(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
子張曰、「書云、高宗諒陰*、三年不言。何謂也。」子曰、「何必高宗、古之人皆然。君薨、百官總己以聽於冢宰三年。」
校訂
武内本
諒陰また諒闇に作る。
定州竹簡論語
……曰:「《書》云:『□□□音a,三年不言』何謂也?」子曰:「何[必三b]407……薨,百官總己以聽於塚c宰408……
- 音、今本作”陰”。同音借為陰。
- 三、今本無。
- 塚、今本作”冢”。
→子張曰、「書云、高宗諒音、三年不言。何謂也。」子曰、「何必〔三〕高宗、古之人皆然。君薨、百官總己以聽於塚宰三年。」
復元白文(論語時代での表記)
諒 薨 總
※張→(金文大篆)。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子張曰く、書に云く、高宗諒陰、三年言はずと。何の謂ぞ也。子曰く、何ぞ必ずしも高宗ならん、古之人皆然り。君薨らば、百官己を總て以て冢宰於聽くこと三年なり。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子張が言った。「書経に、高宗は喪に服して三年間、ものを言わなかったとあります。どういうことでしょうか。」先生が言った。「なぜ高宗だけだろうか。昔の人は皆そうだった。主君が亡くなると、三年間役人たちは自分も謹慎して、首相の指示を仰いだものだ。」
意訳
子張「書経に、殷の高宗・武丁は、喪中の三年間政治向きの話を一切しなかったとあります。それで政治は回ったのですか?」
孔子「高宗だけじゃないぞ。昔は皆そうだった。ご主君が亡くなると自分も三年間身を慎み、判断は全て首相に任せたものだ。」
従来訳
子張がいった。
「書経に、高宗は服喪中の三年間口をきかなかった、とありますが、どういう意味でございましょうか。」
先師がこたえられた。――
「それは高宗にかぎったことではない。古人はみなそうだったのだ。君主がおかくれになると、三年の間は、百官はそれぞれの職務をまとめて、すべて首相の指図に従うことになっていたので、あとに立たれた君主は口をきく必要がなかったのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子張問:「書上說:『商朝的高宗守孝,三年不議政。』是什麽意思?」孔子說:「不止是高宗,古人都這樣。君主死了,百官三年內都聽從宰相安排,各司其職。」
子張が問うた。「『書経』にこうあります。”殷の高宗は孝行を守り、三年政治を討議しなかった”。これはどういう意味ですか?」孔子が言った。「高宗だけではない、古人は皆このようにした。君主が死ぬと、百官は三年の間全て宰相の指図に従い、それぞれの仕事を担った。」
論語:語釈
子張
(金文)
孔子の若い弟子。本名は顓孫師。「何事もやり過ぎ」と孔子に評された。詳細は論語の人物:顓孫師子張を参照。
書
(甲骨文・金文)
論語の本章では、古典の『書経』のこと。『尚書』ともいう。論語時代より前の政治関係文書や宣言をまとめた書物。論語の本章に引用された部分は、現伝の『書経』には載っていない。
高宗夢得說,使百工營求諸野,得諸傅巖,作《說命》三篇。王宅憂,亮陰三祀。
高宗夢に説を得、百工を使て諸を野に営り求めしめ、諸を傅巌に得て、説命三篇を作る。王宅りて憂い、亮陰に三たび祀る。
高宗が夢に賢者を見たので、役人どもに「お前ら、探してこい!」と全員外に出るよう命じ、野原をウロウロさせたところ、傅巌という地でそれらしき人物を見つけて捕まえた。そこで高宗はその人物を有り難がるポエムの類を三本書いた。ところがそれでも悩みが尽きなかったので、高宗は先代の服喪中に三度チンチンどんどんと鳴り物を鳴らし、奴隷の生きギモを供えて血祭りを行った。(『尚書』説命上1)
「殷」(金文)
他人の夢の話ほど聞いてつまらないものは無いというが、それに付き合わせた高宗は名君だったのだろうか。なお「殷」は他称で”人の生きギモを取る野蛮な奴ら”という意味で、自称は「商」。また藤堂本では、無逸篇の言葉だとするが、論語の本章とは大きく異なっている。
其在高宗,時舊勞于外,爰暨小人。作其即位,乃或亮陰,三年不言。
其れ高宗在すとき、時に旧しく外于労いて、爰に小人暨れり。其れ位に即くを作すも、乃ち或いは亮陰にて、三年言わ不。
あのな、むかし殷の高宗が君臨した時代、DQNどもが悪さをするのでいちいち討伐していたんだが、それでやっと連中が大人しくなった。それでようやく即位できたが、在位中は例えば先代の喪があったから、三年間ものを言わなかったものだ。(『尚書』無逸2)
これは殷の高宗の「善政」を周代になってから讃えたポエムの類として書かれた文だが、「小人」に”くだらない人間”の意が出来たのは戦国末期から前漢にかけてで、殷周の時代に「小人」が”終わった”といえば、それは領民が滅亡したということだ。とうてい善政の話ではなく、この部分からだけでも『書経』のでっち上げは判明する。
また以上二つを引用したが、『史記』の夏本紀などと同様、漢字の意味が極めて難解で、書き下しはしたが、訳者にも意味がよく分からない。孔子先生に聞きたいところだが、漢儒のでっち上げをまじめに読むのは、自分が間抜けに思えもする。
高宗
(金文)
論語の本章では、殷の第22代の王、武丁。殷墟(大邑商)に都を置き、甲骨文はこの王の時代から出始める。つまり実在が確認できる、中国最古の王。文武両道の名君だったとされる。上記『書経』の説命篇にあるように、夢で見た説という賢者を捜し求めて補佐官とした。
その名を傅説という。傅巌の地で見つけたから、または説という傅(補佐官)だから傅説(フセツ)というのだが、うっかりすると傳説(伝説)と間違える。
傅/傳
ちなみに漢字でよく間違える言葉に「独壇場」があり、もとは「独擅場」だったのが誤りが定着したことば。「壇」は仏壇などの祭壇を言い、「擅」の意味は”ほしいまま”。だがこういうことを言い回ると嫌われるので、めったに口にしないことにしている。
同様に、もし誰かに自慢したり威張ったりするために論語を読もうとするなら、止めておいた方がいい。嫌われ者になるだけだからだ。
諒陰(リョウアン)
「諒」(金文大篆)/「陰」(甲骨文)
論語の本章では”喪に服す”こと。「諒闇」とも書き、音は同じ。もとは天子が喪に服す場合に建てた庵のことという。
「諒」の初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声もじで、「言+(音符)京(キョウ)・(リョウ)(=亮。あきらか)」。明らかにものをいう。転じて、はっきりわかること、という。詳細は論語語釈「諒」を参照。
「陰」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。「オン」は呉音。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字。原字は侌で、「云(くも)+(音符)今(=含。とじこもる)」の会意兼形声文字。湿気がこもってうっとうしいこと。陰は「阜+(音符)侌(イン)」で、陽(日の当たる丘)の反対、つまり、日の当たらないかげ地のこと。中にとじこめてふさぐの意を含む、という。詳細は論語語釈「陰」を参照。
定州竹簡論語の「音」(イン)は論語では本章のみに登場。「陰」と同音同調。初出は春秋早期の金文。「オン」は呉音。『学研漢和大字典』によると会意文字で、言という字の口の部分の中に、・印を含ませたもの。言は、はっきりとけじめをつけたことばの発音を示す。音は、その口に何かを含み、ウーと含み声を出すことを示す、という。詳細は論語語釈「音」を参照。
三年不言
「年」(金文)
論語の本章では、”政令を出さなかった”。
従来の論語解説文では、親の死に哀しんだあまり、三年間まったく黙っていたとする説と、単に政令を言わなかったとする説がある。孔子がどちらの意味と受け取ったかは、古代の闇の中で分からない。ただ政令と考えた方が合理的なので、ここではそのように解釈した。
薨(コウ)
(金文大篆)
論語の本章では、”王の死”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。同音も存在しない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。「死+(音符)瞢(ボウ)の略体」。牢は、目が見えなくなるの意。その意味を借りて死ぬことを暗示した忌みことば、という。詳細は論語語釈「薨」を参照。
漢文上の決まりとして、天子=最高君主の逝去は「崩」といい、官僚の逝去を「卒」と言い、下級役人や庶民の逝去は「死」という。「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
典拠が『礼記』であるように、こうした規定がそもそも漢代の創作なのだが、論語の本章はそれを無視している。つまり前漢代にこうした規則をでっち上げたものの、まだ定着していなかったので、紛れもない天子である殷の高宗の先代に「薨」と書いた。
百官
(金文)
論語では、文官・武官の全て。漢文では「百工」とも書く。大勢の職人ではない。
總(総)
(金文)
論語の本章では”身を引き締める”。論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音同訓に論語時代までの甲骨文・金文は存在しない。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字。囱は、もと空気抜きのまどを描いた象形文字で、窓の原字。へやの空気が一本にまとまり、縦に抜け出ること。それに心を加えた悤(ソウ)(=怱)は、多くの用事を一手にまとめて忙しいこと。總は「糸+(音符)悤」で、多くの糸を一つにまとめてしめたふさ。一手にまとめる意となる。総はその略字、という。詳細は論語語釈「総」を参照。
聽(聴)
(金文)
論語の本章では”じかに指示を仰ぐ”。”直接聞く”の意味の他、漢文では”許す”の意味で使われることが多い。論語の時代、間接的に聞くことは「聴」を用いて区別した。詳細は論語語釈「聴」を参照。
冢宰(チョウサイ)
(金文)
論語の時代、百官を統制し、周王の補佐をした高級官僚。後世の吏部尚書や現代の官房長官、または首相に当たる。
「冢」は論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。冢の下部の字(音チク・タク)は、しめてかためる意。その語尾がのびてチョウの音をあらわす。冢は、それに冂(かぶせる)を加えた字で、土をかぶせてずっしりと重くかためた盛り土を意味する、という。「冢宰」は「大きく重い」ことからの意。詳細は論語語釈「冢」を参照。
定州竹簡論語の「塚」は論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文漢字にもなく不明。論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。冢がその原字で、締めて固める意を含む。塚は「土+(音符)冢(チョウ)」で、土をかぶせて太くずっしりと固めた盛り土、という。詳細は論語語釈「塚」を参照。
論語:付記
論語の本章に関しては、現伝論語と定州竹簡論語の間で、孔子の発言に意味が異なる異同があり、おそらく後漢の時代に書き換えられたと思われる。
現伝論語 | 定州竹簡論語 |
「何必高宗、古之人皆然。君薨、百官總己以聽於冢宰三年。」 | 「何必三……。…薨、百官總己以聽於塚宰……。」 |
どうして高宗だけだろうか。昔の人はみなそうだったのだ。君主が世を去ると、百官は自分の仕事を始末するのに、宰相に三年間従ったのだ。 | どうして三…だけだろうか。…世を去ると、百官は自分の仕事を始末するのに、宰相に…従ったのだ。 |
素直に定州竹簡論語を読むなら、「何必三……。」は”どうして三年だけだろうか”だろうから、君主への服喪が三年、と定まったのは、漢代も相当の時代が下ってからで、定州竹簡論語の時代にはまだブレがあったことだろう。
これを除けば論語の本章は、論語時代の君主の服喪について孔子が語らされた、ただそれだけの話で特につけ加えることはない。しかし三年間も首相の独裁を許したら、それはクーデターにならないかと思う。三年休めるほど政府も暇とは、のんびりした時代もあったものだ。
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