論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子貢問曰孔文子何以謂之文也子曰敏而好學不恥下問是以謂之文也
- 「敏」字:〔𠂉〕→〔亠〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子貢問曰孔文子何以謂之文也/子曰敏而好學不恥下問是以謂之文也
- 「敏」字:〔𠂉〕→〔亠〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
[子問]曰:「孔文子何以謂之『文』也?」子[曰]:92……□[下問,是以謂之『文』也。」93
※「」は「貢」の異体字。
標点文
子貢問曰、「孔文子、何以謂之文也。」子曰、「敏而好學、不恥下問、是以謂之文也。」
復元白文(論語時代での表記)
恥
※貢→(甲骨文)。論語の本章は「恥」の字が論語の時代に存在しない。「問」「何」「也」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子貢問ふて曰く、孔文子は何の以て之を文と謂ふ也。子曰く、敏くし而學を好み、問ひを下すを恥ぢ不、是を以て之を文と謂ふ也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子貢が問うて言った。「孔文子は、なぜ文と呼ばれたのですか」。先生が言った。「行動が素早くて学問を好み、目下に質問することを恥じなかった。それで彼を文と呼ぶのだ」。
意訳
子貢「亡くなった衛国の家老、孔圉どのは、なぜ文という立派な戒名を貰ったんですかね。
孔子「仕事が速くてよく学び、目下であろうと賢者にはものを聞いたからだな。」
従来訳
子貢がたずねた。
「孔文子はどうして文というりっぱなおくり名をされたのでありましょうか。」
先師がこたえられた。
「天性明敏なうえに学問を好み、目下のものに教えを乞うのを恥としなかつた。そういう人だったから文というおくり名をされたのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子貢問:「孔文子憑什麽獲得『文』的稱號?」孔子說:「靈敏又好學,向比自己學問差的人請教時,不覺得沒面子,所以稱為『文』。」
子貢が問うた。「孔文子はなぜ”文”の称号を獲得したのですか?」孔子が言った。「神経が敏捷で学問を好み、自分とは学力に差がある人にものを教えて貰うとき、メンツを失うのを気にしなかった、だから”文”と呼ばれた。」
論語:語釈
子貢→子
(シコウ)
孔子の弟子。論語の人物:端木賜子貢参照。
「子」は貴族や知識人への敬称。子貢のように学派の弟子や、一般貴族は「子○」と呼び、孔子のように学派の開祖や、上級貴族は、「○子」と呼んだ。原義は殷王室の一族。詳細は論語語釈「子」を参照。
「」(貢)は甲骨文からあるが金文は未発掘。「子貢」は「子贛」とも書かれる(『史記』貨殖列伝)。字形は「工」+「貝」”財貨”で、原義は”貢ぐ”。殷墟第三期の無名組甲骨文に「章丮」とあり、これは「贛」”献上する”を意味するという。詳細は論語語釈「貢」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
孔文子(コウブンシ)
?ーBC480。衛国の大夫(家老)で、姓は孔、名は圉、文は諡(おくり名)。国公の霊公の娘婿で家臣。のちに反乱を起こす太子・蒯聵の姉の夫に当たる。孔子の弟子の子路は孔圉に仕えた。息子は孔悝。渾良夫という出来が良くて見た目の良い家臣が居たが、孔文子没後にその妻と私通したという。このようにあまり評判の良くない人物で、それなのに文とおくり名された。史実の子貢も不審に思っただろう。
ただし孔文子が生きている間は、蒯聵も衛国に魔の手を伸ばせず、孔文子がやり手の政治家であったことは確か。衛国は孔子が最初の亡命先に選ぶなど、論語との関係が深い国だが、論語時代に国公の座にあったのは、蒯聵の父である霊公で、これまた論語に悪口が載っているものの、大国晋の侵略から小国の衛を守り抜いた、やり手の殿様でもある。
孔子は霊公から年俸111億円を貰いながら、あまりよく言っていないが、それでも霊公と家老たちの政治手腕は認めており、論語憲問篇20で讃えている。また孔文子について言えば、その妻が剛の者で、自ら武装して蒯聵を引き入れ、息子の孔悝を脅して協力させている。
「孔」(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。カールグレン上古音はkʰuŋ(上)。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。金文では”大いなる”を意味した。詳細は論語語釈「孔」を参照。
何(カ)
「何」(甲骨文)
「何」は論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”…で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”…で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”おくり名を付けられる”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「これ」と読んで”その人”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
文(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”教養ある立派な人”。没後に名付けられる「諡」の中でも最高級の名。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。
中国の貴族は死後におくり名(諡号、シゴウ、「おくりな」と訓読みする)を付けられるが、文はその中でも最高の美称とされる。孔子時代=周王朝の開祖も、文王とおくり名された。死後に勝手な名前を付けられるのを嫌がった始皇帝が、秦の皇帝に関しては一端廃止したが、秦が滅ぶと復活した。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「何以謂之文也」では「や」と読んで疑問の意。「是以謂之文也」では「なり」と読んで断定の意。これらの語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
何以謂之文也(なにのもってこれをぶんというや)
主語は「何」=”未知の何らか”。述語動詞は「以謂」=”用いて評価する”。「之文」は目的語。”この者が「文」であるということ”。「也」は疑問を表す接尾辞。きちんとSVO+接尾辞になっている。こういう文法構造をいい加減にしたままでは、万年過ぎても漢文は読めない。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
敏(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”素早い”→”知能が鋭い”。新字体は「敏」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭にヤギの角形のかぶり物をかぶった女性+「又」”手”で、「失」と同じく、このかぶり物をかぶった人は隷属民であるらしく、おそらくは「羌」族を指す(→論語語釈「失」・論語語釈「羌」)。原義は恐らく、「悔」と同じく”懺悔させる”。論語の時代までに、”素早い”の語義が加わった。詳細は論語語釈「敏」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学び”。「ガク」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
恥(チ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”はじる”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「耳」+「心」だが、「耳」に”はじる”の語義は無い。詳細は論語語釈「恥」を参照。
”はじ”おそらく春秋時代は「羞」と書かれた。音が通じないから置換字にはならないが、甲骨文から確認できる。
下(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”目下に”。初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は春秋戦国の誰一人引用していないし、再録していない。定州竹簡論語にあるから前漢前半には論語の一部になっていたが、おそらく前漢儒による創作である。古注『論語集解義疏』には孔安国が注を付けているが、この男は実在そのものが疑わしい。
註孔安國曰孔文子衛大夫孔叔圉也文諡也…註孔安國曰敏者識之疾也下問問凡在已下者也
注釈。孔安国「孔文子とは衛国の家老で名は孔叔圉、”文”はおくり名である。…敏とは物事を素早く理解することで、下問とは目下にものを尋ねること一切をいう。」
「下問」という言い廻しが漢文に現れるのも前漢後半の劉向あたりからで、本章の唯一の再録例は後漢末期の蔡邕による『蔡中郎集』朱公叔謚議篇のみで、「文」というおくり名についてあれこれと記している。
解説
論語の本章はものすごく図々しい作文で、要するに皇帝だろうと国王だろうと、大金持ちだろうが大将軍だろうが、頭を下げて我らカシコイ儒者に教えを受けろ、そうでないとのちの世から賞賛されないぞ、という脅しである。
話しが遠回りだが、現中国政権による侵略と併合まで、チベットには農奴制が敷かれ、労働はほぼ農奴が担った。農奴はほとんどあらゆる自由を奪われた上に、ラマ教をすり込まれて、奴隷暮らしに満足しないと、来世で地獄行きだぞと脅された。それで反抗を押さえ込んだ。
共産中国がいいとはいわないが、まだましと言うべきか。本章はそれと同じ。論語にも度々記されているように、中国人は無名を恐れ、死後の名誉を狂おしいまでに欲しがった。「文」とは最高のおくり名だが、それが欲しけりゃ儒者を崇めろ、そう言っているのである。
おくり名=諡号は、始皇帝の時に皇帝に限っては廃止されたが、秦の滅亡とともに復活した。その後も文という諡は有り難がれ、既存の論語本から吉川本を孫引きすれば、唐の韓愈は文公、宋の司馬光は文正公、欧陽脩・蘇東坡は文忠公、以下文人墨客の例を吉川本に挙げる。
訳者の知識としては、清の曽国藩が文正公、日清戦争当時の事実上の宰相・李鴻章は、文忠公とおくりなされた。両人とも軍功で名を挙げた人なのだが、おくり名は事情が別らしい。
余話
王婆さんの霊位
おくり名の基準を記しているとされる『逸周書』諡法解は、いつ記されたか分からない怪しい文献だが、「文」について次の通り言う。
經緯天地曰文。道德博厚曰文。勤學好問曰文。慈惠愛民曰文。愍民惠禮曰文。錫民爵位曰文。
天地をともにうまく運営した者を文と呼ぶ。道徳に広く深い者を文と呼ぶ。真面目に勉強し知者に質問するのを好む者を文と呼ぶ。恵み深くて民を愛した者を文と呼ぶ。民を憐れみ礼法に通じた者を文と呼ぶ。民に爵位を与えた者を文と呼ぶ。(『逸周書』諡法解)
狂おしいまでに死後の名声を欲しがったのは、何も男に限らない。『笑府』に言う。
有王媼家富而好勝。臨歿。厚贈道士。嘱之曰。身後題冥位。須多着好字。為里黨光。道士思無可稱。乃題曰。其官隔壁王媽々之柩。某官就時地顕宦寔之。
金貸しの王婆さんは、たいそう富を積み上げ、お屋敷街に住んでいたが、いよいよ死ぬ段になって、道士にたっぷりと礼金をはずんで頼んだ。「きっと良い戒名を付けて下されよ。隣近所の皆が恐れ入るほどの」。とそのまま息が絶えた。
道士は請け負ったものの、いい評判の聞こえない婆さんに何と名づけようかと悩みに悩んだ。挙げ句。「大明奉天翊運推誠守正文臣特進光禄大夫上柱国太師兼太子太師吏部尚書中極殿大学士なにがしの隣に住まう王婆さんの霊位」。(『笑府』巻八・題柩)
これはむしろ道士の誠実を誉めるべきではないだろうか。何かにつけてズルをする中国人ではあるが、安能務が「カネは万能の宝貝(秘密兵器)」と言ったように、「カネを貰ったらその分働く」という習性は定着しており、中国とワイロが切っても切れないのはそれが理由だ。
だがこれも、変転極まりなき現世を生き延びるための、れっきとした中華文明の精華であり、どんな独裁体制下でも、ワイロさえ払えば自由に行動できた。例外が秦の始皇帝と明の洪武帝と清の雍正帝の時代で、ワイロが効かないからそれこそ逃げ場の無い独裁政治になった。
三人とも真面目な皇帝であるにもかかわらず、暴君呼ばわりされたのはそれゆえだ。なお『笑府』に出る王婆さんと言えば、がめついワル婆と中国では相場が決まっている。『笑府』と同じ明代に完成した『水滸伝』の好漢、行者武松の兄・武大を謀殺した悪党としても出る。
『金瓶梅』の女主人公でもある潘金蓮が武大の妻なのだが、王婆が薬屋のおやじ西門慶から銭を貰って、密通の仲を取り持った。トラ殺しの偉名が轟く武松が出張中、王婆が姦夫姦婦に悪ヂエを付けて武大を盛り殺してしまうのだが、帰って来た武松が全てを知って復讐する。
道:「王婆,你實說!」那婆子道:「又不干我事,教說甚麼?」武松道:「老豬狗!我都知了,你賴那個去!你不說時,我先剮了這個淫婦,後殺你這老狗!」提起刀來。
武松「くそババア! 観念して白状しろ!」
王婆「ふん。何さ、あたしにゃ関係ないね。」
武松「この淫乱節介な欲太りのくたばりぞこないめ。オレは全部知ってるんだぞ、お前が誰に頼まれたのかもな。お前が白状しないなら、この腐れアマ(潘金蓮)を叩き斬ってから、その後ゆっくり刻んでやるぞ!」…そう言って刀を振り上げた。(『水滸伝』第二十五回・偷骨殖何九送喪 供人頭武二設祭)
明代の北京語(官話)で「王婆」はuaŋ(平)pʰo(平)「ワンポー」、「忘八」”女衒”はuaŋ(平)pa(入)「ワンパッ」、同じではないが遠くもない。王婆と聞けば誰もが色街のやり手婆あを思った。『水滸伝』は芝居の台本だから、字の読めない庶民が聞いて連想できる工夫。
大多数の中国人は庶民、つまり漢字だけでは、中国人を理解出来ないというわけだ。
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