論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
蘧伯玉使人於孔子孔子與之坐而問焉曰夫子何爲對曰夫子欲寡其過而未能也使者出子曰使乎使乎
校訂
東洋文庫蔵清家本
蘧伯玉使人於孔子孔子與之坐而問焉/曰夫子何爲對曰夫子欲寡其過而未能也/使者出子曰使乎使乎
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……人a使於孔391……使者出。子曰:「使392……
- 人使、今本作”使人”。
標点文
蘧伯玉人使於孔子、孔子與之坐而問焉曰、「夫子何爲。」對曰、「夫子欲寡其過而未能也。」使者出。子曰、「使乎。使乎。」
復元白文(論語時代での表記)
蘧 坐焉
※坐→(甲骨文)・欲→谷。論語の本章は「蘧」字が論語の時代に存在しないが、固有名詞のため、本章を後世の創作と判断できない。「坐」の字が論語の時代に存在しない。「焉」字も論語の時代に存在しないが、無くとも文意がほぼ変わらない。「問」「何」「過」「未」「也」「乎」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
蘧伯玉の人孔子於使ひす。孔子之に坐を與へ而問ひ焉て曰く、夫子何をか爲す。對へて曰く、夫子其の過を寡うせむと欲め而未だ能はざる也。使者出づ。子曰く、使なる乎、使なる乎。
論語:現代日本語訳
逐語訳
蘧伯玉の家臣が孔子への使いに出た。孔子は使いに座布団を与え、ねんごろに問うて言った。「あの方は何をしておられる。」答えて言った。「あの方は自分の間違いを少なくしようとしてまだ出来ていません。」使いが部屋を出た。先生が言った。「使いだなあ、使いだなあ。」
意訳
衛国の蘧伯玉どのから使いが来たので、座布団を与えた。
孔子「あの方はどうしていらっしゃるかね。お体は息災か? お仕事はどうかね? ご家族やご家来衆はどうかな?」
使者「は、さて。まずはご主人は、過ちをしないように心掛けておいでですが、なかなか難しいようで。」
使いが部屋を出た。
孔子「出来た使いだよ、やるものだわ。」
従来訳
蘧伯玉が先師に使者をやった。先師は使者を座につかせてたずねられた。――
「御主人はこのごろどんなことをしておすごしでございますか。」
使者がこたえた。――
「主人は何とかして過ちを少くしたいと苦心していますが、なかなかそうは参らないようでございます。」
使者が帰ったあとで、先師がいわれた。――
「見事な使者だ、見事な使者だ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
蘧伯玉派使者訪問孔子。孔子請使者坐下,然後問:「蘧先生最近在做什麽?」答:「他想減少錯誤,但沒做到。」使者出去後,孔子說:「好個使者!好個使者!」
蘧伯玉が使いを孔子に送ってきた。孔子は使者に座布団を勧め、そのあとで問うた。「蘧どのは最近どうなさっている?」答えた。「彼は間違いを少なくしようとしていますが、ただしまだ出来ていません。」使者が去った後、孔子が言った。「よい使者だ!よい使者だ!」
論語:語釈
蘧伯玉(キョハクギョク)
BC585-BC484以後。姓は姬、氏は蘧、いみ名は瑗、あざ名は伯玉。論語時代の衛国の家老の一人。孔子より34歳年長になる。呉国の使節から賢者として讃えられ(『史記』衛世家)、外出の際、主君の霊公の車に行き会うと、一旦下車して礼を示したという(『列女伝』仁智・衛霊夫人)。
魯から臧武仲が出奔した際には(論語憲問篇15)、「原則のないままに主君に仕えると、こういう目に遭う」と評した(『春秋穀梁伝』襄公二十三年)。孔子が衛国から一旦出た後、再び衛に戻った際には、顔濁鄒親分の屋敷ではなく、蘧伯玉の屋敷に滞在した(『史記』孔子世家)。
親分が大仕事に出かけていたのだと考えると面白いのだが。顔濁鄒とは当時の国際傭兵団の頭領で、孔子の一番弟子・子路の義兄で、おそらく有力弟子・顔淵や孔子の母・顔徴在と同族。梁父山に山塞を構え、「大盗」とも後世呼ばれたが(『呂氏春秋』)、「盗」とはドロボーではなく、公権力に属さない武装勢力を言う。もちろん儲かるならドロボーもしたに違いない。
蘧伯玉は論語との関連では、論語衛霊公篇7に見える史魚が推薦した人物で、霊公が寵愛した彌子瑕という美青年を遠ざけるよう諌め、代わりに蘧伯玉を登用するよう薦めたという。それでも霊公が聞き入れないので、死去する際遺言し、「殿が言うことを聞くまで葬るな」と言ったという(『韓詩外伝』巻七)。そこまでされた霊公は、さぞ気味悪く思ったことだろう。
戦国の竹簡では「巨白玉」として名が見える(「上海博物館蔵戦国楚竹簡」弟子問19)。
説文解字・後漢
「蘧」はナデシコを意味し、初出は前漢の篆書。論語の時代に存在しないが、固有名詞のためさまざまな文字が置換候補になり得る。字形は〔艹〕+〔辶〕+〔豦〕。花弁が細かく別れ絡むような姿の道ばたの草。同音は「籧」”たかむしろ”、「醵」”さかもり”、「豦」”戦ってほどけない”、「遽」”早追い”。呉音は「ゴ」。用例:論語の本章の他、論語衛霊公篇7でも人名「蘧伯玉」として登場。詳細は論語語釈「蘧」を参照。
「白」(甲骨文)
「伯」の字は論語の時代、「白」と書き分けられていない。初出は甲骨文。字形の由来は蚕の繭。原義は色の”しろ”。甲骨文から原義のほか地名・”(諸侯の)かしら”の意で用いられ、また数字の”ひゃく”を意味した。金文では兄弟姉妹の”年長”を意味し、また甲骨文同様諸侯のかしらを意味し、五等爵の第三位と位置づけた。戦国の竹簡では以上のほか、「柏」に当てた。詳細は論語語釈「伯」を参照。
「玉」の初出は甲骨文。字形は数珠つなぎにした玉の象形。甲骨文から”たま”の意で用いた。詳細は論語語釈「玉」を参照。
中国では宝物としてヒスイの類の緑石を重んじた。現行字形は「王」に一点加えたものだが、「王」の字形はまさかりの象形から来ているので、全く由来が違う。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”使者(に出す)”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”人間”。具体的には蘧伯玉の家臣。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~へ”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。詳細は論語先進篇11語釈を参照。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
(甲骨文)
「子」は論語の本章では「孔子」と「兄之子」に用いる。前者は貴族や知識人への敬称、後者は”子供”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
蘧伯玉使人於孔子→蘧伯玉人使於孔子
唐石経を祖本とする現伝論語、日本伝承の清家本は「蘧伯玉使人於孔子」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「…人使於孔…」と記す。「使人」→「人使」の入れ替わりだが、時系列に従い定州本に従い校訂した。文意はほぼ変わらないが、主語など若干違う。
現伝論語 | 白文 | 蘧伯玉使人於孔子 |
訓み下し | 蘧伯玉人を孔子於使はしむ。 | |
現代語訳 | 蘧伯玉が人(家臣)を孔子へ使いにやった。 | |
定州竹簡論語 | 白文 | 蘧伯玉人使於孔子 |
読み下し | 蘧伯玉の人孔子於使いす。 | |
現代語訳 | 蘧伯玉の人(家臣)が孔子への使いに出た。 |
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”与える”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。具体的には蘧伯玉よりの使者を指す。漢文の指示詞は至近の事物を指す「此」、やや離れた事物を指す「其」、取り立てて指し示すべき事物を指す「之」、個物ではなく事態や環境全体を指す「斯」などがある。
「之」の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
坐(サ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”座布団”。初出は甲骨文とされるが字形がまるで違う。その後は戦国文字まで絶えており、殷周革命で一旦失われた漢語と解するのが理に叶う。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。甲骨文の字形は「㔾」”跪いた人”+「因」”敷物”。楚系戦国文字の字形は「月」”肉体”+「土」。秦系戦国文字では上半分が背中合わせの「月」。同音は「痤」”腫れ物”のみ。「ザ」は呉音。戦国時代から、”すわる”・”連座する”の意に用いた。論語の時代の”すわる”は、おそらく「居」と言った。詳細は論語語釈「坐」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
問(モン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。「問」の原義は実は分からない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「たり」と読んで、”し終える”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
夫子(フウシ)
論語の本章では”ご家老様”。舞台的には蘧伯玉のことで、”父の如き人”の意味での敬称。孔子は衛国滞在中、蘧伯玉の屋敷に世話になった。また孔子は、最初の衛国滞在で顔濁鄒とつるんで政治的陰謀をやらかして逃げ出したのだが、その後衛国に舞い戻って、第二の故郷とも言えるほど長く滞在した。国公の霊公の、孔子に対する怒りを抑え、再度の衛国滞在を実現したのは、蘧伯玉の支援無しでは考えられない。
(甲骨文)
「夫」の初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
對(タイ)
(甲骨文)
論語の本章では”回答する”。論語では、目上に答える場合に用いる。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「丵」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。
欲(ヨク)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”~を望む”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義があり、全体で原義は”欲望する”。論語時代の置換候補は部品の「谷」。詳細は論語語釈「欲」を参照。
寡(カ)
(金文)
論語の本章では”少ない”。初出は西周早期の金文。字形は「宀」”建物”の中に一人だけ大きく目を見開いた人がいて見上げている姿。原義は”孤独”。金文では”未亡人”、”少ない”を意味したが、諸侯が一人称としてもちいたのは戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「寡」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。「此」が至近の事物を指すのに対し、やや離れた事物を指す。
字の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
過(カ)
(金文)
論語の本章では”間違い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”今までにない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”…する者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
出(シュツ)
(甲骨文)
論語の本章では”孔子の居間から出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、「かな」と読んで詠嘆の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
使乎
原文は”使者だなあ”と言っているだけで、良いとも悪いとも言っていない。古注には「使者に適材を得ているのを褒めたのだ」とあり(『論語集觧義疏』)、新注は「主人の振る舞いを謙遜して伝えたので、孔子様が嘉したもうたのだ」という(『論語集注』)。しかし文法的にはこうも読める。
孔子「お~い、使者よ! 使者よ!」
無論笑い話で、強固に主張するつもりはない。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語には一部が残る。「蘧伯玉」は「巨白玉」として戦国の竹簡に名が見えるが、論語の本章を伝える話ではない。論語の本章の再録は、後漢初期の王充『論衡』問孔篇で、王充は「百年前に滅びた」と自分で書いた古論語魯論語斉論語について、見てきたようにベラベラ書いた男で、まるで信用できない。
ともあれ論語の本章は文字史からも、孔子生前にさかのぼることは出来ないのだが、後世に偽作するにしても、その意図が分からない。あるいは蘧伯玉を称揚するためとも思われるが、称揚の理由も不明だから、何かのついでに作りました、程度のことしか想像できない。
従ってあるいは史実を伝え、その文字列が時代と共に変化して、論語の時代の漢語ではなくなってしまったのかも知れない。
解説
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
蘧伯玉使人於孔子孔子與之坐而問焉註孔安國曰伯玉衛大夫蘧瑗也曰夫子何為對曰夫子欲寡其過而未能也註言夫子欲寡其過而未能無過也使者出子曰使乎使乎註陳羣曰再言使乎善之也言使得其人也
本文「蘧伯玉使人於孔子孔子與之坐而問焉」。
注釈。孔安国「伯玉は衛の大夫である蘧瑗のことである。」
本文「曰夫子何為對曰夫子欲寡其過而未能也」。
注釈。「夫子~未能とは、実際には間違いを起こさなかったと言ったのである。」
本文「使者出子曰使乎使乎」。
注釈。陳羣「二度使いだよと言ったのは、誉めたのである。使いとして適切な人選だと言ったのである。」
新注『論語集注』
蘧伯玉使人於孔子。使,去聲,下同。蘧伯玉,衛大夫,名瑗。孔子居衛,嘗主於其家。既而反魯,故伯玉使人來也。孔子與之坐而問焉,曰:「夫子何為?」對曰:「夫子欲寡其過而未能也。」使者出。子曰:「使乎!使乎!」與之坐,敬其主以及其使也。夫子,指伯玉也。言其但欲寡過而猶未能,則其省身克己,常若不及之意可見矣。使者之言愈自卑約,而其主之賢益彰,亦可謂深知君子之心,而善於辭令者矣。故夫子再言使乎以重美之。按莊周稱「伯玉行年五十而知四十九年之非」。又曰:「伯玉行年六十而六十化。」蓋其進德之功,老而不倦。是以踐履篤實,光輝宣著。不惟使者知之,而夫子亦信之也。
本文「蘧伯玉使人於孔子。」
使の字は尻下がりに読む。以下同。蘧伯玉は衛の大夫で、いみ名は瑗。孔子はかつて衛に滞在中、その屋敷に逗留した。本章の時点では魯に戻っていたので、伯玉から使いが来たのである。
本文「孔子與之坐而問焉,曰:夫子何為?對曰:夫子欲寡其過而未能也。使者出。子曰:使乎!使乎!」
使者に座布団を与えたのは、主人である蘧伯玉が出した使いを敬ったからである。ここでの夫子とは、全部伯玉のことである。寡欲になろうとして出来ていませんという使者の言葉は、つまり自分を注意深く観察して身を慎み、いつもまだ至らない思いがあったことを見て取れる。使者の言葉は卑下したものだが、あるじの人徳を讃えもしており、君子のあるべき心構えを深く知っていると言うべきで、言葉を伝える者として達者と言える。だから孔子は二度、使いだ使いだといって讃えた。『荘子』に「伯玉は五十歳になって今までの四十九年間の間違いを悟った」とあり、「伯玉は六十歳になっても六十回目の自修を行った」という。たぶんそういう精神修養を、老いても面倒がらずに続けたのだろう。ここから言動が篤実となり、名声が広く高まった。それは使者が知っていただけでなく、孔子も知っていたのである。」
「伯玉行年六十而六十化」は今でも『荘子』に載るが、「伯玉行年五十而知四十九年之非」は現行本では『荘子』ではなく『淮南子』にある。朱子の時代にどういう本が出回っていたか知らないし、朱子のウッカリの程度もよく分からない。
余話
あやしいと思うだろう?
仮に本章が史実を伝えているとする。その時蘧伯玉が生きていたとされるBC484年は、孔子が衛を出て魯に戻った年で、論語の本章が衛国滞在中か魯に帰った後かは分からない。ただ最後に衛国にいたときもやはり蘧伯玉の屋敷にいただろうから、孔子が帰国した後の話だろう。
孔子は初回の衛国滞在では、縁戚の顔濁鄒親分の屋敷に逗留し、衛国乗っ取り工作を始めて嗅ぎ付かれ、脱兎の如く衛国から逃げた。二回目以降は大人しく、衛国の有力者である蘧伯玉の屋敷に滞在していたのだが、危険人物を迎え入れてくれた蘧伯玉には、感謝したに違いない。
確かに再受入を認めた殿様の霊公も太っ腹ではあるが、それもおそらく、蘧伯玉が孔子の身元を引き受けてくれたからで、その結果衛国は孔子にとって第二の故郷と言えるほどの長期滞在国になったのだから、蘧伯玉に対する孔子の恩義は軽くない。
だからこそ、やって来た使者にあれこれ孔子は問うたわけで、その背景を含め「焉」の語法など、論語の本章は漢文を丁寧に読むことの重要さを示してもいる。ここから先は想像だが、蘧伯玉は孔子の行状を重々承知しながら、その人並みならぬ何かを評価したのだろう。
このような、必ずしも外見に現れない人間の機能や迫力を、孔子は「徳」という言葉で表現した。論語にいう「徳」とは、後世の創作を除けば徹頭徹尾この意味で(→論語における徳)、蘧伯玉もまた論語の時代に数少ない、徳をその目に見うる人物だったのだろう。
外見と本質の違いについて、他学派ではあるがこういう話が伝わっている。
楊朱之弟曰布,衣素衣而出。天雨,解素衣,衣緇衣而反。其狗不知,迎而吠之。楊布怒將扑之。楊朱曰:「子無扑矣!子亦猶是也。嚮者使汝狗白而往黑而來,豈能无怪哉?」
孔子没後に一世を風靡した思想家、楊朱には弟がいて、名を布と言った。ある日弟が白い羽織を着て出掛けたところ、途中で雨に降られた。そこで羽織を脱いで黒い上着のまま家に帰ったところ。
飼い犬「ウウーッ、ワンワン! ワンワン!」
楊布「くぉのバカ犬が! 俺がわからんのか!」
弟が犬を鞭で引っぱたこうとすると、楊朱が間に入って言った。
「よせよ。お前だって、白犬が出掛けて黒犬になって帰ってきたら、あやしいと思うだろう?」(『列子』説符26)
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