論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰晏平仲善與人交久而敬之
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰晏平仲善與人交久而人敬之
- 「人敬之」:京大本・宮内庁本同。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
[子曰:「晏平中a善]與人[交,久]而b敬之。」96
- 中、今本作「仲」。
- 皇本、高麗本「而」下有「人」字。
※「高麗本」は「正平本」の誤り。
標点文
子曰、「晏平中、善與人交。久而敬之。」
復元白文(論語時代での表記)
※晏→(楚系戦国文字)。論語の本章は「晏」の字が論語の時代に存在しないが、固有名詞のため置換候補があり得る。「交」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、晏平中、人與の交を善くす。久ち而之を敬ふ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「晏平仲は人付き合いをうまく行った。(付き合いを)長く保って(付き合いに)敬意を払った。」
意訳
斉国の名家老・晏嬰どのとは私もずいぶんやり合ったが、人との付き合いを心得ておられた。その証拠に、人とは長く付き合って、それでもなれなれしくせず、敬意を失うことが無かった。
従来訳
先師がいわれた。――
「晏平仲は交際の道をよく心得ている人である。どんなに久しく交際している人に対しても狎れて敬意を失うことがない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「晏平仲善於交朋友,交往越久,越受人尊敬。」
孔子が言った。「晏平仲は友人づきあいの達者だった。交友が長ければ、長いほど人に尊敬された。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
晏平仲(アンヘイチュウ)
?-BC500。晏嬰のこと。氏は晏、諱は嬰、字は仲、諡は平。晏子とも尊称される。孔子と同時代の斉の君主・景公を支え、国を繁栄に導いた。孔子は斉で就職活動をしたのだが、晏嬰の反対により仕官し損なった。
晏嬰が進み出て言った。「そもそも儒者は口車が達者なだけで、手本にするべきではありません。おごりたかぶり自らを正しいとしますから、家臣に雇うことは出来ません。葬儀を尊びわあわあと嘘泣きし、財産をはたいて厚く葬るので、習俗とすべきではありません。諸侯を転ばせて金をせびり取るので、国を治めさせるべきではありません。
周文王・武王の如き大賢者が亡くなってから、周室はすでに衰え、礼儀と音楽が欠けてからしばらくたちます。今、孔子は見た目を飾り立て、上り下りの礼や作法を面倒にしましたから、世代を重ねても覚え切ることはできません。今年一年ならなおさらです。殿が孔子を用い、斉の習俗を変えようとするのは、数多い民を導く方法ではありません。」
その後、景公は孔子を敬って会ったが、礼は問わなかった。さらに別の日、景公は孔子を引き止めて言った。「そなたを李氏のよう待遇することはできない。李氏と孟子の中間程度でどうか。」この噂を聞いた斉の家老たちは、孔子を殺害しようと企てた。孔子はその話を聞いたが、景公が言った。「私は老いた。そなたを用いることはできない。」
孔子はとうとう去ることにし、魯に帰った(昭公二十七年、BC515)。(『史記』孔子世家)
「晏」(楚系戦国文字)
「晏」字の初出は楚の戦国文字。字形は「日」”太陽”+「安」で、日が落ち着きどころに帰るさま。原義は”日暮れ”。詳細は論語語釈「晏」を参照。
「平」(金文)
「平」の初出は春秋早期の金文。字形の由来と原義は不明。金文では人名に用い、戦国時代の金文では地名、”平ら”を意味した。詳細は論語語釈「平」を参照。
「仲」(金文)/「中」(甲骨文)
「仲」の初出は甲骨文。ただし字形は「中」。現行字体の初出は戦国文字。「丨」の上下に吹き流しのある「中」と異なり、多くは吹き流しを欠く。甲骨文の字形には、吹き流しを上下に一本だけ引いたものもある。字形は「○」に「丨」で真ん中を貫いたさま。原義は”真ん中”。甲骨文・金文では、兄弟の真ん中、次男を意味したという。詳細は論語語釈「仲」を参照。
定州竹簡論語「中」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
善(セン)
(金文)
論語の本章では、”上手に行う”。もとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では、”~と”。新字体は「与」。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
交(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”付き合う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”が足を交差させているさま。甲骨文と金文では氏族名・人名に用いられたが、動詞”交流する・つきあう”の語義は戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「交」を参照。
久(キュウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”~が続く”。初出は西周早期の金文。ただし漢字の部品として存在し、語義は不明。明確な初出は秦系戦国文字。字形の由来は不明。「国学大師」は、原義を灸を据える姿とする。同音に九、灸、疚(やまい・やましい)、玖(黒い宝石)。詳細は論語語釈「久」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
敬(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”敬う”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。既出の「人」を言い換えている。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
久而敬之
久而人敬之
論語の本章、清家本は最終句を「久而人敬之」と「人」を加えて記す。「久しくして人これを敬う」と読め、”交友が長くなり人はそういう晏嬰の交際を、交際の模範として敬った”と解せる。しかし現存最古の論語本である定州竹簡論語には「人」字を欠く。南北朝時代に付けられた注の付け足し「疏」は、「人」字があることを前提に記されている。つまり南北朝時代には、「人」字のある論語本があったことになる。
だが時代が下って晩唐になると、唐石経は定州本と同じく「人」字がないものとして刻んだ。つまり唐石経建立当時、「人」字の有無、両方の版本があったことになる。以降唐石経が中国伝承論語の本文「経」の定本となる。
では「人」字を含む、日本伝承論語の祖である古注は間違いなのだろうか。おそらく誤りで、時間的に先行する定州本の通り「人」字は無かっただろう。なぜなら「人」字があることで、「久而」を”長続きしたから”と、「而」の前後を因果関係に解さねばならなくなるからだ。
上掲語釈の通り、春秋時代の「而」は「なんぢ」でなければ、「而」の前後が分かちがたく一体化していることをしめし、”~かつ~”と理解するのが正しい。従って本句の「人」字は、後漢から南北朝にかけて儒者が書き足したと考えるのが筋が通る。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用せず、前漢中期の『史記』にも漏れ、再出は後漢末期の応劭による『風俗通義』に「且晏平仲稱善與人交,豈徒拜伏而已哉」とあるもの。「久而敬之」については、後漢滅亡後に成立の『孔叢子』詰墨篇に本章全体を記すのみ。
ただし本章は定州竹簡論語にあることから、前漢前半には論語の一部として成立していただろう。文字史的には論語の時代に遡れるし、後世の儒者が偽作する動機も見いだせないから、史実の孔子の発言として扱う。
解説
晏嬰を賢者として誉め出したのは、事実上『史記』。その晏嬰伝は記す。
越石父賢,在縲紲中。晏子出,遭之涂,解左驂贖之,載歸。弗謝,入閨。久之,越石父請絕。晏子懼然,攝衣冠謝曰:「嬰雖不仁,免子於緦何子求絕之速也?」石父曰:「不然。吾聞君子詘於不知己而信於知己者。方吾在縲紲中,彼不知我也。夫子既已感寤而贖我,是知己;知己而無禮,固不如在縲紲之中。」晏子於是延入為上客。
越石父は賢者だったが、債務奴隷に身を落としていた。晏嬰がたまたま外出の途上で越石父と出会い、乗っていた三頭立ての馬のうち左の馬を返済に充てて解放した。その上越石父を車に乗せて屋敷に戻ったが、特に挨拶もせずに寝室に引き籠もった。
それからしばらく過ぎて、越石父が晏嬰の所へやって来て絶交を申し入れた。晏嬰はびっくりして、衣冠を正してまず謝り、言った。「私は人並みの男ですらありませんが、あなたの債務を肩代わりしてやった。それなのにどうしてこう、早くも絶交したいと言われるのですか。」
越石父「早すぎるということはありません。君子たる者、理解してくれない者には沈黙を守り、理解してくれる者には信頼を置くと聞きます。私が奴隷だったとき、誰も私を理解してくれませんでした。あなた様は何か悟るところがあって、私を解放してくれたのでしょう。つまり私の理解者だったわけですが、理解しながら礼の一つもなさらない。これなら奴隷に戻った方がましです。」
晏嬰は話を聞き終えると、応接間に越石父を招き入れて、乗客としてもてなした。(『史記』管晏伝8。同じ話が『呂氏春秋』にもある。論語学而篇16付記を参照。)
これによると、「久而敬之」を”長続きしたから敬った”と因果関係に読むための伝説が、戦国末期には出来ていたことになる。現代だとうっかり『呂氏春秋』も孔子も同じ古代にまとめて考えてしまいがちだが、『呂氏春秋』の成立は孔子没後240年であり、現代人の感覚からすると、天明の大飢饉やアメリカ独立について書き記すようなものだ。
この、「而」を因果関係に解し始めたことが、のちに「人」字が加わる結果になったのは間違いあるまい。「久而人敬之」と「人」が書き足されたことについては、古注で次のように記す。
古注『論語集解義疏』
子曰晏平仲善與人交久而人敬之註周生烈曰齊大夫也晏姓平諡名嬰也疏子曰至敬之 云晏平仲善與人交者言晏平仲與人結交有善也云久而人敬之者此善交之驗也凡人交易絶而平仲交久而人愈敬之也孫綽曰交有傾蓋如舊亦有白首如新隆始者易克終者難敦厚不渝其道可久所以難也故仲尼表焉
注釈。周生烈「斉国の家老である。晏は姓で平はおくり名で嬰はいみ名である。」
付け足し。先生は人を敬うことの至りを言った。「晏平仲善與人交」とは、晏平仲が人とよしみを結んで良い点があったということだ。「久而人敬之」とは、よい交わりをした結果だ。凡人の交友は簡単に切れるが、平仲の交友は長く続き、長くなるほど人は晏嬰を敬った。
孫綽「交友にはひいき目というものがあって、昔の悪事を知らんふりする。また共白髪になるまで続くことがあって、日ごとに親密の度が増す。ただし交わりを始めるのはたやすいが、上手く終えるのは難しい。懇ろさが変わらないようにしなければ長持ちしない、ここが難しいのである。だから孔子先生は讃えた。
”孔子先生は讃えた”の原文は、中国哲学書電子化計画のテキストでは「仲尼表馬」となっており、大坂懐徳堂本で訂正した。このままでは馬=悪口を言う、になってしまう。対して新注は唐石経通り「人」の字を欠いており、敬意を保ったのを「人」ではなく「晏嬰」だとしている。
新注『論語集注』
晏平仲,齊大夫,名嬰。程子曰:「人交久則敬衰,久而能敬,所以為善。」
晏平仲とは斉国の家老である。いみ名は嬰。
程頤「人との付き合いが長くなると、普通は馬鹿にし合うようになる。長くなっても敬意を保ったから、善だと言ったのだ。」(『論語集注』)
定州竹簡論語から比較していけば、「久而敬之」に「人」の字を加えたのは古注儒者のしわざであり、ただの人騒がせなのだが、恐らくは後漢儒だろう。後漢儒は儒教経典に出任せの解釈を行ってそれを社会に強要することで儲けた。詳細は論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
余話
民が怖い
史実ではないが、孔子と晏嬰との対話伝説が『孔叢子』嘉言5にある。
孔子先生が斉に行くと、晏嬰が屋敷に招いた。うたげが始まって互いに打ち解け、晏嬰が言った。
「斉はもうおしまいです。くさびの抜けた車で、千仞の谷の周りを走っているようなものです。仮に転覆は免れても、今の公室が続く見込みはありません。あなたは私の心からの友です。もし斉国でのんびり過ごされるおつもりなら、いくらかは助けて下さって当然でしょう。どうか包み隠さず、本心を仰って下さい。」
孔子「お言葉ですが、死病は治す法が無いと聞きます。政令は、君主が取った手綱のはみやくつわで、それで臣下を操るためのものです。今の斉公(景公)殿下が、その手綱を手放して随分たちました。晏嬰さまが一生懸命、国の舵取りをなさり国政を助けようとなさっても、うまくはいかないでしょう。しかしそれでも、殿下や閣下の生涯を、無事に終えることは出来るでしょう。ですがその後は、斉国は田氏のものとなりましょう。」
しかし晏嬰は少なく見積もっても孔子より一世代は上で、明代に出版された孔子の絵本伝記『孔子聖蹟図』は、孔子が幼少の時に、晏嬰の塾に入って学んだように描いた。
「入平仲學」
世傳孔子七歳入晏平仲學按平仲治東阿意或孔子蒙學之時嘗入平仲所設之鄕學也
言い伝えでは、孔子は七歳の時に晏嬰の塾に入った。晏嬰が東阿の代官だったことを考慮すると、おそらく孔子はまだ学識の無いときに晏嬰が建てた村の学校に入ったことがあるのだろう。
晏嬰が代官だったことも、春秋の昔に公設の学校があったことも全部でっち上げだが(論語為政篇4余話参照)、孔子は生涯を通じて晏嬰に頭の上がるような立場でなかったことは確かだ。孔子が生まれたBC551ごろ、晏嬰がすでに斉の家老の一人だったことを『史記』は記している。
六年(BC548)、…崔杼の妻と密通した斉の荘公は追われて塀から転げ落ち、とうとう崔杼の私兵に殺されてしまった。そこへ家老の晏嬰が来て、崔杼の屋敷の門外に立って言った。
「国君が国のために死んだなら、後を追います。国のために滅んだなら、私も滅びます。もし自分のために死に自分のせいで滅んだなら、親しかった者はともあれ、そうでない誰が後を追いますか。」そして門を開けて屋敷に入り、荘公の死体に頭を付けて泣きの礼をし、三度飛び上がる仕草で死を悼んだ。
ある人が崔杼に言った。「晏嬰を生かしておいてはいけない。」崔杼が言った。「民に人望がある。許さないと民が何をしでかすか分からない。」(『史記』斉世家・荘公)
名も無き庶民は数が多い。数は名の無さを圧倒する力を持つ。晏嬰はそうして生き延びた。斉国の政治環境の厳しさにより、国公でさえ四割は殺された。論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」を参照。
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