論語詳解105公冶長篇第五(13)子路聞くこと’

論語公冶長篇(13)要約:子路は孔子先生の最初の弟子で、武芸自慢でもありましした。時には先生をたしなめるほどの関係でしたが、学問やお作法については腰が引けていたようです。そんな子路についての、弟弟子の回想録。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子路有聞、未之*能行、唯恐有聞。

校訂

武内本

未下唐石経之の字あり。

論語義疏

「未行」

定州竹簡論語

(無し)


→子路有聞、未能行、唯恐有聞。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文路 金文有 金文聞 金文 未 金文能 金文行 金文 唯 金文𢀜 金文有 金文聞 金文

※恐→𢀜。論語の本章は、「未」「行」の用法に疑問がある。

書き下し

子路しろりて、いまおこなあたはざらば、ただるをおそる。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

子路
子路は聞いた話があって、まだ出来ないと、ひたすら話を聞くことを恐れた。

意訳

子路 あきれ
子路さんは、先生から聞いた教えを実践できないうちは、新しい教えを聞きたがらなかった。

従来訳

下村湖人
子路は、一つの善言をきいて、まだそれを実現することが出来ない間は、更に新しい善言を聞くことを恐れた。

下村湖人先生『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子路聽到一件該做的事,沒有做完時,就怕又會聽到另一件。

中国哲学書電子化計画

子路は学ぶべき一つのことを聞くと、出来るようになるまで、別の学ぶべき事を聞くのを極度に恐れた。

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

 (


子路(シロ)

孔子の弟子。論語の人物:仲由子路を参照。

「子」は貴族や知識人への敬称。子路のように学派の弟子や、一般貴族は「子○」と呼び、孔子のように学派の開祖や、上級貴族は、「○子」と呼んだ。原義は殷王室の一族。詳細は論語語釈「子」を参照。

「路」は”みち”の意で、「足」+「スイ」”あし”+「𠙵」”くち”。「𠙵」は人の象徴、全体で人々がスイスイと行き来するみち。詳細は論語語釈「路」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 甲骨文
(甲骨文1・2)

論語の本章では”(先生の教えを)聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。「耳」+「人」と見える字形も甲骨文にはある。詳細は論語語釈「聞」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では「これ」と読んで”それが”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

古注の定本になっている懐徳堂本ではこの字を欠き、先行する正平本『論語集解』にも無い。唐石経-論語注疏-新注の系統にはある。つまり日中で論語の版本が分岐した後で、中国で書き加えられた字であり、校訂して省いた。

懐徳堂本『論語義疏』

懐徳堂本『論語義疏』

原始論語?…→定州竹簡論語→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→白虎通義─古注─経典釈文┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
             └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)────→(現在)
→(日本)───────懐徳堂本→(現在)

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

唯(イ)

唯 甲骨文 唯 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひたすらに”。初出は甲骨文。「ユイ」は呉音。字形は「𠙵」”口”+「隹」”とり”だが、早くから「隹」は”とり”の意では用いられず、発言者の感情を表す語気詞”はい”を意味する肯定の言葉に用いられ、「唯」が独立する結果になった。古い字体である「隹」を含めると、春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ…だけ”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「唯」を参照。

恐(キョウ)

恐 金文 恐 字解
(戦国金文)

論語の本章では”恐れ慎む”。初出は戦国時代末期の金文。論語の時代に存在しない。字形は「工」”ふた”+「心」で、勢いを閉じられた心のさま。原義は”恐れる”。論語時代の置換候補は、同音同調の「𢀜」で、西周中期の金文より存在する。詳細は論語語釈「恐」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は、春秋戦国時代の誰一人引用せず、全文が前漢中期成立の『史記』弟子伝に記載されたのが事実上の初出。定州竹簡論語には無く、本章は前漢までは論語の一部とされなかった可能性がある。加えて先秦両漢では、『史記』以外の記載も無い。

従って本章が、論語の一部として確定するのは、後漢末から南北朝にかけて成立した古注『論語集解義疏』になる。そこには前漢前期の人物で司馬遷の師とも言われる孔安国が注を付けているが、この男は高祖劉邦の名を避諱ヒキ(はばかって使わない)しないなど、実在が疑わしい。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰前所聞未能及得行故恐後有聞不得竝行也

孔安国
注釈。孔安国「以前に聞いたことがまだ実践できるようになっていないから、これから聞き教わることが同時に実践できないのを恐れた。」

だが文字史的には論語の時代まで遡れるので、とりあえず史実として扱う。

解説

三国志演義の張飛と同様、中国のもの書きは事あるごとに、子路を乱者として描きたがる。子路の実相は武人と言うよりやり手の行政官で、衛の霊公に押し付けられた、面倒くさい住人が住むまちを、領主としてみごとに治めきっている。

そんな子路について、論語の本章に評を残したのは誰だろうか。「子路聞くありて…」とあざ名=敬称で呼んでいるからには、弟弟子(子路は孔子の一番弟子)の回想録なのだろうが、あるいは孔子の評が、変形して残ったのかも知れないと想像したくなる。

だが古注に付け足しを書いた南朝の儒者は、あまり大した想像が働かなかったようだ。

古注『論語集解義疏』

子路稟性果决言無宿諾故前有所聞於孔子即欲修行若未及能行則不願更有所聞恐行之不周故唯恐有聞也


子路の性格は果断で、一度請け合ったらその日のうちに実行した(論語顔淵篇12)。だから以前に孔子から聞いたことは、すぐさま修行して出来るように努め、もしまだ出来ない事があると、更なる教えを聞くのを願わなかった。教えを自由に出来るようになっていなかったからで、だから更なる教えをおそれたのだ。

新注での宋儒は、いつもとは違い子路を誉めている。

新注『論語集注』

前所聞者既未及行,故恐復有所聞而行之不給也。范氏曰:「子路聞善,勇於必行,門人自以為弗及也,故著之。若子路,可謂能用其勇矣。」

論語 朱子 新注 范祖禹
既に教えを受けた話をまだ実践できていないから、またお説教されてすぐに出来ないのをおそれたのだ。

范祖禹「子路は一生懸命に先生の教えを聞き、勇み立って必ず実践した。他の門人達は、とてもこの実行力にはかなわないと思った。だから本章が論語に残った。子路のような人を、勇気の用い方をよく知っている人、という。」

蘇軾 蘇東坡
范祖禹は宋儒には珍しいまじめ人間で、あまり官界での出世を求めなかった、とされる。難しい顔をした謹厳居士だったらしく、「無駄口を聞いたことが無い」と口数の多い蘇東坡が言っている。

余話

しゃちほこ立ち

論語の本章「未之能」は”まだ出来ない”の一般的な漢文の言い廻しで、これだけなら春秋戦国にも用例がある。先秦両漢まで範囲を広げると、そのほとんどは儒家風味の説教臭い絵空事なので、どうせ絵空事なら暇つぶしになる怪談話でも記しておく。

趙襄子率徒十萬,狩於中山,藉芿燔林,扇赫百里,有一人從石壁中出,隨煙燼上下,眾謂鬼物。火過,徐行而出,若無所經涉者。襄子怪而留之,徐而察之:形色七竅,人也;氣息音聲,人也。問奚道而處石?奚道而入火?其人曰:「奚物而謂石?奚物而謂火?」襄子曰:「而嚮之所出者,石也;而嚮之所涉者,火也。」其人曰:「不知也。」魏文侯聞之,問子夏曰:「彼何人哉?」子夏曰:「以商所聞夫子之言,和者大同於物,物無得傷閡者,游金石,蹈水火,皆可也。」文侯曰:「吾子奚不為之?」子夏曰:「刳心去智,商未之能。雖然,試語之有暇矣。」文侯曰:「夫子奚不為之?」子夏曰:「夫子能之而能不為者也。」文侯大說。

列子鬳齋口義
春秋の末ごろ、晋国の大貴族である趙襄子が、十万の軍勢を率いて隣国の中山国に押し入り、勝手に狩りをし野焼きをして、その火が百里にも及んだ。するととある岩の壁からすぅーと人が出てきて、煙が上がるのに従ってゆらゆら揺れた。「出たぁー!」と皆が慌てふためく中、その者は火が焼き進むのに従って移動し、足跡が付いていない。

豪胆な趙襄子が「おいバケモノ」と呼び止めてとくと観察すると、目鼻などちゃんと人らしい穴が開いており、確かに人である。息をしたり話したりするさまも、確かに人である。

趙襄子「どうして岩から出てきたのじゃ。なんだって火の中をうろつくのじゃ?」
化け物「岩ってなんです? 火ってなんです?」
趙襄子「お前さんが出てきたのが岩で、うろついているのが火じゃ。」
化け物「へー、そーなんですかー。」

同じく晋の大貴族である魏の文侯がこの話を聞いて、顧問に雇った子夏(孔子の直弟子)に尋ねた。「…だったそうじゃが、いったい何者じゃろう?」
子夏「私が孔子先生から聞いた話では、調和の真髄を心得た者なら、どんな物にも傷付かず邪魔されず、自由に金物や石を出入りし、火や水の上を平気で歩きます。」

文侯「では一度やって見せてくれんかのう。」
子夏「とんでもない。心をうつろにして調和を心得るには、私の修行が足りません。ただそういう話があることを申せるだけです。」

文侯「孔子先生ならどうだったんじゃろう?」
子夏「もちろん先生は出来ましたが、出来る気配すら見せなかったのです。」
文侯はたいそう喜んだ。(『列子』黄帝12)

もちろん作り話で、日本の部将なら文侯のように喜ばない。戦国末から江戸初期を生き抜いた大名、真田信之は、体術を関口うじむねに伝授されたが、師匠が「壁を渡り歩く」と聞いて、技を見るのを願った。氏心は笑いながら「何かうまいものを喰わせてくれ」という。

そこは大名だから信之が馳走すると、氏心は壁際で逆立ちをし、「さあ、これでよい」と言う。信之が「そうじゃなくて壁を立って走って欲しい」と言うと、「殿は大名でありながら、そんな胡乱うろんなうわさに欺されてどうするのです」と叱ったという(『日本武術神妙記』)。

子夏
それでも孔子の直弟子である子夏が文侯に仕えたのは確からしく、当時の晋国はすでに、韓・魏・趙の三大家老家が事実上独立していた。三家が正式に周王室から諸侯として認められるのはBC403年で、孔子没後76年のこと。その間も通常、春秋時代に含める。

春秋時代年表

春秋時代年表 クリックで拡大

孔子(BC551-BC479)の晩年の年代記は、春秋時代の終わりを予兆させ、例えばBC487に曹国は宋国に滅ぼされ併合された。孔子逝去の翌年には陳国が楚国に、さらに5年後には呉国が越国に滅ぼされた。孔子の弟子たちはそのような時代の中、諸国に散っていったのである。

論語 春秋諸国と諸子百家

春秋戦国年表 クリックで拡大

文中の趙襄子の頃までは、晋に三家より強大な知氏があり、趙襄子はそれによる包囲戦に逆転勝利して、寝返った韓・魏とともに晋を三分割した(BC453)。この年から戦国時代とする場合もある。さらに誰もが戦国だと実感したのは、その67年後の田氏による斉国乗っ取りだった。

それは孔子没後約90年、墨子没後約20年で、孟子が生まれる14年ほど前のことだった。亦上掲の通り、弟子の中で乱者として儒者が書きたがる子路だが、明代の笑い話集『笑府』は次のように言う。

有以婦翁之力得中魁選者。或為語嘲之曰。孔門弟子入試。臨揭曉。聞報子張第十九。衆曰。他一貌堂々。果有好䖏。又報子路苐十三。衆曰這粗人也中得高虧他那一陣氣魄。又報顏淵苐十二。衆曰。他最有學問。屈了他些。又報公治長第五。駭曰。那人平時不見怎得。如何倒中得高。一人曰。他虧有扶持。問誰扶持他。曰。丈人。
胡廬生曰。但是平時不見怎的。偏中得高。豈箇々有婦翁是聖人。

論語 笑府 馮夢竜
義父の七光りで科挙(高級官僚採用試験)を上位で合格した男がいた。ある人があざけって次のように言った。孔子の弟子たちが受験した。合格者名が下から順に貼り出されたら、年若の子張が第十九位だった。みなの者「さすがに大したものだ。十九位とは。子張らしい上級合格だ」。

次に子路の名が十三位で貼り出された。みなの者「あの乱者がこんな高得点とは。あの気迫で受かったんだな」。

次に顔淵の名が十二位で貼り出された。みなの者「あの秀才がたったの十二位とは。ずいぶん落ち込んだことだろう」。

次に公冶長の名が第五位で貼り出された。みなの者「あれは普段から何の取り柄も無い男だぞ」と騒ぎ始めた。ある人「だが彼には縁故があるからな。」「誰です?」「背の高い人(孔子)」。

胡廬生「ただ普段は目立たなかったに過ぎない。高得点だったのが、義父のおかげばかりと言えるかどうか?」(『笑府』巻十三・公冶長)


※孔子「弟子の公冶長は収監中だが、出所したら身内にしよう」。そう言って自分の娘を妻合わせた(論語公冶長篇1)。



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