論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
(前回より続く)
子張曰、「何謂四惡。」子曰、「不敎而殺、謂之虐。不戒視成、謂之暴。慢令致期、謂之賊。猶之與人也、出納之吝、謂之有司。」
校訂
後漢熹平石経
…虐不戒暴…司
定州竹簡論語
……而不猛乎?」子張曰:「何胃四惡?」子曰:「不教而殺胃之[虐];610……內a之
b胃之有司。」·子曰:「不知命,無以為君子;不知禮,無以·立[也;不知]言,無以知[人也]。」611
- 内、阮本作”納”字、皇本、高麗本、唐石經作”内”字、『釋文』云「内、本今作納入」。
、今本作”吝”。
為鄰之省、古鄰、吝通。
※吝mli̯ən(去)、鄰li̯ĕn(平)。『大漢和辞典』に語釈の共有無し。吝条に『易経』『漢書』の注を引いて「遴に通ず」という。遴li̯ĕn(去)、”むさぼる”の語釈あり。
次章「子曰不知」以下は、1簡に2行で書いてあったという。「・」と記された25字の半分として、14字分を必要とし、これに本章の末尾8字を加えれば22字となる。簡610号は20字が記されており余裕は無い。簡610号と611号の間には、本来「不戒…也出」の20字を記した簡が、1枚あったのではないか。
→子張曰、「何胃四惡。」子曰、「不敎而殺、胃之虐。不戒視成、謂之暴。慢令致期、謂之賊。猶之與人也、出内之
、胃之有司。」
復元白文(論語時代での表記)

































※張→(金文大篆)・惡→亞・慢→曼・
→鄰。論語の本章は、「之」の用法に疑問がある。
書き下し
子張曰く、何をか四なす惡しきと胃ふ。子曰く、敎へ不し而殺す、之を虐ると胃ふ。戒め不して成るを視る、之を暴ると謂ふ。令を慢にして期を致す、之を賊ふと謂ふ。之に猶ほ人に與ふる也、出し内れ之
かなる、之を有司と胃ふ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子張が言った。「何を四つの悪というのですか。」先生が言った。「教育しないで刑殺する。これをいじめるという。戒めないで結果を監視する。これを出し抜けという。命令をゆるがせにしたまま期限切れにする。これを傷付けるという。以上に加えて、人に物を与える時に、出し入れにケチケチする。これを役人根性という。」
意訳
子張「四つの悪とはなんですか。」
孔子「何をしてはいけないか、きちんと教えないのに民を罰して処刑する。これをいじめるという。注意すべき事を教えないで、結果だけで判定する。これを抜き打ちという。あいまいな指示しか与えておかないで、期限切れになってから責め立てる。これを意地悪という。」
子張「四つ目は?」
孔子「かてて加えて民に物資を配る際、ケチケチして十分に与えてやらない。これを役人根性というのだ。」
従来訳
子張がたずねた。――
「四つの悪というのは、どういうことでございましょう。」
先師がこたえられた。――
「民を教化しないで罪を犯すものがあると殺す、それは残虐というものだ。何の予告も与えないでやにわに成績をしらべる、それは無茶というものだ。命令を出す時をいい加減にして、実行の期限だけをきびしくする。それは人民をわなにかけるというものだ。どうせ出すものは出さなければならないのに、勿体をつけて出し惜しみをする、それは小役人根性というものだ。」下村湖人先生『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子張說:「什麽是四惡?」孔子說:「不加教育就要逮捕叫做虐待,不看原因衹苛求成功叫做暴戾,不看時間衹限期完成叫做害人。同樣要奬勵先進,卻出手吝嗇叫做小氣。」
子張が言った。「何が四つの悪なのですか?」孔子が言った。「教育しないでむやみに身柄を捕まえるのを虐待という。原因を見ないでひたすら成果を求めるのを暴戻(むごくて人道にもとる)という。時間を見積もらないでひたすら完成の期限だけを決めるのをいじめるという。同様に、何かを振興させるときに、出費を惜しむのを気が小さいと言う。」
論語:語釈
子張

論語では、孔子の弟子で孔門十哲に次ぐ高弟だが、年齢が若く「何事もやり過ぎ」と評された弟子、顓孫師子張のこと。「張」の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞のため同音近音のいかなる漢字も置換候補になり得る。辞書的には論語語釈「張」を参照。
謂→胃

(金文)
論語の本章では”~だと呼ぶ”。同じ「いう」でも、何かをめぐってさまざま言う、論評すること。「謂」は論語の時代、「胃」と書き分けられていない。「謂」は『学研漢和大字典』によると、胃は、「まるい胃袋の中に食べたものが点々と入っているさま+肉」で、まるい胃袋のこと。謂は、「言+〔音符〕胃」の会意兼形声文字で、何かをめぐって、ものをいうこと、という。詳細は論語語釈「謂」・論語語釈「胃」を参照。
惡

論語の本章では”わるいこと”。新字体は「悪」。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。部品の「亞」の初出は甲骨文で、「悪と通ず」と『大漢和辞典』はいい、”みにくい”の語釈をのせる。
『学研漢和大字典』によると、亞(ア)(=亜)は、角型に掘り下げた土台を描いた象形。家の下積みとなるくぼみ。惡は「心+(音符)亞」の会意兼形声文字で、下に押し下げられてくぼんだ気持ち。下積みでむかむかする感じや、欲求不満、という。詳細は論語語釈「悪」を参照。
不敎(教)而殺

「教」(金文)
論語の本章では、”(善悪を)教えないで刑殺する”。儒家の教育重視は孔子在世当時からそうだったが、漢代になって儒教が国教化されると、儒者にとって社会教育は重大な任務とされるようになった。言い換えると、思想界の独占を図ったのである。
「而」は、前後が分かちがたく一体化していることを示す接続辞で、教えないのに「必ず」殺す、という語気を示す。論語語釈「教」・論語語釈「而」・論語語釈「殺」を参照。
之(シ)

(甲骨文)
論語の本章では”これ”・”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
虐(ギャク/しいたぐ)

(金文)
論語の本章では”いじめる”。論語では本章のみに登場。『学研漢和大字典』によると会意文字。虍は虎(とら)の略体。虐は「虍(とら)+つめで引っかくしるし+人」で、とらが人をつめで引っかくさま。ひどい、激しいという意味を含む、という。詳細は論語語釈「虐」を参照。
胃之虐
論語の本章では”いじめる、という”。「これをしいたぐるという」と読み、胃(謂)abで、”aをbだと評価する”。漢文の動詞は、修飾するいわゆる目的語を二つ持つ場合、Vabの形を取り、”aにbをVする”と解する場合が多い。
不戒視成

「視」「戒」(金文)
論語の本章では”(あらかじめ)戒めないで結果を見る”。「視」は同じ「みる」でも、真っ直ぐ目を向けて監視すること。失敗や小悪事が起こるのを期待しながら、じっと見ていること。
暴

(金文)
論語の本章では”不意打ち”。「暴」の原義は天日にさらすことで、”あばく”の意がある。音が「剽」などに通じたので、手荒い、にわかに、の意に転用された。初出は甲骨文。ただし字形が大幅に異なる。詳細は論語語釈「暴」を参照。
慢令致期

「慢」「致」(金文)
論語の本章では”命令をおろそかにして期限切れにする”。「慢」は金文では「曼」と書き分けされず、”だらけてのばす”こと。武内本には、「致期とは怠惰にして期限のつくるをいう」とある。論語語釈「慢」・論語語釈「令」・論語語釈「致」・論語語釈「期」を参照。
賊

(金文)
論語の本章では”傷付ける”。原義は武器で人を脅し、財貨を奪うこと。初出は西周末期の金文。『学研漢和大字典』によると、戎は「戈(ほこ)+甲(かぶと)」の会意文字で、ほこや、かぶとでおどしつけること。賊は「貝+戎」の会意文字で、凶器で傷つけて財貨をとることをあらわす、という。詳細は論語語釈「賊」を参照。
猶(ユウ)

論語の本章では、”さらに”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、酋(シュウ)は、酉(酒つぼ)から酒気が細く長くのび出るさま。猶は「犬+酋(長くのびる)」の会意文で、のっそりとした動物や、手足と体をのばす動物の意。転じて、のばすの意となり、そこまでのばしてもなおの意の副詞となる、という。
一方『字通』では、猷が古い字形で、御神酒に犠牲獣を添えた形とし、神意に謀る=探り求めることが原義で、そこからはかりごと、あざむくが本義とする。それ以外の意味では「猶」を用いるが、もとは同じ字だったとする。
音が又=サルに通じるのでサルの意があり、『説文解字』などがその説を取っているのを引用する。また由に音が通じ、”なお~のごとし”の意が、似と音が通じて”似る、等しい”の意が、夷と音が通じて”ゆったり”の意が生じたという。詳細は論語語釈「猶」を参照。
猶之與(与)人也
論語の本章では、「之に猶お人に与える也」と読み、”以上に加えて人に与える時には”と解した。古来解釈の分かれる句。

猶之與人謂以物獻與彼人必不得止者也
猶之與人とは、物を誰かにすすめ与える時、人は必ずやめることが出来ないことを言うのだ。
おそらくは「猶」の字に、「猶予」のように”引き伸ばす”意があることから、ずるずるといつまでも与え続けることと解釈したのだろう。しかしそれでは下の句の「出納之吝」(出し入れにケチケチする)と通じない。

猶之,猶言均之也。均之以物與人,而於其出納之際,乃或吝而不果。則是有司之事,而非為政之體。
猶之とあるが、猶とは等しいの意味だ。配給量を同じにして民に物資を配るはずが、いざ出し入れの勘定をするに当たって、ケチケチして結局与えない。これは役人根性のなせる業で、政治のあるべき姿ではない。
一通り文意は通じる。これはこれで一つの解だろう。宇野哲人『論語新釈』・宮崎市定『論語の新研究』はそのまま孫引きしている。この場合の読み下しは、「之を猶しく人に与うるなり」のようになる。

猶は遒の仮借、あつむる意。「之を猶は人に與へむとてなり、而も出内ことの吝なる、これを有司といふ。」
遒は音シュウで、”せまる・せわしい・つよい”などの意味をもつ。仮借と言うより誤記だろうが、これも一つの見解ではある。

之猶りして人に与うるなり、出納の吝なること、之を有司と謂う。いずれは当方から出して人民に与えるものであるのに、出し入れを渋ってけちけちする。これを有司(役人根性)という。
「猶」に”~より”の意があることに着目した訳。これも一つの解だろう。

猶之れ人に与うるとき、出納の吝なる、之を有司と謂う。当然に民に与えるべきものをあれこれと出し惜しみする。これを有司(小役人根性)と言う。
加地の言い分については、『大漢和辞典』に『詩経』などを引用して、「猶」の古い語義に、「まさに~すべし」と読み下して”当然~すべきである”と解する語釈を載せてあるのがある。加地訳はおそらくそれに従った解釈で、これも一つの解だろう。
ただしそうならそうで、なぜ読み下しを「猶に之れ与るべきとき」としないのだろう?
訳者の見解
- 本章は漢代儒者の創作である可能性があり、漢字=語の解釈は必ずしも原義に従う必要が無い。
- この句だけが他の句と違って、「猶之與人也」が付け足された形になっている。
不敎而殺ー謂之虐。
不戒視成ー謂之暴。
慢令致期ー謂之賊。
(猶之與人也)
出納之吝ー謂之有司。 - 『大漢和辞典』の第一義に、「なお」と読み下すさまざまな語釈の一つに、”さらに。その上。かてて加えて”の解釈を載せている。
- ここでの「也」は、断定の「なり」(~である)ではなく、”~については~”の意で、「や」と読み下すべき。
以上から、「猶之與人也」は、”三つ挙げた「悪」に加えて、もう一つ、人に与える時には”の意ではなかろうか。
出(シュツ/スイ)

(甲骨文)
論語の本章では”出す”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
出納之吝→出内之

「吝」(金文)
論語の本章では”出し入れをケチケチする”。
「納」は論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文だが、定州竹簡論語が記すように、「内」と書き分けられない。『学研漢和大字典』によると、内(ナイ)は「屋根のかたち+入」の会意文字で、納屋の中にいれこむこと。納は「糸+(音符)内(ナイ)」の会意兼形声文字で、織物を貢物としておさめ、倉にいれこむことを示す、という。論語語釈「納」・論語語釈「内」を参照。
「吝」は『学研漢和大字典』によると音は「リン」、訓は「おしむ・やぶさか」。「文+口」の会意文字で、文は修飾を意味する。口さきを飾っていいわけし、金品を手放さない意を示す。憐(レン)(思い切りわるく、心を悩ます)ときわめて近い、という。
定州竹簡論語の「
」は上掲定州竹簡論語の注は「鄰」(隣)li̯ĕn(平)の略体だと言うが、”やぶさか”と類似した訓が『大漢和辞典』に見られない。「遴」li̯ĕn(去)には”むさぼる”の語釈がある。

有(ユウ)

(甲骨文)
論語の本章では、”持つ”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
有司

(金文)
論語のみならず漢語として、「司有るもの」=”役人”だが、ちまちまと出し惜しみする小役人根性を言う。『大漢和辞典』は二字の熟語として「やくにん」と訓んでいる。論語語釈「有」・論語語釈「司」を参照。
論語:付記
以上、原文ではひとまとめになった子張問章を分割して解説した。もとはこの章だけで、子張問篇が成立していたらしい。つまり古い論語では、一つの篇はそれほど長くなかったということだ。この事情について詳細は、論路解説を参照。

訳者は財政についてはずぶの素人だが、バラマけばいいというものではないだろうし、しわき蓄えばかりを事とする小役人根性にも腹が立つ。要するに大多数が納得するような税金の使い方をすればいいのだが、これこそが政治の本質に関わってくる。
「簿記」の才は驚くしかないが、「政」の才とは全く違う。
”政治とは利益分配に他ならない”と孔子は論語為政篇1で言った。つまり誰かの利益を諦めさせ、誰かに利益を振りまく行為が政治なのだが、誰もが損を死に物狂いで拒絶するから、それゆえに国家には暴カが要る。実のところ国防や治安維持は二の次だ。
なぜなら、治安維持も詰まるところは金の問題で、外寇もやはり金の問題であることが多いからだ。だが今回孔子が言ったように、政治がその責任で支出を決めたのを、役人が妨害する例は少なくない。役人もやはり、利益集団だからだ。それゆえの為政篇の言葉と解するべきだ。
「まつりごとを為すに徳をもちう」というのを、”道徳で政治を行う”と解している限り、孔子が古代人でありながら、どこまで事の本質に迫っていたかが分からない。だが残念なことに、本章の「役人根性」を、孔子の発言とする根拠は乏しい。
その論語の本章、今回の史実性について。
「不敎而殺」「不戒視成」は戦国期の文献に見られず、前漢の『説苑』談叢篇に「教而誅謂之虐,不戒責成謂之暴也」とあるのが初出。「慢令致期」は前漢の『韓詩外伝』巻三に「不戒責成,害也,慢令致期,暴也,不教而誅、賊也。君子為政,避此三者」とあるのが初出。
「出内(納)」うんぬんについては、論語以外に見られない。やはり前漢の作と見るのが適切ではなかろうか。




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