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論語詳解440陽貨篇第十七(6)子張仁を問う’

論語陽貨篇(6)要約:就職が気になる子張。仁とは何ですか、と質問したら、五つのことに気を付けなさいと孔子先生。仕事は丁寧、下には寛大、ウソをつかずまじめに働き、恵み深ければ為政者として仁と言えるよと。

(検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・白文・書き下し

原文(唐開成石経)

子張問仁於孔子孔子曰能行五者於天下爲仁矣請問之曰恭寬信敏惠恭則不侮寬則得衆信則人任焉敏則有功惠則足以使人

校訂

東洋文庫蔵清家本

子張問仁於孔子孔子對曰能行五者於天下爲仁矣請問之曰恭寬信敏惠恭則不侮/寬則得衆信則人任焉敏則有功/惠則足以使人

※「孔子對曰」:京大本、宮内庁本も同。

定州竹簡論語

]張問仁於子a。子a曰:「耐b五者於天下為仁者c。」「請問之。」509……,信,敏,惠。恭則不㑄d,寬則得衆,信則人任焉,敏則510……[則足以使人]。」511

  1. 今本”子”字上有”孔”字。
  2. 耐、今本作”能行”。
  3. 者、今本作”矣”。
  4. 㑄、今本作”侮”。

※現伝本「能行五者」→定州本「耐五者」。

標点文

子張問仁於子。子曰、「耐五者於天下爲仁者。」「請問之。」曰、「恭、寬、信、敏、惠。恭則不㑄、寬則得衆、信則人任焉、敏則有功、惠則足以使人。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文張 金文大篆問 金文仁 甲骨文子 金文 子 金文曰 金文 能 金文五 金文者 金文於 金文天 金文下 金文 為 金文仁 甲骨文者 金文 青 金文問 金文之 金文 曰 金文 兢 金文 寬 金文 信 金文 敏 金文 恵 惠 金文 兢 金文則 金文不 金文侮 金文 寬 金文則 金文得 金文衆 金文 信 金文則 金文人 金文任 金文安 焉 金文敏 金文則 金文有 金文工 金文 恵 惠 金文則 金文足 金文㠯 以 金文使 金文人 金文

※張→(金文大篆)・仁→(甲骨文)・耐→能・請→青・恭→兢・焉→安・功→工。論語の本章は焉の字が論語の時代に存在しない。ただし無くとも文意が変わらない。「行」「者」「信」「則」の用法に疑問がある。

書き下し

子張しちやうよきひと孔子こうしふ。いはく、天下てんかいつつのことあらば仁者じんしゃる。ふらくはこれはん。いはく、つつしみ、ゆるやか、まことさとき、めぐみなり。つつしまばすなはあなどらず、ゆるやかならばすなはひとまことあらばすなはひとまかたりさとからばすなはいさをり、めぐまばすなはもつひと使つかふにる。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子張 孔子
子張が貴族の条件を孔子に質問した。孔子が言った。「五つの事柄を天下に実現できるなら、貴族と言えよう。」「お願いします、その五つを問います。」孔子が言った。「丁寧で、寛大で、正直で、勤勉で、恵み深いことだ。丁寧なら、必ず人は馬鹿にしない。寛大なら、必ず多くの人の信頼を得る。正直なら必ず人は任せる。勤勉なら必ず実績が上がる。恵み深ければ、必ず人を使う条件が足りる。」

意訳

子張 孔子 水面
子張「貴族とはどういう者でしょうか。」
孔子「五つを天下に実行できる者だな。」

子張「五つとは何でしょう。」
孔子「仕事が丁寧、行政が寛大、政令は正直、実務は勤勉、民政は恵み深いことだ。」

「…仕事が丁寧なら、誰も馬鹿にしない。行政が寛大なら、民の支持が集まる。政令が正直なら、誰もが信頼して任せてくれる。実務が勤勉なら、必ず業績が上がる。民政が恵み深ければ、民を動員する資格は十分だ。」

従来訳

下村湖人

子張が仁について先師にたずねた。先師はいわれた。――
「五つの徳で天下を治めることが出来たら、仁といえるだろう。」
子張はその五つの徳についての説明を求めた。すると、先師はいわれた。――
「恭・寛・信・敏・恵の五つがそれだ。身も心もうやうやしければ人に侮られない。他に対して寛大であれば衆望があつまる。人と交って信実であれば人が信頼する。仕事に敏活であれば功績があがる。恵み深ければ人を働かせることが出来る。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子張問仁,孔子說:「能在天下推行五種品德,就是仁了。「哪五種?」說:「莊重、寬厚、誠實、勤敏、慈惠,莊重就不會受侮辱,寬厚就會得到擁護,誠實就會受到重用,勤敏就會獲得成功,慈惠就會有本錢使用人。」

中国哲学書電子化計画

子張が仁を問うたら、孔子が言った。「天下で五種類品徳を実行できることが仁だ。」「どんな五種類ですか?」言った。「荘重で、寛容で、誠実で、まじめで、慈悲深いことだ、荘重なら侮辱されず、寛容ならどこででも味方され、誠実なら高い地位に就け、まじめなら成功し、慈悲深ければ使用人を上手く使える。」

論語:語釈

 (。( 、「() ( ()。」「 。」、「 㑄(侮) 使 。」


子張

張 金文
「張」(金文大篆)

論語では、孔子の弟子で「何事もやり過ぎ」と孔子に評された姓はセン孫、名は師、あざ名は子張のこと。詳細は論語の人物:顓孫師子張を参照。

「張」の字の初出は戦国文字で、論語には存在せず、実は子張のあざなは後世の名付けである可能性すらあるのだが、固有名詞のため論語の時代に存在しない、とは断じられない。詳細は論語語釈「張」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 貴族
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。

孔子(對)曰(コウシこたへていはく)→子曰(シいはく)

論語の本章では”孔子が言った”。唐石経では「孔子曰」と記し、清家本では「孔子曰」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「子曰」と記す。定州本に従い校訂した。論語で「子曰」と「孔子(對)曰」では意味が異なる。

論語 孔子 説教

論語では通常、弟子など目下に対して孔子が発言する場合は「子曰」と記す。対等の貴族や、国公や家老など目上の質問に回答する場合は「孔子對曰」と記す。「孔子曰」と記す場合は、目上や対等の存在にものを言う場合に用いる。

論語泰伯編20、および論語季氏篇で、相手を特定せず「孔子曰」となっているのは例外だが、その理由は分からないし、ほとんどが後世の創作。

論語の本章、唐石経や清家本で弟子相手に「孔子(對)曰」とあるのは明らかな違式で、清家本にそうあるからにはおそらく古注を編んだ南北朝期の儒者にはこの使い分けが理解出来ず、あるいは本章だけに神秘的な意味をもたせるため「孔子對曰」と記した。

古注の注釈者も、注釈の付け足し(疏)を記した儒者も、「孔子對曰」とあることに何の不思議も感じなかったのか、一切説明を加えていない。夏場の小バエのように「どうでもいいだろうがそんなこと」と思える書き込みをしている古注の儒者なのに、「どうでもいいこと」だったらしい。

国勢が傾いた晩唐になって唐石経を刻んだ唐儒は、さすがに弟子の子張相手に「對」の字はおかしいから削ったが、「孔子」→「子」に改める根拠や度胸はなかったようで、「孔子曰」と刻んで済ませた。唐石経は中国伝承論語の定本になったから、『論語注疏』や新注など宋儒の多くも疑いを持っていない。

ただ考証学の盛んだった清の儒者は、おかしいと思ったようである。

七經考文。古本「曰」上有對字,一本「焉」作「矣」。集注考證。孔字衍,疑此等處鄭氏多依齊論。…七經考文云:「古本曰上有對字。」則又不知係答何人之問矣。


日本の江戸儒の山井崑崙は『七経考文』で、「古本には曰の上に對の字があり、ある本では焉を矣の字に書いている」という。南宋末期の金履祥は『集注考證』で「孔の字は誤って入った本来は無い字だ。おそらく鄭玄が論語をまとめる際に、斉論語をずいぶん参考にしたのでその影響で入ったのだろう」という。…『七経考文』が「對の字があった」と言うからには、孔子は誰に問われて答えたのか分からない事になる。(『論語集釋』)

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

能→耐

能 金文 能 亀
(金文)

論語の本章では”~できる”。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』による原義は亀。平声(高く伸ばした調子)で発音する場合は亀を意味するが、ほとんどの場合去声(下さがりの調子)で発音され、”~できる”の意。亀がなぜ可能の意となったかは、『学研漢和大字典』によっても明らかではない。。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

学研『全訳用例古語辞典』「よく」条

《副詞》

  1. 十分に。念入りに。詳しく。
    《竹取物語・御門の求婚》 「よく見てまゐるべき由(ヨシ)のたまはせつるになむ」
    《訳》
    念入りに見てまいるようにとの意向をおっしゃられたので。
  2. 巧みに。上手に。うまく。
    《宇治拾遺物語・一三・九》 「木登りよくする法師」
    《訳》
    木登りを上手にする法師。
  3. 少しの間違いもなく。そっくり。
    《万葉集・一二八》 「わが聞きし耳によく似る葦(アシ)のうれの足ひくわが背」
    《訳》
    私が聞いたうわさにそっくり似ている葦の葉先のように足の弱々しいわが夫よ。
    む甚だしく。たいそう。
    《今昔物語集・二七・四一》 「よく病みたる者の気色(ケシキ)にて」
    《訳》
    甚だしく病んでいるようすで。
  4. よくぞ。よくも。よくもまあ。▽並々でない事を成しとげたとき、また、成しとげられなかったときに、その行為の評価に用いる。
    《竹取物語・竜の頸の玉》 「よく捕らへずなりにけり」
    《訳》
    よくもつかまえなかったものだ。
  5. たびたび。ともすれば。
    《浮世床・滑稽》 「てめえ、よくすてきと言ふぜ」
    《訳》
    おまえ、たびたびすてきと言うぜ。

耐 秦系戦国文字
(秦系戦国文字)

定州竹簡論語の「耐」は、「能」と同義であれば本章が史実でないことを示す。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。語義が仮定”もし”を意味する場合に限り、同音の「乃」が論語時代の置換候補になる。詳細は論語語釈「耐」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行う”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”そういうこと”。春秋時代ではこの語義は確認できない。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

漢文では人に限られない。日本語で「前者」「後者」というのはその意味にそったことば。『学研漢和大字典』による原義はたきぎを容れ物に詰めて焼き上げる姿で、”煮る”こと。ただし古くから指示代名詞に用いられたと言うが、理由は明らかではない。詳細は論語語釈「者」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)…である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

請 金文 請
(金文)

論語の本章では、”お願いします”という要請のことば。

初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しないが、論語の時代には「(言)青」と書いた可能性があり、こちらは論語時代の金文が存在する。また平声(カールグレン上古音dzʰi̯ĕŋ:うける)の同音に靜(静)の字がある。『大漢和辞典』によるその語釈に”はかる”があり、四声を無視すれば音通する。詳細は論語語釈「請」を参照。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、青(セイ)とは「生(あお草)+丼(井戸の清水)」をあわせた会意文字で、あおく澄んでいること。請は「言+(音符)青」で、澄んだ目をまともに向けて、応対すること。心から相手に対するの意から、まじめにたのむの意となった、という。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

請問之(こうらくはこれをとわん)

論語の本章では、この語句の前に「曰く」が無く、発言者が誰であるか記していないが、ここでは子張の発言としないと文意が通じない。なお「請う、これを問わん」と読み下しても差し支えないし、地の文として「これを請い問う」と解釈してもかまわない。

訳者は中国史の出なので、「奏すらく」などの「~らく」の読み癖が付いているためこう読んだが、中国哲学や中国文学の世界では、おのずから別の読み癖があって然るべき。元を正せば平安朝の博士家それぞれの流儀だろうが、要は意味が正確に取れるならそれでいい。

君子 諸君 孔子
言葉をこね回すな。こんなもんはな、相手にわかりゃあいいんだ。(論語衛霊公篇41)

「これを請い問う」の場合は「請問」という熟語で解釈することになり、返り点ではハイフンが必要だが、論語の本章が下記の通り漢代になって成立した新しい話だとすると、原則一文字一語義の、孔子在世当時の中国語の縛りから外れてもかまわないことになる。

 – 問之 之ヲ請ヒ問フ。

恭 金文大篆 恭
(金文大篆)

論語の本章では、”丁寧でまじめに行う”こと。『学研漢和大字典』による原義は、目上にものを差し上げる際の心で、人に対しても仕事に対しても、慎み深く丁寧に行う事。

この文字は秦帝国期の金文大篆以降にしか見られず、孔子の在世当時には「兢」と書かれていたと考えられる。すなわち「戦戦兢兢」の「兢」であり、”恐れてブルブル震えるような気持ちでいる”という有様を指す。ただし本章は後世の創作の疑いがあり、かえってその疑いを補強し得る。詳細は論語語釈「恭」を参照。

寬 金文大篆 寬
(金文大篆)

論語の本章では、”寛大に行う”こと。初出は春秋末期の金文。『学研漢和大字典』による原義は、家に多くの財宝が蓄えられたさま。ゆるやかでゆとりがあること。詳細は論語語釈「寛」を参照。

信(シン)

信 金文 信 字解
(金文)

論語の本章では、”他人を欺かないこと”。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。

敏 金文 敏
(金文)

論語の本章では、”心を砕いて細やかに働くこと”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』による原義は、休みなく働くこと。詳細は論語語釈「敏」を参照。

惠/恵

恵 金文 恵
(金文)

論語の本章では、”恵み深いこと”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』による原義は丸い糸巻きで、丸く人を抱き込むこと。『字通』による原義は上を絞った袋+心で、音を借りて”めぐむ”意に転用されたという。詳細は論語語釈「恵」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

侮→㑄

侮 金文大篆 侮
(金文大篆)

論語の本章では”あなどる・馬鹿にする”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』による原義は、見ない・目にも止めないことで、「毎」は”暗い”を意味する。定州竹簡論語の「㑄」は異体字。詳細は論語語釈「侮」を参照。

眾(シュウ)

衆 甲骨文 衆 字解
(甲骨文)

論語の本章では”大勢の人望”。「眾」「衆」は異体字。初出は甲骨文。字形は「囗」”都市国家”、または「日」+「人」三つ。都市国家や太陽神を祭る神殿に隷属した人々を意味する。論語の時代では、人々一般を意味した可能性がある。詳細は論語語釈「衆」を参照。

任焉

任 金文 焉 金文
(金文)

論語の本章では”これに任せる・信頼される”。「焉」の初出は戦国時代末期の金文。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はʔi̯an(平)またはgi̯an(平)。近音の安ʔɑn(平)が”しかり・たり”または”どうして”の語義である場合は置換候補となる。

ここでの「焉」を「これに(対象)」と読み下し、「これに」と訳し、一字で「於是」「於此」の意を示し、句末・文末におかれると解する場合は、本章が戦国時代以降の創作である証拠になる。詳細は論語語釈「焉」を参照。

功 金文 功
(金文)

論語の本章では”実績”。初出は戦国末期の金文だが、「工」と書き分けられていなかった。つまり論語の時代にも存在した。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、工は、上下両面にあなをあけること。功は「力+(音符)工」。あなをあけるのはむずかしい仕事で努力を要するので、その工夫をこらした仕事とできばえを功という、という。詳細は論語語釈「功」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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武内義雄 吉川幸次郎
論語の本章について、武内義雄『論語之研究』では、清代の儒者・崔述が文体の怪しい章として挙げたことを記している。吉川本にも「この章は図式的な言語であって」と言い、朱子とその弟子の間でも、ご説ごもっともだが、孔子の言葉らしくないと論じられたと書く。

だが「子張、禄をもとむ」(論語為政篇18)の章があるように、子張は一門でも仕官に熱心だったことが伝わる。その子張が士族にふさわしい条件をたずねるのは十分あり得る話で、上記の検証の通り、文字的にも何とか論語時代の復元が出来る。

「図式的な言語」という評は当たってはいるが、それは「仁」を「仁義」として解釈するからで、就職のための実用的な回答としては、かえって図式的でないとよい教訓にはならないと思う。つまり二千年以上にわたる仁=仁義という誤解が、本章をつまらなくさせているのだ。

誤解の一例を挙げよう。明清交代期に世を厭うて隠居した彭大寿(魯岡)は、こう書いている。

孔子答子張能行五者於天下爲仁,非言君相之事與?曰九經所言,何一非君相事?身有顯晦,盡性之學無顯晦。五者一也,天下之人心一也,布衣君相有何分别?雖感應之遠近,視地與位之崇卑,而要之可近卽可遠。感而不應者,行未實也。


ある人「このお説教は、役人としての心得ではないのですか?」

彭大寿「違うな。確かに儒教経典の全ては、役人としての教養でないものは無いだろう? だが出世するかどうかは時の運だ。だから自分の本性を磨き上げる習練には、出世どうこうは関係が無い。

本章で孔子先生が仰った五つの徳目は、結局はただ一つのことを言っている。人間である以上、心に違いは無いから、庶民だろうと役人だろうと、区別がどこにある? 感受性や視野の大きさは人によって違うが、修養しようとする者には、孔子先生の教えがすんなりと理解できるものだ。

理解できないのではない、しようとしないだけだ。(『魯岡或問』)

原典に当たれなかったから、この引用は『論語集釋』からの孫引きから訳した。さて「本性」とは明代になって帝国の支配イデオロギーとして採用された朱子学の物言いで、朱子始め宋儒はオカルトやメルヘンが強すぎて、何を言っているのかさっぱり分からない事が多い。

それを割り引いても、「仁」が”貴族らしさ”だと気付いていながら、それをオカルトとメルヘンで言いくるめてしまっている。だから明儒は明帝国を滅ぼしたのだが、朱子学に限らずイデオロギーとは、人を洗脳して従わせる詐術だから、滅ぼすのも無理はない。

『論語』陽貨篇:現代語訳・書き下し・原文
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