論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰不得中行而與之必也狂狷乎狂者進取狷者有所不爲也
- 「狷」字:〔肙〕→〔䏍〕。
校訂
諸本
- 武内本:孟子尽心下孔子の語を引く中行を中道に作り狂狷を狂獧に作る。道行同義狂狷狂獧同音相通。
東洋文庫蔵清家本
子曰不得中行而與之必也狂狷乎/狂者進取狷者有所不爲也
- 「狷」字:〔肙〕→〔䏍〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「不得中行[而與之,必]也狂狷乎!狂者進351……者有a不為也。」352
- 今本有下有”所”字。
標点文
子曰、「不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有不爲也。」
復元白文(論語時代での表記)
狷 狷
※論語の本章では、「狷」字が論語の時代に存在しない。「行」「必」「乎」「也」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、中らの行ひを得而之に與せずんば、必ず也狂ひ狷な乎。狂へる者は進んで取り、狷ななる者は爲さざる有る也/也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「片寄らない生き方を知ってそれに従うのでなければ、必ずもの狂いか、ひねくれ者になれ。もの狂いは熱狂的に目標を取り、ひねくれ者は何があろうとしないことがある。」
意訳
生き方は、片寄らないのが一番いいが、それが出来なければ、もの狂いかひねくれ者になりなさい。もの狂いとは、「これを絶対にやるぞ!」という人であり、ひねくれ者とは「これは絶対にやらないぞ!」という人だ。
従来訳
先師がいわれた。――
「願わくば中道を歩む人と事を共にしたいが、それが出来なければ、狂熱狷介な人を求めたい。狂熱的な人は志が高くて進取的であり、狷介な人は節操が固くて断じて不善を為さないからだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「我找不到中庸的人交往了,衹能與狂妄或拘謹的人交往。狂妄者膽大妄為,拘謹者膽小怕事。」
孔子が言った。「私は探し回ったが中庸を心得た人と付き合えなかった。ただもの狂いや潔癖症と付き合えたに過ぎない。もの狂いとは大ほら吹きで、潔癖症とは少々のことにすぐ飛び上がる肝を持つ者だ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
得(トク)
(甲骨文)
論語の本章では”得る”→”~できる”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。
中(チュウ)
「中」(甲骨文)
論語の本章では”中央”→”偏らない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行い”。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”共にある”→”同じ行動を取る”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章、「必也」では「や」と読んで詠嘆の意。「不爲也」では「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
狂(キョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”自分でやる”→”自分の信念を貫く人”。初出は甲骨文。同音に「俇」(上)=”あわただしいさま”。近音にgi̯waŋに「王」(平/去)、「往」(上)、「迋」(去)=”ゆく”。去声の音は不明。甲骨文の字形は「止」”ゆく”+「斧」+「犬」で、その場に出向いて犠牲獣の犬を屠るさま。原義は”自分で”・”近くで”。甲骨文で”近い”・”近づく”、金文で人名での用例がある。詳細は論語語釈「狂」を参照。
狷(ケン)
(篆書)
論語の本章では”これを絶対にしない、というかたくな者”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は〔犭〕+音符〔肙〕。文献では論語の本章に見えるほか、「上海博物館蔵戦国楚竹簡」に近似の字形〔肙犬〕〔月口犬〕が「狷」と釈文されている。詳細は論語語釈「狷」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本では”~ではないか”。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。「者」の旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
進(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”進んで~する”。初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。
取(シュ)
(甲骨文)
論語の本章では”取る”→”行う”。初出は甲骨文。字形は「耳」+「又」”手”で、耳を掴んで捕らえるさま。原義は”捕獲する”。甲骨文では原義、”嫁取りする”の意に、金文では”採取する”の意(晉姜鼎・春秋中期)に、また地名・人名に用いられた。詳細は論語語釈「取」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”ある”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
所(ソ)→×
現存最古の論語本である定州竹簡論語は「有」の下に「所」字を記さず、唐石経・清家本は記す。時系列に従い無いものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では”ものごと”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章、「狷」字の春秋時代における不在はどうにもならず、文字史的に後世の創作と判断せざるを得ない。ただし後世の儒者が偽作する動機も見当たらず、あるいは史実の可能性もある。今後の発掘を待ちたい。
解説
中道=中庸は、論語の一大概念で、孔子の教説の中心の一つと言っていいのだが、その定義を明瞭にやってのけた人間は、孔子を含めてこれまでただの一人もいなかった。『礼記』の中庸篇が、のちに独立して科挙の試験科目になるほど、重視されていたにもかかわらずである。
北京故宮の正殿の一つ、中和殿にも論語→書経から取った「允に厥の中らを執れ」との看板が掛かっている。中庸とは”ほどほど”のことだが、「ほどほどにしなさい」という説教はどんなバカにでも言える。だがどういう状態がほどほどかは、孔子ですら説明できなかった。
なぜなら中庸とは、うまく行った後になってから、それに至る過程をそう呼んだのであり、事前や渦中では、原理的に分からない。標準偏差やベルカーブを知っている現代人にしたところで、データが揃ってから片寄りや中央値を指摘出るに過ぎず、未来永劫分かるまい。
まして中国の儒者は科挙の状元(首席合格者)でも、数理的知識や思考力は皆無だったから、漢儒がでっち上げた『中庸』を読めば、分かるのではないかしらん、と思っていただけ。そんなもので分かるわけがなく、そのハッタリを真に受けた日本の漢学教授にも、中庸がわかっている者は一人も居ない。ためしにΣや∫を示してやるとよい。たいてい怯えて黙るはずだ。
さらに孔子も中庸を分かっていなかった事実を、このように告白している。
子曰く、中庸之德爲る也、其れ至れる矣乎。民鮮かに久み矣。
ほどほどが一番いい。戦乱や天変地異にも拘わらず民が生き残っているのは、明らかにその効果だ。(論語雍也篇29)
※「鮮」に”すくない”の語義は、春秋時代以前には確認できない。
これは生き残った後になって、その理由を中庸に押し付けているのだが、では今後はどうすれば生き残れるか孔子に問うたところで、答えられなかったに違いない。だから孔子は本章のように、博奕に当たった者はそれでいいが、当たるとは限らないから狂狷を勧めたわけだ。
孟子も狂狷を説明しているが、孔子と定義が若干違うようだ。
其志嘐嘐然,曰『古之人,古之人』。夷考其行而不掩焉者也。狂者又不可得,欲得不屑不潔之士而與之,是獧也,是又其次也。
口先で大法螺を吹き、二言目には「昔の人は」と言い回る者がもの狂いだ。もの狂いのやることなすことを観察すると、言っている事が全然やれていない。だがそのもの狂いすら見つからないなら、仕方がないから潔癖症の者と付き合う。これが獧(=狷)者だ。これはもの狂いより一段落ちる。(『孟子』尽心下83)
孔子の言った「狂」は口先とは関係無しに、やりたいことをやる者であるはずが、孟子の言う「狂」は、ただのほら吹きに落ちている。そして「獧」については、これ以外の説明を一切していない。なお別伝では、孔子は次のように「狷」を説明している。
子貢曰:「陳靈公宣婬於朝,泄冶正諫而殺之,是與比干諫而死同,可謂仁乎?」子曰:「比干於紂,親則諸父,官則少師,忠報之心,在於宗廟而已。固必以死爭之,冀身死之後,紂將悔寤,其本志情在於仁者也。泄冶之於靈公,位在大夫,無骨肉之親,懷寵不去,仕於亂朝,以區區之一身,欲正一國之婬昏,死而無益,可謂狷矣。《詩》曰:『民之多僻,無自立辟。』其泄冶之謂乎?」
子貢「陳の霊公は、家臣ともども夏姫の下半身での”兄弟”になり、お互いその下着をかぶって朝廷に出るようなバカ殿でしたが、家老の泄冶が”いい加減になされ”と諌めたのを、殺してしまいました。殷の比干も紂王を諌めて殺されましたが、どちらも立派な貴族と言えますか?」
孔子「比干は紂王にとって叔父さんであり、後見役でもあったから、殷王朝滅亡を誰より憂いて、紂王が目覚めるためなら、死んでもいいと思っていた。つまり根っからの貴族と言ってよい。
一方泄冶は霊公にとってただの家老であり、身内でも何でもない。霊公に気に入られたくて、乱れた朝廷に仕えたのであり、何の背景も背負わないのに意見した。死んでも何にもならなかったから、ただの狷=犬死にと言うべきだ。詩経に言うだろう、”どいつもこいつも馬鹿者ばかりなら、世間で正義を言い立てたりするな”と。泄冶にはこの道理が分からなかったようだがな。」(『孔子家語』子路初見6)
余話
(思案中)
コメント