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論語詳解444陽貨篇第十七(10)子伯魚に謂う’

論語陽貨篇(9)要約:孔子先生が一人息子にお説教。詩を学ばないと人情の機微が分からない。それは顔を塀に向けて、じっと見つめているようなものだぞ、と。おしゃべりな先生でしたが、家族の話はほとんどしません。珍しい一節。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

子謂伯魚曰、「女爲周南召*南矣乎。人而不爲周南召*南、其猶正牆面而立也與。」

校訂

武内本

唐石経召。

定州竹簡論語

a謂伯魚b:「為c《周南》、《召d南》矣乎?人而不為《周南》、《召南》,522正牆面而立也?」523

  1. 阮本此章與上章為一本、簡本、皇本、朱子本則分為兩章。
  2. 今本”魚”字下有”曰”字。
  3. 今本”為”字前有”女”字。
  4. 召、皇本、高麗本作”邵”。

→子謂伯魚、「爲周南召南矣乎。人而不爲周南召南、其猶正牆面而立也與。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文謂 金文伯 金文魚 金文 為 金文周 金文南 金文召 金文南 金文矣 金文乎 金文 人 金文而 金文不 金文為 金文周 金文南 金文召 金文南 金文 其 金文猶 金文正 金文牆 金文面 金文而 金文立 金文也 金文与 金文

※論語の本章は、「乎」「正」「也」「與」の用法に疑問がある。

書き下し

伯魚はくぎよふ、周南しうなん召南せうなんまなひとにし周南しうなん召南せうなんまなばざらば、かきあたりてむかてるがごとき也與かな

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 孔鯉
先生が息子の伯魚に言った。「お前は周南召南のうたを学んだか。人間だろうと周南召南を学ばないと、いやはや、塀を真正面にして、顔を向けて立っているようなことは、なあ。」

意訳

孔子 水面 論語
鯉よ。周南召南の歌を学びなさい。さもないと人情の機微が分からないぞ。まるで塀を真ん前にして、じっと見つめているようなものだ。

従来訳

下村湖人

先師が子息の伯魚にいわれた。
「お前は周南・召南の詩を研究して見たのか。この二つの詩がわからなければ、人間も土塀に鼻つきつけて立っているようなものだがな。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子對伯魚說:「你讀過《周南》《召南》嗎?一個人如果不讀《周南》《召南》,就好像面對著牆站著而無法前進。」

中国哲学書電子化計画

孔子が伯魚に言った。「お前は”周南”・”召南”を読み終えたか? もし人間がたった一人で”周南”・”召南”を読まないままだと、必ず壁に突き当たって立っているようなもので、前に進むにも方法が無くなるぞ。」

論語:語釈

謂 金文 胃酸 謂
(金文)

論語の本章では”言う”。初出は春秋末期の金文。『学研漢和大字典』による原義は、丸い胃袋+言で、何かをめぐって言うこと、論評すること。『大漢和辞典』も第一義に”論じる”を挙げる。『春秋左氏伝』では単に”言う”のほか、”いわれ”の意で用いる例を多く見る。

だからといって直ちに、論語の本章が”言う”ではなく、”言ったという”との伝承の語気を示すとは言えないが、論語の中でも特殊な用例であるには違いない。詳細は論語語釈「謂」を参照。

伯魚

魚 金文 孔鯉
「魚」(金文)

論語では、孔子の一人息子・孔鯉のこと。「伯」は論語の時代「白」と書き分けられておらず、「魚」の初出は甲骨文。詳細は論語語釈「伯」論語語釈「魚」を参照。

『史記』孔子世家では、「孔子生鯉,字伯魚。伯魚年五十,先孔子死。」とあり、名が鯉だったこと、あざ名が伯魚だったこと、孔子に先立って五十歳で世を去ったことが記されている。『春秋左氏伝』には、孔子の息子について何も記されていない。

『孔子家語』には加えて「魚之生也,魯昭公以鯉魚賜孔子,榮君之貺。故因以名鯉,而字伯魚。」とあり、誕生祝いに魯の昭公からコイの下賜があったこと、それにちなんで本名を鯉、あざ名を伯魚と名づけたことが記されている。「伯魚」とは”長男の魚”の意。

生年は不明だが、『孔子家語』に「至十九,娶于宋之上官氏。生伯魚。」とあるのを根拠に、孔子十九歳、BC533ごろとする例を見る。

女 金文 常盤貴子 女
(金文)

論語の本章では、さんずいの付いた「汝」と同じく”お前”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』による原義は、しなやかな女性の姿。詳細は論語語釈「女」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”学ぶ”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

論語の本章で”学ぶ”と解したのは、原義である”手がける”を拡大した解釈。自文で書いた覚えの無い本について、「てがけたか」と問われたら、人は”読んだか”または”学んだか”と理解するはずである。

周南召南

周 金文 南 金文
「周南」(金文)

論語の本章では、『詩経』国風の最初の二巻。藤堂本によると、周の教化の及んだ洛陽の南方と南西の地だが、正確にはどこだかわからない、という。さらに、両地方のうたには温雅な恋愛の詩が多いという。論語語釈「周」も参照。

召の領主だった召公セキは、魯の開祖周公旦とともに、西周初期の名臣ということになっている。その領地を「邵」と書くようになったのは、春秋時代末期から。詳細は論語語釈「召」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…し終えた”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…か”。「乎」は日本古語の「や・か」にあたる終助詞で、疑問を意味するが、この用法は論語の時代に確認できない。詳細は論語語釈「乎」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では詠歎を示し、”なんとまあ”・”いやはや”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

猶(ユウ)

猶 金文 猶
(金文)

論語の本章では、”まるで~のようだ”。「なお~のごとし」と読む再読文字。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』による原義は、酒の香りが立ち上ってくるさま。詳細は論語語釈「猶」を参照。

正(セイ)

正 甲骨文 正 字解
(甲骨文)

論語の本章では”正面から向かう”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。論語の時代までに、地名・祭礼名、”征伐”・”年始”のほか、”正す”、”長官”、”審査”の意に用い、また「政」の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。

『定州竹簡論語』論語為政篇1の注釈は「正は政を代用できる。古くは政を正と書いた例が多い」と言う。その理由は漢帝国が、秦帝国の正統な後継者であることを主張するため、始皇帝のいみ名「政」を避けたから。結果『史記』では項羽を中華皇帝の一人に数え、本紀に伝記を記した。

牆 墻 金文
(金文)

論語の本章では、”塀”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると嗇(ショク)は「麥+作物をとり入れる納屋」からなり、収穫物を入れる納屋を示す。牆は「嗇(納屋)+(音符)爿(ショウ)」の会意兼形声文字で、納屋や倉のまわりにつくった細長いへいを示す、という。詳細は論語語釈「牆」を参照。

面 金文 面
(金文)

論語の本章では”顔を向ける”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』による原義は首+□で、顔の回りを四角形で取り巻いたさま。詳細は論語語釈「面」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「其猶正牆面而立」を受けて”いやはや壁に正面から向かって立つことは﹅﹅﹅”の「ことは」にあたり、主格を示す記号。「参也魯」”曽子はウスノロだ”(論語先進篇17)と同じ語法。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎を示す。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

「也與」(也与)で”であることよ”と訳す、と説明すれば簡単だが、論語の場合はそうはいかない。論語の時代までの漢文には、

  1. 原則として、一文字が一単語で、熟語が無い
  2. 「也」が断定の語義を獲得していない

という特徴があるからだ。ここでの「與」(与)は一文字だけで疑問や反語、詠歎を意味しうる。”…ことよ”・”だねえ”に当たる。詳細は論語語釈「也」も参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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論語の本章に取り扱われた、周南・召南の詩について、従来訳の注にこうある。

下村湖人
詩経の最初の篇が周南、その次の篇が召南で、共に十首の詩から成つており、修身斉家の道を歌つたものである。

修身斉家とは、あとに「治国平天下」が続き、『礼記』大学篇が出典。君子が個人修養に努めることは、天下太平の基本であるという、多分に空想的なお説教。すると藤堂本に言う、人情の機微を歌った恋愛歌とはまるで違うことになる。不審きわまりないので原典を見る。

『詩経』国風・周南

關(関)雎(カンショ):「カンカンと鳴くミサゴは…」で始まる恋愛歌。若い貴族が女性を想う歌。論語八佾篇20で既出。

葛覃(カツタン):「クズは伸びて、谷に茂り…」で始まる抒情歌。久しぶりに里帰りする、女性のウキウキした気分を歌ったもの。

巻耳(ケンジ):「巻耳(野草の一種)を採り採り…」で始まる旅の歌。労役に駆り出された嘆きを歌う歌。

樛木(キュウボク):「南にしだれた木が一本…」で始まる祝い歌。一族の長を讃える歌。

螽斯(シュウシ):「イナゴの羽根は、数知れず…」では始まる祝い歌。一族の繁栄を願う歌。

桃夭(トウヨウ):「モモはなまめかしく、燃え立つ花よ…」で始まる祝い歌。高校の教科書に載っていることがある。

兔罝(トシャ):「兎のワナを、かちかちと…」で始まる武人賛歌。

きりがないのでここで終えるが、祝い歌だったり賛歌だったり日常生活の心情を歌う歌だったりして、召南も大して変わりない。おそらく朱子あたりがもったいをつけて、修身…の歌に仕立ててしまったのだろうが、調べる気にもならないので断定はしない。

論語の本章の史実性については、『論語之研究』でもありうべき章として疑いを挟んでいない。ただ本章は、孔子が息子と問答した唯一の章で、あとは論語里仁篇1がその可能性があるに止まり、論語季氏篇16は伝聞に過ぎず、しかも史実性が疑わしい。

あと孔子が息子に言及したのは、論語先進篇7の「木箱が作れなかった」の話で、饒舌な孔子にも関わらず、弟子や人前ではほとんど家族のことを言わなかった。孔子は家族に冷たいと言うより、無関心だったのだろう。となると本章の史実性も、疑わしいのではなかろうか。

文字的には全てが金文にさかのぼれるし、語法も時代が下ると言える箇所はない。しかし「子曰わく」ではなく「子謂わく」で始まっていることが、どうにも引っかかっている。語義が”論評する”でなければ、”いわれがある・言ったという”という伝承を意味しているからだ。

「為」を”まなぶ”としてもちいているのも気に掛かる。そう解釈したのは後漢が滅んだ後のオウガンだが、確かに論語の本章では”学ぶ”と解釈しないと文意が成り立たない。論語の前章が詩を扱っているから、漢代の儒者が孔子伝説の類に取材して、作文した章だと想像する。

また本章の、”じっと壁を見つめて”の部分は、のちに達磨大師がインドから来て、中国の少林寺で面壁九年して悟りを得た、という故事を思い出す。九年も座りっぱなしでいられるわけがなく、多分にファンタジーだろうが、存外論語の本章から、後世創作したお話しだろう。

『論語』陽貨篇:現代語訳・書き下し・原文
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