論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
蘧伯玉使人於孔子、孔子與之坐而問焉曰、「夫子何爲。」對曰、「夫子欲寡其過而未能也。」使者出。子曰、「使乎。使乎。」
校訂
定州竹簡論語
……人a使於孔391……使者出。子曰:「使392……
- 人使、今本作”使人”。
→蘧伯玉人使於孔子、孔子與之坐而問焉曰、「夫子何爲。」對曰、「夫子欲寡其過而未能也。」使者出。子曰、「使乎。使乎。」
復元白文
蘧
※坐→(甲骨文)・焉→安・欲→谷。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しないが、固有名詞のため、本章を後世の創作と判断できない。
書き下し
蘧伯玉人を孔子於使はしむ。孔子之に坐を與へ而問ひ焉て曰く、夫子何をか爲す。對へて曰く、夫子其の過を寡うせむと欲し而未だ能はざる也。使者出づ。子曰く、使なる乎、使なる乎。
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逐語訳
蘧伯玉が人を孔子への使いに出した。孔子は使いに座布団を与え、ねんごろに問うて言った。「あの方は何をしておられる。」答えて言った。「あの方は自分の間違いを少なくしようとしてまだ出来ていません。」使いが部屋を出た。先生が言った。「使いだなあ、使いだなあ。」
意訳
衛国の蘧伯玉どのから使いが来たので、座布団を与えた。
孔子「あの方はどうしていらっしゃるかね。お体は息災か? お仕事はどうかね? ご家族やご家来衆はどうかな?」
使者「は、さて。まずはご主人は、過ちをしないように心掛けておいでですが、なかなか難しいようで。」
使いが部屋を出た。
孔子「出来た使いだよ、やるものだわ。」
従来訳
蘧伯玉が先師に使者をやった。先師は使者を座につかせてたずねられた。――
「御主人はこのごろどんなことをしておすごしでございますか。」
使者がこたえた。――
「主人は何とかして過ちを少くしたいと苦心していますが、なかなかそうは参らないようでございます。」
使者が帰ったあとで、先師がいわれた。――
「見事な使者だ、見事な使者だ。」
現代中国での解釈例
蘧伯玉派使者訪問孔子。孔子請使者坐下,然後問:「蘧先生最近在做什麽?」答:「他想減少錯誤,但沒做到。」使者出去後,孔子說:「好個使者!好個使者!」
蘧伯玉が使いを孔子に送ってきた。孔子は使者に座布団を勧め、そのあとで問うた。「蘧どのは最近どうなさっている?」答えた。「彼は間違いを少なくしようとしていますが、ただしまだ出来ていません。」使者が去った後、孔子が言った。「よい使者だ!よい使者だ!」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
蘧伯玉(キョハクギョク)
BC585-BC484以後。姓は姬、氏は蘧、名は瑗、字は伯玉。論語時代の衛国の家老の一人。孔子より34歳年長になる。呉国の使節から賢者として讃えられ(『史記』衛世家)、外出の際、主君の霊公の車に行き会うと、一旦下車して礼を示したという(『列女伝』仁智・衛霊夫人)。
魯から臧武仲が出奔した際には(論語憲問篇15)、「原則のないままに主君に仕えると、こういう目に遭う」と評した(『春秋穀梁伝』襄公二十三年)。孔子が衛国から一旦出た後、再び衛に戻った際には、顔濁鄒親分の屋敷ではなく、蘧伯玉の屋敷に滞在した(『史記』孔子世家)。
親分が大仕事に出かけていたのだと考えると面白いのだが。
論語との関連では、論語衛霊公篇7に見える史魚が推薦した人物で、霊公が寵愛した彌子瑕という美青年を遠ざけるよう諌め、代わりに蘧伯玉を登用するよう薦めたという。それでも霊公が聞き入れないので、死去する際遺言し、「殿が言うことを聞くまで葬るな」と言ったという(『韓詩外伝』巻七)。そこまでされた霊公は、さぞ気味悪く思ったことだろう。
「蘧」の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞のため、置換候補は多数あり得る。詳細は論語語釈「蘧」を参照。
蘧伯玉使人於孔子→蘧伯玉人使於孔子
論語の本章では”蘧伯玉が人を孔子に使いにやった”。現伝本「使人」が、定州竹簡論語では「人使」に替わっているが、文意も読み下しも変わらない。
S蘧伯玉V使O1人O2於孔子
蘧伯玉、人を孔子於使わしむ。
S蘧伯玉O1人V使O2於孔子
蘧伯玉、人を孔子於使わしむ。
文法的には定州竹簡論語の方が古いと言えるだけで、微妙な意味の違いを論じ立てることは出来るが、あまり意義があるとは思えない。
坐
論語の本章では”座布団”。中国に椅子生活が入るのは南北朝時代に北方遊牧民が華北に入ってからで、定着するのは隋唐帝国の時代からになる。それまでは日本の和室同様、床に座布団のような敷物を敷いて座った。文字の詳細は論語語釈「坐」を参照。
この座布団と人の組み合わせが「仁」の字で、座るときに常に敷物を伴うのは貴族の証しでもあった。詳細は論語における仁を参照。
問焉
論語の本章では”ねんごろに問うた”。「焉」の字は論語の時代に存在しないが、近音に「安」があり、”据える・置く”の語義がある。補助動詞として”…しておく”の意であり、”…し終える”の意でもある。文意としては軽く問うたのではなく、とっくりと問うてそれをし終えた、の意。詳細は論語語釈「焉」を参照。
この「焉」を「置き字だ」とか言って無いものとして扱うと、論語の本章はわけが分からなくなる。くどくど問うた孔子に対し、使いは要点を一言で返した。それゆえ孔子が感心したのである。
使乎
原文は”使者だなあ”と言っているだけで、良いとも悪いとも言っていない。古注には「使者に適材を得ているのを褒めたのだ」とあり(『論語集觧義疏』)、新注は「主人の振る舞いを謙遜して伝えたので、孔子様が嘉したもうたのだ」という(『論語集注』)。しかし文法的にはこうも読める。
孔子「お~い、使者よ! 使者よ!」
無論笑い話で、強固に主張するつもりはない。「使」の詳細は論語語釈「使」を参照。
論語:解説・付記
少なくともその年までは蘧伯玉が生きていたとされるBC484年は、孔子が衛を出て魯に戻った年で、論語の本章が衛国滞在中か魯に帰った後かは分からない。ただ最後に衛国にいたときもやはり蘧伯玉の屋敷にいただろうから、孔子が帰国した後の話だろう。
孔子は初回の衛国滞在では、縁戚の顔濁鄒親分の屋敷に逗留し、衛国乗っ取り工作を始めて嗅ぎ付かれ、脱兎の如く衛国から逃げた。二回目以降は大人しく、衛国の有力者である蘧伯玉の屋敷に滞在していたのだが、危険人物を迎え入れてくれた蘧伯玉には、感謝したに違いない。
確かに再受入を認めた殿様の霊公も太っ腹ではあるが、それもおそらく、蘧伯玉が孔子の身元を引き受けてくれたからで、その結果衛国は孔子にとって第二の故郷と言えるほどの長期滞在国になったのだから、蘧伯玉に対する孔子の恩義は軽くない。
だからこそ、やって来た使者にあれこれ孔子は問うたわけで、その背景を含め「焉」の語法など、論語の本章は漢文を丁寧に読むことの重要さを示してもいる。ここから先は想像だが、蘧伯玉は孔子の行状を重々承知しながら、その人並みならぬ何かを評価したのだろう。
このような、必ずしも外見に現れない人間の機能や迫力を、孔子は「徳」という言葉で表現した。論語にいう「徳」とは、後世の偽作を除けば徹頭徹尾この意味で(→論語における徳)、蘧伯玉もまた論語の時代に数少ない、徳をその目に見うる人物だったのだろう。
外見と本質の違いについて、他学派ではあるがこういう話が伝わっている。
楊朱之弟曰布,衣素衣而出。天雨,解素衣,衣緇衣而反。其狗不知,迎而吠之。楊布怒將扑之。楊朱曰:「子無扑矣!子亦猶是也。嚮者使汝狗白而往黑而來,豈能无怪哉?」
孔子没後に一世を風靡した思想家、楊朱には弟がいて、名を布と言った。ある日弟が白い羽織を着て出掛けたところ、途中で雨に降られた。そこで羽織を脱いで黒い上着のまま家に帰ったところ。
飼い犬「ウウーッ、ワンワン! ワンワン!」
楊布「くぉのバカ犬が! 俺がわからんのか!」
弟が犬を鞭で引っぱたこうとすると、楊朱が間に入って言った。
「よせよ。お前だって、白犬が出掛けて黒犬になって帰ってきたら、あやしいと思うだろう?」(『列子』説符26)