(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
曰、「予小子履、敢用玄牡、敢昭吿于皇皇后帝。有罪不敢赦、帝臣不蔽、簡在帝心。朕躬有罪、無以萬*方。萬*方有罪、罪*在朕躬。」
校訂
諸本
後漢熹平石経
…不蔽簡在帝心朕躬在𡈚毋㕥萬方萬方有在朕躬…
定州竹簡論語
……[四海困窮,天祿永終。「舜亦以命禹。曰:「予小子履敢用]598……罪,毋a以萬方;萬方有罪,罪b在朕[躬。」周有泰來,善人是富。「雖有]599……
→曰、「予小子履、敢用玄牡、敢昭吿于皇皇后帝。有罪不敢赦、帝臣不蔽、簡在帝心。朕躬有罪、毋以萬方。萬方有罪、罪在朕躬。」
復元白文(論語時代での表記)
※本章の場合、殷代最初期の祝詞という立て前だから、甲骨文や殷代の金文に無い文字は無かったと断じる。甲骨文が現れたのは殷代中期とされるから、そもそもそのような検証に意味は無いが、手続き上調査は行うこととする。
昭 赦 簡
※予→余・昭→章・罪→非・蔽→敝・躬→身。論語の本章は、赤字に甲骨文が存在せず、甲骨文に遡る置換候補も無い。
「昭」の初出は戦国文字で、論語の時代なら「章」で置換できるが、殷代には通用しない。同様に「赦」の初出は西周中期の金文、「簡」の初出は西周末期金文。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
曰く、予小子履、敢て玄き牡を用ゐて、敢て昭に皇皇たる后帝于吿ぐ。罪有るは敢て赦さず、帝の臣は蔽さず、簡ぶこと帝の心に在り。朕が躬罪有らば、萬づ方を以てすること無かれ。萬づ方に罪有らば、罪朕が躬に在れ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
(殷の湯王が)言った。「我が輩、小せがれの履は、あえて黒い牛を犠牲に捧げて、おそれながらも明らかに、大いなる天地の神に申し上げる。罪ある者は意図的に許さず、神のしもべは隠さず、選択は天の神の心のままになさいませ。我が輩に罪があるなら、天下万民に罰を与えることの無いように。天下万民に罪があるなら、その罪を我が輩の身に引き受けるように。」
意訳
湯王「我が輩履は、かしこみかしこみ、あえて黒牛をお供えに捧げて、大いなる天地の神々に、思うところを隠さずに申し上げます。こんなにひどいことをした暴君桀王は、決して許しませぬ。しかしその臣民は、みな天の神のしもべでありますから、そのうち善なる者は、そのよい行いを隠さず顕彰致します。されども何がいいか悪いかは、天の神のみ心次第です。我が輩の判断が裏目に出ても、怨み申し上げは致しませぬ。ゆえに我が輩に罪があれば、我が輩を罰して民に罰が下りませぬように。民に罪があっても、我が輩を罰して民に罰が下りませぬように。」
従来訳
夏は桀王にいたって無道であったため、殷の湯王がこれを伐ち、天命をうけて天子*となったが、その時、湯王は天帝に告げていわれた。
「小さき者、履り、つつしんで黒き牡牛をいけにえにして、敢て至高至大なる天帝にことあげいたします。私はみ旨を奉じ万民の苦悩を救わんがために、天帝に罪を得た者を誅しました。天帝のみ心に叶う臣下はすべてその徳が蔽われないよう致したいと思います。私は天帝のみ心のまにまに私の進むべき道を選ぶのみであります。」
更に諸侯に告げていわれた。――
「もしわが身に罪あらば、それはわれひとりの罪であって、万民の罪ではない。もし万民に罪あらば、それは万民の罪でなくて、われひとりの罪である。」下村湖人先生『現代訳論語』
*天子:この言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
現代中国での解釈例
商湯說:「至高無上的上帝啊,你在人間的兒子–我–謹用黑牛來祭祀您,向您禱告:有罪的人我絕不敢赦免。一切善惡,我都不敢隱瞞,您無所不知,自然心中有數。如果我有罪,請不要牽連天下百姓;如果百姓有罪,罪都應歸結到我身上。」
殷の湯王が言った。「いとも尊貴無比なる天の神よ、あなたの下界での子である私は、謹んで黒牛を捧げてあなたを供養し奉る。あなたに申し上げる。罪のある者は絶対に容赦しようともしない。一切の善悪は、私は隠そうともしない。あなたは全てを知っているから、自ずからお考えがあるだろう。もし私に罪があるなら、どうか天下の人民を巻き添えにしないように。もし人民に罪があるなら、その罪は全て私の身にかぶせるように。」
論語:語釈
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。論語のこの部分は、主語が記されていないが、「予小子履」から殷の湯王だとされる。
定州竹簡論語では、前回から続けて書いているのだが、あえて主語を記さないことでもったいを付け、読む者聞く者にハッタリを掛けている。神主が地鎮祭で「ほにゃらほにゃら」と分けの分からぬ事を言い、土建屋のお偉いさんがT大出の技師上がりだろうと、鹿爪らしく聞き入っているふりをしているのと同じ。
予(ヨ)
(金文)
論語の本章では”わたし”。初出は西周末期の金文で、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいうが、春秋末期までに一人称の用例がある。”あたえる”の語義では、現伝の論語で「與」となっているのを、定州竹簡論語で「予」と書いている。字形の由来は不明。金文では氏族名・官名・”わたし”の意に用い、戦国の竹簡では”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「予」を参照。
小子(ショウシ)
論語の本章では”わたくしめ”。神に対するへり下った自称。論語では、孔子や曽子が弟子を呼ぶときに”お前ら”という上から目線の言葉として用いているが、同時に孔子は弟子複数に呼びかけるとき「君子」”諸君”とか「二三子」”きみたち”とか呼んでおり、史実では「小子」という無礼な言葉遣いをおそらくしていない。
- 而後、吾知免夫。小子。(論語泰伯編3。発言者は曽子。偽作)
- 子在陳曰…吾黨之小子𥳑。(論語公冶長篇21。偽作)
- 子曰…小子鳴鼓而攻之可也。(本章論語先進篇16。偽作)
- 子曰、小子、何莫學詩。(論語陽貨篇9。語法に疑問あり)
軍人が上官に「小官は…であります」と言うのは謙遜の辞だが、艦長が操舵手に「小官、面舵一杯」と言えば、キレて取り舵一杯を切りかねない。言葉に敏感な孔子が、「小子」の無礼に気付かぬワケがないだろう。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語の本章では、「子曰」で”先生”、「猶子也」で”息子”、「二三子」で”諸君”の意。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
履(リ)
「履」(金文)
論語の本章では、殷の開祖である湯王のいみ名(本名)とされる。しかし甲骨文などの出土資料では、殷の開祖は唐・成・大乙などと呼ばれており、「履」は後世になってからの呼び名。
西周の金文では、「履」を人名として用いた例はあるが、文献時代の『孟子』では、「履」を人名として用いていない。『荀子』でも、「履」を人名として用いていない。前漢の『礼記』『説苑』では、すべて”踏む”か”履き物”。董仲舒の『春秋繁露』も同様で、易の符丁として意味不明の「履」を書き足すのみ。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
『史記』夏本紀には「帝發崩,子帝履癸立,是為桀。」とあって、伝説の暴君で夏を滅ぼした桀王の名とする。ただ「履癸」という二字の名乗りは『史記』夏本紀による歴代帝王の中で6/17と少数派ではある。うち「太康」「中康」「少康」は「康」のうち空間的・業績的大小の系列にくくられ、「孔甲」と「履癸」は時間的・順列的前後関係を示す干支系列にくくられる。文字のない夏王朝についていちいち詮索するのは間抜けではあるが、いわゆる桀王の名が「履」と漢代の中国人に認識されていた可能性はある。
1 | 帝禹 |
2 | 帝啟 |
3 | 帝太康 |
4 | 帝中康 |
5 | 帝相 |
6 | 帝少康 |
7 | 帝予 |
8 | 帝槐 |
9 | 帝芒 |
10 | 帝泄 |
11 | 帝不降 |
12 | 帝扃 |
13 | 帝廑 |
14 | 帝孔甲 |
15 | 帝皋 |
16 | 帝發 |
17 | 帝履癸 |
斉太公世家では、管仲の楚王に対する言葉として、「賜我先君履,東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣。」とあって、斉の開祖太公望の名が「履」であることをほのめかしている。これは名軍師・管仲も楚軍相手に「やり過ぎた」と真っ青になった面白い話だが、全訳は論語八佾篇25解説を参照。
結局「履」を殷の開祖湯王の名だと言い出したのは、儒家では実在すら怪しい前漢の孔安国であり、後漢から南北朝にかけて編まれた古注に「履殷湯名也」と記し、それに先行するのは後述する『墨子』の記述で、やはり根拠が無いし、墨子生前の書き込みとも限らない。ゆえに論語の本章は、本当は誰が上げた祝詞なのか、もはや誰にも分からない。
武内義雄『論語之研究』では、後漢霊帝期に建てられた漢石経では、1行73字だったとし、残石から計算すると1字分マスが足りないから「履」の字はなかっただろうという。ただし先行する定州竹簡論語にはあるので、本サイトではとりあえずあったものとして取り扱う。というのも、漢石経の1行字数には異説があることを武内博士も同書で認めているからだ。
…張氏の碑圖には論語石經の一行の字數を七十四字と定めてゐる…私は從前考へた通り毎行七十三字とした…いづれが正であるか今俄に決しかねる…。(『論語之研究』昭和十八年第一版第四刷p312)
『史記』などによる伝説では、夏王朝の王である桀王が酒池肉林にふけり、暴政を行ったため、湯王がこれを討伐して殷(またの名は商)王朝を立てたとされる。桀王も暴政も革命も、言うまでもなく史実ではないが、論語の編者は、もちろんそれを史実として扱っている。
敢(カン)
(甲骨文)
論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”あえて”。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”~できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。
用(ヨウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”用いる”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”…で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。
玄(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”黒い”。初出は甲骨文。字形は糸を絞って黒く染めたさま。「糸」と近い形だが、上下の結びがなく、また二つ絞りで三つ絞りの例が無い。「ゲン」は呉音。甲骨文から”黒い”の意に用いた。詳細は論語語釈「玄」を参照。
牡*(ボウ)
(甲骨文)
論語の本章では”雄牛”。初出は甲骨文。論語では本章のみに登場。甲骨文に比定されている字形はさまざまあるが、いずれも「牛」+「丄」(ショウ)の形で構成される。「丄」は男性器。全体で”雄牛”の意。同音多数。「ボ」は慣用音、呉音は「モウ」「ム」。甲骨文から”雄牛”の意に用いた。西周後期から戦国中期の間、発掘が途絶え、再出するのは戦国最末期の「睡虎地秦簡」から。詳細は論語語釈「牡」を参照。
敢用玄牡
論語の本章では”わざわざ黒いオス牛を犠牲獣に用いて”。ここでの「敢」の解釈は、「はばかりながら~」「おそれながら~」と訳し、丁寧・表敬の意を示すともとれる。だが儒者は”わざわざ”の意だと言う。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰履殷湯名也此伐桀告天文也殷家尚白未變夏禮故用𤣥牡也
注釈。孔安国いわく、履とは湯王の名である。これは桀王を討伐するための祝詞である。殷王朝は白色を尊んだのだが、この時は夏王朝の作法を変えずに従った。だから黒い牡牛を用いたのだ。
夏尚黑爾時湯猶未改夏色故猶用黑牡以告天故云果敢用於𤣥牡也
夏王朝は黒色を尊び、この時湯王はまだ夏王朝の色を改めなかった。だから黒い雄牛を用いて天を祀った。だから「あえて雄牛を用いて」と言ったのだ。
新注『論語集注』
用玄牡,夏尚黑,未變其禮也。
黒い雄牛を用いたのは、夏王朝が黒色を尊び、まだその作法を変えなかったからである。
ここから何が分かるかと言えば、儒者のでっち上げである。古注新注はこぞって、中華文明における自然科学のようなもの=五行思想が、まだ文字もない夏殷交代期にあったと言っている。王朝ごとに尊ぶ色があるとするのも五行思想の一端で、それが史実としてはっきり確認できるのは、始皇帝の統一前後で、1500年ほど時代が下る。
『徒然草』に、小野道風が筆写した『和漢朗詠集』を持っている人に、時代の前後が合わないからニセモノですよと、遠回しに教えたところ、だからこそ珍しいのだ、とますます珍重したという話がある。論語のこの部分も同様で、論語にもったいをつけた漢代儒者のしわざだ。
漢代儒者はその歴史オンチから、我からでっち上げを白状している。ならば作文者の意図通り、”わざわざ”と解釈してあげるのが、正確な読みというものだろう。「黒い牡牛を」とわざわざ言挙げしたことからも、ここでの「敢」は”わざわざ”と解するのが妥当になる。
昭(ショウ)
「卲」(甲骨文)
論語の本章では”明らかに”。初出は甲骨文。ただし字形は「卲」。現行字体の初出は楚系戦国文字。初出の字形は「刀」+「𠙵」”容器”+「㔾」”跪いて作業する人”で、缶切りで開けるように容器の中身を明らかにすること。同音に召を部品とする漢字群、「釗」”けずる・みる”(金文あり)、「盄」”うつわ”(金文あり)。部品の召の字に”あきらか”の語釈はない。「卲」”たかい”に音通すると『大漢和辞典』は言う。春秋末期までに、人名、”明らかに”の意に用い、戦国の竹簡でも”明らかに”の意に用いた。詳細は論語語釈「昭」を参照。
吿(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”告げる”→”申し上げる”。初出は甲骨文。新字体は「告」。字形は「辛」”ハリまたは小刀”+「口」。甲骨文には「辛」が「屮」”草”や「牛」になっているものもある。字解や原義は、「口」に関わるほかは不詳。甲骨文で祭礼の名、”告げる”、金文では”告発する”の用例がある。詳細は論語語釈「告」を参照。
于(ウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~に”。初出は甲骨文。字形の由来と原義は不明。甲骨文から春秋末期まで、”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「于」を参照。
皇*(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”大いなる”。初出は甲骨文とされるが出土例が少なく、語義も明らかでない。明瞭に確認できるのは西周早期の金文から。字形は”かぶり物”+「曰」”くち”+「士」”まさかり”。まさかりは権力の象徴。王または高位の神官が宣言するさま。”大いなる者”の意。「オウ」は呉音。春秋早期から”大いなる”の意に用いた。詳細は論語語釈「皇」を参照。
后(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”あるじ”。字形は「母」+「古」で、甲骨文の「古」は「十」”盾”と「𠙵」”くち”に分解でき、軍事権と神への上申=祭祀権を意味する。全体で、軍事権と祭祀権を持った女性。甲骨文の字形には、「母」が「人」に、「古」が「𠙵」になっているものがあるが、いずれも原義は”后妃”。金文では”君主”を意味した。詳細は論語語釈「后」を参照。
帝*(テイ)
(甲骨文)
論語の本章では”天の神”。宇宙の主宰者を指す。現行論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は「示」”祭壇”の豪勢な作りのものの象形。原義は”まつる”。派生字に「禘」。甲骨文では”まつる”・”かみ”の意に用いたが、”かみ”はいわゆる天神地祇の総称で、どのような”かみ”かは判然としない。西周の金文はおおむね「上帝」と記して”天神”の意で、やがて「帝」そのものが”天神”の意となった。これが始皇帝による帝政開始以降は、”みかど”の意となるが、”天神”の意もまた続けて存在したことは、太平天国の指導部が「拝上帝会」を自称したことにも現れている。詳細は論語語釈「帝」を参照。
皇皇后帝
論語の本章では、”尊い天の神”。孔安国は古注で「皇大也后君也大大君帝謂天帝也墨子引湯誓其辭若此也」と言い、つまり”皇は大である。后は君である。大に大が重なる主である神を天帝と言う。墨子がこの湯の誓いを引用して語っているのはこの意味である”という。『墨子』の記述は以下の通り。
「且不唯《禹誓》為然雖《湯說》即亦猶是也。湯曰:『惟予小子履,敢用玄牡,告於上天后曰:「今天大旱,即當朕身履,未知得罪于上下,有善不敢蔽,有罪不敢赦,簡在帝心。萬方有罪,即當朕身,朕身有罪,無及萬方。」即此言湯貴為天子,富有天下,然且不憚以身為犧牲,以祠說于上帝鬼神。』即此湯兼也。雖子墨子之所謂兼者,於湯取法焉。
そして「禹の誓い」だけでなく、「湯の講話」も次の通り兼愛を説いている。
「わたくし小せがれの履は、あえて黒い雄牛を捧げて天の神に申し上げます。”今や天下が大ひでりなのは、とりもなおさずわたくし履の罪であり、天上天下に罪を得たのを自覚していません。善人は一人残さず推挙し、罪人はわざわざ見逃さず、神様の心通りの命令に従います。万民に罪があれば、私を罰しますように。私に罪があれば、万民を罰しませんように。」そう言って湯王は尊い天子となり、あまねく天下を領有し、しかも自分の犠牲を厭わず、この言葉で天の神や大地の精霊に祝詞を上げた。
これが湯王の「兼」”思いやり”である。墨子大先生が仰った「兼」とは、湯王の言葉に由来する。(『墨子』兼愛下8)
地の文で白状しているように、この部分は戦国時代もずいぶん下ってからの墨家による作文で、もとより殷の湯王が何をしゃべったかを証明するものではない。
有
罪不赦臣蔽簡在心朕躬無→毋以萬方朕躬
罪
論語の本章では”つみ”。この文字は楚・秦の戦国文字、戦国末期の中山王壺が初出で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdzʰwədで、同音は存在しない。論語の時代の置換候補は「非」。詳細は論語語釈「罪」を参照。
赦
(金文)
論語の本章では”(罪を)ゆるす”。初出は西周末期の金文。同音は無い。『大漢和辞典』で音シャ訓ゆるすに「貰」「籍」があるが、共に初出は戦国文字。『学研漢和大字典』によると「攴(動詞の記号)+(音符)赤」の形声文字で、赤(あか)には関係がない。ゆるむ、のびるの意味を含む、という。詳細は論語語釈「赦」を参照。
帝臣不蔽
「蔽」(古文)
論語の本章では”神の僕(のうち、善き者)を隠さない”。暴君桀王の臣下に当たる者でも、善良な者は取り上げて顕彰し、その善行を隠さない、と古来解する。「蔽」は”覆う・隠す”の意であり、文字は楚系戦国文字から見られる。部品の「敝」は甲骨文から見られ、「蔽と通す」と『大漢和辞典』がいう。詳細は論語語釈「蔽」を参照。
簡在帝心
「簡」(金文)
論語の本章では、”選ぶのは神の心次第”。”善し悪しを決めるのは神の御心のままに”と古来解する。
『学研漢和大字典』によると「簡」は会意兼形声文字で、間は、門のすきまがあいて、月(日)がそのあいだから見えることを示す会意文字。簡は「竹+(音符)間(カン)」で、一枚ずつ間をあけてとじる竹の札。音が揀(カン)に通じるので、”選ぶ”の意があるという。詳細は論語語釈「簡」を参照。
朕
(金文)
論語の本章では偉そうな一人称の”わし”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。
この文字は始皇帝以降、皇帝専用の一人称となったが、それ以前にはそのような限定がなかった。このことから、論語のこの部分が秦漢帝国以降の創作であることを、現代の論語本の多くが指摘するが、専用でないだけであって、君主が使うことに矛盾があるわけではない。
誰でも使っていい「朕」ならば、君主が自称に使ってもよい道理だからだ。必要条件と十分条件は区別しないと論理が成り立たない。残念ながら漢学者をふくむ人文系の専門家は、例え旧帝大教授であろうと、高一なみの数学すら理解していないことがある。用心用心。
ただし偉そうな一人称ではあったようで、原音は「チン」ではなく「ヨウ」だったと『字通』が言い、「チン」は「眹」”ひとみ”との混用から来た音という。『学研漢和大字典』は語義として”もちあげる”を言い、偉そうな一人称だったとする。
『学研漢和大字典』によると、もと「舟+両手で物を持ちあげる姿」の会意文字で、舟を上に持ちあげる浮力のこと。上にあらわれ出る意を含む。転じて、尊大な気持ちで自分を持ちあげて称する自称詞となった、という。詳細は論語語釈「朕」を参照。
萬(万)方
(金文)
論語の本章では”天下の万民”。「方」には領域としてのくに、国土の意があり、「邦」と音が通じる。従って「萬方」は”万国”の意だが、ここではそこに住む人々を指す。
「萬」(万)は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、もと、大きなはさみを持ち、猛毒のあるさそりを描いた象形文字。のち、さそりは蠆(タイ)と書き、萬(マン)の音を利用して、長く長く続く数の意に当てた。▽「万」は卍(まんじ)の変形で、古くから萬の通用字として用いられている、という。詳細は論語語釈「万」を参照。
論語:付記
論語の本章は、実際に殷の開祖が、このようなしおらしい祝詞を上げたという史実ではない。自敬表現と謙譲語を抱き合わせにしたままの、出来の悪いラノベであり、「なんか変や」と思う人があっても、「太古の有り難い祝詞だ」ということで通ってしまった。
古代人も現代人と論理能力は変わらないが、理屈に合わないことの事例は、はるかに現代人の方が知っており、その分古代は、迷信やハッタリがまかり通る。現代でもいわゆるお経のほとんどは、荒唐無稽のメルヘンが書いてあるのだが、知られないから坊主稼業が成り立つ。
従って古代における太古代は、言ったもの勝ちでデタラメが通る。上記の通り、「履」を殷の開祖だと言ったのは孔安国と『墨子』の書き手だけで、前者は前漢の人と言われるが実在が怪しく、後者が生きたのは、戦国時代も半ばを過ぎてからだ。
孟子は世に出ると、隆盛を極めていた墨家にキャンキャン噛みついて回った。手先不器用な孟子が墨家の土木技術にケチを付けられるわけがなく、その代わり墨家の理屈に言いがかりを付けた。対抗上墨家は、それらしい理論武装に迫られた。それが戦国半ばの論壇だった。
だがこのことは、孔子没後、神話の書き手が儒家から墨家へ移ったことを示している。孔子より一世紀後の孟子が世に出たとき、「天下の言、楊に帰せざらば、墨に帰す」だったと孟子は言う。”言論界は楊朱の派閥でなければ、墨家ばかりだった”ということ。
だが楊朱→『列子』は偉そうなものをおちょくるのが好きで、本章を書きそうにない。
孔子とすれ違うように春秋末から戦国初期を生きた墨子は、自派の独立を明らかにするため、土木技術の開祖として禹を創作し、夏の開祖とした。弟子はそれ以降墨子に至るまでの系譜をもちろん創作したに違いなく、本章のような、もっともらしいニセモノもこしらえただろう。
あるいは上掲した『墨子』の地の文が白状している通り、墨家の主張である「兼愛非攻」を権威づけるため、一からしおらしい祝詞をでっち上げたと考えても筋が通る。のち秦帝国成立と共に消滅した墨家のラノベでも、あまりに世に広まっていたから、儒家が継承したのだろう。
なお上掲『徒然草』は以下の通り。
第八十八段
あるもの小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人、「御相傳浮けることには侍らじなれども、四條大納言撰ばれたるものを、道風書かむこと、時代や違ひはべらむ、覺束なくこそ。」といひければ、「さ候へばこそ、世に有り難きものには侍りけれ。」とていよ〱秘藏しけり。
ある人が、小野道風(894-967。能書家)の書いた『和漢朗詠集』(1013ごろ成立)だとして持っていたのを、別のある人が「お家代々の言われ、根拠の無いことではごさいませんでしょうが、四条大納言(藤原公任。966-1041、歌人)が編集なさった本を、道風が書いたと言うような話は、時代が違わないでしょうか。変だと思いますが」と言ったのだが、「そうでございますからこそ、世にも珍しいのでございます」と言って、一層大切に仕舞い込んだ。
コメント
初めてコメントさせていただきます。
武内義雄『論語之研究』の付録「漢石経論語残字攷」の中で得た情報なのですが、
詩閟宮正義、書湯誥正義に引かれた鄭注によると、鄭玄は「曰」以下を前文に続けて舜が禹に命じたことだと解釈したようです。というのも、鄭玄本には「履」の字が無かったらしく、国語の注の韋昭もそのように解釈して「帝臣不蔽、簡在帝心」の部分を引用しているようです。
武内は漢石経の配列から考えて、石経では今本論語より一字少ない、つまり石経も「履」の字が無かったのだろう。そうだとすれば、漢石経→魯論→周氏本→鄭注本の関係から推して魯論にも「履」の字は無かったのであろうとしています。
定州竹簡論語でこの説が覆されないのでれば、新注のように主語を湯王として補うことに対しては、一考の余地があると思います。
編集者さんは「履」の使い方に大いに疑問を抱いておられるようなので、参考になればと思いコメントいたしました。
ご指摘ありがとうございます。
かるがると返答申し上げ得る事柄ではないため、本章の再改訂を予定から繰り上げ、語釈のやり直しが済んでからここに記載致します。あるいはご想像以上の時間がかかるかもしれませんが、事情をご諒解頂けると幸いです。