論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子貢問*曰、「君子亦有惡乎*。」子曰、「有惡、惡稱人之惡者、惡居下流*而訕上者、惡勇而無禮者、惡果敢而室*者。」曰、「賜也亦有惡也*。惡徼以爲知*者、惡不遜*以爲勇者、惡訐以爲直者。」
校訂
武内本
清家本により、子貢の下に問の字を補う。漢石経君子亦有惡乎を子曰有に作る。漢石経流の字無し。室、唐石経窒に作る。室窒古相通、窒とは忿戻なり。唐石経也を乎に、智を知に、遜を孫に作る。
後漢熹平石経
…君子有惡乎子白有惡稱人之惡者惡居下而訕上者惡…
- 「惡」字:〔亞〕の中心に〔一〕。
定州竹簡論語
子a[貢]b曰:「君子亦c[有□乎?」曰d:「有□e]549……惡稱人之惡者,惡居□fα下g550……而山h上者,惡勇而無禮者,惡果敢而窒i者。」β賜j也551……惡也k?」「惡絞l以為知者,惡不孫以為勇者,惡[訐]552……
- 今本此后別為一章。
- 皇本、高麗本”曰”字上有”問”字。
- 亦、漢石經無。
- 今本”曰”字上有“子”字。
- 今本作”有惡”。
- 今本”居”、”下”二字間無字。
- 阮本”下”字后有”流”字、漢石經、皇本無“流”字。
- 山、今本作”訕”。山借為訕。
- 窒、『釋文』云”魯讀窒為室”、『韓勅修孔廟後碑』亦以窒為室。
- 今本”賜”字上有”曰”字。
- 也、阮本作”乎”、皇本、高麗本作”也”。
- 絞、今本作”徼”。『釋文』云”鄭本作’絞’”。通借。
- おそらく「于」などの助辞。詳細は語釈に記載。
- 定州竹簡論語の表記では、ここで話者が変わったことになっているが、子貢だと考えたり、子貢に問うた第三者を想定するより、孔子が問い返したとする方が素直ではないか。詳細は語釈に記載。
※韓勅修孔廟後碑→魯相韓勅修孔子廟造立禮器碑? それだとすると「窒」「室」が見られない。
→子貢曰、「君子亦有惡乎。」曰、「有惡、惡稱人之惡者、惡居□下流而山上者、惡勇而無禮者、惡果敢而窒者。賜也亦有惡也。」「惡絞以爲知者、惡不孫以爲勇者、惡訐以爲直者。」
復元白文(論語時代での表記)
□流 窒 絞 訐
※貢→江・惡→亞。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は前漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子貢曰く、君子も亦惡む有る乎。曰く、惡む有り。人之惡を稱ぐ者を惡む、下流□居而上を山る者を惡む、勇にし而禮無き者を惡む、果敢にし而て窒る者を惡む。賜也亦惡む有り也。絞り以て知と爲す者を惡む、孫は不る以て勇と爲す者を惡む、訐き以て直しと爲す者を惡む。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子貢が質問して言った。「君子も憎むことがありますか。」
先生が言った。「憎むことがある。人の欠点を言い立てる者を憎む。低い地位にいる者が、高い地位にいる者の悪口を言うのを憎む。勇気があっても礼を心得ない者を憎む。決断力があっても行き詰まる者を憎む。子貢よ、お前もまた憎むことがあるか。」
「あら探しを頭がよい事と思う者を憎みます。図々しさを勇気と思う者を憎みます。隠し事を暴き立てるのを正直と思う者を憎みます。」
意訳
子貢「君子でも人が嫌いになる事ってあるんですかね。」
孔子「あるぞ、大ありだ。人の欠点を言い立てる奴、目上の悪口を言う奴、勇ましいばかりの乱暴者、軽率に決断して行き詰まる奴は嫌いだな。お前はどうだ。」
子貢「人のあら探しをして得意がる奴、図々しいのを勇気と勘違いしている奴、ふさわしくない席でズケズケものを言って、”事実だろう?”と得意がる奴は嫌いです。」
従来訳
子貢がたずねた。―― 「君子も人を憎むということがありましょうか」 先師がこたえられた。 「それはあるとも。他人の悪事をいい立てるものを憎むのだ。下位にいて、上をそしる者を憎むのだ。勇のみあって礼のないものを憎むのだ。思いきりがよくて道理にもとるものを憎むのだ」 それから、子貢にたずねられた。―― 「お前にも憎む人があるのか」 子貢がこたえた。――「先まわりして物事をさぐっておいて、知ったかぶりする者を憎みます。傲慢不遜を勇気だと心得ている者を憎みます。人の秘密をあばいて正直だと思っている者を憎みます」
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子貢說:「君子也有厭惡的人嗎?」孔子說:「有。厭惡宣揚別人缺點的人,厭惡以下謗上的人,厭惡勇敢而無禮的人,厭惡固執而不通情理的人。你也有厭惡的人嗎?」子貢說:「厭惡把剽竊當作聰明的人,厭惡把不謙遜當作勇敢的人,厭惡把告密當作直率的人。」
子貢が言った。「君子もまた嫌うような人はいるでしょうか。」孔子が言った。「いる。他人の欠点をあげつらう人を嫌い、目下で目上を悪く言う人を嫌い、勇敢だが無礼な人を嫌う。お前にも嫌いな人がいるか。」子貢が言った。「パクリで聡明ぶる人を嫌います。図々しさで勇敢ぶる人を嫌います。秘密を暴いて正直ぶる人を嫌います。」
論語:語釈
子 貢 曰、「君 子 亦 有 惡 乎。」(子) 曰、「有 惡、惡 稱 人 之 惡 者、惡 居 □ 下 流 而 山 (訕) 上 者、惡 勇 而 無 禮 者、惡 果 敢 而 窒(室) 者。(曰、)賜 也 亦 有 惡 也(乎)。」「惡 絞(徼) 以 爲 知 者、惡 不 孫(遜) 以 爲 勇 者、惡 訐 以 爲 直 者。」
子貢
孔子の弟子。論語の本章に見える「賜」は子貢の名。一門では外交と商売の才に最も優れ、孔子からは弁舌の才を評価された。孔子没後は斉国に移り、一派の頭領となった。詳細は論語の人物・端木賜子貢を参照。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”…もまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。詳細は論語語釈「亦」を参照。
惡/悪
(金文)
論語の本章では”憎む”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。部品の「亞」が悪と通じると『大漢和辞典』はいい、”みにくい”の語釈をのせる。『学研漢和大字典』による原義は亜=建物のへこんだ基礎に押し込められたような心。詳細は論語語釈「悪」を参照。
稱/称
(金文大篆)
論語の本章では”言挙げする・言いはやす”こと。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』による原義は左右の穀物の穂の重さを量ることで、取り上げること。詳細は論語語釈「称」を参照。
下流
(金文)
論語の本章では”低い地位”。「下」だけに「流」が付き、「上」に付かないのは、「惡居下流、而訕上者」と四文字句にまとめて調子を整えるためで、「流」に意味はほとんど無い。『論語集釋』に引く漢石経では、「流」の字が無いという。だが恐らく現存世界最古の論語の注釈書、宮内庁書陵部蔵南宋版『論語注疏』には、「流」の字が確認できる。
「下」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によるとおおいの下にものがあることを示す指事文字。詳細は論語語釈「下」を参照。
「流」の初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。『学研漢和大字典』によると右側は「子の逆形+水」の会意文字。出産のさい羊水のながれ出るさま。流はそれを音符とし、水を加えた会意兼形声文字で、その原義をさらに明白にしたもの、という。詳細は論語語釈「流」を参照。
居□下流
定州竹簡論語では、□部分に一文字が存在し解読できない。定州竹簡論語以前、『荀子』に「非維下流水多邪」、『小載礼記』に「則民夫人待于下流」とあり、同時代の『説苑』に、「非唯下流眾川之多乎」「其下流多也」、『新序』に「其下流多也」とある。欠字部分は、「唯」「其」「于」などの副詞か助辞ではなかったか。
訕(セン)
(篆書)
論語の本章では”悪口を言う”。論語では本章のみに登場。この文字は甲骨文・金文・戦国文字・古文には見られず、始皇帝による文字統一後の篆書から見られる。「セン」の音を持ち”そしる”意味を持つ漢字には「僭」があり、こちらは古文から見ることが出来る。
ただしカールグレンによる先秦復元音は「訕」:(推定)sǎn(平)・san(去)、「僭」:tsiəm(去)であり、論語の時代には無かった言葉である可能性がある。『学研漢和大字典』によると「訕」は形声文字で、「言+(音符)山」である、とあるのみでそっけない。詳細は論語語釈「訕」を参照。
定州竹簡論語の「山」はおそらく「訕」と同音だが、”そしる”の語釈は『大漢和辞典』にない。「訕」の略字と解するしか無い。論語語釈「山」も参照。
室→窒
(金文)
現伝論語の本章では「室」=”行き詰まる”。上記の通り武内本によると、中国系の論語の版本では「窒」に作り、藤堂本ではそれを「ふさがる」・”目が四方にきなかい”と読解している。
「室」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると至は、矢がぴたりと目標まで届いたさま。奥までいきづまり、その先へは進めない意を含む。室は「宀(やね、いえ)+(音符)至」の会意兼形声文字で、いちばん奥のいきづまりのへや。窒(チツ)(いきづまり)・膣(チツ)と同系、という。詳細は論語語釈「室」を参照。
定州竹簡論語の「窒」は、論語では本章のみに登場。語義は”行き詰まる”。初出は戦国時代の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。『学研漢和大字典』によると至(シ)は、矢が━線にとどいて、その先に進めないことを示す指事文字。窒は「穴(あな)+(音符)至」会意兼形声文字で、穴の奥で行きづまって、その先に進めないこと、という。詳細は論語語釈「窒」を参照。
上掲武内本では「窒とは忿戻なり」と言う。おそらく『大載礼記』保傅11の「不能懲忿窒慾」、『周易』䷨損の「君子以懲忿窒欲」を踏まえての注記だろうが、「窒」がなぜ”いかる”の意になるかは何も説明がない。戦国時代の法家『慎子』の逸文56に、「我忿可窒」我れ忿らば窒る可し、とあり、”行き詰まる”の意で用いている。
賜也亦有惡也(シやまたにくむありや)
ここでの「也」は、主格を示す”や”と、句末で疑問を示す”か”として用いられているが、主格を示す以外の語法は、断定や詠歎を含め、戦国時代になってから見られ、論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
なおこの発言を子貢のそれだと言い張っているのは古注の皇侃。
曰賜也亦有惡也者子貢聞孔子說有惡已竟故云賜亦有所憎惡也
「賜也亦有惡也」とあるのは、思考が孔子の説教を聞いて憎むことの真理が分かったので、「わたくしにも憎む者がおります」と言ったのだ。(『論語集解義疏』)
例によってデタラメ(→論語における「束脩」)を言っているだけだから、真に受ける必要は無い。
徼(キョウ)→絞
(秦系戦国文字)
論語の本章では”あら探しをする”。甲骨文・金文・古文には見られない文字で、戦国時代の秦の竹簡に見られる。この系統の文字が帝国時代の漢字の元となったことから、この言葉が新しいものであることを想像できる。
『学研漢和大字典』によると「彳(いく)+(音符)敫(ケキ)」の形声文字で、敫は皦(キョウ)(白い)の原字だが、ここでは単なる音符。徼は、引き締めて取り締まって歩く意。また、絞りあげる意から、むりをしてもとめる意を派生した、という。詳細は論語語釈「徼」を参照。
定州竹簡論語の「絞」は”締る・くくる”こと。”そしる・いじめる”の語釈を『大漢和辞典』が載せるが、元ネタは論語泰伯編2に対する馬融の古注であり、どこまで信用していいかは判じかねる。ただギリギリ縛って問い詰める、という想像は許されて良いだろう。
初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。『学研漢和大字典』によると交は、人が足を交差させたさまを描いた象形文字。絞は「糸+(音符)交」の会意兼形声文字で、ひもを交差させて両方から引きしぼること、という。詳細は論語語釈「絞」を参照。
遜(ソン)→孫
(古文)
論語の本章では”控えめである”。甲骨文・金文・戦国文字には見られない言葉で、古文も字形がになったものが多い。上記の通り武内本や定州竹簡論語によると孫の字に書くが、意味は変わらない。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、孫(ソン)は「子+系(細い糸)」の会意文字で、細く小さい子ども(まご)をあらわす。遜は「辶(足の動作)+(音符)孫」で、細く小さくなって退くこと、という。詳細は論語語釈「遜」を参照。また論語語釈「孫」も参照。
訐(ケツ)
(古文)
論語の本章では”暴き立てる”。論語では本章のみに登場。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、干(カン)は、太いY型の棒を描いた象形文字で、幹(みき)の原字。その棒を前に突き出して敵を抑えつけながら進むこと。つっかかる、犯すなどの意を生じる。訐は「言+(音符)干」で、面とむかってことばでつっかかること、という。詳細は論語語釈「訐」を参照。
論語:付記
論語の本章について、武内義雄『論語之研究』では「文体に疑問がある章」として疑義を呈している。本章は文字的にも新しい箇所があり、「上に逆らうな」というお説教がいかにも帝国の役人風味であることから、訳者もまた孔子の肉声とは思えない。
なお清儒の黄式三は論語の本章にこと寄せて次のように書いている。大した事は言っていないが、枯れ木も山の賑わいなので載せておく。
集注徼訓伺察者漢書以巡察為行徼義相合也訐者發人細失誣人陰過也唐太宗以上書者多訐入細事立禁以讒人罪之此惡發人細失者也宋蔣之奇誣奏歐陽永叔陰事當時惡之者以陰事無可徵據而誣之也
朱子の『論語集注』に「徼」を”洞察”と解しているのは、『漢書』では巡察を「行徼」と書いているからで、語意がよく通じる。「訐」とは他人の過失を暴き立て、人の隠れた欠点をあげつらうことだ。
唐の太宗は、奏上して人のつまらない欠点を暴く者が多かったので、禁令を出して他人をおとしめる発言を罰したが、これは他人の小さな誤りを言い立てる者を嫌ったからである。
北宋の蒋之奇は、欧陽修の隠し事を暴いたが、このやり口を憎んだ当時の人は、他人の隠し事はそっとしておくべきで、それを種に落とし入れるのはよくないと考えた。(『論語後案』)
黄式三については、同じ清儒でも、早くから官界の出世を諦めた、引き籠もりの儒者だったらしいので、ホモの畢沅のような面白い話は伝わっていない(→論語陽貨篇2付記)。在野のまじめな学者と言うべきで、面白い生涯ではないが、『清史稿』の伝をざっと記しておく。
黃式三,字薇香,定海人。歳貢生。事親孝,嘗赴鄕試,母裘暴疾卒於家,馳歸慟絶。父老且病,臥床笫數年,衣食靧洗,必躬親之。比歿,持喪以禮,誓不再應鄕試。於學不立門戸,博綜群經,治易治春秋,而尤長三禮。論禘郊宗廟,謹守鄭學。論封域、井田、兵賦、學校、明堂、宗法諸制,有大疑義,必釐正之。有復禮説、崇禮説、約禮説。嘗著論語後案二十巻,自爲之序。他著有書啓幪四巻,詩叢説一巻,詩序説通二巻,詩傳牋考二巻,春秋釋二巻,周季編略九巻,儆居集經説四巻,史説四巻。同治元年,卒,年七十四。子以周,從子以恭,倶能傳其學。
黄式三、あざ名は薇香、浙江省・定海の出身である。科挙の一次試験に合格し、親孝行として有名になった。二次試験の会場に赴いたところ、急に母親が自宅で亡くなったので、急ぎ帰って震え泣いた。
父も年老いて目が悪くなり、床に伏せって数年となったので、式三が身の回りの世話をした。父が亡くなったとき、もう科挙に応じるのは止めようと決意した。引き籠もって学派にこだわらず勉強を始め、さまざまな経典を読み、『易経』『春秋』の疑わしいところに注を付けた。
とりわけ三種類の『礼記』によく通じた。禘・郊といった帝室主宰の祭礼を論じたが、そこでは後漢の鄭玄の説を重んじた。地方制度、税制、兵制、学校、国立礼拝堂、宗室制度などについて多くの疑問点を挙げ、必ず自分の正しいと思う修正案を記した。『礼記』の古代の姿を復元し、その価値の高さを世に示し、また解り易く解説した。
また『論語後案』二十巻を著し、自文で序文を書いた。他にも学問の入門書を四巻、『詩経』の解説を一巻、『詩経』の序文の解説を二巻、『詩経』にまつわる伝説の解説書を二巻、『春秋』の訳を二巻、『周季編略』を九巻、『儆居集経説』四巻、『史説』四巻を書いた。
同治元年(1862)に世を去った。74歳だった。子に以周がおり、幼い頃から控えめで、父の学問をよく受け継いだ。(『清史稿』巻482黄式三)
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