論語詳解497B堯曰篇第二十(2)曰くわれ小子履*

論語堯曰篇(2)要約:架空の夏殷革命を伝えるつもりの一節。戦いを前に殷の開祖・湯王が、天地の神に誓い、祈ります。暴君桀王は許しません。善良な民の行いを隠しません。民に罪があっても無くても、私一人を罰して下さい、と。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

曰、「予小子履、敢用玄牡、敢昭吿于皇皇后帝。有罪不敢赦、帝臣不蔽、簡在帝心。朕躬有罪、無以萬*方。萬*方有罪、罪*在朕躬。」

校訂

武内本

唐石経万を萬に作り、在上罪の字あり。

定州竹簡論語

……[四海困窮,天祿永終。「舜亦以命禹。曰:「予小子履敢用]598……罪,毋a以萬方;萬方有罪,罪b在朕[躬。」周有泰來,善人是富。「雖有]599……

  1. 毋、今本作”無”、漢石經作”毋”。
  2. 罪、漢石經、皇本、高麗本無此”罪”字。

→曰、「予小子履、敢用玄牡、敢昭吿于皇皇后帝。有罪不敢赦、帝臣不蔽、簡在帝心。朕躬有罪、毋以萬方。萬方有罪、罪在朕躬。」

復元白文(論語時代での表記)

曰 金文 余 金文小 金文子 金文履 金文 敢 金文用 金文玄 金文牡 金文 敢 金文告 金文于 金文皇 金文皇 金文后 金文帝 金文 有 金文非 金文不 金文敢 金文 帝 金文臣 金文不 金文敝 金文 在 金文帝 金文心 金文 朕 金文身 金文有 金文非 金文 無 金文㠯 以 金文萬 万 金文方 金文 萬 万 金文方 金文有 金文非 金文 非 金文在 金文朕 金文身 金文

※予→余・昭→章・罪→非・蔽→敝・躬→身。論語の本章は、赤字に甲骨文が存在せず、甲骨文に遡る置換候補も無い。

「昭」の初出は戦国文字で、論語の時代なら「章」で置換できるが、殷代には通用しない。同様に「赦」の初出は西周中期の金文、「簡」の初出は西周末期金文。本章は戦国時代以降の儒者による捏造である。

書き下し

いはく、われ小子履せうしりあへくろをうしもちゐて、あへあきらか皇皇くわうくわうたる后帝こうていぐ。つみるはあへゆるさず、かみしもべかくさず、えらぶことかみこころり。つみらば、よろかたもつてすることかれ。よろかたつみらば、つみれ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

(殷の湯王が)言った。「我が輩、小せがれの履は、あえて黒い牛を犠牲に捧げて、おそれながらも明らかに、輝かしい天地の神に申し上げる。罪ある者は意図的に許さず、神のしもべは隠さず、選択は天の神の心のままになさいませ。我が輩に罪があるなら、天下万民に罰を与えることの無いように。天下万民に罪があるなら、その罪を我が輩の身に引き受けるように。」

意訳

書経図説 昭告上天図
湯王「我が輩は、かしこみかしこみ、あえて黒牛をお供えに捧げて、輝かしき天地の神々に、思うところを隠さずに申し上げます。こんなにひどいことをした暴君ケツ王は、決して許しませぬ。しかしその臣民は、みな天の神のしもべでありますから、そのうち善なる者は、そのよい行いを隠さず顕彰致します。されども何がいいか悪いかは、天の神のみ心次第です。我が輩の判断が裏目に出ても、怨み申し上げは致しませぬ。ゆえに我が輩に罪があれば、我が輩を罰して民に罰が下りませぬように。民に罪があっても、我が輩を罰して民に罰が下りませぬように。」

従来訳

論語 下村湖人

夏は桀王にいたって無道であったため、殷の湯王がこれを伐ち、天命をうけて天子となったが、その時、湯王は天帝に告げていわれた。
「小さき者、履り、つつしんで黒き牡牛をいけにえにして、敢て至高至大なる天帝にことあげいたします。私はみ旨を奉じ万民の苦悩を救わんがために、天帝に罪を得た者を誅しました。天帝のみ心に叶う臣下はすべてその徳が蔽われないよう致したいと思います。私は天帝のみ心のまにまに私の進むべき道を選ぶのみであります。」
更に諸侯に告げていわれた。――
「もしわが身に罪あらば、それはわれひとりの罪であって、万民の罪ではない。もし万民に罪あらば、それは万民の罪でなくて、われひとりの罪である。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

商湯說:「至高無上的上帝啊,你在人間的兒子–我–謹用黑牛來祭祀您,向您禱告:有罪的人我絕不敢赦免。一切善惡,我都不敢隱瞞,您無所不知,自然心中有數。如果我有罪,請不要牽連天下百姓;如果百姓有罪,罪都應歸結到我身上。」

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殷の湯王が言った。「いとも尊貴無比なる天の神よ、あなたの下界での子である私は、謹んで黒牛を捧げてあなたを供養し奉る。あなたに申し上げる。罪のある者は絶対に容赦しようともしない。一切の善悪は、私は隠そうともしない。あなたは全てを知っているから、自ずからお考えがあるだろう。もし私に罪があるなら、どうか天下の人民を巻き添えにしないように。もし人民に罪があるなら、その罪は全て私の身にかぶせるように。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

曰 字解

論語の本章では”言った”。論語のこの部分は、主語が記されていないが、「予小子履」から殷の湯王だとされる。辞書的には論語語釈「曰」を参照。

定州竹簡論語では、前回から続けて書いているのだが、あえて主語を記さないことでもったいを付け、読む者聞く者にハッタリを掛けている。神主が地鎮祭で「ほにゃらほにゃら」と分けの分からぬ事を言い、土建屋のお偉いさんが東大出の技師上がりだろうと、鹿爪らしく聞き入っているふりをしているのと同じ。

君子重からざらば

論語の本章では偉そうな自称である”我が輩”。初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。同音に、野などで、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいう。「豫」は本来別の字。詳細は論語語釈「予」を参照。

予小子履

論語 履 金文 論語 殷湯王
「履」(金文)

論語の本章では、”我が輩小せがれの履め”という、天の神に対する殷の湯王のへりくだった自称。”我が輩”と”小せがれ”の意味が合わないが、「予」を持ち上げなければならない立場の者によるでっち上げで、細かいところまで細工が行き届いていない。

湯王は殷の開祖とされる。しかし甲骨文などの出土資料では、殷の開祖は唐・成・大乙などと呼ばれており、「履」は後世になってからの呼び名。

『孟子』では、「履」を人名として用いていない。『荀子』でも、「履」を人名として用いていない。前漢の『礼記』『説苑』では、すべて”踏む”か”履き物”。董仲舒の『春秋繁露』も同様で、易の符丁として意味不明の「履」を書き足すのみ。

『史記』夏本紀には「帝發崩,子帝履癸立,是為桀。」とあって、伝説の暴君で夏を滅ぼした桀王の名とする。斉太公世家では、管仲の楚王に対する言葉として、「賜我先君履,東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣。」とあって、斉の開祖太公望の名が「履」であることをほのめかしている。

結局「履」を殷の開祖湯王の名だと言い出したのは、儒家では実在すら怪しい前漢の孔安国であり、古注に「履殷湯名也」と記し、それに先行するのは後述する『墨子』の記述で、やはり根拠が無い。ゆえに論語の本章は、本当は誰が上げた祝詞なのか、もはや誰にも分からない。

『史記』などによる伝説では、夏王朝の王である桀王が酒池肉林にふけり、暴政を行ったため、湯王がこれを討伐して殷(またの名は商)王朝を立てたとされる。桀王も暴政も革命も、言うまでもなく史実ではないが、論語の編者は、もちろんそれを史実として扱っている。

「履」の初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「履」を参照。

論語 牡 金文
(金文)

初出は甲骨文。論語では本章のみに登場。『学研漢和大字典』によると、牡の右側の部分は土に誤ってきたが、もとは士であった。士は男性の性器のたったさまで、のち、男・おすを意味するようになった。牡(ボウ)は「牛+士(おす)」の会意文字で、おすがめすの陰門をおかすことに着目したことば、という。詳細は論語語釈「牡」を参照。

敢用玄牡

論語 玄 金文
「玄」(金文)

論語の本章では”わざわざ黒いオス牛を犠牲獣に用いて”。「玄」は黒色のことで、『学研漢和大字典』によると「幻」と同じく、暗くてよく見えないことが語源。辞書的には論語語釈「玄」を参照。

ここでの「敢」の解釈は、「はばかりながら~」「おそれながら~」と訳し、丁寧・表敬の意を示すともとれる。辞書的には論語語釈「敢」を参照。だが儒者は”わざわざ”の意だと言う。

古注
註孔安國曰履殷湯名也此伐桀告天文也殷家尚白未變夏禮故用𤣥牡也

孔安国
注釈。孔安国いわく、履とは湯王の名である。これは桀王を討伐するための祝詞である。殷王朝は白色を尊んだのだが、この時は夏王朝の作法を変えずに従った。だから黒い牡牛を用いたのだ。

夏尚黑爾時湯猶未改夏色故猶用黑牡以告天故云果敢用於𤣥牡也

論語 古注 何晏
夏王朝は黒色を尊び、この時湯王はまだ夏王朝の色を改めなかった。だから黒い雄牛を用いて天を祀った。だから「あえて雄牛を用いて」と言ったのだ。
『論語集解義疏』

新注
用玄牡,夏尚黑,未變其禮也。
論語 朱子 新注
黒い雄牛を用いたのは、夏王朝が黒色を尊び、まだその作法を変えなかったからである。
『論語集注』

ここから何が分かるかと言えば、儒者のでっち上げである。
論語 丁稚 論語 揚げ

古注新注はこぞって、中華文明における自然科学のようなもの=五行思想が、まだ文字もない夏殷交代期にあったと言っている。王朝ごとに尊ぶ色があるとするのも五行思想の一端で、それが史実としてはっきり確認できるのは、始皇帝の統一前後で、1500年ほど時代が下る。

『徒然草』に、小野道風が筆写した『和漢朗詠集』を持っている人に、時代の前後が合わないからニセモノですよと、遠回しに教えたところ、だからこそ珍しいのだ、とますます珍重したという話がある。論語のこの部分も同様で、論語にもったいをつけた漢代儒者のしわざだ。

漢代儒者はその歴史オンチから、我からでっち上げを白状している。ならば作文者の意図通り、”わざわざ”と解釈してあげる﹅﹅﹅のが、正確な読みというものだろう。「黒い牡牛を」とわざわざ言挙げしたことからも、ここでの「敢」は”わざわざ”と解するのが妥当になる。

論語 告 金文 論語 吿 解字
(金文)

論語の本章では”告げる”。初出は甲骨文。新字体は「告」。『学研漢和大字典』によると、『説文解字』では、牛の角に付けた棒が、人に危険を告知することから、ことばで告知する意を生じたとする、という。詳細は論語語釈「告」を参照。

皇皇后帝

論語 皇 金文 論語 帝 金文
「皇」「帝」(金文)

論語の本章では、”尊い天の神”。

「皇」は論語では本章のみに登場。『学研漢和大字典』によると、王とは偉大な者のこと。皇は「自(はな→はじめ)+(音符)王」の会意兼形声文字で、鼻祖(いちばんはじめの王)のこと。人類開祖の王者というのがその原義。上部の白印は白ではなく自(鼻の原字)である、という。詳細は論語語釈「皇」を参照。

「后」は会意文字で、上部は人の字の変形で、下は囗(あな)。人体の後ろにあるしりの穴(后穴)を示す。後と同系で、後ろの意を示す。転じて、後宮に住むきさき。また、厚(重く大きい意を含む)に当て、重々しい大王をさすのに用いる、という。詳細は論語語釈「后」を参照。

「帝」は象形文字で、三本のたれた線を━印でひとまとめに締めたさまを描いたもので、締(テイ)(しめまとめる)にその原義を残している。宇宙の万物をまとめて総括する最高神のこと。金文上部の二印は、「上」の字の原形であり、もと「上帝」という字を一字で書いたもの。

殷(イン)代の末、地上の支配者の権力が強くなり、上帝への信仰が衰えると、帝乙(イツ)・帝辛のように、王の名となった。周代に帝と名のった者はないが、始皇帝以後は、皇帝はすべて帝と称するようになった、という。詳細は論語語釈「帝」を参照。

孔安国は古注で「皇大也后君也大大君帝謂天帝也墨子引湯誓其辭若此也」と言い、つまり”皇は大である。后は君である。大に大が重なる主である神を天帝と言う。墨子がこの湯の誓いを引用して語っているのはこの意味である”という。『墨子』の記述は以下の通り。

「且不唯《禹誓》為然雖《湯說》即亦猶是也。湯曰:『惟予小子履,敢用玄牡,告於上天后曰:「今天大旱,即當朕身履,未知得罪于上下,有善不敢蔽,有罪不敢赦,簡在帝心。萬方有罪,即當朕身,朕身有罪,無及萬方。」即此言湯貴為天子,富有天下,然且不憚以身為犧牲,以祠說于上帝鬼神。』即此湯兼也。雖子墨子之所謂兼者,於湯取法焉。

論語 墨子
そして「禹の誓い」だけでなく、「湯の講話」も次の通り兼愛を説いている。

「わたくし小せがれの履は、あえて黒い雄牛を捧げて天の神に申し上げます。”今や天下が大ひでりなのは、とりもなおさずわたくし履の罪であり、天上天下に罪を得たのを自覚していません。善人は一人残さず推挙し、罪人はわざわざ見逃さず、神様の心通りの命令に従います。万民に罪があれば、私を罰しますように。私に罪があれば、万民を罰しませんように。」そう言って湯王は尊い天子となり、あまねく天下を領有し、しかも自分の犠牲を厭わず、この言葉で天の神や大地の精霊に祝詞を上げた。

これが湯王の「兼」”思いやり”である。墨子大先生が仰った「兼」とは、湯王の言葉に由来する。(『墨子』兼愛下8)

地の文で白状しているように、この部分は戦国時代もずいぶん下ってからの墨家による作文で、もとより殷の湯王が何をしゃべったかを証明するものではない。

論語の本章では”つみ”。この文字は楚・秦の戦国文字、戦国末期の中山王壺が初出で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdzʰwədで、同音は存在しない。論語の時代の置換候補は「非」。詳細は論語語釈「罪」を参照。

論語 赦 金文
(金文)

論語の本章では”(罪を)ゆるす”。初出は西周末期の金文。同音は無い。『大漢和辞典』で音シャ訓ゆるすに「貰」「籍」があるが、共に初出は戦国文字。『学研漢和大字典』によると「攴(動詞の記号)+(音符)赤」の形声文字で、赤(あか)には関係がない。ゆるむ、のびるの意味を含む、という。詳細は論語語釈「赦」を参照。

帝臣不蔽

論語 蔽 古文
「蔽」(古文)

論語の本章では”神の僕(のうち、善き者)を隠さない”。暴君桀王の臣下に当たる者でも、善良な者は取り上げて顕彰し、その善行を隠さない、と古来解する。「蔽」は”覆う・隠す”の意であり、文字は楚系戦国文字から見られる。部品の「敝」は甲骨文から見られ、「蔽と通す」と『大漢和辞典』がいう。詳細は論語語釈「蔽」を参照。

簡在帝心

論語 簡 金文
「簡」(金文)

論語の本章では、”選ぶのは神の心次第”。”善し悪しを決めるのは神の御心のままに”と古来解する。

『学研漢和大字典』によると「簡」は会意兼形声文字で、間は、門のすきまがあいて、月(日)がそのあいだから見えることを示す会意文字。簡は「竹+(音符)間(カン)」で、一枚ずつ間をあけてとじる竹の札。音が揀(カン)に通じるので、”選ぶ”の意があるという。詳細は論語語釈「簡」を参照。

論語 朕 金文 論語 朕 字解
(金文)

論語の本章では偉そうな一人称の”わし”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文

この文字は始皇帝以降、皇帝専用の一人称となったが、それ以前にはそのような限定がなかった。このことから、論語のこの部分が秦漢帝国以降の創作であることを、現代の論語本の多くが指摘するが、専用でないだけであって、君主が使うことに矛盾があるわけではない。

誰でも使っていい「朕」ならば、君主が自称に使ってもよい道理だからだ。必要条件と十分条件は区別しないと論理が成り立たない。残念ながら漢学者をふくむ人文系の専門家は、例え旧帝大教授であろうと、高一なみの数学すら理解していないことがある。用心用心。

ただし偉そうな一人称ではあったようで、原音は「チン」ではなく「ヨウ」だったと『字通』が言い、「チン」は「眹」”ひとみ”との混用から来た音という。『学研漢和大字典』は語義として”もちあげる”を言い、偉そうな一人称だったとする。

『学研漢和大字典』によると、もと「舟+両手で物を持ちあげる姿」の会意文字で、舟を上に持ちあげる浮力のこと。上にあらわれ出る意を含む。転じて、尊大な気持ちで自分を持ちあげて称する自称詞となった、という。詳細は論語語釈「朕」を参照。

萬(万)方

論語 萬 万 金文 論語 方 金文
(金文)

論語の本章では”天下の万民”。「方」には領域としてのくに、国土の意があり、「邦」と音が通じる。従って「萬方」は”万国”の意だが、ここではそこに住む人々を指す。

「萬」(万)は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、もと、大きなはさみを持ち、猛毒のあるさそりを描いた象形文字。のち、さそりは蠆(タイ)と書き、萬(マン)の音を利用して、長く長く続く数の意に当てた。▽「万」は卍(まんじ)の変形で、古くから萬の通用字として用いられている、という。詳細は論語語釈「万」を参照。

論語:解説・付記

論語の本章は、実際に殷の開祖が、このようなしおらしい祝詞を上げたという史実ではない。自敬表現と謙譲語を抱き合わせにしたままの、出来の悪いラノベであり、「なんか変や」と思う人があっても、「太古の有り難い祝詞だ」ということで通ってしまった。

古代人も現代人と論理能力は変わらないが、理屈に合わないことの事例は、はるかに現代人の方が知っており、その分古代は、馬鹿げたハッタリがまかり通る。現代でもいわゆるお経のほとんどは、荒唐無稽のメルヘンが書いてあるのだが、知られないから坊主稼業が成り立つ。

従って古代における太古代は、言ったもの勝ちでデタラメが通る。上記の通り、「履」を殷の開祖だと言ったのは孔安国と『墨子』の書き手だけで、前者は前漢の人と言われるが実在が怪しく、後者が生きたのは、戦国時代も半ばを過ぎてからだ。
論語 春秋諸国と諸子百家

孟子は世に出ると、隆盛を極めていた墨家にキャンキャン噛みついて回った。手先不器用な孟子が墨家の土木技術にケチを付けられるわけがなく、その代わり墨家の理屈に言いがかりを付けた。対抗上墨家は、それらしい理論武装に迫られた。それが戦国半ばの論壇だった。

だがこのことは、孔子没後、神話の書き手が儒家から墨家へ移ったことを示している。孔子より一世紀後の孟子が世に出たとき、「天下の言、楊に帰せざらば、墨に帰す」だったと孟子は言う。”言論界は楊朱の派閥でなければ、墨家ばかりだった”ということ。

だが楊朱→『列子』は偉そうなものをおちょくるのが好きで、本章を書きそうにない。

孔子とすれ違うように春秋末から戦国初期を生きた墨子は、自派の独立を明らかにするため、土木技術の開祖として禹を創作し、夏の開祖とした。弟子はそれ以降墨子に至るまでの系譜をもちろん創作したに違いなく、本章のような、もっともらしいニセモノもこしらえただろう。

あるいは上掲した『墨子』の地の文が白状している通り、墨家の主張である「兼愛非攻」を権威づけるため、一からしおらしい祝詞をでっち上げたと考えても筋が通る。のち秦帝国成立と共に消滅した墨家のラノベでも、あまりに世に広まっていたから、儒家が継承したのだろう。

なお上掲『徒然草』は以下の通り。

第八十八段

あるもの小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人、「御相傳浮けることには侍らじなれども、四條大納言撰ばれたるものを、道風書かむこと、時代や違ひはべらむ、覺束なくこそ。」といひければ、「さ候へばこそ、世に有り難きものには侍りけれ。」とていよ〱秘藏しけり。

論語 徒然草
ある人が、小野道風(894-967。能書家)の書いた『和漢朗詠集』(1013ごろ成立)だとして持っていたのを、別のある人が「お家代々の言われ、根拠の無いことではごさいませんでしょうが、四条大納言(藤原公任きんとう。966-1041、歌人)が編集なさった本を、道風が書いたと言うような話は、時代が違わないでしょうか。変だと思いますが」と言ったのだが、「そうでございますからこそ、世にも珍しいのでございます」と言って、一層大切に仕舞い込んだ。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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