論語041八佾篇第三(1)八佾を庭に舞わす

論語八佾篇(1)要約:孔子先生は古代人。身分秩序を正し、下は上に従う代わりに、上は下を守る義務がある、それが天下太平の道と考えました。しかし食うか食われるかの戦乱の世では、その主張は貴族たちの耳に入らず、というお話。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

孔子謂季氏、「八佾舞於庭。是可忍也、孰不可忍也。」

書き下し

孔子こうし季氏きしふ。はついつにははす、れをもしのいづれかしの

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逐語訳

論語 孔子 肖像
孔子が季氏を評した。「八佾ハチイツを庭に舞わせた。これが我慢できるだろうか、いやそうではない。何を我慢できないだろうか、できないはずがない。」

意訳

論語 孔子 怒り
周王陛下の特権である八佾の舞を、陛下の臣下の臣下である季氏が自邸で舞わせた。思い上がりも甚だしい。

従来訳

 先師が季氏きしを批評していわれた。――
「季氏は前庭で八佾はついつの舞を舞わせたが、これがゆるせたら、世の中にゆるせないことはないだろう。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

季氏

論語 季 金文 論語 氏 金文
(金文)

論語では、魯国門閥三家老家筆頭、季孫氏のこと。孔子が魯国の政治を執った五十代時点の当主は、季桓子(?-BC492)で、別名季孫とも言う。隣国斉が送った女楽団を主君定公と共に三日間楽しみ、その間政務を執らなかったので、孔子は魯国を捨てて亡命したとされる。

しかし具体的に孔子を排斥した記録はなく、弟子を召し抱えたりするなど協力的でもあった。なお論語本章が孔子帰国後だとすると、当主は季桓子の子、季康子になるが、下記するようにそれには無理がある。

八佾(ハチイツ)

論語 八 金文 論語 佾 金文大篆
(金文)

論語の本章では、”八人が八列を作り舞う舞踊”。論語の時代、天下の主権者たる天子の特権とされていた。

一説に、天子が8×8の64人、諸侯が6×6の36人、大夫が4×4の16人、士が2×2の4人と言うが、後世のでっち上げの可能性がある。なお佾は「人+八+月(にくづき。肉体)」で”八人の肉体”。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、右側は音キツで「八+肉」の会意文字。八人の人体を示す。飲の原字。佾(イツ)は「人+(音符)キツ」で、ひとまとめにしぼった隊列のこと。したがって、八佾とは舞人八隊列の意、という。

論語 庭 金文大篆 論語 四合院
(金文)

既存の論語本では吉川本に、祖先祭殿の前の中庭という。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、廷(テイ)の右側の字(音テイ)は、壬(ジン)とは別字。挺(テイ)(まっすぐ)の原字で、人が足をまっすぐ伸ばしてたつときの、すねの部分を示した字。廷は、それに廴印(横に伸ばす)をつけ、まっすぐ平らに伸びた所を示す。

庭は「广(いえ)+〔音符〕廷」で、屋敷の中の平らにまっすぐ伸ばした場所、つまり中にわのこと。もと廷(テイ)と書いた、という。

是可忍也・孰不可忍也

論語の本章では、前句の「也」は反語。”これを我慢できるだろうか、いや我慢できない”。後句の「也」も反語で、”何を我慢できないだろうか、いや何でも我慢できる”として解すると、両者の間に”もし我慢できるなら”という、仮定の句が省略されていることになる。

つまり論語の本章は言葉を切り飛ばすような、孔子の強い怒りを示すものとして解釈できる。もっとも、弟子のメモや編集の段階で省略された可能性もあるが、時に繰り返しが多くて現代の論語読者をうんざりさせる通例を思えば、孔子の生の声を実況するものと考えたい。

論語 忍 金文 論語 刀鍛冶 忍
「忍」(金文)

『学研漢和大字典』によると「忍」は会意兼形声文字で、刃(ニン)・(ジン)は、刀のはのあるほうをヽ印で示した指事文字で、ねばり強くきたえた刀のは。忍は「心+(音符)刃」で、ねばり強くこらえる心。靱(ジン)(ねばり強い)と同系のことば、という。

論語 孰 金文大篆 論語 温 孰 字解
「孰」(金文)

「孰」(シュク)は会意文字で、「享(築き固めた城)+丮(ケキ)(て)」。塾(ジュク)(ついじ)・熟(中までよく煮る)などの原字。また、その音をかりて、選択を求める疑問詞に用いる、という。

論語:解説・付記

論語八佾篇には本章のような、僭上越権行為を非難する言葉が載せられている。

孔子は礼法の定めを超えた行為を規制することで、国公の地位を高め秩序を回復しようとした。しかし実際には、政権は国公の手を離れて久しく、緊急時の護民対策も行っていなかったことが『左伝』等の記録によって知られる。それら行政を担っていたのが魯国では三桓。

礼法の秩序が崩れるのは当然でもあった。それを怒った孔子の歳はと言えば、まず国政を担当していた52~54歳あたり。放浪から帰った60代後半では、一旦は高い地位に据えられたものの、すぐに追いやられて政治の第一線から引退しており、三桓との対立は影を潜めている。

また論語子罕篇15で、「私が衛から魯に帰って、やっと音楽は正しくなり」と言っており、本章を帰国後のこととすると矛盾する。

BC 魯定公 孔子 魯国 その他
501 9 51 中都の宰=代官に任じられる 陽虎、斉に逃亡。次いで晋に〔斉世家〕。ローマ、独裁官設置
500 10 52 司空=治水頭、次いで大司コウ=奉行職に昇進、家老格となる。斉との外交折衝を担任、定公を救出し占領地を取り戻す 定公、斉の景公と会談し、捕らわれかける
499 11 53 家老の少正ボウを処刑する 季桓子と孟懿子、孔子を支持する。斉・鄭・衛との友好を計り、晋と距離を置く
498 12 54 三桓の根城破壊を開始、季氏に仕えていた子路に任せる。公山弗擾の反乱を鎮圧。根城の最後、孟氏領・成邑の破壊失敗 公山弗擾、根城破壊に反対して反乱。成邑の代官・公斂処父、破壊に抵抗
497 13 55 辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 定公、斉の送った女楽団にふぬけ、孔子を遠ざける 晋内紛、趙鞅失脚するも韓・魏氏の助力で復活。衛、孔子を迎える

なお既存の論語本の中で、吉川本ではこういう。「階級の存在による秩序こそ、人間を平和にするのであって、それぞれの階級は、それぞれに生活の表現を持つべきであり、それが礼である。その秩序が破壊されるのは、悪である、と言うのが孔子の考えであった。徂徠は異説を立て、これは孔子が暗に魯の君主に対して行った勧告であり、八佾の舞ぐらい勘弁しなさい、といったのだとするが、これは徂徠一流の奇説であろう。」

論語の本章の成立については、かなり遅いことが推測できる。理由の一は「子曰く」ではなく「孔子謂う」と孔子を表記していることで、これは孔子が歴史上の人物になってから書かれたことを物語る。もう一つは本篇が、「孔子謂季氏」から季氏篇になってもおかしくない事。 

これはすでに季氏篇があったので、「孔子謂季氏、八佾…」から八佾篇を名乗ったことを意味する。ただし八佾篇そのものの成立が新しいことにはならない。おそらく原・八佾篇は、本章を含んでいなかっただろう。次章が三桓の専横の話なので、前に本章をかぶせたのだ。

武内義雄『論語之研究』によると、論語の為政篇から泰伯篇は、論語の中でも最も古い部分という。これにも但し書きはあり、いずれの篇も後世に付加された章を含んでいる。前漢武帝時代に現れた古論語では、堯曰篇のうち子張問篇が独立しており、200字程度でしかない。

対して現伝の論語は以下の通り。

現伝『論語』文字数一例(総字数15,900字。版本によって異同あり)
学而 為政 八佾 里仁 公冶長 雍也 述而 泰伯 子罕 郷党
493字 579字 689字 501字 869字 816字 873字 613字 806字 642字
先進 顔淵 子路 憲問 衛霊公 季氏 陽貨 微子 子張 堯曰
1054字 992字 1035字 1340字 904字 863字 1019字 618字 824字 370字

前漢武帝時代の儒教国教化に当たって、儒者は相当に論語を膨らませた。本章もおそらくその際に付加された章で、原・論語にはなかった伝説を取り込んだのだろう。しかし本章を儒者の創作と断定する事は難しい。上記のように語気が鋭く、文字も金文までさかのぼれるからだ。

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