論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
孺悲欲見孔子。孔子辭*以疾。將命者出戶、取瑟而歌、使之聞之。
校訂
武内本
清家本により、辭の下に之の字を補う。
定州竹簡論語
儒a悲欲見[孔子,子b辭c以疾。將]命者出戶,取瑟而歌,使537聞之d538
- 儒、今本作”孺”字。
- 今本”子”字前有”孔”字。
- 皇本、高麗本”辭”下有”之”字。
- 使聞之、今本作”使之聞之”。
→儒悲欲見孔子。子辭以疾。將命者出戶、取瑟而歌、使聞之。
復元白文(論語時代での表記)
※儒→需・悲→(古文)・將→(甲骨文)・瑟→(甲骨文)・歌→訶。
書き下し
儒悲孔子に見えむと欲む。子辭ふに疾を以ふ。命を將くる者戶を出づるや、瑟を取りて歌ひ、之を聞かしむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
拝み屋の悲が孔子に会おうとした。先生は辞退するのに急病を理由にした。取り次いだ者が孔子の部屋を出ると、大琴を手にして歌い、それを聞かせた。
意訳
冠婚葬祭業で世渡りをしている悲という拝み屋が、孔子先生に会いたいと言ってきた。
取り次ぎ「…ということですが。」
孔子「会わぬ。急に寝込んだと言ってやれ。」
取り次ぎ「そうですか。」
取り次ぎが部屋を出たとたん、ジャンジャカ大琴を弾いて歌ってやった。ざまあみろ。二度と来るんじゃない!
従来訳
孺悲が先師に面会を求めた。先師は病気だといって会われなかったが、取次の人がそれをつたえるために部屋を出ると、すぐ瑟を取りあげ、歌をうたって、わざと孺悲にそれがきこえるようにされた。
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孺悲想見孔子,孔子推說有病不見。傳話的人剛出門,孔子就取瑟彈唱起來,讓他聽見。
孺悲が孔子に会おうとしたが、孔子は病気を言い訳にして会わなかった。話を取り次いだ者が門を出たとたん、孔子は大琴を取って弾いて歌い始め、彼に聞かせた。
論語:語釈
孺悲→儒悲
「孺」(篆書)・「悲」(古文)
論語の本章では人名。「儒」が職業で「悲」が個人名。”拝み屋の悲”の意。
古来誰だか分からなかった。古注では孺悲を魯の人とし、態度が悪かったので孔子は会わず、しかし見捨てはしなかったので、その態度の悪さを琴の音を聞かせることで覚らせようとしたという。江戸の儒者・伊藤仁斎もその説を取っているが、ごますりでなければひいきの引き倒しに思える。
新注ではかつて孔子に葬儀の礼を教わった弟子とし、この時は何らかの罪を持った身だったので、孔子は会わなかったとし、しかし見捨てずに琴の音で非を覚らせようとしたという。そして程伊川の「なんと深い孔子様のお教えであろう」という泣き真似を引用している。
定州竹簡論語を参照すれば何のことは無い、孔子のもと同業者。「儒」とは孔子の開学以前、迷信を世の人に吹き込んで世渡りする、いわば新興宗教の教祖のような存在で、孔子の母もその一人だった。そういう迷信とはすっぱり手を切ったことから、孔子の儒学が始まった。詳細は孔子はなぜ偉大なのかを参照。
そういう拝み屋の一人が、何かしらメシの種を嗅ぎつけて、孔子に会おうとしたのだろう。当然ながら孔子は追い払った。だが後漢儒はその頭の悪さと偽善から、「儒」を「孺」に書き換え、自分ら儒者は関係ありません、としらを切った上に、上記のようなデタラメを書き散らした。こうした後漢儒の不真面目については、論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
「孺」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語では本章のみに登場。『学研漢和大字典』によると而(ジ)は、柔らかく垂れたひげ。需は「雨+而」の会意文字で、ひげや、ひもが雨水にぬれて柔らかいことを示す。孺は「子+(音符)需(ジュ)」の会意兼形声文字で、からだの柔らかい子ども、という。詳細は論語語釈「孺」を参照。
定州竹簡論語の「儒」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。『字通』の言う語源から、論語時代の置換候補は需(みこ)。論語語釈「儒」・論語語釈「需」を参照。
「悲」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音の同音に同義の漢字は無い。『大漢和辞典』で音ヒ訓かなしむは他に存在しない。ただし固有名詞のため、いかなる同音や近音も論語時代の置換候補となりうる。
『学研漢和大字典』によると非は、羽が左右に反対に開いたさま。両方に割れる意を含む。悲は「心+(音符)非」の会意兼形声文字で、心が調和統一を失って裂けること。胸が裂けるようなせつない感じのこと、という。詳細は論語語釈「悲」を参照。
欲
「欲」(楚系戦国文字)・「谷」(金文)
論語の本章では”もとめる”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。ただし『字通』に、「金文では谷を欲としてもちいる」とある。『学研漢和大字典』によると、谷は「ハ型に流れ出る形+口(あな)」の会意文字で、穴があいた意を含む。欲は「欠(からだをかがめたさま)+(音符)谷」の会意兼形声文字で、心中に空虚な穴があり、腹がへってからだがかがむことを示す。空虚な不満があり、それをうめたい気持ちのこと、という。詳細は論語語釈「欲」を参照。
見
(金文)
論語の本章では「まみゆ」と読んで”会う”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「目+人」の会意文字で、目だつものを人が目にとめること。また、目だってみえるの意から、あらわれるの意ともなる、という。詳細は論語語釈「見」を参照。
辭(辞)
(金文)
論語の本章では”ことわる”。いいわけをのべて、受けとらない。また、職をやめること。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』による原義はもつれた糸をさばくさま+処罰用の刃物で、法廷で乱れをさばく言葉を指す。”ことわる”意味ではもと「辤」と書いたが、「辭」と混同されるようになった、という。詳細は論語語釈「辞」を参照。
疾
(金文)
論語の本章では”病気”。初出は甲骨文。病気の中でも、真っ直ぐ矢が突き刺さるような急性の病気を言う。詳細は論語語釈「疾」を参照。
將(将)命
「将」(金文大篆)
論語の本章では”取り次ぐ”。本来「承命」ȡi̯əŋ(平)・mi̯ăŋ(去)=”言いつけを承る・取り次ぐ”とあったのを、後世の儒者が「将命」tsi̯aŋ(平)・mi̯ăŋ(去)と書き換えて、もっともらしくでっち上げたコケ脅し。
「将」の初出は甲骨文。金文の確実な初出は戦国末期で、論語の時代にどのように書かれていたかは判然としない。『学研漢和大字典』によると爿(ショウ)は、長い台をたてに描いた字で、長い意を含む。將は「肉+寸(て)+(音符)爿」の会意兼形声文字。もといちばん長い指(中指)を将指といった。転じて、手で物をもつ、長となってひきいるなどの意味を派生する。また、もつ意から、何かでもって処置すること、これから何かの動作をしようとする意などをあらわす助動詞となった、という。詳細は論語語釈「将」を参照。
「命」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「亼(シュウ)(あつめる)+人+口」の会意文字で、人々を集めて口で意向を表明し伝えるさまを示す、という。詳細は論語語釈「命」を参照。
出(シュツ/スイ)
(甲骨文)
論語の本章では”外に出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
戶/戸
論語の本章では、現代語と同じく”戸・ドア”だが、文字的には一枚板の扉で、二枚板の扉は「門」と描く。孔子のような上級貴族の住まいは、屋敷門は扉が無く土壁のついたてで目隠ししていたらしく、母屋の出入り口は二枚以上の扉だっただろう。それに対して「戸」と記したのは、おそらく孔子の居室の扉を意味していると思われる。
初出は甲骨文。詳細は論語語釈「戸」を参照。
瑟(シツ)
(金文大篆)
論語の本章では、床に直に据えて弾く大琴。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「ことの形+必(びっしりくっつく)」の会意文字で、多くの弦をびっしりと並べて張った楽器、という。詳細は論語語釈「瑟」を参照。
論語:付記
論語の本章の史実性について、武内義雄『論語之研究』では、「内容の疑わしい章」として疑義を呈している。「孔子先生ともあろうお方が、人にこんなひどい仕打ちをするはずがない」という思い込みから来る疑問で、孔子聖者説に立つ限り、論語を正しく読めはしない。
孔子は思想的に、古代人には珍無類な無神論に近い立場に立った。21世紀の現代でもなお、「神などいない」と言えば袋叩きに遭いかねず、インチキな新興宗教が流行っているというのに、孔子は春秋時代の時点で、当時の宗教界と真っ向からぶつかった革命家だった。
孔子とはそんな生ぬるい、お上品な人物ではない。
革命不是请客吃饭,不是做文章,不是绘画绣花,不能那样雅致,那样从容不迫,文质彬彬,那样温良恭俭让。革命是暴动,是一个阶级推翻一个阶级的暴烈的行动。(『毛主席语录』袖珍本第一版1966年。これを歌詞にしたゴマスリ歌をお聞きになりたい諸賢はyoutubeでどうぞ)
革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうをしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうち倒す激烈な行動である。(『毛主席語録』日本語版第四版1972年)
孔子は毛沢東のような大虐殺はしなかったが、政治のためなら平気で謀略にも手を染め、人を死に追いやっている(→『墨子』非儒篇8・非儒篇9)。最も愛されたとされる弟子の顔淵は、おそらく孔子一門の諜報部門を取り仕切っていた(孔門十哲の謎)。
晏嬰「…孔子は楚へ行き、白公が王位奪取の計画を立てているのを知ると、手下の石乞を白公に付かせて、その結果楚王は暗殺寸前まで身を危うくし、当の白公は殺されてしまいました。」(『墨子』非儒篇下8)
コメント