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論語詳解103公冶長篇第五(11)我人のこれを’

論語公冶長篇(11)要約:文字的には春秋時代の文章ですが、内容には疑わしい点が。子貢が、孔子塾の評語の一つを繰り返しました。それを聞きつけた孔子先生は、子貢をぺしゃんこにします。本当にそんなことをしたのでしょうか。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子貢曰我不欲人之加諸我也吾亦欲無加諸人子曰賜也非爾所及也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子貢曰我不欲人之加諸我也吾𡖋欲無加諸人也/子曰賜也非爾所及也

  • 「𡖋」字:「亦」字の異体字。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……欲人之加諸□也,吾亦欲毋a加諸人。子[曰]:「90……「賜b,非壐c所[及也]。」91

  1. 毋、今本作「無」。
  2. 今本「賜」下有「也」字。
  3. 壐、今本作「爾」、以下同。壐也作壐、古璽字、在此通爾。

標点文

子貢曰、「我不欲人之加諸我也、吾亦欲毋加諸人。」子曰、「賜、非壐所及也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文貢 甲骨文曰 金文 我 金文不 金文谷人 金文之 金文加 金文者 金文我 金文也 金文 吾 金文亦 金文谷母 金文加 金文者 金文人 金文 子 金文曰 金文 賜 金文 非 金文爾 金文所 金文及 金文也 金文

※貢→(甲骨文)・欲→谷。論語の本章は、「也」の用法に疑問がある。

書き下し

子貢しこういはく、われひともろもろわれくはふることをほつわれまたもろもろひとくはふることからむともとむと。いはく、や、なんぢおよところあらざるなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

子貢 孔子
子貢が言った。「私は人にして欲しくないいろいろなことを、いろいろと人にしたくない」。先生が言った。「賜よ、お前に出来ることではないぞ。」

意訳

ニセ子貢 孔子 人形
子貢「人にされたくないことを人にしたくない。」
孔子「子貢よ、それはお前には出過ぎた望みだぞ。」

従来訳

下村湖人
子貢がいった。――
「私は、自分が人からされたくないことは、自分もまた人に対してしたくないと思つています。」
すると先師がいわれた。――
()よ、それはまだまだお前に出来ることではない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子貢說:「我不願被迫做自己不願做的事情,我也不願強迫別人去做。」孔子說:「子貢啊,這不是你能做到的。」

中国哲学書電子化計画

子貢が言った。私は自分が望まないようなことを強制されるのを願わないように、他人にも強制したいと願わない。」孔子が言った。「子貢よ、それはお前に出来ることではない。」

論語:語釈

、「 ( 。」 、「 ( 。」


子貢

子 金文 貢 金文
(金文)

孔子の弟子。論語の人物:端木賜子貢参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

貢 甲骨文 貢 字解
(甲骨文)

「貢」の初出は甲骨文。その後一旦出土が絶え、再出は前漢まで時代が下る。従って、殷周革命で一旦滅びた漢語である可能性がある。ただし固有名詞「子貢」として用いる場合、同音近音のあらゆる漢字が置換候補になり得るし、端木賜子貢の実在を疑えるわけでもない。甲骨文での語義は”貢ぐ”。字形は取っ手の付いた物体+〔二〕だが、何を意味しているか分からない。詳細は論語語釈「貢」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

我(ガ)

我 甲骨文 我 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし(に)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

欲(ヨク)

欲 楚系戦国文字 欲 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”求める”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義がある。詳細は論語語釈「欲」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では「の」と読んで”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

加(カ)

加 金文 加 字解
(金文)

論語の本章では”…に対して行う”。初出は西周早期の金文。字形は「又」”右手”+「𠙵」”くち”。人が手を加えること。原義は”働きかける”。金文では人名のほか、「嘉」”誉める”の意に用いた。詳細は論語語釈「加」を参照。

諸(ショ)

諸 秦系戦国文字 諸 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”いろいろのこと”。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。

「之於」(シヲ)と音が通じるので一字で代用した言葉と言い出したのは清儒で、最古の文献である論語には、安易に適用すべきではない。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「加諸我也」では「や」と読んで主格の強調の意に用いている。「所及也」では断定。詠歎と解してもよいが、断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。

亦(エキ)

亦 甲骨文 学而 亦 エキ
(甲骨文)

論語の本章では”…もまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。

無(ブ)→毋(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”やらない”。日本語では「ない」は形容詞か助動詞だが、漢語では動詞。英語の”deny”に相当する。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

毋 金文 毋 字解
「毋」(金文)

定州竹簡論語の「毋」の初出は西周中期の金文。「母」と書き分けられていない。現伝書体の初出は戦国文字。論語の時代も、「母」と書き分けられていない。同訓に「無」。甲骨文・金文では「母」の字で「毋」を示したとし、西周末期の「善夫山鼎」にもその用例が見られる。詳細は論語語釈「毋」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

賜(シ)

賜 金文 子貢 問い
(金文)

孔子の弟子、子貢の本名(いみ名)。論語の人物:端木賜子貢参照。文字的には、論語語釈「賜」を参照。

非(ヒ)

非 甲骨文 非 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。

爾(ジ)→壐(ジ)

爾 甲骨文 爾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。

壐 秦系戦国文字 壐 字解

定州竹簡論語の「壐」は「璽」の異体字で、「爾」の担っていた語義のうち”はんこ”を分担する語として派生した。初出は楚系戦国文字。同音無し。詳細は論語語釈「壐」を参照。

あえて派生した「壐」の字を用いたのは、昭和の珍走団が「夜露死苦」「仏恥義理」と書いたり、今世紀以降、如何わしい世間師が横文字を使っているのと同じハッタリ。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”事柄”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

及(キュウ)

及 甲骨文 及 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手が届く”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、先秦両漢の誰も引用していないし、再録もしていない。定州竹簡論語にあるからには、前漢前半までには出来ていたのだろうが、おそらくは子貢をおとしめるため、前漢の儒者がこしらえたでっち上げ。

ただし前半で「我」と「吾」をきちんと春秋の文法通りに用いる点は、あるいは史実の子貢の発言の可能性があるが、後半の孔子の発言により、まるで印象が反対の章として出来上がっている。

「己の欲せざるところ…。」は論語顔淵篇2にほぼ同文が孔子の発言として記されており、孔子塾の標語の一つだったと思われる。孔子も繰り返して教えた標語を、子貢が言うと叱られたというのは妙な話で、孔子が子貢に嫉妬する、ケチなじいさんに見えてしまう。

また論語衛霊公篇24とも整合しない。

子貢が訊ねて言った。「一言で言えて、生涯を終えるまで行うべきことはありますか。」
先生が言った。「それは恕(我が身に引き比べて他人を思いやること)か。自分が求めないことは、人に施すな。」

教わった言葉をそのまま繰り返して、叱る教師がどこにいるだろう。ただし「恕」の字は論語の時代に存在せず、孔子が説いたわけもないので、本章と矛盾しても史実に疑問は起こらない。疑問なのは矛盾すると分かって、それでも本章を創作した儒者の思考だ。

論語の本章は文字史的には論語の時代まで遡れるが、孔子の発言は後世の創作と考えるべき。孔子は後世や現代言われるほど聖人君子ではないが、そんなケチな人物に、命の危険まであった放浪に弟子が付き合うだろうか。というわけで後半は、論語から削るべき創作だろう。

解説

論語の本章が創作と聞いて、まさか、と思うかも知れないが、中国のインテリというのはだいたいこんなもので、かつて毛沢東が沖縄を日本領と明言したのに、今になって別のことを言い出したように、実利こそ全て、は現代に至るまで彼らの通癖。

だからこそ子貢は、「その場にいないとあること無いこと言われる。君子はそういったゴミためのような所を避けるものだ」と論語子張篇19で言っている。しかし子貢がすでに世に居ないのをいいことに、漢儒は子貢をゴミ溜めにぶち込んだ。哀れな話だ。

ただし新古の注を書いた儒者は、意外に冷静な評を書き付けている。

古注『論語集解義疏』

註馬融曰加陵也…註孔安國曰言不能止人使不加非義於己也

馬融 孔安国
注釈。馬融「不欲…諸人とは、いじめることである。」

注釈。孔安国「子曰…及也とは、他人の口に戸は立てられない、ということである。」

新注『論語集注』

子貢言我所不欲人加於我之事,我亦不欲以此加之於人。此仁者之事,不待勉強,故夫子以為非子貢所及。程子曰:「我不欲人之加諸我,吾亦欲無加諸人,仁也;施諸己而不願,亦勿施於人,恕也。恕則子貢或能勉之,仁則非所及矣。」愚謂無者自然而然,勿者禁止之謂,此所以為仁恕之別。

論語 朱子 新注 論語 程伊川
子貢が言ったのは、「自分がされたくないことは、人にしたくない」ということだ。これは仁者らしい話ではあるが、努力してそうなるものでもない。(当たり前にすべき事だ。)だから先生は、「お前に出来ることではない」と言った。

程頤「自分がされたくないことを人にしないというのは、仁義と言える。されたくないことを願わないなら、他人にもしようと思わないのは、恕と言える。子貢はあるいは恕の実践に努力したのだろうが、仁義は子貢に出来ることではなかった。」

愚か者の私(朱子)が思うに、しない、とは放っておいてもそうなるべきもので、するな、とは言挙げして禁じることで、仁義と恕の違いはここにある。

余話

三人成虎

ウソでも大勢が言うと本当になってしまうと言う故事成語に、「三人成虎」または「市虎三伝」というのがある。その出典は次の通り。

龐蔥與太子質於邯鄲,謂魏王曰:「今一人言市有虎,王信之乎?」王曰:「否。」「二人言市有虎,王信之乎?」王曰:「寡人疑之矣。」「三人言市有虎,王信之乎?」王曰:「寡人信之矣。」龐蔥曰:「夫市之無虎明矣,然而三人言而成虎。今邯鄲去大梁也遠於市,而議臣者過於三人矣。愿王察之矣。」王曰:「寡人自為知。」於是辭行,而讒言先至。後太子罷質,果不得見。


魏の太子が趙の人質になってその都・邯鄲へ行くにあたって、ホウソウがおつきとして同行することになった。龐蔥は別れの挨拶を魏王にするついでに言った。

「一人の者が、”市場にトラが出た”と言ったら、王殿下は信じますか?」「いや。」「二人が同じ事を言ったら、信じますか?」「ワシは”ウソじゃ”と疑うな。」「では三人が寄って言ったらどうです?」「さすがに信じるな。」

「人で賑わう市場にトラが出るわけがありませんが、三人がそう言えば出たことになってしまいます。今ここ大梁と邯鄲との距離は、市場よりはるかに遠いのは明らかです。その遠くに居るそれがしについて、悪口を言う者がきっと出るでしょうが、王殿下はどうかお信じになりませんよう。」「よかろう、ワシとてそれほど愚かではない。」

龐蔥は別れを告げて邯鄲へ向かったが、早速悪口を言上する者が出た。後日太子が人質を解かれて帰り、龐蔥もまた帰ったが、魏王は会おうともしなかった。(『戦国策』魏策二・龐蔥與太子質於邯鄲)

『戦国策』は史書扱いされているが、編者は前漢後期の劉向で、話が面白すぎてどこまで信用できるか分からない。それでも『春秋左氏伝』が春秋時代までしか記録しない後を受けて、戦国時代を知るには欠かせない文献ではある。実はこの話、元ネタは戦国末期の『韓非子』。

龐恭與太子質於邯鄲,謂魏王曰:「今一人言市有虎,王信之乎?」曰:「不信。」「二人言市有虎,王信之乎?」曰:「不信。」「三人言市有虎,王信之乎?」王曰:「寡人信之。」龐恭曰:「夫市之無虎也明矣,然而三人言而成虎。今邯鄲之去魏也遠於市,議臣者過於三人,願王察之。」龐恭從邯鄲反,竟不得見。


龐恭と太子が邯鄲へ人質に行くに当たり、魏王に言った。「いま一人の者が”市場にトラが出た”と言ったら、王殿下は信じますか?」「信じない。」「二人が言ったら信じますか?」「信じない。」「三人が言ったら信じますか?」「ワシは信じる。」

「市場にトラが出ないのは明らかです。しかし三人が言えば出たことになってしまいます。これから私が向かう邯鄲は、ここ魏国を去ること市場よりはるか遠くです。私についてとやかく言う者は三人以上でしょう。どうか王殿下はお察しください。」

のちに龐恭は邯鄲から帰ったが、とうとう魏王に謁見を許されなかった。(『韓非子』内儲説上27)

『史記』魏世家・趙世家にはこの話は見えない。

『論語』公冶長篇:現代語訳・書き下し・原文
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