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論語詳解109公冶長篇第五(17)臧文仲は蔡を*

論語公冶長篇(17)要約:後世の創作。孔子先生は身分違いの越権行為を嫌った、とするための、帝国儒者の作文。身分秩序が不動でないと、権力側にいる人間にとって都合が悪く、儒教の顧客である皇帝にとっても都合が悪いからです。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰臧文仲居蔡山節藻梲何如其知也

校訂

諸本

  • 論語集釋:釋文:「棁」,本又作「棳」。藝文類聚述論語「棁」字作「栥」。 翟氏考異:按玉篇「棳」與「棁」同。「楶」雖與「棁」音有别,而爾雅注疏並訓爲梁上短柱,蓋亦可通用。

東洋文庫蔵清家本

子曰臧文仲居蔡/山節藻梲/何如其知也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「臧文仲、居蔡山節藻梲。何如其知也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 臧 金文文 金文仲 金文 居 挙 舉 金文蔡 金文山 金文節藻梲 何 金文如 金文其 金文智 金文也 金文

※論語の本章は「節」「藻」「梲」の字が論語の時代に存在しない。「何」「如」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

いはく、臧文仲ぞうぶんちうかめふしやまきりうだつかく。何如いかんさかしかる

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
先生が言った。「臧文仲ゾウブンチュウは大きな亀甲を屋敷に置き、部屋の天井の隅に山を描き、柄柱に藻を描いた。どうして彼が賢いと言えるのだろうか。」

意訳

孔子 人形
臧文仲は占い用の大亀を持ち、屋敷を宮殿なみにした。礼法破りだ、これでも名の知れた賢者だろうか。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
臧文仲(ぞうぶんちゅう)は、諸侯でもないのに、国の吉兆を占う(さい)をもっている。しかもそれを置く(せつ)には山の形を刻み、せつ)には水草の模様を描いているが、それは天子*の廟の装飾だ。世間では彼を知者だといっているが、こんな身の程知らずが、何で知者といえよう。」

下村湖人『現代訳論語』

*天子:この言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

現代中国での解釈例

孔子說:「臧文仲建造自己的宗廟,房頂呈拱形,柱子上畫著水草圖案,廟內藏著大龜,象天子的宗廟一樣,這怎麽算明智?」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「臧文仲は死後に自分を祀る祭殿を造り、部屋の天井にはアーチをしつらえ、柱の頭には水草を描き、祭殿内に大亀を据え、まるで周王の祭殿そっくりにしたが、これでどうして智者に数えられようか?」

論語:語釈

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

臧文仲(ゾウブンチュウ)

春秋時代年表

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?ーBC617。孔子誕生より70年ほど前に没した魯の大夫。姓は臧孫、名は辰。覇者の名をはせた晋の文公、宋の襄公と同時代人。関所を廃止して通商の便を図ったことで、賢人とされていた。ただし関所については「設置した」とも解せる。

あざ名の「文仲」は、”教養の深い次男”の意。孔子は論語の衛霊公篇で「給料泥棒」と評していることになっているがニセモノ。論語憲問篇の臧武仲は子。

臧 甲骨文 臧 字解
「臧」(甲骨文)

姓の「臧」は”格好のよい”を意味する。初出は甲骨文。字形は「臣」”うつむいた目”+「戈」”カマ状のほこ”で、威儀を整え敬礼した近衛兵の姿。原義は”格好のよい”。甲骨文では”よい”を意味し、金文では”成功”(小盂鼎・西周早期)の意に用いた。楚系戦国文字でも同義に用いた。詳細は論語語釈「臧」を参照。

文 甲骨文 文 字解
「文」(甲骨文)

「文」の初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

仲 金文 中 甲骨文
「仲」(金文)/「中」(甲骨文)

「仲」の初出は甲骨文。ただし字形は「中」。現行字体の初出は戦国文字。「丨」の上下に吹き流しのある「中」と異なり、多くは吹き流しを欠く。甲骨文の字形には、吹き流しを上下に一本だけ引いたものもある。字形は「○」に「丨」で真ん中を貫いたさま。原義は”真ん中”。甲骨文・金文では、兄弟の真ん中、次男を意味したという。詳細は論語語釈「仲」を参照。

居(キョ)

居 金文 居 字解
(金文)

論語の本章では”据え付ける”。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。

蔡(サイ)

蔡 甲骨文 蔡 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”占いに使う大亀の甲羅”。焼いてひび割れから吉凶を判断する。初出は甲骨文。字形は甲骨の裂け目の象形で、原義は”天啓”。春秋諸侯国に「蔡」があるほか、戦国初期の金文で”刻む”を意味した。詳細は論語語釈「蔡」を参照。

この字を「亀」と解するのは、古注の解釈による。

古注『論語集解義疏』

註苞氏曰臧文仲魯大夫臧孫辰也文諡也蔡國君之守龜也出蔡地因以為名焉長尺有二寸居蔡僭也

包咸
注釈。包咸「臧文仲は魯の大夫で、臧孫辰ともいう。文はおくり名である。蔡は国君が保有していた亀甲である。蔡国で取れたのでこの名がある。長さは一尺二寸。家老の臧文仲が所有するのは、身分秩序を乱す行為である。」

孔子より約700年のちの包咸が見てきたようなことを書いているだけだ。蔡国は内陸国で、ウミガメが捕れるような場所ではない。それともあれだろうか、占いに使えるほどの大きなリクガメが、当時の中国にはいたのだろうか。

蔡が亀甲であったかはともかく、甲骨占いに用いた道具であることは字形より確かで、亀甲と解するのも間違いとは言い切れない。包咸よし少し前、前漢後期の劉向も、『説苑』に「亀」と記している。

漆雕馬人對曰:「臧氏家有龜焉,名曰蔡…。」

劉向
漆雕人をののしりて對えて曰く、「臧氏の家は龜を有ち焉、名づけて曰く蔡…。」(『説苑』権謀38)

また『孔子家語』に、以下の通り伝える。

孔子が漆雕シッチョウヒョウに質問して言った。「あなたはゾウ文仲・武仲、そしてジュ子容に仕えましたが、このお三方のうち、誰が偉かったですか。」

その答え「臧氏は家に亀の甲羅を仕舞い込んでおり、その甲羅を蔡と名付けていました。文仲は三年に一度、その甲羅を焼いて占い、武仲は二度、孺子容は三度占いました。私はこのことを思いますと、三人の誰が偉かったなどということは、とても分かりません。」(『孔子家語』好生第十3)

この亀がどれほど価値があったかは、その後の歴史が示す。亀は次代の臧武仲に引き継がれたが、臧武仲は襄公二十三年に失脚して、亀を携えて隣国に逃亡する。その後領地の防に戻り、異母兄弟に亀を贈り、「この亀を献上してお家再興を願い出なさい」と勧めた。

その結果異母兄弟の弟が臧氏を継ぎ、亀は公宮に収められた。詳細は論語憲問篇15と、『春秋左氏伝』襄公二十三年条を参照。

山(サン)

山 甲骨文 山 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”屋根近くに山の姿を刻んだ”と古来解する。初出は甲骨文。「セン」は呉音。甲骨文の字形は山の象形、原義は”やま”。甲骨文では原義、”山の神”、人名に用いた。金文では原義に、”某山”の山を示す接尾辞に(大克鼎・西周末期)、氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「山」を参照。

解釈の源泉は古注『論語集解義疏』。「蔡」と同様、はるか後世の包咸が見てきたようなことを言っているだけだが、受け入れる以外に解釈のしようがない。

古注『論語集解義疏』

註苞氏曰節者栭也刻鏤為山也棁者梁上楹也畫為藻文言其奢侈也


注釈。包咸「節とは柱頭の広がりのことである。刻んで山の形にしたのである。棁は梁の上の小柱である。ここに藻の模様を描いたのである。つまり贅沢だ、と言った。」

節(セツ)

論語詳解109公冶長篇第五(17)臧文仲は蔡をおき
伝統建築(寺院・社寺建築)の部位名称

節 金文 節 字解
(戦国金文)

論語の本章では枡形、柱の上に置かれて軒などの上部構造を支える部材。この語義は春秋時代では確認できない。従って論語時代の置換候補は無い。初出は戦国時代の金文。同音は存在しない。字形は「⺮」+「卽」”満腹のさま”で、膨れた竹の節のさま。原義は”ふし”。戦国の金文では”控え包む”(中山王壺・戦国初期)、”通行証”(鄂君啟車節・戦国中期)の意に用いた。詳細は論語語釈「節」を参照。

藻(ソウ)

藻 篆書 藻 字解
(篆書)

論語の本章では”水草の模様を描いた”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「艹」+「氵」+「喿」で、みずくさのさま。原義は”みずくさ”。戦国時代から漢代に欠けて成立した『山海経』に、”華美”の用例がある。『大漢和辞典』で訓も義みずくさ音ソウはほかに存在しない。詳細は論語語釈「藻」を参照。

「藻」の字が現れるまで、漢語で水草をどのように表したのかは不明。また”水草の模様を描いた”という解釈も上掲の通り古注にしたがった結果で、ほかに解釈の法が無いから仕方がない。新注も同様。

新注『論語集注』

節,柱頭斗栱也。藻,水草名。梲,梁上短柱也。蓋為藏龜之室,而刻山於節、畫藻於梲也。

論語 朱子 新注
節は、柱の天辺の枡形だ。藻は、水草の名だ。梲は、梁の上の短い柱だ。たぶん亀をしまった部屋の装飾だろう。節に山を刻み、梲に藻を描いたのだ。

梲(エツ)

梲 篆書
(篆書)

論語の本章では梁の上の短柱。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「セツ」の音で”うだつ”=”梁の上の短い支柱”を意味し、「タツ」のおとで”つえ”を意味する。同音は「拙」(入)”つたない”のみ。字形は「木」+「」”抜け出る”で、突き出した柱のさま。原義は”うだつ”。「兌」が”抜け出る・突き出す”の語義を獲得するのは、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「梲」を参照。

何如(いかん)

何如 字解 如何 字解

論語の本章では”なぜ”。通説で「いかん」と訓読される漢語は、2つに大別できる。

  • 「何如」:「何」が「如」”従う”か→”どう(なっている)でしょう”
  • 「如何」:「何」に「如」”従う”べきか→”どうしましょう”

現代日本語で「何がどうなっているんだ」と言えば、「どうしてこうなってるんだ」と理由を尋ねることに等しい。「何如」も理由を尋ねる言葉になり得、その場合の訓読は「いかんぞ」”どうしてだ”。

「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

「何」は論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

「如」は論語の本章では”…のような(もの)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”かれ”という代名詞。「臧文仲」の言い換え。「此」が直近の事物を指すのに対し、やや離れた事物を指すのに用いる。論語の本章では直前の「居蔡山節藻梲」ではなく、さらに前の「臧文仲」。「居蔡山節藻梲」のように複数のものごとや環境・境地を指す場合は、通例として「斯」を用いる。

字の初出は甲骨文。原義は農具の。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

知(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
「知」(甲骨文)

論語の本章では”智恵者”。「知」の現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。現在最古の論語のテキストである、定州漢墓竹簡論語は、「知」を「智」の古書体「𣉻」で書いている。詳細は論語語釈「知」論語語釈「智」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで疑問の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用も再録もせず、定州竹簡論語に漏れ、前漢ごろ成立の『小載礼記』に「臧文仲安知禮」とある他は、上掲前漢後期の劉向による亀甲所持の話しか無い。事実上の初出は、後漢末から南北朝にかけて成立した古注『論語集解義疏』になる。

従って本章は、後漢儒の創作と断じてよい。

解説

『史記』孔子世家は、「孔子は魯国の人物では臧文仲を讃えた」と記しており、本章の言い分とは食い違う。

本章を創作した漢帝国の儒者は、以上の様なことを孔子に言わせて、自分らのでっち上げた礼法なるものに、上は皇帝から下は平民まで従え、と図々しく言っている。現伝の儒教の礼法は、ほぼ全てが漢帝国以降に儒者がでっち上げたニセモノだからだ。

帝国儒者は好き勝手に法律を制定したようなもので、その権威付けのためにこうして、論語の章まででっち上げた。「山節藻梲」なる言葉の、史書での初出は後漢の『漢書』からで、論語の時代にそんなものがあったわけではなく、それを作るのがいけなかったわけでもない。

なお論語の本章に関して、別伝と思える孔子の発言が『左伝』にある。

仲尼曰,臧文仲其不仁者三,不知者三,下展禽,廢六關,妾織蒲,三不仁也,作虛器,縱逆祀,祀爰居,三不知也。(『春秋左氏伝』文公二年)


孔子「臧文仲には貴族らしくないところが三つ、もの知らずな点が三つある。賢者の柳下恵に冷や飯を食わせたこと、六カ所の関所を”廃”したこと、召使いの女にムシロを編ませたことは貴族らしくない。無意味な道具をこしらえたこと、国公廟の位牌の順序を勝手に変えさせたこと、爰居という鳥を拝んだことは、もの知らずのあらわれだ。」

「廃」の原義は”すてる・やめる”だが、『大漢和辞典』によると厄介な語釈がある。
廃 大漢和辞典

従って「廃関」は”関所を廃止した”とも”置いた”とも取れる。有能な部下を冷遇した、召使いにムシロを編ませたのはどちらも”けち”と取れるから、”関所を置いて庶民からちまちまと通行料をせしめた”と解するのがよいと思う。

だからといって臧文仲がダメ貴族とは言えない。引き続き『左伝』を参照する。

荘公十一年(BC683)

秋,宋大水。公使弔焉,曰,天作淫雨,害於粢盛,若之何不弔。對曰,孤實不敬,天降之災,又以為君憂,拜命之辱。臧文仲曰,宋其興乎,禹湯罪己,其興也悖焉,桀紂罪人,其亡也忽焉,且列國有凶,稱孤禮也,言懼而名禮,其庶乎。


秋、宋国で洪水があった。荘公が慰問の使者を送って言わせた。「天がむやみに雨を降らせ、作物が手ひどくやられたとのこと、おいたわしく存じます。」

応じて宋公が言った。「天から見捨てられた私は、まことに不敬だったから、天がこうしてバチを与えた。心配していただき、感謝に堪えない。」

臧文仲「宋はきっと復興する。禹王や湯王は自分を罰した。だから天下を取れた。桀王や紂王は他人を罰した。だからあっけなく国を滅ぼした。自国に災害があったとき、国公は自分を”天から見捨てられた私”と自称するのは、礼法に叶っている。発言には天への恐れがあり、名乗りが礼法に叶っている。理想の君主と言ってよい。」

僖公二十年(BC640)

宋襄公欲合諸侯,臧文仲聞之曰,以欲從人則可,以人從欲鮮濟。


宋の襄公が諸侯を呼びつけて手下にしようとした。臧文仲が話を聞いて言った。「エサをちらつかせて人を集めるのは上手く行くが、自分のエサとして人を集めようとしても、それは無理というものだ。」

僖公二十一年(BC639)

夏,大旱,公欲焚巫尪,臧文仲曰,非旱備也,脩城郭,貶食省用,務穡勸分,此其務也,巫尪何為,天欲殺之,則如勿生。


夏、日照りが続いたので、雨乞いに失敗したこびとのみこを、僖公は焼き殺そうと考えた。

臧文仲「そんなことでは日照りは収まりません。城壁を堅固にして飢えた賊の襲来を防ぎ、食事を質素にして出費を減らし、農耕に力を入れて貧者を励ますのが、当面のやるべき事です。みこなど焼き殺して何になるのですか。天がみこを殺すおつもりなら、今なおのうのうと生きている道理が無いではないですか。」

『字通』の言う「時には巫を焚いて雨を祈ることもあり、𦰩カンは祝告を捧げた巫を焚殺する形である」(論語語釈「需」)を連想させるが、ここではどう読んでも、腹立ち紛れに焼き殺すのであり、焼き殺したら雨が降るとは期待していない。

僖公二十二年(BC638)

邾人以須句故出師。公卑邾,不設備而禦之。臧文仲曰,國無小,不可易也,無備雖眾,不可恃也。詩曰:「戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰」,又曰:「敬之敬之,天惟顯思,命不易哉」,先王之明德,猶無不難也,無不懼也,況我小國乎,君其無謂邾小,蜂蠆有毒,而況國乎,弗聽。八月,丁未,公及邾師戰于升陘,我師敗績,邾人獲公冑,縣諸魚門。


僖公が隣国の邾を攻めて、属国の須句を復活させた所、邾が仕返しに攻めてきた。僖公は邾を馬鹿にして、陣地も作らずに迎撃に出た。

臧文仲「邾が小さいからと言って侮ってはなりません。陣地が無ければ大軍だろうと、持ちこたえはしないからです。詩経に言うではありませんか。”びくびくと、底なし沼を見るような気持で、薄い氷の張った川の上を歩くような気持でおれ”と。また”慎重に慎重に。天はしっかと見ておわす。天の命はそう簡単なものではないぞ”と。こうして歌った昔の聖王でも、たやすい事など無く、恐れ慎まない事など無かったのです。我が魯国のような小国ならなおさらで、邾を馬鹿にしてはいけません。ハチやガマガエルは小さくとも毒があるのに、一国となればなおさらです。」しかし僖公はかまわず進撃した。

八月、ひのと・ひつじの日、僖公は邾軍と升陘の地で戦い、我が軍は大負けした。邾の兵が逃げた僖公が脱いだかぶとを拾い、邾の魚門にぶら下げた。

僖公二十四年(BC636)

冬,王使來告難曰,不穀不德,得罪于母弟之寵子帶,鄙在鄭地氾,敢告叔父。臧文仲對曰,天子蒙塵于外,敢不奔問官守。


冬、(兄弟げんかで鄭国に逃亡中の)周(の襄)王の使者がやってきて、遭難を告げて言った。「私がバカだったばっかりに、母上が愛した弟の子帯とケンカになり、肥溜め臭い鄭の氾まで逃げるハメになった。」

臧文仲「天子さまが王都からご逃亡中とあれば、ご家来衆のためにあれこれ走り回ると致しましょう。」

僖公二十六年(BC634)

東門襄仲,臧文仲,如楚乞師,臧孫見子玉,而道之伐齊宋,以其不臣也。


(斉軍が攻め寄せた。)東門襄仲と臧文仲が楚国へ行って、援軍を頼んだ。臧文仲は(令尹=楚の宰相の)子玉(=成得臣)に会い、「楚軍が斉と宋を討伐する道案内をする」と申し出たのは、この二国が楚王に服従しなかったからだ。

僖公三十一年(BC629)

三十一年,春,取濟西田,分曹地也,使臧文仲往,宿於重館,重館人告曰,晉新得諸侯,必親其共,不速行,將無及也,從之。


三十一年の春、済西の耕地を手に入れたのは、曹国から割譲させたのである。接収の使者として臧文仲が出向き、旅の途中で重のまちの宿場に宿ると、宿場のおやじが出てきて言った。

「このごろ晋国は諸侯の期待を集めており、同調する者には目を掛けますから、早く行かないと手遅れになりますよ。」臧文仲は言う通りにした。

僖公三十三年(BC627)

齊國莊子來聘,自郊勞至于贈賄,禮成而加之以敏,臧文仲言於公曰,國子為政,齊猶有禮,君其朝焉,臣聞之,服於有禮,社稷之衛也。


斉の国荘子が魯へ使者としてやって来た。郊外での出迎えからワイロに至るまで作法通りで、かつ手早く行われたので、臧文仲が僖公に言った。

「国荘子が斉国の政権を握っている間は、斉も無茶なことはしないでしょう。殿には斉へ返礼に行っていただきたい。私の聞く所では、”作法通りに服従するのは、国を守る手立てである”と言いますから。」

文公六年(BC621)

臧文仲以陳衛之睦也,欲求好於陳。夏,季文子聘于陳,且娶焉。


臧文仲は陳を仲介にして衛と和睦しようとした。そこで陳によしみを通じることにした。夏、季文子を陳へ使いに出し、加えて陳から嫁取りした。

これを最後に記事が消えるから、臧文仲はこののち遠からずして世を去ったと見てよいが、足かけ60年以上にわたって、魯国の重鎮として仕えたことになる。そしてその名声は死後も衰えなかった。

文公十七年(BC610)

襄仲如齊,拜穀之盟,復曰,臣聞齊人將食魯之麥,以臣觀之,將不能。齊君之語偷。臧文仲有言曰,民主偷必死。


襄仲(=公子遂)が斉に行き、穀での盟約に答礼したが、帰国して報告した。

「私の聞いた話では、斉国人は魯から穀物を取りあげて食おうと言っていますが、実際に見に行った所、それをやるだけの用意はありません。斉公の話は出任せです。むかし臧文仲が、”国公が出任せを言うようではおしまいだ”と言った通りになるでしょう。」

余話

言ってることは皆同じ

論語の本章が史実である可能性はほとんど無い。論語の中で臧文仲が出てくるもう一つの章、論語衛霊公篇14でも、「給料泥棒だ。部下で賢者の柳下恵を昇進させなかった」と非難しているが、この章も文字史から史実の孔子の発言である可能性はほとんど無い。

二つの章を創作したのはおそらく前後の漢儒だろうが、その意図は章ごとに集約され、最終的に帰一する。本章では「礼法破りになりたくなかったら、我ら儒者を優遇せよ」と言っており、衛霊公篇では「かしこいボクちゃんたち儒者にもっと官職を与えよ」と言っている。

つまり現世利益、福(乜-的快感)禄(カネ)寿(健康と長寿)の追求だ。

それを言うために、すでに後継者の絶えた人物を悪玉に仕立て、孔子にニセの非難を語らせるやり口は、子貢を悪玉とするやり口とよく似ている。これは偶然の一致だろうが、臧文仲も子貢も行政官としては有能で、自分の派閥を後世に残そうともしなかった。孔子も同様である。

中華文明的世渡り術として、こういう一件関係無い者を攻撃して自分の利益を図ったり、敵の没落を狙ったりすることがある。中国全土で紅衛兵が乱暴の限りを尽くした文化大革命の始まりは、『海瑞罷官』という芝居に対する批判からだった。

内容的には世直しがテーマの時代劇だったのだが、それがどういうわけか「反革命分子の釈放を主張し農業集団化政策に反対する反革命的戯曲」と四人組の一人・姚文元に書き立てられた。後ろには毛沢東があやつり糸を引いており、政敵の彭真を追い落とそうとしたとされる。

中華文明の真髄は、飽くなき現世利益の追求と、その手段としてのハッタリに行きつく。つまり言うことやること思うことは全然違う。それに目を眩まされたり、やり口の悪辣に怒っては損をすることになる。日本人だって、嫌な上司にお世辞を言うではないか。

従って中国人のハッタリを批判しても、中国人は痛くもかゆくもないので、全然効果が無い。「動機・手段・目的を観察すれば、その人が何を考えているかは分かる」(論語為政篇10)。本心を隠して利益追求に走るのは人の性だし、中国史はそれを磨き続けた数千年だった。

その中華文明の精華は、誰にでも応用出来る。やる﹅﹅ものとしても、見破る﹅﹅﹅ものとしても。

『論語』公冶長篇:現代語訳・書き下し・原文
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