論語323子路篇第十三(21)中行を得て

論語子路篇(21)要約:孔子先生は、片寄らない生き方を弟子に勧めました。しかしともするとそれは、ただ流されるだけの生き方だったり、”ほどほど”という、極めていい加減な生き方になりかねません。そこで先生が説いた道とは…。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不爲也。」

書き下し

いはく、中行ちうかうこれあづからずんば、かなら狂狷きやうけん狂者きやうしやすすんでる、狷者けんしやさざるところあるなり

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逐語訳

先生が言った。「片寄らない生き方を知ってそれに従うのでなければ、必ずもの狂いか、ひねくれ者になれ。もの狂いは熱狂的に目標を取り、ひねくれ者は何があろうとしないことがある。」

意訳

生き方は、片寄らないのが一番いいが、それが出来なければ、もの狂いかひねくれ者になりなさい。もの狂いとは、「これを絶対にやるぞ!」という人であり、ひねくれ者とは「これは絶対にやらないぞ!」という人だ。

従来訳

先師がいわれた。――
「願わくば中道を歩む人と事を共にしたいが、それが出来なければ、狂熱狷介な人を求めたい。狂熱的な人は志が高くて進取的であり、狷介な人は節操が固くて断じて不善を為さないからだ。」

下村湖人『現代訳論語』

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不得中行而與之

論語の本章では、”偏らない中道の生き方に従う”。

伝統的には「中行を得てこれにくみせざるは」と読み下し、”中行を得た人と共に生きる”と解する。これは論語学而篇(14)の「有道に就きて正す」と同様に、ナントカ道=ナントカの道を心得た人、と解するわけ。

しかし学而篇は「人」と解釈しないと読めないからそうしただけで、「中行」はあくまでも”偏りがないこと”でしかない。従ってこの解釈では「人」を省いた。

論語 狂 金文大篆
(金文)

論語の本章では、”これをする、という信念に生きる人”。

『学研漢和大字典』での原義はむやみに走り回る犬、という。

一方『字通』では外出の前の儀式で、魂振りの意があり、神の力が与えられるのであろう。その霊力が獣性のもので、誤って作用し、制御しがたいものになることを狂という。古くから理性と対立する逸脱の精神として理解された。清狂・風狂なども、日常性の否定に連なる一種の詩的狂気を示す語であった、という。

論語 狷 金文大篆
(金文)

論語の本章では”これを絶対にしない、というかたくな者”。

『学研漢和大字典』によると犬+音符ケン(まるく縮む)の会意兼形声文字。小回りして、せかせかと走る犬。また、小さくわくをかまえて、その外に出ないこと。意味は気が短いさま。片意地なさま。きびきびして、感受性が鋭すぎるさま。

一方『字通』によると気が短いことを言う、とある。

論語:解説・付記

孔子は論語雍也篇29で「中庸の徳」を説いたように、個人的処世としては片寄らないことを弟子に勧めた。しかし孔子一門は革命政党でもあり、孔子自身はかなり過激な人でもあった。従って中道・中庸のような、定義が曖昧で他者に振り回されかねない”ほどほど”を目指すのでなければ、主体的に”これをする/やらない”という態度を勧めたと考える。

というのも、上記論語雍也篇で、中庸の徳を知った者は少ない、と言っているように、ある範囲の中で中庸を取ろうとすれば、つねにその範囲の上限・下限を認識しなければならないからで、しかもそれは刻々変わるから、頭を働かせることになれていないと、それこそ狂ってしまうから。

例えば現代社会で政治的中庸・中道の道を取ろうとすれば、その行動には一貫性が無くなる。ほんの20年前までは、独自の国防力を持つことそのものが違憲であり正義に反すると叫んでいた者が、今ではほとんど誰もそれを言わない。それは変節には違いないが、自身の変節をまじめに考えていれば、政治家など務まるものではないだろう。

しかし人間は環境の変化を変えられないし、論語時代ではなおさらで、それは当時の社会も同一だった。だとするなら変節を嫌ってもの狂いかひねくれ者になるか、変節するにしても主体的に変節する、つまり中庸の徳を身につけるかせよ、と孔子は説いたわけ。

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