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論語付録:何晏「論語序」(2)

何晏論語序(2)要約:現代伝わる、論語の最も古い注釈である、古注=『論語集解義疏』の冒頭に、編者の何晏によってつけ加えられた序文、その後半。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

安昌侯張禹、本受魯論、兼講齊說、善者從之、號曰張侯論、為世所貴、苞氏周氏章句出焉。古論、唯博士孔安國、為之訓說、而世不傳。至順帝之時、南郡太守馬融、亦為之訓說。漢末、大司農鄭玄、就魯論篇章、考之齊古、以為之注。近故司空陳羣・太常王肅・博士周生烈、皆為之義說。前世、傳受師說、雖有異同、不為之訓解。中間、為之訓解、至于今多矣。所見不同、互有得失。今集諸家之善說、記其姓名、有不安者、頗為改易、名曰論語集解。光祿大夫闗內侯臣孫邕・光祿大夫臣鄭冲・㪚騎常侍中領軍安鄉亭侯臣曹羲・侍中臣荀顗・尚書駙馬都尉闗內侯臣何晏等、上。

書き下し

安昌侯の張論を受け、兼ねてセイ說をきわめ、き者はこれしたがい、なづけて張侯論とい、世のとうとばるる所とり、ホウ氏周氏の章句出でたり。古論は、だ博士孔安國、之がきをつくり、し世につたわ。順帝之時に至りて、南郡の太守馬融、た之が訓み說きを為る。漢末、大司農ジョウ玄、魯論の篇章にもとづき、之を齊古に考え、以て之が注を為る。近ごろ故の司空陳グン・太常王シュク・博士周生烈、皆な之がおもむきの說きを為る。前世、師の說をつたえ受け、異同有りといえども、之が訓み解きを為ら不。中ごろ、之が訓み解きを為り、今至りて多きなり。見る所同じから不して、互いに得る失なう有り。今諸家之善き說きを集めて、其の姓名を記し、安からる者有らば、すこぶる改めうるを為し、名づけて論語集解シッカイと曰う。光祿ロク大夫闗內カンダイ侯臣孫ヨウ・光祿大夫臣テイチュウ・㪚騎常侍中領軍安鄉亭侯臣曹・侍中臣荀顗ジュンガイ・尚書馬都尉闗內侯臣何晏カアンたてまつる。

論語:現代日本語訳

安昌侯の張禹は、もと魯論語を学んで、その後兼ねて斉論語の内容を研究した。両方の良いところを選んで一冊にまとめ、張侯論と名付けたが、世間からもてはやされて、その注釈として苞氏や周氏の書き足しが現れた。

古論語は、博士の孔安国だけが解読できたが、後世には伝わらなかった。順帝の時代になって、南郡太守の馬融が、また古論語の解読を書いた。後漢の末になって、大司農の鄭玄が、魯論語の篇章に基づいて、斉論語・古論語も参照して、論語の注釈を書いた。

近ごろすでに亡くなった司空の陳羣、太常の王肅、博士の周生烈が、いずれも論語に書かれた言葉の意味を説いた記事を書いた。

前漢の時代では、師匠の説を伝えられて学ぶだけで、異論があっても、新たに論語の注釈や解説は書かなかった。しかし後漢の時代になると、論語の注釈や解説が書かれるようになり、今となってはそれが多くなってきた。

しかしそれぞれの本では互いに着目点が違い、長所短所がそれぞれある。そこで今、さまざまな学者のよい説を集め、その姓名を記して、意味のよく分からない部分は思い切って改め、論語集解と名付けた。

光禄大夫・関内侯のわたくしめ孫邕、光禄大夫のわたくしめ鄭冲、散騎常侍・中領軍・安郷亭侯のわたくしめ曹羲、侍中のわたくしめ荀顗、尚書・駙馬都尉・関内侯のわたくしめ何晏らが、ここに献上致します。

論語:語釈

安昌侯張禹(アンショウコウチョウウ)

?-BC5。前漢の政治家で儒者。皇太子の家庭教師だったが、その太子が即位して成帝となると、関内侯・宰相に上り詰めた。論語の専門家として知られ、当時多数の系統があった論語の決定版を作り、それがのちに『張侯論』と呼ばれた。現伝論語の祖と言われる。

苞氏周氏(ホウシシュウシ)

苞氏は包カン(BC7-AD65)とされる。あざ名は子良、後漢の儒者。後漢を起こした光武帝に仕え、建武年間に皇太子の家庭教師となったという。

一方で周氏は、古来誰だか分からない。

博士孔安國(国)

孔安国は生没年未詳で、孔子十世の孫とされる。前漢武帝に仕えていた。博士は秦漢帝国に置かれた、学問で仕える皇帝の顧問官。

順帝

後漢の第8代皇帝。位125-144。

南郡太守馬融

79-166。後漢を代表する儒者の一人。桓帝(位146-168)の時代に南郡太守となった。同じく儒者として名高いシュクジョウゲンは、その弟子。

大司農鄭玄

127-200。後漢を代表する儒者の一人。大司農は現代日本の財務大臣にあたる。

故司空陳羣

?-237。後漢から三国時代にかけての政治家。魏王朝の重臣として九品官人法を献策した。司空は周の時代では公共の土木工事と、それに動員する囚人を取り扱う職で、孔子も一時魯国の大司空を務めたとされる。しかし後漢から三国にかけての実態は分からない。

「故」の詳細は論語語釈「故」を参照。

太常王肅

195-256。三国時代の政治家。『孔子家語』は彼による偽作と言われる。魏王朝に仕え、何晏と対立した。太常は朝廷の儀式をつかさどる官庁。王肅がその長官なのか次官なのか、またそれ以外の官職だったのか、一次資料である『三国志』には「太常」としか記載が無い。

博士周生烈

生没年未詳。はるか西方の敦煌の出身。220年ごろ魏に仕え、博士・侍中(皇帝補佐官)を務めた。

光祿(禄)大夫闗(関)內侯臣孫邕ソンヨウ

三国時代、魏に仕えた政治家。光禄大夫は、もと宮門を警備する官職の一つだったが、後漢以降は実態を失って称号の一つのように扱われた。関内カンダイ侯は、漢帝国では第二位の爵位で、三国時代も恐らく同様と思われる。

光祿大夫臣鄭冲

?-274。魏晋王朝に仕えた政治家。

㪚(散)騎常侍中領軍安鄉(郷)亭侯臣曹

?-249。三国時代、魏の王族で政治家。何晏らと共に司馬懿のクーデターで処刑された。散騎常侍は皇帝側近の一つ。中領軍は近衛兵を指揮する職。亭侯は爵位の一つで、安郷はおそらく領地の名。実際に与えられたのか、名目なのかははっきりしない。

侍中臣荀顗ジュンギ

?-274。三国時代、魏晋王朝に仕えた政治家。

尚書駙馬都尉闗內(関内)侯臣何晏カアン

?-249、あざ名は平叔。後漢から三国にかけての政治家・学者で、父親は『三国志演義』の間抜けなやられ役として名高い、大将軍の何進。曹操に気に入られて娘婿となったが、二代の曹丕(文帝)に嫌われて閑職に追いやられた。

魏の末期、再び政界に重きを成すようになって司馬と対立したが、その反撃に遭って殺された。学者としては同時代の儒者・王弼とともに名高かったようだが、後漢時代の偽善にまみれた儒学への反動からか、𠂊刂にふけるなど、あまりまともな学風ではなかったらしい。

尚書は宰相格の官職の一つ。駙馬都尉は皇帝の娘婿に与えられる名誉職。

論語:解説・付記

上記したように、くだくだしく語釈を付けたが、中国人の個人名や官職名は、ことの本質を理解するのにあまり意味は無い。むしろ理解の邪魔になる。高位高官の連中が連名で、論語の注釈書を作って時の皇帝に奉った、と言うことが分かればそれでいい。

一々個人名にこだわると、整理が付かず頭がおかしくなるし、それは官職名も同じである。中国は始皇帝の統一によって精緻な官僚制度が確立されたとされるが、漢帝国になったとたん、当の皇帝が勝手に臨時の官職を乱造し、官職を売り出して、制度は滅茶苦茶になった。

だから官職名と仕事の内容は必ずしも一致しない。一致しない方が多いかも知れない。実態を知ろうにも史料が少ない。その史料も事実が書かれている保証は無い。なのに史実を敢えて知ろうとすれば、ほぼ必ず頭がおかしくなる。請け合ってもいいから止めたがいい。

この論語古注「論語序」で知っておけばいいのは、後漢が滅んで三国時代になって、魏王朝に仕えた何晏らの儒者が、それまでの時代に溜まりに溜まった論語の注釈を集めたことだ。どうでもいいことだが、日本の中国学ではそれを『論語集解シッカイ』と呼ぶ習わしになっている。

なぜ「しゅうかい」と読んではいけないかは、漢文業界ギルドのお約束というもので、要はハッタリだ。だが折角の注釈「しっかい」も時代が下って南北朝の梁の時代、意味が分からなくなってしまった。そこで儒者のオウガン(488-545)が、注の注=を書いた。

こうして論語の古注=『論語集解義疏』が出来た。『論語義疏』と呼んでも同じである。

『論語』堯曰篇・付録おわり

お疲れ様でした。

科挙に及第うかりたい方

さらに孔子と弟子の言葉を知りたい方

『論語』堯曰篇:現代語訳・書き下し・原文
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