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論語詳解116公冶長篇第五(24)巧言令色足恭は*

論語公冶長篇(24)要約:後世の創作。孔子先生は、愛想笑いや猫なで声を嫌いました。それは嘘と同じで、人間の正体を隠し、よい関係を作れなくするからでした。ある賢者が同じ事を言うと知って、先生は大いに同感した、という作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰巧言令色足恭左丘明恥之丘亦恥之匿怨而友其人左丘明恥之丘亦恥之

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

子曰巧言令色足恭/左丘明恥之丘亦恥之/匿怨而友其人/左丘明恥之丘亦恥之

  • 「友」字:右側に〔丶〕一画あり。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[言]、令色、足[恭,左丘明]佴之,丘亦佴[之。匿𤇘a而]103……

  1. 𤇘、今本作「怨」。

標点文

子曰、「巧言令色足恭、左丘明佴之、丘亦佴之。匿𤇘而友其人、左丘明佴之、丘亦佴之。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 言 金文 令 金文色 金文 足 金文龏 金文 左 金文丘 金文明 金文之 金文 丘 金文亦 金文之 金文 匿 金文夗 怨 金文而 金文友 金文其 金文人 金文 左 金文丘 金文明 金文之 金文 丘 金文亦 金文之 金文

※恭→龏・𤇘→夗。論語の本章は「巧」「佴」(恥)の字が論語の時代に存在しない。「令」「足」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、たくみのことのはうるはしのかんばせすぎたるゐやは、左丘明さきうめいこれづ、きうまたこれづ。𤇘うらみかくひとともとするは、左丘明さきうめいこれづ、きうまたこれづ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 左丘明
先生が言った。「お世辞、愛想笑い、卑屈、これらをキュウメイは恥じた。私もまた恥じる。怨みを隠してその人を友とするのを左丘明は恥じた。私もまた恥じる。」

意訳

孔子 人形
うわべを繕って人をたらし込むこと、金のためにいやな奴と付き合うのを左丘明は恥じた。私もまた恥じる。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「言葉巧みに、顔色をやわらげて人の機嫌をとり、度をこしてうやうやしく振舞うのを、左丘明(さきゅうめい)は恥じていたが、私もそれを恥じる。心に怨みをいだきながら、表面だけいかにも友達らしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「甜言蜜語、滿臉堆笑、點頭哈腰,左丘明認為可恥,我也認為可恥;心懷怨恨跟人交朋友,左丘明認為可恥,我也認為可恥。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「甘い言葉にとろかす話、満面に満たした作り笑顔、ペコペコ頭を下げ腰をかがめる。左丘明は恥じるべきだとした。私もまた恥じるべきだと思う。心に怨みを持ったままその人と友人づきあいをする。左丘明は恥じるべきだとした。私もまた恥じるべきだと思う。」

論語:語釈

、「 ( ( ( (。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

巧(コウ)

巧 楚系戦国文字 巧 字解
「巧」(楚系戦国文字)

論語の本章では”よく作られた”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。原義は”細かい細工”。現行字体の偏は工作を意味し、つくりは小刀の象形。中国の字書に収められた古い文字(古文)では、へんがてへんになっているものがある。上掲楚系戦国文字は、「〒」も「T]もおそらく工具で、それを用いて「又」=手で巧みに細工することだろう。詳細は論語語釈「巧」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ことば”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

令(レイ)

令 甲骨文 令 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「麗」と同じく”うるわしい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「シュウ」”あつめる”+「セツ」”ひざまずいた人”で、原義は”命令(する)”。甲骨文では原義で、金文では”任命する”・”褒美を与える”・”寿命”の語義がある。ただし”美しい”の語義は、初出が前漢初期の『爾雅』で、論語の時代以前に確認できない。詳細は論語語釈「令」を参照。

色(ソク)

色 金文 色 字解
(金文)

論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。

足(ショク/シュ)

足 疋 甲骨文 足 字解
「疋」(甲骨文)

論語の本章では”やり過ぎる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「疋」と未分化。”あし”・”たす”の意では「ショク」と読み、”過剰に”の意味では「シュ」と読む。同じく「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。

恭(キョウ)

恭 楚系戦国文字 恭 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”つつしみ深い”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「共」+「心」で、ものを捧げるような心のさま。原字は「キョウ」とされ、甲骨文より存在する。字形は「ケン」”刃物”+「虫」”へび”+「廾」”両手”で、毒蛇の頭を突いて捌くこと。原義は不明。甲骨文では地名・人名・祖先の名に用い、金文では人名の他は「恭」と同じく”恐れ慎む”を意味した。詳細は論語語釈「恭」を参照。

足恭(シュキョウ)

論語の本章では、”馬鹿丁寧”。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)では「シュキョウ」となるはずだが、日本の漢文業界では「足」をなまった呉音で読み「スウキョウ」と読む座敷わらしになっている。

座敷わらし
武内本に「足は容貌の意」とある。足恭を「足りすぎた恭しさ」と吉川本に言う。『学研漢和大字典』では「うやまって度をこすこと。ばかていねい」という。『大漢和辞典』に「おもねりへつらふ。又、うやまひ過ぎる」とある。「国学大師」に『汉语大词典』を引いて「过分恭顺,以取悦于人:巧言,令色,足恭。」とある。

更に古くはこう言う。古注・孔安国「足恭便僻之貎也」”足恭とは媚びへつらいの顔だ”。新注・朱子「足,過也」”足とはやり過ぎのことだ”。

いずれにせよ「足」については春秋時代には見られない用例で、近い用例は”軍務につく”文脈での”助ける”。免簋(西周中期)に次の通り言う。

免簋
唯十又二月初吉,王在周,昧爽,王格于太廟,丼叔祐免,即令,王授作冊尹者,俾冊令免,曰令汝疋周師司廩,賜汝赤巿,用事。免對揚王休,用作尊簋,免其萬年永寶用。

うち「足」が関わるのは「令汝疋周師司廩,賜汝赤巿,用事」の部分で「疋」と記し、”お前に周軍の兵糧監督を補助させるから、その証しとして赤い膝掛けを渡すので、職務の際は着て出るように”とある。赤フンと同じく目立つからだろう。

春秋時代漢文の心がけとして、一字一義であり熟語は無いものと心得ねばならないから、「慎みを大げさにする”と解するべきではある。だが本章が後世の創作とするならこの限りではない。

左丘明(サキュウメイ)

論語 左丘明

古来誰だかよく分かっていない。一説に孔子の同時代人・同国人で、『左伝』『国語』の筆者という。『史記』によれば、目が見えなかったという。

左 甲骨文 左 字解
「左」(甲骨文)

「左」の初出は甲骨文。字形は左手の象形。原義は”左”。「漢語多功能字庫」によると、甲骨文では原義に、金文では加えて”補佐する”の意で用いた。論語語釈「左」を参照。

丘 甲骨文 丘 字解
「丘」(甲骨文)

「丘」の初出は甲骨文。字形は丘の象形。原義は”丘”。甲骨文では原義、地名に用い、戦国の金文では加えて姓氏名に用いた(廿七年安陽戈)。戦国の竹簡では人名に用いた。論語語釈「丘」を参照。

明 甲骨文 明 字解
「明」(甲骨文)

「明」の初出は甲骨文。字形は太陽と月の組み合わせ。原義は”明るい”。呉音(遣隋使・遣唐使より前に日本に伝わった音)は「ミョウ」、「ミン」は唐音(遣唐使廃止から江戸末期までに伝わった音)。甲骨文では原義で、また”光”の意に用いた。金文では”清める”、”厳格に従う”、戦国の金文では”はっきりしている”、”あきらかにする”の意に用いた。戦国の竹簡では”顕彰する”、”選別する”、”よく知る”の意に用いた。論語語釈「明」を参照。

恥(チ)→佴(ジ)

現存最古の論語本である定州竹簡論語は「佴」と記し、唐石経・清家本は「恥」と記す。時系列に従い「佴」に校訂した。『大漢和辞典』も「国学大師」も「漢語多功能字庫」も「佴」に”はじ(る)”の語釈を載せていない。カールグレン上古音も「佴」ȵi̯əɡ(去)に対し「恥」tʰi̯əɡ(上)と異なる。

定州本では三ヶ章に「佴」字を用いているが、全て現伝論語では「恥」になっている。その三ヶ章いずれも、「恥」と解さないと文意が通らない。ただし定州本は「恥」字も二ヶ章で用いており、使い分けがあるのか、単なる混用かは不明。本サイトでは、とりあえず「佴」を「恥」として解することにした。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

恥 楚系戦国文字 恥 字解
(楚系戦国文字)

「恥」は論語の本章では”はじる”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「耳」+「心」だが、「耳」に”はじる”の語義は無い。詳細は論語語釈「恥」を参照。

”はじ”おそらく春秋時代は「羞」と書かれた。音が通じないから置換字にはならないが、甲骨文から確認できる。『定州竹簡論語』の置換字「佴」は、「恥」とは音も語義も違うが、初出は戦国文字で、こちらも論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「佴」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”これ”。「巧言令色足恭」「匿𤇘而友其人」の言い換え。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

丘(キュウ)

論語 孔子 キメ

論語の本章では、孔子のいみ名。いみ名は謙遜した自称や、目上による呼びかけに用いる。それ以外はあざ名を用いる。孔子の場合、孔が姓で丘がいみ名、仲尼があざ名とされている。孔子の生涯1を参照。文字的には論語語釈「丘」を参照。

亦(エキ)

亦 甲骨文 学而 亦 エキ
(甲骨文)

論語の本章では”…もまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。

匿(ジョク)

匿 甲骨文 匿 字解
(甲骨文)

論語の本章では”かくす”。論語では本章のみに登場。『大漢和辞典』の第一義は”にげる”。初出は甲骨文。「トク」は慣用音。呉音は「ニョク」。甲骨文の字形は「𠃊」+”髪を延ばし、跪いて天を仰ぐ人”で、隠れて祈ったりのろったりするさま。原義は”隠れて”。金文では”邪悪”の意に(大盂鼎・西周早期)、戦国の竹簡では”隠す”・”邪悪”の意に用いた。詳細は論語語釈「匿」を参照。

怨(エン)→𤇘

怨 楚系戦国文字 夗 怨 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”うらむ”。初出は楚系戦国文字で、論語の時代に存在しない。「オン」は呉音。同音に「夗」とそれを部品とする漢字群など。論語時代の置換候補は「夗」。現伝の字形は秦系戦国文字からで、「夗」”うらむ”+「心」。「夗」の初出は甲骨文、字形は「夊」”あしを止める”+「人」。行きたいのを禁じられた人のさま。原義は”気分が塞がりうらむ”。初出の字形は「亼」”蓋をする”+うずくまった人で、上から押さえつけられた人のさま。詳細は論語語釈「怨」を参照。

定州竹簡論語の「𤇘」は『大漢和辞典』にも記載が無く音不明。「国学大師」が『可洪音義』(五代)を引いて「俗聚」という。『説文解字』にも記載が無い。「怨」の誤字か異体字として扱って構わないだろう。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

友(ユウ)

友 甲骨文 友 字解
(甲骨文)

論語の本章では”友人として付き合う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。原義は農具の。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、論語学而篇3と前半が重複。論語公冶長篇(24)にも見える。だが戦国時代の儒家も、他学派も「巧言令色」を言っていない。「巧言令色」の再出は前漢の『説苑』臣術篇から。だが「左丘明」を含めた本章の全文は、先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。

定州竹簡論語にあることから、前漢前半には論語の一章として成立していたことになる。前漢儒の創作を疑ってよいのだが、「佴」(恥)の字を除けば春秋時代まで遡れる上に、本章を偽作する動機がよく分からない。漢代に左丘明称揚運動があったという話も聞かない。

ただし「足恭」の確実な再出は、いわゆる儒教の国教化を推進した董仲舒の『春秋繁露』五行相勝5で、董仲舒には論語の本章を偽作する動機が十分ある(後述)。

前漢年表

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解説

左丘明は伝統的には、孔子の記した魯国の年代記『春秋』に伝を書き加え、『春秋左氏伝』として再編した人とされる。歴史書『国語』も編んだとされる。盲目伝説もあるが初出は『史記』自序からで、史実とは思えない。またwaikipediaは以下の通り記す。

『春秋左氏伝』の作者については、劉向『別録』に、左丘明が『左伝』を曽申(曽子の子)に伝え、曽申が呉起に伝えたとしている。このことから孔子と同時代かそれより少し後の人とわかる。(wikipedia左丘明条)

劉向

waikipediaの言い分は理に合わない。劉向がはるか後世の前漢後半の人物であること、曽子はそもそも儒者ではなく孔子家の家事使用人に過ぎなかったこと、従ってその家族伝説は極めて疑わしいことから、「孔子と同時代かそれより少し後の人とわかる」わけではない。

劉向『別録』の該当部分は以下の通り。

劉向『別録』始魯人左邱明為春秋作傳漢興張蒼賈誼皆為左氏訓
漢紀又荀紀此下有云劉歆尤喜左氏平帝時立左氏春秋毛詩逸祗古文尚書後復皆蘇此亦荀氏復記後事非別録本文
又曰左邱明授曽申申授衛人呉起授其子期期授楚人鐸椒也鐸椒作鈔撮八巻授趙人虞卿作鈔撮九巻授同郡荀卿荀卿授武威張倉
(北京大学図書館蔵 師石山房叢書第一『七略別錄佚文』)

「邱」は孔子のいみ名「丘」をはばかって書き換えた同音別字とされる(避諱ヒキ)。「阝」にも”おか”の意がある。この本は字に異同がありまじめに校訂していないようだし、紙面が汚くて、書き込みばかりか落書きまであり、読めない字が多い。だいたい次のようなことが書いてある。

魯の人左丘明が『春秋』に伝を書き足し、漢が興ると張蒼賈誼が『左氏伝』の解釈本を書いた。
(注。『漢紀』には『左氏伝』を最も好んだのは劉歆だといい、平帝の時代に『左氏伝』と『詩経』の国立講座を設置し、ただし古文『書経』は後になって講座が再開された。荀氏によって書かれたそのあたりの消息は、本文で別に述べる。)
また左丘明は曽申に伝授し、曽申は衛国人の呉起に伝授し、呉起はその子の呉期に伝授し、呉期は楚国人の鐸椒に伝授した。鐸椒は伝授された話を八巻にまとめ、趙国人の虞卿に伝授した。虞卿はさらに九巻にまとめ、同じ郡の荀子に伝授した。荀子は武威郡の張蒼に伝授した。

余話

人でなしの主君とろくでなしの家臣

董仲舒 前漢武帝
董仲舒が仕えた武帝は少年期、道家好みの帝室の年配女性からさんざんいじられた心のトラウマがあり、それを和らげるよう董仲舒が勝手に調合した儒教をすり込んだ。いわゆる儒教の国教化だが、武帝に気に入られるためなら、董仲舒は儒教経典の偽作改作を平気でやった。

その結果、論語も儒教経典も滅茶苦茶になったが、こうでもしなければ儒家は滅んで、いま論語を読むことは出来ないかも知れない。事実上の武帝の後継者、宣帝は「儒者という役立たずども」と平気で言い放っており、漢帝室と中国社会の宗教と言えばむしろ道教だったからだ。

その董仲舒にも政敵がいた。それも同じ儒家だった。

名を公孫弘といい、互いに武帝の寵愛を競い合った。董仲舒は武帝の即位前に博士官だったが、当時の儒家をシメていたわけではない。前漢末の楊雄は、公孫弘と董仲舒の比較を問われ、「董仲舒は能が足りん。公孫弘はデキ者」と答えた(『楊子法言』淵騫卷第十一18)。

董仲舒は武帝からはお抱え芸人程度の扱いしか受けなかったが、公孫弘は宰相にまで出世した。権力を握ったからには、当然ながら目障りな董仲舒を地方に飛ばそうとした。それもただの左遷ではなく、「あわよくば死んでしまえ」と悪意を込めた人事である。

是時方外攘四夷,公孫弘治春秋不如仲舒,而弘希世用事,位至公卿。仲舒以弘為從諛,弘嫉之。膠西王亦上兄也,尤縱恣,數害吏二千石。弘乃言於上曰:「獨董仲舒可使相膠西王。」膠西王聞仲舒大儒,善待之,仲舒恐久獲罪,病免。


前漢武帝の時代、四方の蛮族を大いに打ち破り、公孫弘は董仲舒と並んで『春秋』の研究に取り組んだが、解釈は全然違っていた。公孫弘が政才を発揮して閣僚にまで出世したのに対し、武帝の太鼓持ちに過ぎなかった董仲舒は「あのゴマスリ男め」と言って妬んだ。

当時武帝の兄の膠西王が、任国でわがまま放題に振る舞い、たびたび地方の高官を殺していた。それにかこつけて公孫弘は武帝に進言した。「まこと儒学の奥義を究めた董仲舒どのこそを、膠西王殿下のお目付役に据えれば、丸く収まると思います。」

膠西王は董仲舒が名高い儒者だと聞いていたので、喜んで迎える支度をした。だが董仲舒は「殺されに行くようなものだ」と恐れおののき、仮病を使って赴任を取り消して貰った。(『漢書』董仲舒伝42)

董仲舒は仮病を使った以上、再度の仕官もかなわずに、自宅に引き籠もって鬱々と過ごすハメになった。ただでさえ妬んでいた上にこの仕打ちでは、あの手この手で公孫弘を引きずり下ろそうとしたに違いない。中国人の死生観では、名を落とすのが死後であっても腹が立つ。

だから後世に向かって、公孫弘がトンデモナイ奴だと書き散らし、当時経典扱いはされていなかった論語は、勝手にいじって後世に残すには適切だった。対して公孫弘は、儒教よりひたすら武帝の寵愛を得るに忙しく、それだけにもちろん武帝を操る演技には長けていた。

汲黯曰:「弘位在三公,奉祿甚多,然為布被,此詐也。」上問弘,弘謝曰:「有之。夫九卿與臣善者無過黯,然今日庭詰弘,誠中弘之病。夫以三公為布被,誠飾詐欲以釣名。且臣聞管仲相齊,有三歸,侈擬於君,桓公以霸,亦上僭於君。晏嬰相景公,食不重肉,妾不衣絲,齊國亦治,亦下比於民。今臣弘位為御史大夫,為布被,自九卿以下至於小吏無差,誠如黯言。且無黯,陛下安聞此言?」上以為有讓,愈益賢之。


大臣のキュウアンが武帝に公孫弘を弾劾した。「公孫弘は臣下最高の地位にあり、お上より十分な俸禄を受け取っているにもかかわらず、わざとボロぎれをまとって見せつけています。これはお上をたばかるものではありませんか?」

なるほどと思った武帝は公孫弘を呼びつけて問いただした。「どういうつもりじゃ?」

公孫弘「陛下のご機嫌を損ないまして誠に申し訳ありません。やつがれがボロをまとったのは事実です。やつがれは閣僚との良好な関係に努力しておりましたが、汲黯どのの告発に間違いはありません。いまこのように陛下のお咎めを受けるのは、まことにやつがれの罪でございます。いまこのように結構な地位を拝命しながら、ボロをまとうのは、演技もやり過ぎの空々しい当てつけと言わねばなりません。

ですが陛下、かつて斉の名宰相管仲は、正妻と屋敷を三つも構えて主君同様の贅沢をし、主君を覇者に押し上げましたが、覇者もまた天子様をないがしろにするものです。同じく斉の名宰相の晏嬰は、粗末な食事を摂り、妻には贅沢な服を着せませんでしたが、おかげで斉国はよく治まり、民百姓と苦労を分かち合ったのです。

今やつがれが国家最高の官職にありながらボロをまとうのは、閣僚から小役人に至るまで、百官と差別なく付き合い、彼らがものを言いやすくするためであります。まことに汲黯どのの告発の通りではございますが、やつがれがボロを着ていなかったら告発も無く、臣下は皆、やつがれを恐れて口を閉ざし、陛下が告発をお聞きになることもなかったでございましょう?」

「おおー、なるほどのう。そちは立派じゃ。」といってますます公孫弘を寵愛した。(『漢書』公孫弘伝16)

こういう口車を論語の本章の「巧言令色」、ボロ布をまとうのを「スウキョウ」、政敵だらけの百官と差別なく付き合うのを「𤇘うらみをかくす」と言うのではなかろうか。ずいぶん遠回りな引用をしたが、仮に論語の本章を董仲舒が偽作したのなら、その攻撃対象は公孫弘に他ならない。

ついでながら、そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

武帝は東方朔や公孫弘のような、口車の回る芸人が大好きだった。そのくせ気分次第で家臣を家族ごと皆殺しにする暴君だった。建国以来貯め込んだ国富を、趣味の戦争で使い果たし、晩年は政府みずからニセ金を発行した。その前に漢初以来の制度を叩き壊し、政府を破壊した。

おそらく武帝の知性は、常人未満だったに違いない。詳細は論語雍也篇11余話を参照。

武帝は東方朔のようなお笑い芸人、霍去病のような認知障害、司馬相如のようなメルヘンおたくしか重用しなかった。武帝の自信のなさ、それを誤魔化すための暴挙、情緒不安定を思うべきである。武帝は自分未満と見なした者しか使えなかった。帝王の器ではないと言ってよい。

武帝が任命した宰相のうち、初期には田蚡が宰相らしい裁決をしたものの、武帝は気に入らずにイヤミを言った。「そちはもう、部下を気が済むまで任命し終えたか? ならワシにも好きな者を任命させよ。」この挙げ句、宰相はただその椅子に座っているだけの虚業になった。

公孫弘が宰相になって以降、内外の政治課題が積み上がって政治運営が難しくなったが、肝心の宰相が次から次へと、武帝の気分次第で殺されてしまった。理の当然で誰もが宰相になるのを嫌がった。

ある時武帝が公孫賀を宰相に任じようとすると、泣いて嫌がってなりたがらなかった。武帝は許さず無理やり宰相に据えたが、結局は気に入らなくて殺してしまった。(『十八史略』西漢・武帝。裏付けとなる『漢書』の記述と、宰相→虚業の記録は論語雍也篇11余話に記載)

なおwikipediaが「清廉潔白な人柄で、徳高く」と董仲舒を言うのは、『史記』に「仲舒為人廉直」とある受け売りで、『漢書』董仲舒伝では、この文字列の直後に上掲の左遷されかかり話がある。自分の無能を棚に上げて、人の能を妬むのは、徳が高いと言えるかどうか。

また董仲舒の儒学の特徴は、いわゆる「天人相関説」といって、人界の君主が立派な政治を行えば天はそれを愛でて天変地異を起こさない、というものだった。オカルトを鼻で笑った孔子が、そんな説の開祖であるわけがないが、武帝の頭の弱さに付け込むには一つの方法だった。

だが運の尽きというのはあるものだ。

仲舒治國,以春秋災異之變推陰陽所以錯行,故求雨,閉諸陽,縱諸陰,其止雨反是;行之一國,未嘗不得所欲。中廢為中大夫。先是遼東高廟、長陵高園殿災,仲舒居家推說其意,草稿未上,主父偃候仲舒,私見,嫉之,竊其書而奏焉。上召視諸儒,仲舒弟子呂步舒不知其師書,以為大愚。於是下仲舒吏,當死,詔赦之。仲舒遂不敢復言災異。


(とある諸侯に説教して)董仲舒は『春秋』を講釈し、陰陽の気の巡りを検討した結果、政策の間違いの原因を発見したと主張した。つまり雨乞いをするならもろもろの陽気を塞ぐ必要があり、陰気に従って執り行うべきで、長雨を止ませたかったらその逆をすれば良いと言った。国中でそのように計らえば、うまく行かなかったためしは無いとも言った。

そのうちに中央に呼び戻されて政務議官になった。その直前、地方にあった高祖劉邦の霊殿が焼けた。董仲舒は家に籠もってどういう天のお告げかを調査するよう命じられたが、報告書がまだ下書きの内に、これまた武帝のお気に入りだった主父偃が尋ねてきて、言葉巧みに下書きを出させた。

それを読んで主父偃は、「これで董仲舒もおしまいだ」と腹で舌を出し、下書きをこっそり懐に入れ、参内して武帝に見せた。

(武帝「何だかわしのせいで焼けたかのように書いてあるのう。そう読んでかまわぬか?」
主父偃「やつがれ如きに、いとも学識高き董仲舒どのの文章はわかりません。儒者せんせいがたを集めてお尋ねを。ただしみな董仲舒どののお弟子ですから、正確を期すためにも是非、書き手を伏せてお聞きになるのが得策と思われます。」
武帝「うむ、そちの申す通りじゃ。」)

武帝は儒者を集めて「何と書いてあるのじゃ?」と尋ねた。呼ばれた儒者の一人に、董仲舒の弟子で呂歩舒という男がいた。武帝の不機嫌を見て取って、師匠の文章とは知らずに、「デタラメが書いてあります」と言上した。

武帝は真っ赤になって怒り、董仲舒を牢屋にぶち込んだ。ただでさえ儒家の董仲舒が嫌いな法家の判事は、武帝に迎合して死刑判決を下した。さすがに気の毒になった武帝が特赦で牢から出してやったが、それ以降、董仲舒は天人相関説を言わなくなった。(『漢書』董仲舒伝41)

弟子は師の文と知らないからこき下ろしたのであり、人でなしの主君だから、ろくでなしの家臣が集まるのである。ゴマスリどもは身内びいきの一方で、互いに足を引っ張り、牢に放り込んで首をちょん切ってやろうとしのぎを削った。董仲舒もその一員で、高潔にはほど遠い。

司馬遷がナニをちょん切られるだけで済んだのは、まだ運が良かったのかも知れない。

参考記事

『論語』公冶長篇:現代語訳・書き下し・原文
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