(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
周有大賚、善人是富。雖有周親、不如仁人。百姓有過、在予一人。
校訂
後漢熹平石経
…人
定州竹簡論語
……罪,毋以萬方;萬方有罪,罪在朕[躬。」周有泰來a,善人是富。「雖有]599……親,不如仁人。百姓有[過,在予一人。」謹權量,審]600……
- 泰來、今本作”大賚”。泰與大通、來借為賚。
※簡599号と600号には疑問がある。定州漢墓竹簡『論語』の「介紹」(紹介)には、簡1枚には19-21字が記されていたとするから、599号の23字は字数が多すぎる。おそらく「雖有」は簡600号の冒頭に記され、次のようになっていたのではないか(…は欠損を含む解読不能部分)。
罪毋以萬方萬方有罪罪在朕躬周有泰來善人是富簡599号(字数21字)
雖有…親不如仁人百姓有過在予一人謹權量審…簡600号(字数20≦字)
→周有泰來、善人是富。雖有周親、不如仁人。百姓有過、在予一人。
復元白文(論語時代での表記)
善是 雖親 過
※泰→大・富→(甲骨文)・予→余。論語の本章は、赤字が周初に存在しない。「親」の用法に疑問がある。本章は春秋中期以降の何者かによる創作である。ただし発言者を周の武王としないなら、全て論語の時代に存在したか、あるいは置換候補がある。
書き下し
周に泰いに來る有り、善き人の是れ富むなり。周に親有りと雖も、仁人に如かず。百姓に過あらば、予一人に在り。
論語:現代日本語訳
逐語訳
周には大きな天の恵みがある。能力のある者が多いことだ。周の王室には親族がいるとは言え、仁を身につけた者には及ばない。天下の人民に間違いがあれば、それは私一人の責任だ。
意訳
周の開祖武王「我が周王朝は天に愛されている。これほどまで能ある者が多いからだ。また周の一族だろうとも、皆が仁者には及ばないから、仁者を重用することを誓う。さらに役人以下、天下万民に例え間違いがあろうとも、その責任は私一人で負うことにする。」
従来訳
殷は紂王にいたって無道であったため、周の武王がこれを伐ち、天命をうけて天子*となったが、その時、武王は天帝に誓っていわれた。――
「周に下された大きな御賜物を感謝いたします。周には何と善人が多いことでございましょう。いかに親しい身内のものが居りましょうとも、仁人の多きには及びませぬ。かように仁人に恵まれて、なお百姓に罪がありますならば、それは私ひとりの罪でございます。」下村湖人先生『現代訳論語』
*天子:この言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
現代中国での解釈例
周朝恩賜天下,使好人都富了。武王說:「我雖有至親,都不如有仁人。百姓有錯,在我一人。」
周王朝は天から地上の支配権を賜り、人材に富んでいた。武王が言った。「私には身近な親族がいるが、全て仁人に及ばない。人民に間違いがあれば、私一人に(責任が)ある。」
論語:語釈
大賚(ダイライ)→泰來
「賚」(古文)
論語の本章では”(天からの)大いなるたまもの”。「賚」は論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は無く、まして周初の置換候補は無い。
『学研漢和大字典』によると、來(ライ)(=来)は、両わきに穂のついたむぎを描いた象形文字で、天からたまわったむぎをあらわす。転じて、上から下へ送られてくるという意味を派生した。賚は「貝+(音符)來」の会意兼形声文字で、金品を上から下へ授けること、という。詳細は論語語釈「賚」を参照。
なお元の開祖、世祖フビライを、中国の史書ではもと「忽必烈」と記した。音の当て字ではあるが、字義からは”忽ち必ず烈しく怒る雷おやじ”を連想させる。そこで満州族の清王朝になってから、「呼必賚」=呼べば必ずものを賚る人、恵み深い仁君だ、へと書き換えた。と、いうようなことを、『雍正帝』の中で宮崎市定博士は記している。
定州竹簡論語の「泰」の初出は後漢の『説文解字』とされたが、定州竹簡論語へと繰り上がることになる。「大」と意味が繋がる場合には、「大」が論語時代の置換候補となる。詳細は論語語釈「泰」を参照。
「來」(来)の初出は甲骨文。原義は上掲通り、両わきに穂のついたむぎを描いた象形文字。詳細は論語語釈「来」を参照。
「泰來」で「おおいにきたるもの」と読み、”偉大な贈り物”と解するほかに無い。
善人
(金文)
論語の本章では、”能力の高い者”。「善」とは『学研漢和大字典』によると”たっぷりとみごとである”こと、『字通』によると”天から祝福された”こと。いずれにせよ、「善人」とは常人と異なった何らかの力が備わった者のことで、必ずしも人格者ではない。
「善」の初出は西周中期の金文で、周初に遡れない。同音で周初に遡れるのは、「蟺」”ミミズ”のみ。詳細は論語語釈「善」を参照。
是
(金文)
論語の本章では、”~は~である”。初出は西周中期の金文で、周初に遡れない。同音で周初に存在しうるのは、「氏」のみで語義を共有しない。『学研漢和大字典』によると、もとは主語をさしていたが、六朝から認定をあらわす繋詞(ケイシ)となり、英語のbe動詞に相当する言葉になって、現代中国語でも用いられている、という。詳細は論語語釈「是」を参照。
論語のこの部分は、さすがに六朝=三国~南北朝時代までは下らないだろうから、主語を指す言葉として「これ富むあり」と読み下した。下の句は「富めり・富みたり」でもかまわない。
富
(甲骨文)
論語の本章では”たくさんいる”。初出は甲骨文。字形は「冖」+「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。
雖
初出は春秋中期の金文で、周初に遡れない。同音は存在しない。詳細は論語語釈「雖」を参照。
親(シン)
(金文)
論語の本章では、”身内”。初出は西周末期の金文。「辛」”針・小刀”+「見」。おそらく筆刀を使って、目を見開いた人が自分で文字を刻む姿。金文では”みずから”の意で、”おや”・”したしむ”・”身内”の語義は、論語の時代では確認できない。詳細は論語語釈「親」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”常に憐れみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。
加地伸行説によると、孔子以前では「仁」の意味はさらに異なり、もとは占い師や拝み屋が、客の気に入るような占いや神託を言うことで、詐術の一つでもありさえする。
従って「周一族も、仁人には及ばない」という肯定的な物言いは、孔子以降でないと成り立たないのだが、古来この発言者は周の開祖・武王だとされる。孔子より500年も前の人物だが、上記の通り本章はでっち上げとわかる。従って本章での「仁」の語義は、孟子以降の「仁義」と同じで、情けや憐れみと解するのに理がある。
なお藤堂本では、周の一族である管叔・蔡叔らが、反乱を起こしたこと、よそ者である殷の微子や太公望呂尚が、周の建国を大いに助けたことを指摘している。
百姓(ヒャクセイ)
(金文)
論語のみならず漢文では、”(天下の)人民”。百=もろもろの、姓=名字を持つ者の意で、農民ではない。ともに甲骨文から存在する。論語語釈「百」・論語語釈「姓」を参照。
過
(金文)
論語の本章では”あやまち”。初出は西周中期の金文で、周初に遡れない。同音は「戈」”ほこ”のみで、甲骨文から存在するが、語義を共有しない。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
予
初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdi̯o。同音に余、野などで、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいう。「豫」は本来別の字。詳細は論語語釈「予」を参照。
論語:付記
論語のこの部分は前回同様、墨家によって創作された可能性がある。
重複を恐れず記せば、孔子より一世紀後の孟子が世に出たとき、中国の論壇は墨家と楊朱学派に二分されており、儒家は滅亡同然だった。楊朱は偉そうなものをからかうことが教説だったから、ここ論語堯曰篇にあるようなもったいを、古代の聖王に書き付けるとは思えない。
孔子没後に一世を風靡した思想家、楊朱には弟がいて、名を布と言った。ある日弟が白い羽織を着て出掛けたところ、途中で雨に降られた。そこで羽織を脱いで黒い上着のまま家に帰ったところ。
飼い犬「ウウーッ、ワンワン! ワンワン!」
楊布「くぉのバカ犬が! 俺がわからんのか!」
弟が犬を鞭で引っぱたこうとすると、楊朱が間に入って言った。
「よせよ。お前だって、白犬が出掛けて黒犬になって帰ってきたら、あやしいと思うだろう?」(『列子』説符26)
従って今回の部分の偽作には、墨家に嫌疑が掛かる。
昔者武王將事泰山隧,傳曰:『泰山,有道曾孫周王有事,大事既獲,仁人尚作,以祗商夏,蠻夷醜貉。雖有周親,不若仁人,萬方有罪,維予一人。』此言武王之事,吾今行兼矣。」
むかし、武王は聖山である泰山のふもとで山の神を祭ろうとして、こう言ったという。
「泰山の神よ。恭しく従う曽孫である周王は申し上げる。天下の平定はほぼ終えた。仁人がまだ後始末を行っている。そのおかげで夏・殷の末裔や、周辺の蛮族どもを服属させることが出来た。周には一族の者が多いが、仁人には及ばない。人民に罪があれば、ただ私一人の責任である。」
これは武王の発言だが、我ら墨家は今、同様に「兼」(思いやり)を行うのだ。(『墨子』兼愛中7)
墨家は秦帝国の統一と共に、煙のように消えてしまったが、あまりに天下に勢力があったため、墨家の作ったラノベも天下に常識として通り、ゆえに後世の儒者もそのまま取り入れた。墨家が現伝の中国古代史に与えた影響は、思いのほか小さくない。
墨子や墨家の研究は、訳者の手に余るが、ざっと読む限り墨子その人は、技師の親分らしい現実主義者だった。兼愛非攻を説いたのも事実だろうが、現実離れは説いていない。そこに論語のこのあたりのような、あり得ない自己犠牲を書き付けたのは、後世の弟子である。
その後世と言っても、墨家が存続したのは戦国時代に限られる。墨子はもと儒家だったという説もあるが、どんな世界にせよ自分で派閥を起こせるのは常人ではなく、派閥の存続は運ばかりが左右しない。開祖が偉大であるからこそ、末裔がお粗末になるのはよくあることだ。
墨家には特徴があって、開祖の墨子を「子墨子」と呼ぶ。”偉大なる墨先生”の意で、児戯が好きな独裁国家の親玉そっくりだ。楊朱に見られるような合理主義を前にして、正反対の方向に突き進んだと言えるだろう。カルトが発狂の結果滅んだのが、墨家滅亡の真相かも知れない。
『墨子』に本来あったとされる、幾何学など数理を説いた部分が、早くに散逸したのは一つにそれゆえで、古今東西文系をこじらせる者は放置しても涌いてくるが、数理が分かる者は常に少数だ。読んでも分からんしカルトの邪魔にもなるしで、弟子が捨ててしまったのだろう。
現伝の『墨子』に記された幾何学・光学部分は墨子の作ではなく、前4-3世紀ごろの弟子の手になると銭宝琮編『中国数学史』は言う(p18)。『荘子』には、墨子の弟子が互いにいがみ合っていたという。メルヘン文系おたくと唯物理系の争いは、中国古代にもちゃんとある。
相里勤之弟子五侯之徒,南方之墨者苦獲、已齒、鄧陵子之屬,俱誦《墨經》,而倍譎不同,相謂別墨,以堅白、同異之辯相訾,以觭偶不仵之辭相應,以巨子為聖人,皆願為之尸,冀得為其後世,至今不決。
墨家の相里勤の弟子に五侯がおり、南方の墨家には苦獲、已歯、鄧陵子がいて、みな派閥を作って『墨子』を解読したが、互いに他派閥を馬鹿者呼ばわりし、ニセの墨家だとこき下ろした。
しかしどの主張も、「固さと白さは同時に関知できないから、堅くて白いものは存在しない」と詭弁を弄した公孫竜そっくりの言いがかりで、奇数と偶数を同じ高さに並べようがないように、決して歩み寄ろうとしなかった。
そして派閥の親玉を聖人としてあがめ、「首領様のためなら死んでもいい」とわめき、後世に名を残すことばかり願ったので、結局『墨子』に何が書いてあるかは、今に至るまで誰にも分からない。(『荘子』天下2)
なお論語のこの部分の発言者については、本来は誰だか分からないとするのが論理的には正しい。この点藤堂説では、朱子の新注を参照して、『書経』武成篇に「四海に大いに賚う」とあるのをひいて、発言者が武王であることの傍証としている。
武内本では、「周有大賚、善人是富。」を独立した地の文として扱い、「雖有周親、不如仁人。百姓有過、在予一人。」を、武王が太公望呂尚を斉の地に封じた(=諸侯として任命した)際に言った言葉だとする。
古注では、論語泰伯篇20に武王の発言として「乱臣(=有能な家臣)十人あり」とあるのを引いて、「周有大賚、善人是富。」以下を武王の発言だとしている。
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