論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子貢曰我不欲人之加諸我也吾亦欲無加諸人子曰賜也非爾所及也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子貢曰我不欲人之加諸我也吾𡖋欲無加諸人也/子曰賜也非爾所及也
- 「𡖋」字:「亦」字の異体字。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……欲人之加諸□也,吾亦欲毋a加諸人。子[曰]:「90……「賜b,非壐c所[及也]。」91
- 毋、今本作「無」。
- 今本「賜」下有「也」字。
- 壐、今本作「爾」、以下同。壐也作壐、古璽字、在此通爾。
標点文
子貢曰、「我不欲人之加諸我也、吾亦欲毋加諸人。」子曰、「賜、非壐所及也。」
復元白文(論語時代での表記)
※貢→(甲骨文)・欲→谷。論語の本章は、「也」の用法に疑問がある。
書き下し
子貢曰く、我人の諸我に加ふることを欲せ不る也、吾も亦諸を人に加ふること毋からむと欲むと。子曰く、賜や、壐の及ぶ所に非ざる也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子貢が言った。「私は人にして欲しくないいろいろなことを、いろいろと人にしたくない」。先生が言った。「賜よ、お前に出来ることではないぞ。」
意訳
子貢「人にされたくないことを人にしたくない。」
孔子「子貢よ、それはお前には出過ぎた望みだぞ。」
従来訳
子貢がいった。――
「私は、自分が人からされたくないことは、自分もまた人に対してしたくないと思つています。」
すると先師がいわれた。――
「賜よ、それはまだまだお前に出来ることではない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子貢說:「我不願被迫做自己不願做的事情,我也不願強迫別人去做。」孔子說:「子貢啊,這不是你能做到的。」
子貢が言った。私は自分が望まないようなことを強制されるのを願わないように、他人にも強制したいと願わない。」孔子が言った。「子貢よ、それはお前に出来ることではない。」
論語:語釈
子貢
(金文)
孔子の弟子。論語の人物:端木賜子貢参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「貢」の初出は甲骨文。その後一旦出土が絶え、再出は前漢まで時代が下る。従って、殷周革命で一旦滅びた漢語である可能性がある。ただし固有名詞「子貢」として用いる場合、同音近音のあらゆる漢字が置換候補になり得るし、端木賜子貢の実在を疑えるわけでもない。甲骨文での語義は”貢ぐ”。字形は取っ手の付いた物体+〔二〕だが、何を意味しているか分からない。詳細は論語語釈「貢」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし(に)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
欲(ヨク)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”求める”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義がある。詳細は論語語釈「欲」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「の」と読んで”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
加(カ)
(金文)
論語の本章では”…に対して行う”。初出は西周早期の金文。字形は「又」”右手”+「𠙵」”くち”。人が手を加えること。原義は”働きかける”。金文では人名のほか、「嘉」”誉める”の意に用いた。詳細は論語語釈「加」を参照。
諸(ショ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”いろいろのこと”。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。
「之於」(シヲ)と音が通じるので一字で代用した言葉と言い出したのは清儒で、最古の文献である論語には、安易に適用すべきではない。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「加諸我也」では「や」と読んで主格の強調の意に用いている。「所及也」では断定。詠歎と解してもよいが、断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”…もまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。
無(ブ)→毋(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”やらない”。日本語では「ない」は形容詞か助動詞だが、漢語では動詞。英語の”deny”に相当する。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
「毋」(金文)
定州竹簡論語の「毋」の初出は西周中期の金文。「母」と書き分けられていない。現伝書体の初出は戦国文字。論語の時代も、「母」と書き分けられていない。同訓に「無」。甲骨文・金文では「母」の字で「毋」を示したとし、西周末期の「善夫山鼎」にもその用例が見られる。詳細は論語語釈「毋」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
賜(シ)
(金文)
孔子の弟子、子貢の本名(いみ名)。論語の人物:端木賜子貢参照。文字的には、論語語釈「賜」を参照。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
爾(ジ)→壐(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。
定州竹簡論語の「壐」は「璽」の異体字で、「爾」の担っていた語義のうち”はんこ”を分担する語として派生した。初出は楚系戦国文字。同音無し。詳細は論語語釈「壐」を参照。
あえて派生した「壐」の字を用いたのは、昭和の珍走団が「夜露死苦」「仏恥義理」と書いたり、今世紀以降、如何わしい世間師が横文字を使っているのと同じハッタリ。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”事柄”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
及(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”手が届く”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、先秦両漢の誰も引用していないし、再録もしていない。定州竹簡論語にあるからには、前漢前半までには出来ていたのだろうが、おそらくは子貢をおとしめるため、前漢の儒者がこしらえたでっち上げ。
ただし前半で「我」と「吾」をきちんと春秋の文法通りに用いる点は、あるいは史実の子貢の発言の可能性があるが、後半の孔子の発言により、まるで印象が反対の章として出来上がっている。
「己の欲せざるところ…。」は論語顔淵篇2にほぼ同文が孔子の発言として記されており、孔子塾の標語の一つだったと思われる。孔子も繰り返して教えた標語を、子貢が言うと叱られたというのは妙な話で、孔子が子貢に嫉妬する、ケチなじいさんに見えてしまう。
また論語衛霊公篇24とも整合しない。
先生が言った。「それは恕(我が身に引き比べて他人を思いやること)か。自分が求めないことは、人に施すな。」
教わった言葉をそのまま繰り返して、叱る教師がどこにいるだろう。ただし「恕」の字は論語の時代に存在せず、孔子が説いたわけもないので、本章と矛盾しても史実に疑問は起こらない。疑問なのは矛盾すると分かって、それでも本章を創作した儒者の思考だ。
論語の本章は文字史的には論語の時代まで遡れるが、孔子の発言は後世の創作と考えるべき。孔子は後世や現代言われるほど聖人君子ではないが、そんなケチな人物に、命の危険まであった放浪に弟子が付き合うだろうか。というわけで後半は、論語から削るべき創作だろう。
解説
論語の本章が創作と聞いて、まさか、と思うかも知れないが、中国のインテリというのはだいたいこんなもので、かつて毛沢東が沖縄を日本領と明言したのに、今になって別のことを言い出したように、実利こそ全て、は現代に至るまで彼らの通癖。
だからこそ子貢は、「その場にいないとあること無いこと言われる。君子はそういったゴミためのような所を避けるものだ」と論語子張篇19で言っている。しかし子貢がすでに世に居ないのをいいことに、漢儒は子貢をゴミ溜めにぶち込んだ。哀れな話だ。
ただし新古の注を書いた儒者は、意外に冷静な評を書き付けている。
古注『論語集解義疏』
註馬融曰加陵也…註孔安國曰言不能止人使不加非義於己也
注釈。馬融「不欲…諸人とは、いじめることである。」
注釈。孔安国「子曰…及也とは、他人の口に戸は立てられない、ということである。」
新注『論語集注』
子貢言我所不欲人加於我之事,我亦不欲以此加之於人。此仁者之事,不待勉強,故夫子以為非子貢所及。程子曰:「我不欲人之加諸我,吾亦欲無加諸人,仁也;施諸己而不願,亦勿施於人,恕也。恕則子貢或能勉之,仁則非所及矣。」愚謂無者自然而然,勿者禁止之謂,此所以為仁恕之別。
子貢が言ったのは、「自分がされたくないことは、人にしたくない」ということだ。これは仁者らしい話ではあるが、努力してそうなるものでもない。(当たり前にすべき事だ。)だから先生は、「お前に出来ることではない」と言った。
程頤「自分がされたくないことを人にしないというのは、仁義と言える。されたくないことを願わないなら、他人にもしようと思わないのは、恕と言える。子貢はあるいは恕の実践に努力したのだろうが、仁義は子貢に出来ることではなかった。」
愚か者の私(朱子)が思うに、しない、とは放っておいてもそうなるべきもので、するな、とは言挙げして禁じることで、仁義と恕の違いはここにある。
余話
三人成虎
ウソでも大勢が言うと本当になってしまうと言う故事成語に、「三人成虎」または「市虎三伝」というのがある。その出典は次の通り。
龐蔥與太子質於邯鄲,謂魏王曰:「今一人言市有虎,王信之乎?」王曰:「否。」「二人言市有虎,王信之乎?」王曰:「寡人疑之矣。」「三人言市有虎,王信之乎?」王曰:「寡人信之矣。」龐蔥曰:「夫市之無虎明矣,然而三人言而成虎。今邯鄲去大梁也遠於市,而議臣者過於三人矣。愿王察之矣。」王曰:「寡人自為知。」於是辭行,而讒言先至。後太子罷質,果不得見。
魏の太子が趙の人質になってその都・邯鄲へ行くにあたって、龐蔥がおつきとして同行することになった。龐蔥は別れの挨拶を魏王にするついでに言った。
「一人の者が、”市場にトラが出た”と言ったら、王殿下は信じますか?」「いや。」「二人が同じ事を言ったら、信じますか?」「ワシは”ウソじゃ”と疑うな。」「では三人が寄って言ったらどうです?」「さすがに信じるな。」
「人で賑わう市場にトラが出るわけがありませんが、三人がそう言えば出たことになってしまいます。今ここ大梁と邯鄲との距離は、市場よりはるかに遠いのは明らかです。その遠くに居るそれがしについて、悪口を言う者がきっと出るでしょうが、王殿下はどうかお信じになりませんよう。」「よかろう、ワシとてそれほど愚かではない。」
龐蔥は別れを告げて邯鄲へ向かったが、早速悪口を言上する者が出た。後日太子が人質を解かれて帰り、龐蔥もまた帰ったが、魏王は会おうともしなかった。(『戦国策』魏策二・龐蔥與太子質於邯鄲)
『戦国策』は史書扱いされているが、編者は前漢後期の劉向で、話が面白すぎてどこまで信用できるか分からない。それでも『春秋左氏伝』が春秋時代までしか記録しない後を受けて、戦国時代を知るには欠かせない文献ではある。実はこの話、元ネタは戦国末期の『韓非子』。
龐恭與太子質於邯鄲,謂魏王曰:「今一人言市有虎,王信之乎?」曰:「不信。」「二人言市有虎,王信之乎?」曰:「不信。」「三人言市有虎,王信之乎?」王曰:「寡人信之。」龐恭曰:「夫市之無虎也明矣,然而三人言而成虎。今邯鄲之去魏也遠於市,議臣者過於三人,願王察之。」龐恭從邯鄲反,竟不得見。
龐恭と太子が邯鄲へ人質に行くに当たり、魏王に言った。「いま一人の者が”市場にトラが出た”と言ったら、王殿下は信じますか?」「信じない。」「二人が言ったら信じますか?」「信じない。」「三人が言ったら信じますか?」「ワシは信じる。」
「市場にトラが出ないのは明らかです。しかし三人が言えば出たことになってしまいます。これから私が向かう邯鄲は、ここ魏国を去ること市場よりはるか遠くです。私についてとやかく言う者は三人以上でしょう。どうか王殿下はお察しください。」
のちに龐恭は邯鄲から帰ったが、とうとう魏王に謁見を許されなかった。(『韓非子』内儲説上27)
『史記』魏世家・趙世家にはこの話は見えない。
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