論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰飯䟽食飲水曲肱而枕之樂亦在其中矣不義而富且貴於我如浮雲
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰飯蔬食飲水曲肱而枕之樂亦在其中矣/不義而冨且貴於我如浮雲
- 「蔬」字:〔艹〕→〔十十〕。〔𤴔〕→〔𧾷〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……枕之,樂亦[在其中矣。不]155……[富且]貴,於我如浮云。156
標点文
子曰、「飯蔬食、飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮云。」
復元白文(論語時代での表記)
蔬
※枕→冘(甲骨文)・富→(甲骨文)。論語の本章は蔬の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、蔬き食を飯ひ、水を飮み、肱を曲げ而之に枕す、樂亦其の中に在る矣。義しから不し而富み且つ貴きは、我に於て浮き云の如し。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「質素だが十分な食事を食べ、水を飲み、腕を曲げて枕にする。楽しみはまたそのような所にもきっとある。正しくない方法で富んで地位が高いのは、私にとって浮き雲のようなものだ。」
意訳
最低限の粗衣粗食に肘枕でごろ寝。それもまた楽し。悪事を働いて財産と地位を得ても、浮き雲のようにはかないものだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯でも、その中に楽みはあるものだ。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「吃粗糧、喝白水、彎著胳膊當枕頭,樂也在其中了!缺少仁義的富貴,對我來說,就象天上的浮雲。」
孔子が言った。「粗末な穀物を食べ、ただの水を飲み、肱を曲げて枕にあてがう。楽しみはその中にもある!仁義を欠いた富や地位は、私に言わせれば、空に浮かぶ雲のようなものだ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
飯(ハン)
(金文)
論語の本章では”十分なめし”→”十分に食う”。初出は春秋末期の金文。字形は「食」+「反」。「反」は字形は「厂」”差し金”+「又」”手”で、工作を加えるさま。ここでは音符で、同音に「蕃」、近音に「繁」があるように、”さかんな”・”たっぷりとした”の語意があるらしい。全体として、”十分な食事”。春秋末期の金文に、”十分なめしを捧げる”の用例がある。詳細は論語語釈「飯」を参照。
疏(ソ)→蔬(ソ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”質素な”。この文字の初出は楚系戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「疋」”足”+「㐬」”吹き流し”。「疋」は音符。戦国の竹簡での語義はよく分からない。原義は”通じる”の意とも言われるが不明。詳細は論語語釈「疏」を参照。
疏の異体字「疎」が琵琶湖疎水と言うように、『大漢和辞典』の第一義は”通る”。論語の本章では「粗」と音が通じて転用されている。
清家本など日本伝来の古注は「蔬」と記す。定州竹簡論語はこの部分が欠損している。中国伝来の唐石経、唐石経の系統を引く宮内庁蔵南宋本『論語注疏』は「疏」の異体字「䟽」と記す。古注は隋末に日本に伝わり、唐石経より古い文字列を伝えている。従って校訂して「蔬」に改めた。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「蔬」(篆書)
「蔬」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「艹」+「疏」”荒い”・”粗末な”。質素な植物性の食品を言う。詳細は論語語釈「蔬」を参照。
食(ショク)
(甲骨文)
論語の本章では”食べもの”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「亼」+点二つ”ほかほか”+「豆」”たかつき”で、食器に盛った炊きたてのめし。甲骨文・金文には”ほかほか”を欠くものがある。「亼」は穀物をあつめたさまとも、開いた口とも、食器の蓋とも解せる。原義は”たべもの”・”たべる”。詳細は論語語釈「食」を参照。
飮(イン)
(甲骨文)
論語の本章では”飲む”。初出は甲骨文。新字体は「飲」。初出は甲骨文。字形は「酉」”さかがめ”+「人」で、人が酒を飲むさま。原義は”飲む”。甲骨文から戦国の竹簡に至るまで、原義で用いられた。詳細は論語語釈「飲」を参照。
食事と共に摂る飲料として、酒は論語でも確認できるが、茶ははっきりしない。唐の陸羽が書いた『茶経』には、「檟」の字で論語時代にも茶があったとするが、異論がある。茶の字そのものは甲骨文から確認できるが、苦菜を意味する。しかし、当時から茶のような飲料があったことは想像に難くない。
水(スイ)
(甲骨文)
論語の本章では”水”。初出は甲骨文。字形は川の象形。原義は”川”。甲骨文では”みず”、祭礼名、”水平にする”の意に用い、金文では原義で(同簋・西周中期)、求める(沈子簋・西周早期)の意に用いた。詳細は論語語釈「水」を参照。
曲(キョク)
(甲骨文)
論語の本章では”曲げる”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は曲げた肘の象形。甲骨文の用例は判読しがたいが、春秋末期までに”部分”の意、職名に用いた。ただし字形から、”曲げる”・”曲がる”の意はもともとあったと想像できる。詳細は論語語釈「曲」を参照。
肱(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”ひじ”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。ただし字形はつくりのみの「厷」。字形は「又」”腕”+「○」”関節”。にくづきが付けられたのは後漢の『説文解字』から。甲骨文から”ひじ”の意に、また西周末期の金文から”うで”の意に用いた。詳細は論語語釈「肱」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…であって同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
枕(シン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”まくら”。論語では本章のみに登場。「チン」は慣用音。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「冘」。現伝字形は「木」+「冘」”まくら”で、木製のまくら。同音は存在しない。部品の「冘」は音も示し、現在では”大勢でゆく”の意。ただし甲骨文のみで金文の出土が無い。詳細は論語語釈「枕」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
樂(ラク)
(甲骨文)
論語の本章では”楽しみ”。初出は甲骨文。新字体は「楽」。原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”…にも”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”存在する”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
中(チュウ)
「中」(甲骨文)
論語の本章では”…の中”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”~である”。断定の意。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
義(ギ)
(甲骨文)
論語の本章では”正しいやり方”。初出は甲骨文。字形は「羊」+「我」”ノコギリ状のほこ”で、原義は儀式に用いられた、先端に羊の角を付けた武器。春秋時代では、”格好のよい様”・”よい”を意味した。詳細は論語語釈「義」を参照。
富(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”財産”。「フ」は呉音。初出は甲骨文。字形は「冖」+「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。
且(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”その上”。初出は甲骨文。字形は文字を刻んだ位牌。甲骨文・金文では”祖先”、戦国の竹簡で「俎」”まな板”、戦国末期の石刻文になって”かつ”を意味したが、春秋の金文に”かつ”と解しうる用例がある。詳細は論語語釈「且」を参照。
貴(キ)
(金文)/(晋系戦国文字)
論語の本章では”高い地位”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周の金文。現行字体の初出は晋系戦国文字。金文の字形は「貝」を欠いた「𠀐」で、「𦥑」”両手”+中央に●のある縦線。両手で貴重品を扱う様。おそらくひもに通した青銅か、タカラガイのたぐいだろう。”とうとい”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「貴」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…にとって”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”~のようだ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
浮(フウ)
(金文)
論語の本章では”浮かんだ”。初出は春秋時代の金文。「フ」は慣用音。呉音は「ブ」。字形は「氵」+「孚」”子供を捕まえたさま”で、「孚」はおそらく音符で意味が無い。原義は”浮かぶ”。金文では氏族名に用いた。詳細は論語語釈「浮」を参照。
雲(ウン)→云(ウン)
(甲骨文)
論語の本章では”雲”。「雲」の字は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。ただし字形は「云」。字形は頂上に平らな雲を載せた積乱雲の象形。「雨」を伴うようになったのは楚系戦国文字から。「云」が音を借りて”言う”を意味するようになったため分離した。詳細は論語語釈「雲」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語の「云」の初出は甲骨文。字形は「一」+”うずまき”で、かなとこ雲(積乱雲)の象形。甲骨文では原義の”雲”に用いた。金文では語義のない助辞としての用例がある。”いう”の語義はいつ現れたか分からないが、分化した「雲」の字形が現れるのが楚系戦国文字からであることから、戦国時代とみるのが妥当だが、殷末の金文に”言う”と解せなくもない用例がある。詳細は論語語釈「云」を参照。
ちなみに江戸の大久保彦左衛門は、『三河物語』で自分の不運を憤っているが、不運を「浮雲」と書いたらしい。原書を見ていないので断定しかねるが、彦左衛門の人物像をいっそう面白くしていると思う。
論語:付記
検証
論語の本章、「飯疏食飲水,曲肱而枕之」部分は春秋戦国を含む先秦両漢に引用がなく、「樂亦在其中矣」は後漢初期の『白虎通義』に「孔子有言」として、「不義而富且貴,於我如浮雲」は前漢中期の『史記』范睢蔡沢伝に「聖人曰」として引用。
”粗食に肘枕”は道家的雰囲気がして孔子らしくないし、孔子は政治家として春秋諸国で「不義」を働いて「富且貴」を追求した。内容的にも孔子の発言らしくない。
前漢帝室は、当初道家を信奉した。文帝の妃で景帝の母だった竇太后は、武帝の幼少期に帝室の長として君臨した(論語郷党篇は「愚かしい」のか#前漢の儒者)。
その祖母に武帝はさんざんいじられたらしい。そのトラウマから儒教に入れ上げることになったが、入れ上げやすいように儒家も帝室に迎合した(論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」)。論語に見られる道家的要素はその結果で、史実の孔子とは関係が無い。
解説
孔子の生涯は財産の点で山あり谷ありだったようで、弟子の原憲にポンと年俸四十人分を出したこともあれば(論語雍也篇5)、最晩年に一人息子の鯉が先立った時に、棺を覆う外箱が買えないほどだったこともある(論語先進篇7)。
だから無欲恬淡な人だったとするのも間違いなら、貧乏生活を嫌ったというのも間違いで、環境がどうあろうと比較的自由自在に過ごせたようだ。
なお吉川本では「疏食」について古注・新注を引き、古注では菜食のことだと解するとする。また清代の考証学では、論語時代上等とされたアワめし・キビめしではなく、粗末なコウリャンめしのことだとするという。いずれも個人的感想で、話半分に聞いておいた方がいい。
と言うのも、コウリャン(モロコシ)は小麦と並んでナイアシン豊富な穀物で、現在でこそ中国の主要な穀物生産品になっているが、原産は熱帯アフリカで、栽培が中国で始まったのは950年ごろと言う。つまり論語よりも約15世紀後、宋帝国が始まる直前になるからだ。
論語の本章、新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
…註孔安國曰蔬食菜食也肱臂也孔子以此為樂也…註鄭𤣥曰富貴而不以義者於我如浮雲非已之有也
注釈。孔安国「蔬食とは菜食のことである。肱はひじである。孔子はこうした生活を楽しいと言ったのである。」
…注釈。鄭玄「富み栄えるのにまっとうなやり方をしないのは、自分にとって空に浮かんだ雲のようなもので、自分のものではないということである。」
新注『論語集注』
飯,符晚反。食,音嗣。枕,去聲。樂,音洛。飯,食之也。疏食,麤飯也。聖人之心,渾然天理,雖處困極,而樂亦無不在焉。其視不義之富貴,如浮雲之無有,漠然無所動於其中也。程子曰:「非樂疏食飲水也,雖疏食飲水,不能改其樂也。不義之富貴,視之輕如浮雲然。」又曰:「須知所樂者何事。」
飯の字は、符-晚の反切に読む。食の字は嗣の音で読む。枕の字は尻下がりに読む。楽の字は、洛の音で読む。飯とは、食うことである。疏食とは、粗末な食事のことである。聖人の心は、宇宙の原理と一体化しており、生活に追い詰められることがあっても、それを楽しんで苦しがらない。後ろ暗いやり方で富み栄えた者を見て、空に浮かんだ雲のあるなしと同じと捉え、ぜんぜんうらやましいと思わなかった。
程頤「粗末な食事と水だけの生活を楽しんだのではない。そういう境遇でも、生活を楽しむのを止めなかっただけだ。後ろ暗いやり方で成功した者を、地に足が付かない、空に浮かんだ雲同然だと言った。」「だから何を楽しんでいたのか、勘違いしてはならない。」
亡命中の孔子が、まっとうでない後ろ暗いやり方で栄えようとしていたことは、最初の亡命先だった衛国を乗っ取ろうとした事から始まる(論語憲問篇20)。それだけでなく、孔子とすれ違うように春秋末戦国初期の時代を生きた墨子も別の例を証言している。
(斉の景公が孔子を気に入り、官職をあてがおうとしていたのを、宰相の晏嬰が「馬鹿げています」といって止めた。)
孔子はみるみる不機嫌になって、景公と晏子を怨んで、皮袋*を家老の田常の屋敷の門にぶら下げ、南郭恵子に「用事がある」と言って魯に帰ってしまった。
しばらくして斉が魯を攻撃しようとすると、孔子は子貢に言った。「子貢よ、名を挙げるのはこの時だぞ!」そして子貢を斉に行かせた。
子貢は南郭恵子のつてで田常に会い、呉を伐つように勧め、斉国門閥の高・国・鮑・晏氏が、田常が起こそうとしていた乱の邪魔を出来なくさせ、越に勧めて呉を伐たせた。三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。(『墨子』非儒下)
*皮袋:死刑囚を皮袋に詰めて川に放り込む習慣があり、イヤガラセの一つ。『字通』法条を参照。
余話
リーチ一発ツモどらどら
孔子の生きた春秋時代はそうでもなかったが、中国社会は身分的流動が活発だった。安能務の表現を借りれば、中国は一つの大きな劇場で、大多数の人民が観客席に陣取り、楽屋に住まう皇幇(帝室)と士幇(役人)の者が舞台に出てきて、天への奉納芝居を演じる。
だが天は気まぐれで、誰かがツモった麻雀同様、時折牌=劇場に居る者全てをジャラジャラと洗牌(混ぜる)してしまう。その過程で大勢の者が死ぬが、社会の底辺で食うや食わずだった者が浮き上がったりもする。歴代王朝の創業者は、そうやって至尊の皇帝になりおおせた。
なりおおせても社会の流動性は失われない。腕に覚えのある男は天下の大将軍を目指す。おつむに自信のある男は、数次にわたる難関試験を突破して士幇の仲間入りをする。美女を娘に持った親や美女自身は、皇帝の後宮に入れ・入ることで皇幇の仲間入りを果たす。
だが三者ともそこがゴールでは決してない。まず勝敗は兵家の常、敵に負ければ戦死か刑死。
士幇は互いに足を引っ張り蹴落として、競争者を脱落させる。そうかと思えば互いにつるんで、仲間内で権力を独占しようと図る。後宮の美女は俗に三千人という美女同士の猛烈な競争に参加し、みごと次期皇帝を産めば当人と実家=外戚の栄耀栄華は思うがままだ。
帝室に生まれた男でも、皇帝になれるかは運次第で、天寿を全うできる保証がそもそもない。後宮の女同士の争いは、身ごもった女をよってたかっていびるのを通例とし、無事出産できることすら幸運の範疇だ。時には生母自身が自分の都合で、我が子を殺したりもする。
この競争の過程で、多くの者が命を落としたり、尾羽打ち枯らして観客席に戻る。舞台から下る者の数だけは常に上る者がいるから、社会の流動性は失われないままだ。次なる天の気まぐれまで、こうやって中華王朝は命脈を保つ。王朝すらも運次第で生き延びている。
ならば個人の人生も、運次第ではないか。孔子でさえそう思ったのが、論語の本章である。あるいは後世の儒者が、孔子に自分の深いため息を言わせた。後世というゆえんは、この流動性は帝政期ならではの現象で、孔子や同時代人は誰一人、帝国を想定しなかったからだ。
帝政ゆえに流動性がある。今も事実上の帝政だ。中国はやはり世界史の例外である。
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