論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰君子和而不同小人同而不和
改訂
東洋文庫蔵清家本
子曰君子和而不同小人同而不和
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、君子、和而不同。小人、同而不和。
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章では、「和」「同」字の用例に疑問がある。
書き下し
子曰く、君子は和み而同まず、小人は同み而和まず。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「貴族は(相手と)調和するが(意見を)同じにしない。平民は(意見を)同じにするが(相手と)調和しない。」
意訳
貴族たる者には主体性が必要だ。だから相手の調子に合わせてつまらない争いは避けるが、意見の違いはあって当然と認めている。しかし平民は主体性がないから、相手の意見にすぐ同意してしまうが、調子を合わせてやることはできないから、「話が違う」とすぐケンカになる。
従来訳
先師がいわれた。
「君子は人と仲よく交るが、ぐるにはならない。小人はぐるにはなるが、ほんとうに仲よくはならない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「君子和睦相處而不同流合污,小人同流合污而不能和睦相處。」
孔子が言った。「君子は穏やかに互いと付き合い、つるんで悪さをしないが、小人はつるんで悪さをし、穏やかに互いと付き合わない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では”貴族”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
和(カ)
(金文)
論語の本章では”調子を合わせる”。この語義は春秋時代では確認出来ない。機嫌を取るのではなく、相手の態度に合わせて応対すること。初出は春秋末期の金文。字形は「禾」”イネ科の植物”+「口」。「和」と「禾」は上古音同じ。原義は食糧が十分行き渡ったさま。「ワ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。詳細は論語語釈「和」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そしで”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
同(トウ)
(甲骨文)
論語の本章では”同じにする”。意見や感想を相手と同じにすること。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。甲骨文・金文の字形には下部の「𠙵」を欠くものがある。上部は人がかついで乗るこしで、貴人が輿に乗って集まってくるさま。原義は”あつまる”。甲骨文では原義に、また「興」の略字として”おきる”の意に用いた。金文では原義のほか、戦国の金文では”そろえる”の意に用いた。詳細は論語語釈「同」を参照。
『字通』によると金文以前の字体は「凡+口」であり、『字通』のいう口=𠙵(祈祷文を入れた器)には賛成しがたいが、凡=盤”平たい器”はその通りだろうし、「会同のとき、酒を飲み、神に祈り誓ったものと思われ、会同の儀礼をいう」というのも頷ける。
いわゆる日本史で言う一味神水であり、酒を回し飲むことによって結束を固める=意見を同じくするのはあり得ることだ。日本史と中国史の安易な混同は控えるべきだが、神水や酒や茶や煙草など、何かしら精神に作用を及ぼすものを共に摂取することによって和合を図るのは、西洋の乾杯儀礼やネイティブアメリカンの煙草の回し飲みなど、人類に普遍的な現象と言っていいだろう。
小人(ショウジン)
論語の本章では”平民”。孔子の生前、仮に漢語に存在したにせよ、「小人」は「君子」の対となる言葉で、単に”平民”を意味した。孔子没後、「君子」の意が変わると共に、「小人」にも差別的意味合いが加わり、”地位身分教養人情の無い下らない人間”を意味した。最初に「小人」を差別し始めたのは戦国末期の荀子で、言いたい放題にバカにし始めたのは前漢の儒者からになる。詳細は論語における「君子」を参照。
「君子」の用例は春秋時代以前の出土史料にあるが、「小人」との言葉が漢語に現れるのは、出土史料としては戦国の簡書(竹簡や木簡)からになる。その中で謙遜の語としての「小人」(わたくしめ)ではなく、”くだらない奴”の用例は戦国中末期の「郭店楚簡」からになる。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
(甲骨文)
「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、置換字を用いることなく全文が春秋時代に遡れ、史実の孔子の発言としてよいが、「君子」と「小人」を対比して論じること、「和」”調和”・「同」”同一化する”の用法、ともに戦国時代の竹簡から見られ、春秋時代には見られないことから、あるいは戦国時代の作である可能性がある。
解説
現代日本語で「同調」と言えば意見まで相手と同じにしてしまうことだが、論語の本章で「和」というのは、相手の立場や状況を見抜いた上で、聞くべきは聞き、うべなえない事には従わないことで、態度の表明以前の下地が相手と同調していることを指す。
最初から結論を決めてしまっている相手と交渉するには、従わせるだけの餌か恐怖を必要とするように、平時には政争の場、戦時には戦場に立つことを義務づけられている春秋の君子にとって、口論も格闘もまず相手を知り、それと調子を合わせることが必要だった。
武道の経験者にはご存じだろうが、戦いたくない=関わりたくない相手とは調子を合わさず、「やる気の無さ」が相手のみならず周りの有段者にもありありと分からせることが出来る。言葉一つ交わさず、調子によって意思表明・疎通することは出来るわけだ。
春秋の君子は命令する立場であり、自分で自分の言動を決められる立場にある。他文明圏でいう自由民以上の存在で、それだけに意思決定できる主体性を必要とした。平民から君子=貴族へと成り上がるための孔子塾、その教師である孔子は、当然弟子に主体性を持つよう指導した。
だから本章は、誤解されやすいとも言える。「何事もお平らに」と言い回る小者のたわごととは、全く次元を異にしているからだ。「和」とはそんなお花畑ではないことを、別伝が示している。
鄭子產有疾,謂子太叔曰:「我死,子必為政。唯有德者能以寬服民,其次莫如猛。夫火烈,民望而畏之,故鮮死焉。水濡弱,民狎而翫之,則多死焉。故寬難。」子產卒,子太叔為政。不忍猛、而寬。鄭國多掠盜。太叔悔之,曰:「吾早從夫子,必不及此。」孔子聞之,曰:「善哉!政寬則民慢,慢則糺於猛;猛則民殘,民殘則施之以寬,寬以濟猛,猛以濟寬,寬猛相濟,政是以和。《詩》云:『民亦勞止,汔可小康。惠此中國,以綏四方。』施之以寬。『毋縱詭隨,以謹無良。式遏寇虐,慘不畏明。』糺之以猛也。『柔遠能邇,以定我王。』平之以和也。又曰:『不競不絿,不剛不柔;布政優優,百祿是遒。』和之至也。」子產之卒也,孔子聞之,出涕,曰:「古之遺愛也。」
鄭の名宰相・子産が死病の床に就き、遺言を子太叔に言った。
「わしはもうすぐ死ぬ。後釜は君が継ぐだろう。だから言っておく。ぬるい統治はよほどの腕利きだけが出来ることで、凡人は厳しい統治を心掛けねば民が言うことを聞かない。誰もが火を恐れるのと同じだ。だから焼け死ぬ者はそれほどはいない。だが一見穏やかに見える水に溺れて、死ぬ者は多い。よいかな、ぬるい統治をしてはいかんぞ。」
子産が世を去り、子太叔があとを継いだが、「むごいお人じゃ」と言われるのが嫌で、ぬるい統治を行った。するとあっという間に、鄭国では盗賊が横行するようになった。太叔曰く、「ああ、子産どのの言った通りにしておけばよかった。」
伝え聞いた孔子「全くその通りだ。ぬるい統治では民がつけ上がる。つけ上がったらギリギリ厳しく縛る。厳しすぎると民が弱る。弱ったらまたぬるくしてやる。ぬるいのが厳しさを救い、厳しさがぬるさを救うのだ。どちらもかたより無く揃って、やっと政治が”和”になる。
詩経に言う。”民が弱っている。少しはぬるくして欲しい。中華も蛮族ももろともに”と。これはぬるさの効果を言ったのだ。また言う。”言い逃れを見逃さず、愚か者どもを震え上がらせ、馬鹿者どもを大人しくさせるのだ”と。これは厳しさの効果を言ったものだ。
また言う。”蛮族を大人しくさせ、領民を教育し、それで王位が安定する”と。安定には「和」が必要なのだ。また言う。”争わない、求めない。いかつくもないしヤワでもない。政治に余裕があってこそ、天の恵みは訪れる”と。これが”和”の窮極だ。」
子産が亡くなると、伝え聞いた孔子は、涙を流してしのんだ。「そのかみ洛邑留学の途中、本当によくして下された。」(『孔子家語』正論解12)
ところが案の定、儒者は古注も新注も、小人は利益を争うから和むことが出来ないのだ、と書いた。つまりは論語の本章を誤解した。利益を争わずに済む者は原理的に存在しないから、論語の本章を絵空事にする感想と断じてよい。
古注『論語集解義疏』
子曰君子和而不同小人同而不和註君子心和然其所見各異故曰不同小人所嗜好者同然各爭其利故曰不和也
本文「子曰君子和而不同小人同而不和」。
注釈。君子は心穏やかに人と付き合うが、意見はそれぞれ違っている。だから「不同」なのだ。小人は好みが皆似ているが、互いに利益を争うから、「不和」なのだ。
新注『論語集注』
和者,無乖戾之心。同者,有阿比之意。尹氏曰:「君子尚義,故有不同。小人尚利,安得而和?」
和とは、はねのけ背く心がないことを言う。同とは、機嫌を取って横並びになることを言う。
尹焞「君子は正義を尊び、だから同じでないところがある。小人は利益を尊ぶから、どうやって和むことがあろうか?」
尹焞は北宋滅亡の際、家族を皆殺しにされ、自分も大けがを負って一時人事不省となり、弟子が担ぐ戸板に載せられて山に逃げ、何とか蘇生したという(『宋史』尹焞伝)。新注の儒者の中では比較的ひどい目に遭った人物だが、高慢ちきや絵空事からは離れられなかったようだ。
それとも遭難前の作文だろうか?
話を論語に戻し、「儲かるなら露払いだってやる」(論語述而篇11)と言ってのけた孔子の視点に立てば、君子だろうと小人だろうと、大いに利益を争ってよいのである。ただし、無能なうちはつまらない争いをすることになる、だから精出して学び、稽古せよと弟子に言った。
それが本章の文意である。
余話
(思案中)
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