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論語詳解497D堯曰篇第二十(4)はかりを謹み’

論語堯曰篇(4)要約:はかりを正確に、民政を手厚く、行政は迅速に。そうすると民が信用してくれて、万事丸く収まる、と孔子先生。使われたことばは論語の時代に遡りますが、言葉が指す意味は漢帝国にならないと現れません。

(検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

謹權量、審法度、修廢官、四方之政行焉。興滅國、繼絕世、舉逸民、天下之民歸心焉。所重、民食喪祭。〔寬則得衆、信則民任焉、敏則有功、公則*說。〕

校訂

諸本

  • 武内本:清家本により、則の下に民の字を補う。唐石経衆下、信則民任焉の一句あり、漢石経なし、此本(=清家本)と同じ。豊嶋豊洲(1737~1814、江戸儒者)云、此の句又陽貨篇子張問仁章に見ゆ、彼章によれば公の字は恐らく恵の字の壊れたるもの、テキコウ(1712~1788、清儒、『四書考異』を著す)云、陽貨篇子張問仁章、此篇陽貨篇子張問仁章と文勢画一、一手に出づるが如し、疑らくは子張問仁章、旧本此処にあって、今僅かにその残簡を存するか。

後漢熹平石経

謹…繼絕…歸心焉𠩄重民食喪󱩾寬則得衆敏則有功󱩾則說…

  • 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。

定州竹簡論語

……親,不如仁人。百姓有[過,在予一人。」謹權量,審]600……脩廢官,四方之正行a。興滅國,繼絕世,擧b泆c民,天601……心焉。所重:民、食、喪、祭。寬d得衆e,敏則有功,功f則g[説]。602

  1. 阮本”行”字下有”焉”字、皇本”行”字下有”矣”字。
  2. 擧、今本作”舉”。『説文』舉字如是作。
  3. 泆、今本作”逸”。音同可通。
  4. 今本”寬”字下有”則”字。此處脱”則”字。
  5. 原本”衆”字下有”信則民任焉”一句、漢石經、皇本、高麗本、均無。
  6. 功、今本作”公”字。音同古可通。
  7. 皇本、”則”下有”民”字。

→謹權量、審法度、脩廢官、四方之正行。興滅國、繼絕世、擧泆民、天下之民歸心焉。所重、民食喪祭。寬則得衆、敏則有功、功則說。

復元白文(論語時代での表記)

謹 金文県 金文量 金文 審 金文法 金文度 金文 攸 金文祓 甲骨文官 金文 四 金文方 金文之 金文正 金文行 金文 興 金文滅 金文国 金文 継 金文絶 金文世 金文 居 挙 舉 金文逸 金文民 金文 天 金文下 金文之 金文民 金文帰 金文心 金文安 焉 金文 所 金文重 金文 民 金文 食 金文 喪 金文 祭 金文 寬 金文則 金文得 金文衆 金文 敏 金文則 金文有 金文工 金文 工 金文則 金文兌 金文

※權→縣・脩→攸・廢→祓・擧→居・泆→逸・焉→安・功→工・說→兌。論語の本章は、文字史的には論語の時代にまで遡れるが、概念的に漢帝国になってからの創作の疑いが強い。「行」「則」の用法に疑問がある。

書き下し

權量はかりつつしみ、法度のりつまびらかにし、てらるるつかさをさまば、四方よもまつりごとおこなはる。ほろびたるくにおこし、へたるいへぎ、のがれたるたみぐらば、天下てんかたみこころおもんずるところは、たみじきとぶらひとまつりなり。ゆるやかならばすなはもろひとさとからばすなはいさをり、いさをあらばすなはよろこぶ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

重さや量の目盛りを狂い無く維持し、法の判断基準をすみずみまで理解し、廃止された官職を再び整えたなら、やっと全地方の政治が回るようになる。滅びた国を再興し、断絶した家系に跡継ぎを立て、世から忘れられた民を取り立てれば、やっと天下の民の支持が集まる。重んじるのは、民と、食糧と、葬儀と、祖先の祭礼。行政が寛大なら大勢の支持を得られ、〔信用があれば民が政治を任せ、〕有能なら成果をあげ、成果があるなら喜ぶ。

意訳

計りと枡目は、ごまかしの無いように気を付ける。判決の基準をすみずみまで良く理解する。意味の無くなった官職にも意味を取り戻して昔通りの行政を行う。これらが揃って、やっと全地方の政治がうまく回るようになる。

さらに滅びた国を再興し、途絶えた家系には跡継ぎを立ててやり、世間に知られない才人を取り立てれば、そこでようやく天下の民が支持してくれるのだ。

とりわけ、民政と、食糧確保と、葬祭と、祖先の供養には、気を付けて手厚く処理するように。それがうまくいったら、万事丸く収まるのだ。

従来訳

下村湖人

武王はこうして、度量衡を厳正にし、礼楽制度をととのえ、すたれた官職を復活して、四方の政治に治績を挙げられた。また、滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、野にあった賢者を挙用して、天下の民心を帰服せしめられた。とりわけ重んじられたのは、民の食と喪と祭とであった。
かように、君たる者が寛大であれば衆望を得、信実であれば民は信頼し、勤敏であれば功績があがり、公正であれば民は悦ぶ。これが政治の要道であり、堯帝・舜帝・禹王・湯王・武王の残された道である。

下村湖人先生『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「謹慎地審查計量,週密地制定法度,建立公正的人事制度,讓國家的法令暢通無阻,復興滅絕的國家,承繼斷絕的世族,提拔埋沒的人才,天下民心都會真心歸服。」掌權者應該重視:人民、糧食、喪葬、祭祀。寬容就能得到人民的擁護,誠信就能使人民的信服。勤敏就能取得功績,公正就能使人民幸福。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「真面目にはかりを審査し、緻密に法律を定め、公正な人事制度を作り、国家の法令を滞りなく適用させ、滅びた国家を復興し、血統の途絶えた一族を継承し、埋もれている人材を抜擢すれば、天下の人心は全て帰服する。」権力者が重視すべきは、人民、食糧、葬儀、祖先祭。寛容なら人民の支持を得、真面目なら人民の信頼を得る。勤勉に仕事を行えば功績が挙がり、公正なら人民を幸福に出来る。

論語:語釈

謹(キン)

謹 金文 堇 甲骨文
「謹」(金文)/「堇」(甲骨文)

論語の本章では、”ゆるがせにしないこと”。初出は甲骨文。ただし字形はごんべんを欠く「𦰩」。字形は雨乞いに失敗したみこを焼き殺すさまで、原義は”雨乞い”・”日照り”。論語の時代までに「堇」と書かれるようになり、”つつしむ”の派生義があった。詳細は論語語釈「謹」を参照。

權量

権 古文 量 金文
「権」(古文)・「量」(金文)

論語のみならず漢文では、「權」(権)は重さの基準となる重り、「量」は量の基準となるます﹅﹅。もと、「権」「量」ともに重さを意味したが、のち「量」は量を意味するようになった。

「權」の初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。『大漢和辞典』で音ケン訓おもりに「縣」(県)があり、初出は西周中期の金文。詳細は論語語釈「権」を参照。

「量」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「穀物のしるし+重」の会意文字で、穀物の重さを天びんではかることを示す。穀物や砂状のものは、はかりとますとのどちらでもはかる。のち、分量の意となる、という。詳細は論語語釈「量」を参照。

審 金文
(金文)

論語の本章では、すみずみまで良く理解すること。論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文

『学研漢和大字典』によると、番(ハン)は、穀物の種を田にばらまく姿で、播(ハ)の原字。審は「宀(やね)+番」会意文字で、家の中に散らばった細かい米つぶを、念入りに調べるさま。、という。詳細は論語語釈「審」を参照。

法度(のり/ホウト)

法 古文 度 古文
(古文)

論語の本章では”法律や制度”。『学研漢和大字典』にのせる藤堂説では”礼法の規範”というが、藤堂本では”きまり”と訳している。原義としては”法”と”めもり”であり、判例や法の基準を指す。特に礼法と解釈せねばならない根拠は、儒者の個人的感想以外には無い。

古注

古注 皇侃
法度謂可治國之制典也
法度とは国を治めることができる制度を言う。(『論語集解義疏』)

新注

朱子 新注
法度,禮樂制度皆是也。
法度とは、礼法や音楽の決まりが、みなこれに当たる。(『論語集注』)

灋 法 旧字体
なお「法」の字はもと上掲のように書き、『字通』によれば羊神判で裁判の決着を付けることだった。こもに似た部分は、簀巻きにした犠牲の羊と敗訴者を意味し、さんずいはそれを水に投じること、去は投げ去って罪の穢れを清める事を意味する。

それゆえ大幅に省略された現行書体の「法」が見られるのは、秦系戦国文字まで下る。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると、「水+廌(しかと馬に似た珍しい獣)+去(ひっこめる)」の会意文字で、池の中の島に珍獣をおしこめて、外に出られなうようにしたさま。珍獣はそのわくのなかでは自由だが、そのわく外には出られない。ひろくそのような、生活にはめられたわくをいう、という。詳細は論語語釈「法」を参照。

「度」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「又(て)+(音符)庶の略体」の形声文字で、尺(手尺で長さをはかる)と同系で、尺とは、しゃくとり虫のように手尺で一つ二つとわたって長さをはかること。また、企図の図とは、最も近く、長さをはかる意から転じて、推しはかる意となる。、という。詳細は論語語釈「度」を参照。

なお「法」の古い発音は-pで終わるが、下に続く語がt-で始まる場合、「ホッ」「ハッ」と発音すると『学研漢和大字典』は言う。「法度」を日本語で「ハット」と読むのはそれに従った発音。

修→脩

修 古文 修 字解
(古文)

論語の本章では”再び整える”。

「修」の初出は前漢の篆書。論語の時代に存在しない。部品のユウ初出は甲骨文。「修に通ず」と『大漢和辞典』に言う。『学研漢和大字典』による原義は、人の背中にさらさらと細く長く水を注いで行水させるさまで、すらりと姿を整えること、という。詳細は論語語釈「修」を参照。

定州竹簡論語の「脩」の初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。「修」同様に、部品の「攸」が論語時代の置換候補となる。詳細は論語語釈「脩」を参照。

廢官

廃 古文 官 金文
「廃」(古文)・「官」(金文)

論語の本章では”廃れた・廃止された官職”。

「廢」(廃)の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。同音は「祓」のみ、甲骨文のみ出土。この字に”とりのぞく”の語義がある。詳細は論語語釈「廃」を参照。

「官」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、𠂤(タイ)は、隊や堆(タイ)と同系で、人や物の集団を示す。官は「宀(やね)+𠂤(つみかさね)」の会意文字で、家屋におおぜいの人の集まったさま。また、垣(エン)や院(へいで囲んだ庭)とも関係が深く、もと、かきねで囲んだ公的な家屋に集まった役人のこと、という。詳細は論語語釈「官」を参照。

四方

論語の本章では”あらゆる方面”。

「四」はもと「亖」と書き、初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「囗+八印(分かれる)」の会意文字で、口から出た息が、ばらばらに分かれることをあらわす。分散した数、という。詳細は論語語釈「四」を参照。

「方」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、左右に柄の張り出たすきを描いた象形文字で、←→のように左右に直線状に伸びる意を含み、東←→西、南←→北のような方向の意となる。また、方向や筋道のことから、方法の意を生じた、という。詳細は論語語釈「方」を参照。

政→正

論語の本章では”行政”。

『学研漢和大字典』によると、正とは、止(あし)が目標線の━印に向けてまっすぐ進むさまを示す会意文字。征(セイ)(まっすぐ進む)の原字。政は「攴(動詞の記号)+(音符)正」の会意兼形声文字でで、もと、まっすぐに整えること。のち、社会を整えるすべての仕事のこと。正・整(セイ)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「政」を参照。

『定州竹簡論語』で「正」と書くが、すでにあった「政」の字を避けた理由は、おそらく秦帝国時代に、始皇帝のいみ名「政」を避けた名残。加えて”政治は正しくあるべきだ”という儒者の偽善も加わっているだろう。詳細は論語語釈「正」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行う”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

論語の本章では”継承させる”。新字体は「継」。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、斷(=断)の字の左側の部分は、糸をばらばらに切ることを示す。繼は「糸+斷の字の左側の部分」の会意文字で、切れた糸をつなぐこと、という。詳細は論語語釈「継」を参照。

絕世

絶 金文 世 金文
(金文)

論語の本章では”断絶した家系”。

「絕」(絶)の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「糸+刀+卩(セツ)(節の右下)」の会意文字で、刀で糸や人を短い節に切ることを示す。ふっつりと横に切ること、という。詳細は論語語釈「絶」を参照。

「世」の初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると、十の字を三つ並べて、その一つの縦棒を横に引きのばし、三十年間にわたり期間がのびることを示し、長くのびた期間をあらわす会意文字、という。詳細は論語語釈「世」を参照。

論語の本章では”役人に採用する”。新字体は「挙」。『大漢和辞典』では「擧」を正字とするが、台湾では「舉」を正字とする。初出は戦国時代の金文。同音の「居」に”おく・すまわせる”の語釈が『大漢和辞典』にあり、ある人物をある地位に就けることを意味する。詳細は論語語釈「挙」を参照。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

逸民→泆民

逸 金文 民 金文
(金文)

論語の本章では”世間から隠れた(才能ある)人”。従来の論語本には、戦乱などにより”よるべの無くなった人”=避難民と解釈するものがあるが、「挙(逸民)」とは、(逸民を)取り立てることだから、意味が合わない。論語語釈「民」も参照。

「逸」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「兎(うさぎ)+甞(足の動作)」の会意文字で、うさぎがぬけ去るように、するりとぬけること、という。詳細は論語語釈「逸」を参照。

定州竹簡論語の「泆」は「逸」と同音で、確実な初出は説文解字だが、定州竹簡論語まで遡ることになる。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「泆」を参照。

民食喪祭

ここの解釈は二通りあり得て、「民」「食糧」「葬儀」「祭祀」の四つと解するか、「民の食糧」「葬儀の祭礼」と二つに解するかのいずれか。文字史的には、本章は論語の時代にまでは遡りうるから、四つに解した方に理がある。

「民」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、ひとみのない目を針で刺すさまを描いた象形文字で、目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。のち、目の見えない人のように物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々の意となる、という。詳細は論語語釈「民」を参照。

「食」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「亼(あつめて、ふたをする)+穀物を盛ったさま」をあわせた会意文字。容器に入れて手を加え、柔らかくしてたべることを意味する、という。詳細は論語語釈「食」を参照。

「喪」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「哭(なく)+口二つ+亡(死んでいなくなる)」の会意文字で、死人を送って口々に泣くことを示す、という。詳細は論語語釈「喪」を参照。

「祭」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「肉+又(手)+示(祭壇)」の会意文字で、肉のけがれを清めて供えることをあらわす、という。詳細は論語語釈「祭」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…の場合は”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

眾(シュウ)

衆 甲骨文 衆 字解
(甲骨文)

論語の本章では”大勢の人望”。「眾」「衆」は異体字。初出は甲骨文。字形は「囗」”都市国家”、または「日」+「人」三つ。都市国家や太陽神を祭る神殿に隷属した人々を意味する。論語の時代では、”人々一般”・”多くの”を意味した可能性がある。詳細は論語語釈「衆」を参照。

寬則~則說

古来指摘されるように、論語陽貨篇6の重複。

寬則得衆、信則人任焉、敏則有功、惠則足以使人。
ゆるやかならばすなはひとまことあらばすなはひとこれまかし、さとからばすなはいさをり、めぐまばすなはもつひと使つかふにらん。
寛大なら、必ず多くの人の信頼を得る。正直なら必ず人は任せる。勤勉なら必ず実績が上がる。恵み深ければ、必ず人を使う条件が足りる。

陽貨篇との違いは、「人」が「民」になっており、最終句が「公則說」となっていることだが、最終句は「おほやけならば則ちよろこぶ」と読み下せ、”公平なら喜ぶ”の意となる。「得衆」より後ろの文字列には諸本に異同があり、時系列に並べると次の通り。

  • 定州竹簡論語では上掲の通り、「敏則有功功則說」となっている。解釈は”素早ければ功績が挙がる。功績が挙がれば喜ぶ”。
  • 漢石経『論語』では、『論語集釋』を孫引きすると、「敏則有功公則說」となっている。解釈は”素早ければ功績が挙がる。公平なら喜ぶ”。
  • 『論語義疏』では、「敏則有功公則民悦」となっている。解釈は”素早ければ功績が挙がる。公平なら民が喜ぶ”。
  • 唐石経『論語』では、「信則民任焉敏則有功公則說」となっている。解釈は”信頼があれば民は任せきる。素早ければ功績が挙がる。公平なら喜ぶ”。
  • 宮内庁書陵部蔵『論語注疏』では、「信則民任焉敏則有功公則說」となっている。解釈は”信頼があれば民は任せきる。素早ければ功績が挙がる。公平なら喜ぶ”。

これは時代が下るに従い、武内本にあるように、ただの個人的感情から「論語陽貨篇6の子張問と同じだ」と言い出す連中が増えたからで、ある程度そうした輩の数が増えると原文が書き換えられることになる。「自分の思い通りの言葉が、なんと論語に入った。未来永劫引き継がれるであろう」と、連中には達成感のある仕事だろうが、後世の読者には迷惑だ。行動のメカニズム的には、痴漢とやっていることは変わらない。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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アルファー 計量
まず定州竹簡論語が、すでに滅びた秦帝国の初代始皇帝の名を避諱していることについて。中国に避諱の習慣が始まったのは、いつのことか明瞭でない。文献上の初出は、『春秋左氏伝』になる。

桓公六年…九月,丁卯,子同生,以大子生之禮舉之,接以大牢,卜士負之,士妻食之,公與文姜宗婦命之,公問名於申繻,對曰,名有五,有信,有義,有象,有假,有類,以名生為信,以德名為義,以類命為象,取於物為假,取於父為類,不以國,不以官,不以山川,不以隱疾,不以畜牲,不以器幣,周人以諱事神,名,終將諱之,故以國則廢名,以官則廢職,以山川則廢主,以畜牲則廢祀,以器幣則廢禮,晉以僖侯廢司徒,宋以武公廢司空,先君獻武廢二山,是以大物不可以命,公曰,是其生也,與吾同物,命之曰同。

春秋左氏伝 定公五年
桓公六年(BC706)…九月、ひのとうの日、桓公の子・同が生まれた。太子の礼に従って、牛・羊・豚の焼肉セットを用意し、占いで決まった下級貴族が子を背負い、その妻が乳を飲ませ、国公と夫人、公族の婦人が集まって名を付ることになった。桓公は名付けを申繻に相談した。

申繻「名づけ方には、信義象仮類の五法があります。生まれた時で名づけるのを信、振る舞いで名づけるのを義、似たもので名づけるのを象、何かにたとえて名づけるのを仮、父にちなむのを類と言います。

ですが禁止事項があります、国や官職、山川や疾病、家畜や財宝の名を付けてはなりません。周の人は、いみ名で亡霊を供養し、いみ名は死後には使いません。ですから禁止事項があるのです。それらで名づければ、死後に国…財宝にその名が使えず、祭祀が滞って困るからです。

ですから晋国では、僖公に司徒と名づけたため使徒の名を変え、宋国では武公に司空と名づけたため司空を改め、我が魯国も献公・武公の名付けから二つの山の名を変えました。ですから大きなものの名を付けてはなりません。」

桓公「ではこの子は私に似ているから、同と名づけよう。」(『春秋左氏伝』桓公六年)

ここに見られるのは「死後にいみ名=本名を呼ばない」で、生前については何も言っていない。いみ名を目上だけが呼び得たのは、すでに周代の習慣だっただろうが、君主のいみ名を他の事物についても使わない始まりは、一説に秦帝国で正月を「端月」といったことだという。

始皇帝のいみ名「政」だけでなく、部品で同音の「正」まで避けたということだが、「端月」は『史記』の表に見られるだけで、そうせよと秦帝国が命じた記録は無い。だが「政」については、次のように記録されることから、避けられたと見るのがよいだろう。

侯生盧生相與謀曰「…秦法,不得兼方不驗,輒死。然候星氣者至三百人,皆良士,畏忌諱諛,不敢端言其過。」

史記
お雇い学者の侯と盧が相談した。「…秦の法律では、たとえ誰にも手の付けようのない事柄だろうと、どんなに手を尽くしても効果が無いと、すぐに死罪だ。だからせっかく腕の良い気象技師を三百人も抱えながら、みな死罪を恐れて縁起のいい事ばかり言い、死罪の言いがかりを付けられそうなことは一切言わない。」(『史記』秦始皇本紀41)

秦俗多忌諱之禁,忠言未卒於口而身為戮沒矣。

史記 孔子世家 武英殿十三経注疏本
秦の習慣では、禁止事項があまりに多く、正直者の発言も口から出し終わる前に殺されてしまった。(『史記』秦始皇本紀論賛)

司馬遷 始皇帝
司馬遷は秦を滅ぼした漢の役人で、秦を𠮷外国家として描く必要があったから、どこまで本当か信じかねるが、陳勝呉広の乱のように、秦の法運用があまりに過酷だったため、人々に嫌われたのは事実と信じる。文字も使わない生前の避諱は、始皇帝から始まったとみてよい。

定州竹簡論語の筆者は、むろん前漢の人だが、それでも始皇帝への避諱を続けていることになる。これは避諱の範囲がどこまでか曖昧だったため、滅びた帝国の君主にまで遡って避諱しないと、どんな言いがかりが付くか分からなかったからだ。この点漢は秦とそんなに違わない。

前漢武帝
重複を恐れず記せば、名君・景帝は皇太子時代、すごろくのいさかいから親戚を殴刂殺しておとがめ無しだった。景帝の母親・竇太后は、物言いが気に入らないからと家臣を生きたイノシシがいる檻に放り込んだ。武帝は気分次第で、家臣やその家族を皆殺しにした。

かように中国の帝政とはろくでもない。

次に本章の史実性の検討だが、文字的には「謹」が春秋末期にならないと現れないが、ぎりぎり論語の時代に存在し得た。だが意味内容は不審極まりない。「脩廢官」は論語の本章を除き、どの儒者も他学派も言っていない。論語以外の初出は後漢の『漢書』律暦志になる。

「審法度」は「審」は言わなかったが法家に近い儒家の荀子が「法度」を強調した。「興滅國」「繼絕世」は前漢の『説苑』や『韓詩外伝』に記述がある。ただし戦国時代の儒者は一切言及していない。「存亡繼絕之義」が『呂氏春秋』審応編に見られるのみ。

「擧泆民」は前漢の『説苑』に記載があるが、やはり戦国の儒者は一切言及していない。

なお「謹權量」も、戦国の儒者も前後の漢帝国の儒者も言っていないが、雑家に分類される鬼谷子がこう書いている。

司其門戶,審察其所先後,度權量能,校其伎巧短長。

鬼谷子
出来事の生起するさまをよく見張り、事の前後を明らかに知り、重さを量り能力を見積もり、事を行う者の得意不得意をよく観察するがいい。(『鬼谷子』捭闔)

「度權量能」は「おもさはかあたうるをはかる」とよみ、「權量」は熟語ではないが、うっかりすると鬼谷先生が論語の本章の元ネタと勘違いしてしまいそうだ。そして論語のこの部分には、「誰が言った」という主語が書いていない。古来孔子だと言われたがその証拠は無い。

言い出したのは上掲後漢の『漢書』。

《虞書》曰「乃同律度量衡」,所以齊遠近立民信也。自伏戲畫八卦,由數起,至黃帝、堯、舜而大備。三代稽古,法度章焉。周衰官失,孔子陳後王之法,曰:「謹權量,審法度,修廢官,舉逸民,四方之政行矣。」

漢書 班固
『虞書』にいわく、「音階と度量衡を統一した」。だから遠近の民が王権を信用した。伏羲が八卦図を描いたことで、「数」の概念が生まれ、黄帝から尭・舜の治世に大いに整備された。夏・殷・周三代はこの古法にならい、法律を明らかにした。周の権力が衰えて行政が機能しなくなると、孔子が後の世のため教訓を垂れた。いわく、「はかりを…。」(『漢書』律暦志上)

班固とその一族が、後漢儒にしては真面目なのを認めるが、つまるところこの部分も創作だ。結局論語のこの部分は、戦国・秦帝国の時代に語られていなかった概念が多すぎることから、文字史的には論語の時代に遡れても、前漢になってからの創作と見るのが妥当だろう。

最後に中国の度量衡について、『新字源』より引用する(画像クリックで拡大)。
中国 度量衡 変遷

大まかに言って長さは時代と共に増大し、それゆえ面積や体積も増大の傾向にあるが、重さだけは周以降、古代秦漢帝国が滅亡し、中世隋帝国が中国を再統一するまで、軽くなる傾向にある。税の穀物一粒をめぐって、政府と民がせめぎ合った結果だ。

政府は枡を大きく作って、一粒でも多く取り立てようと企んだのに対し、民はスカスカのしいなや、籾殻をまぜて対抗した。「上に政策あれば、下に対策あり」は中華文明発生以来、現代に至るまで変わることの無い、まことに中国をよく表す現象と言える。

『論語』堯曰篇:現代語訳・書き下し・原文
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