。「互いに励まし、批評し、仲良くすれば、士族に数えられる。友人の間では互いに励まし、批評し、兄弟の間では互いに仲良くせよ。」
論語:語釈
子路(シロ)

記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。

(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵“=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
問(ブン)

(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
何如(いかなる)

論語の本章では”どうであれば”。「何」が「如」=”そのようである”か、の意。対して「如何」は”どうしましょう”・”どうして”。
- 「何・如」→何が従っているか→”どう(なっている)でしょう”
- 「如・何」→従うべきは何か→”どうしましょう”・”どうして”。
「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。

「何」(甲骨文)
「何」は論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”…のような(もの)”。または単独で”あるいは”。これらの語義は春秋時代では確認できない。
“あるいは”の語義は前回の「率」と同様、前漢儒者のやらかしたハッタリで、本章を古くさく見せるため、「與」ȵi̯o(平)”~と”→”あるいは”と書くべきところ、音の近い「如」zi̯o(上)を引っ張ってきて、無理やり”~と”という語義をこしらえた。こんな読み方は、後世の猿真似を除けば、やはり前漢儒者がでっち上げた『儀礼』の「公如大夫」ぐらいしかない。
字の初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
斯(シ)

(金文)
論語の本章では「きは」と訓読して”そのような状態”。単数で取り挙げられるものを指す語ではなく、複数のものや、数に数えられない状況や状態を指す。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
謂(イ)

(金文)
論語の本章では”…であると評価する”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
之(シ)

(甲骨文)
論語の本章では”これ”・”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
士(シ)

(金文)
論語の本章では、”士族”。もとは最下級の貴族で、現代で言う下士官に当たる。春秋時代は都市の商工民であることが多い。初出は西周早期の金文。「王」と字源を同じくする字で、斧を持った者=戦士を意味する。字形は斧の象形。春秋までの金文では”男性”を意味した。藤堂説では男の陰●の突きたったさまを描いたもので、牡(おす)の字の右側にも含まれる。成人して自立するおとこ、という。詳細は論語語釈「士」・論語解説「論語解説春秋時代の身分秩序」を参照。
歴史用語での「士」は、周王朝下での身分制度の一層をなす階層で、周王ー卿ー大夫ー士ー庶民ー奴隷と並ぶうち、最下層の貴族を言った(→春秋時代の身分秩序)。しかし孔子はここに新しい意味を加えた。論語での士とは、生まれによるものではなく、孔子塾で教養と技能と人格を磨けば、どの階層出身であろうとその中に加われる集団を指した。
孔子の政治論の一端を形作る言葉で、貴族でありながら無知無教養かつ粗暴で強欲な者が少なくない中、あるいはそれが乱世になった原因と孔子は見て、人格高潔で有能な士が政治や行政に携わることで、乱世を鎮めようと考えたかも知れない。
似た言葉に論語には「君子」があるが(→論語における君子)、君子が発言の場面によってさまざまな意味を持つのと裏腹に、「士」はここで説明したような人材をいい、あまり意味にブレがない。人の不幸を見捨てられず、その解決の力があることから、訳者は好んで「サムライ」と訳すが、武士にもさまざまいたことを念頭に置いて、あえてカタカナを用いている。
矣(イ)

(金文)
論語の本章では、”きっと~する”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
切(セツ)→
(ホウ?)
論語の本章では”切実に心のこもった”。現存最古の論語本である定州竹簡論語は「
」と記し、唐石経・清家本は「切」と記す。時系列に従い「切」→「
」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

(前漢隷書)
「切」の現行字体の初出は前漢の隷書。それ以前は「七」と書き分けられなかった。「七」の初出は甲骨文。ただし春秋末期までに”切る”と解せる「七」は無く、論語時代の置換候補は存在しない。同音は無し。字形は「七」たてよこに刻んだ切り目+「刀」。原義は”切る”。詳細は論語語釈「切」を参照。

定州竹簡論語の「
」は『大漢和辞典』にも記載が無い。従って初出不明。論語時代の置換候補は部品の「丰」。
つくりはおそらく「丰+心」で、「丰」は『学研漢和大字典』に「散乱した草」というが、これは別字「丯」の語義。『字通』に「草木のさかんに茂るさま」と言い、「金文の字形は、禾の穂が高く伸びる形に作る」という。現代中国語では「豊」の簡体字として用いる。従って「
」は、心豊かに言う言葉、心のこもった言葉と解せる。
音については、会意・形声ともに旁が優先するのが通常だから、「丰」または「心」いずれかと思われる。いずれであるかは、被修飾部より修飾部が優先されるのが通常だから、「ホウ」と思われる。
偲(シ)→
(シン)
論語の本章では”真心の言葉”。定州竹簡論語では「
」と記し、唐石経・清家本では「偲」と記す。時系列に従い「偲」→「
」へと校訂した。

「偲」(篆書)
「偲」は論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。字形は〔亻〕+音符〔思〕。原義不明。カールグレン上古音はtsʰəɡ(平)。同音に「采」”採る”、「採」、「菜」(菜)。先秦両漢でのよう例は、論語の本章のほか、『詩経』盧令に「盧重鋂、其人美且偲」とあり、『大漢和辞典』によれば語義について様々な説があって一定しない。先秦両漢の文献ではあとは『説文解字』のみで、”つよい”と解している。詳細は論語語釈「偲」を参照。

定州竹簡論語の「
」はunicodeではつくりが〔幸〕”言う・正しい”と統合されて「䛭」と混同されているが、本来のつくりは〔辛〕。『大漢和辞典』によると語義未詳で、明代の『篇海類編』を引いて「音信」とあるから、論語を読むにはあまり当てにならない。「信」のカールグレン上古音はsi̯ĕn(去)。
「辛」のカールグレン上古音はsi̯ĕn(平)。「辛」の語義は『学研漢和大字典』では「鋭い刃物でぴりっと刺すこと」と言い、『字通』では「把手のある大きな直針の形。これを入墨の器として用いる」と言うが、「宰」の字のように、必ずしも入れ墨の針ばかりを意味せず、鋭い刃物一般と解せる。
「辛辣」とは”刺すような(厳しい批評)”を意味するが、患部を取り去り鍼療治を行うのもまた「辛」であり、「
」は”うそいつわりや飾りのない、まことの言葉”と解せる。従って論語時代の置換候補は部品の「辛」。
怡(イ)→飴(イ)
論語の本章では「怡」”にこやか”、「飴」”甘い”→”思いやりあるさま”。定州本は初回の部分を「怡」と記し、二回目を「飴」と記す。時系列に従い、二回目のみ「飴」へと校訂した。

「〔辛㠯心〕」(金文)
「怡」の初出は春秋中期の金文に部品として見える。独立した用例は春秋末期にあるが、字形が確認できない。字形は〔忄〕”こころ”+〔㠯〕”農具のスキ”。字形の由来と原義は明らかでない。同音は「飴」、「貽」”おくる”、「詒」”あざむく・おくる”、「台」、「佁」”おろか・とどおおる・いたる”。春秋末期までに、人名に用いた。「台」に”よろこぶ”の語釈があり、初出は殷代末期の金文だが、その語義を春秋末期までに確認出来ない。詳細は論語語釈「怡」を参照。

「飴」(前漢隷書)
「飴」の事実上の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は〔食〕+音符〔台〕で、原義は判然としない。”あめ”の意が明瞭になるのは、後漢の『説文解字』から。”糖化した穀物を煮詰めたもの”という。詳細は論語語釈「飴」を参照。
切切偲偲、怡怡如
「如」は”そのような状態”であり、切切・偲偲・怡怡などが擬態語だから、それを名詞化する働きがある。論語の本章では主部を形成することから、読み下して「たり」の連体形「たる」とした。
武内本には、「切切は勸競の貌、偲偲は又愢愢に作る、讓順の貌、怡怡は煕煕と同義、和協の貌」とあるが、勸競という語は大漢和にも載っていない。漢語網でも検索できない。ネットで検索すると以下が出る。
劉氏=清儒・劉宝楠の『論語正義』を、訳者はほとんど参照してこなかった。今回はやむなく真に受けて古注『論語集解義疏』を参照したが、鄭玄はこんな注を付けていない。しかしこれが正しいとすると、切責=”厳しく叱る”こと。「朋友切切偲偲」と本文にあるから、友人を厳しくとがめること。これは上記の「![]()
」と一致する。
今回に限っては、清儒の「考証」も当たっており、彼らが知るよしもなかった、定州竹簡論語というブツの裏付けがあることになる。
也(ヤ)
定州本は章末の「如也」を欠き、欠いたまま章を終える物証がない。おそらく簡を欠損している。唐石経は「如也」を記さない。清家本は「如也」を記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。従って章末に「如也」があるものとして校訂した。

(金文)
論語の本章、「怡怡如也」では、「や」と読んで主格の強調。”~こそは”。章末では「や」と呼んで詠嘆。”~せよ”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
可(カ)

(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
朋(ホウ)→倗(ホウ)
論語の本章では”友人”。「朋友」で”友人・仲間”を意味する。定州本は「倗」と記し、唐石経・清家本は「朋」と記す。時系列に従い「倗」へと校訂した。

「朋」(甲骨文)
「朋」の初出は甲骨文。字形はヒモで貫いたタカラガイなどの貴重品をぶら下げたさまで、原義は単位の”一差し”。春秋末期までに原義と”朋友”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「朋」を参照。

「倗」(甲骨文)
「倗」の初出は甲骨文。字形は〔朋〕”二連のタカラガイ”+〔人〕。宝物を与えるさまか。上古音は部品の「朋」と同じ。甲骨文では動物の助数詞と思われる用例があり、西周の金文では人名のほか、”仲間”の意に用いた。詳細は論語語釈「倗」を参照。
友(ユウ)

(甲骨文)
論語の本章では”友人”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。
兄弟(ケイテイ)

(甲骨文)
論語の本章では”きょうだい”。
「兄」の初出は甲骨文。「キョウ」は呉音。甲骨文の字形は「口」+「人」。原義は”口で指図する者”。甲骨文で”年長者”、金文では”賜う”の意があった。詳細は論語語釈「兄」を参照。
「弟」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形の真ん中の棒はカマ状のほこ=「戈」で、靴紐を編むのには順序があるように、「戈」を柄に取り付けるには紐を順序よく巻いていくので、順番→兄弟の意になったとされる。西周末期の金文で、兄弟の”おとうと”の意に用いている。詳細は論語語釈「弟」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、文字史上で春秋時代に遡れず、また似たような問答が質問者を子張に換えて論語顔淵篇20に、また子貢に換えて論語子路篇20にある。弟子揃って「士」を目指す孔子塾で、違う弟子が同じ質問をするのはおかしくないが、文字の不在はどうにもならず、後世の創作と断じるしかない。
解説
論語の本章で、子路がこのような柔和な態度で友人や兄弟に接するよう諭された背景には、後世の儒者によって子路が孔門きっての武闘派にされてしまった事情がある。
孔子北遊於農山,子路、子貢、顏淵侍側。孔子四望,喟然而歎曰:「於思致斯,無所不至矣!二三子各言爾志,吾將擇焉。」子路進曰:「由願得白羽若月,赤羽若日,鐘鼓之音,上震於天,旍旗繽紛,下蟠於地;由當一隊而敵之,必也攘地千里,搴旗執馘,唯由能之,使二子者從我焉!」夫子曰:「勇哉!」

孔子が北の農山へ山遊びに行き、子路、子貢、顔淵がお供をした。山上から孔子が四方を眺めて、感動のあまり長くため息をついて言った。「こんな所でものを考えれば、想像力に限りはあるまい。どうかね君たち、それぞれの思うところを言ってみなさい。知恵比べをしよう。」
子路が進み出て言った。「私の願いは戦場です。月のように白く、太陽のように赤い羽根飾りをかぶとに付け、軍楽が天に轟き、軍旗が所狭しと大地にはためく戦場で、私は一隊を率いて敵を迎え撃ち、必ず千里を進撃して、敵の軍旗をぶんどり、首を取りましょう。これは私だけが出来ることです。子貢と顔淵は使い走りにしましょう。」
先生が言った。「勇ましいことだな。」(『孔子家語』致思1)
子路が後世の儒者によって、このように戯画化されているような筋肉ダルマではなかったことはもちろんで、その証拠に孔子より一世紀後の孟子は子路を軍人ではなく、政治家向きと評している(孔門十哲の謎)。また子路は弟弟子を可愛がるいい兄者だったとする論語先進篇24もあるが、残念ながら後世の創作が疑われる。
ともあれ一門の目指す貴族の理想型である仁は、顔淵を除き孔子も弟子も仁者と論語に書いていないが、ひょっとすると孔子は、子路が一番近いと思っていた可能性がある。それを示すのが論語の前章で、身体頑健で荒削りで飾り気が無く猪突猛進なのは、まさに子路と言っていい。
しかしそれゆえに、子路は衛国の内乱の渦中に猛進して命を落とした(『史記』衛世家)。顔淵の死と異なり、子路の死を嘆く記述は論語に少ないが(論語子罕篇27など)、子路は孔子の最初の弟子で、最も付き合いが長いから、受けた打撃は顔回と変わらなかっただろう。
余話
(思案中)




コメント
九去堂先生の解説は微に入り細に入って、本当に分かり易く有り難いです。意訳が面白いし、従来訳があるのも親切ですね。