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論語詳解328子路篇第十三(26)君子はやすらかに’

論語詳解328子路篇(26)要約:人は威張ると嫌われます。嫌われると分かっていてなぜ威張るのか。それは自信がないからです。孔子先生はそれに気付き、地獄のような差別に生きてきた新弟子の、心のわだかまりを解いてあげるのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰君子泰而不驕小人驕而不泰

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰君子泰而不驕小人驕而不泰

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

子曰:「君子大而不驕,小人驕而不大a。」358

  1. 君子大而不驕,小人驕而不大、今本”大”作”泰”。古通。

※カールグレン上古音は泰・大・太ともにtʰɑd(去)。

標点文

子曰、「君子、大而不驕。小人、驕而不大。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 君 金文子 金文 大 金文而 金文不 金文喬 金文 小 金文人 金文 喬 金文而 金文不 金文大 金文

※「驕」→「喬」。

書き下し

いはく、君子もののふやすらかにしおごらず、小人ただびとおごやすらかならず。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「貴族は大らかだが憤激しない。凡人は憤激するが大らかでない。」

意訳

孔子 ぐるぐる
貴族は自分に自信があるものだ。だから余裕たっぷりとして、激情に駆られたり威張ったりする必要がない。対して凡人は虚勢を張って威張りたがるが、余裕なんぞはありはしない。つつけばすぐに飛び上がる。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「君子は泰然としている。しかし高ぶらない。小人は高ぶる。しかし泰然たるところがない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「君子坦蕩而不驕狂,小人驕狂而不坦蕩。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「君子はゆったりとしていておごり高ぶらず、小人はおごり高ぶってゆったりしない。」

論語:語釈

、「 () ()。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

君子(クンシ)

論語 貴族 孟子

論語の本章では”貴族”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

泰(タイ)→大(タイ)

論語の本章では”おおらか”。心理的余裕があって他人に求めることが少ないのをいう。現存最古の論語本である定州竹簡論語は「大」と記し、唐石経・清家本では「泰」と記す。時系列に従い「大」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

泰 晋系戦国文字 泰 字解
(秦系戦国文字)

「泰」の初出は秦系戦国文字。同音に大・太。従って”大きい”・”太い”の意を持つ場合にのみ、大・太が論語時代の置換候補となりうる。字形は「大」”人の正面形”+「又」”手”二つ+「水」で、水から人を救い上げるさま。原義は”救われた”→”安全である”。

『説文解字』や『字通』の言う通り、「太」が異体字だとすると、楚系戦国文字まで遡れるが、漢字の形体から見て、「泰」は水から両手で人を救い出すさまであり、「太」は人を脇に手挟んだ人=大いなる人の形で、全く異なる。詳細は論語語釈「泰」を参照。

大 甲骨文 大 字解
(甲骨文)

「大」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形は人の正面形で、原義は”成人”。春秋末期の金文から”大きい”の意が確認できる。詳細は論語語釈「大」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そしで”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

驕(キョウ)

驕 睡虎地秦墓竹簡 驕 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”おごり高ぶる”。現行書体の初出は秦系戦国文字で、論語の時代に存在しない。ただし論語の時代には部品で同音の「喬」と書き分けられていなかった。字形は「馬」+「喬」”たかい”。馬が跳ね上がったさま。詳細は論語語釈「驕」を参照。

小人(ショウジン)

論語 君子 小人
論語の本章では”平民”。孔子の生前、仮に漢語に存在したにせよ、「小人」は「君子」の対となる言葉で、単に”平民”を意味した。孔子没後、「君子」の意が変わると共に、「小人」にも差別的意味合いが加わり、”地位身分教養人情の無い下らない人間”を意味した。最初に「小人」を差別し始めたのは戦国末期の荀子で、言いたい放題にバカにし始めたのは前漢の儒者からになる。詳細は論語における「君子」を参照。

「君子」の用例は春秋時代以前の出土史料にあるが、「小人」との言葉が漢語に現れるのは、出土史料としては戦国の簡書(竹簡や木簡)からになる。その中で謙遜の語としての「小人」(わたくしめ)ではなく、”くだらない奴”の用例は戦国中末期の「郭店楚簡」からになる。

小 甲骨文 小 字解
(甲骨文)

「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。

人 甲骨文 人 字解
「人」(甲骨文)

「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、「君子」と「小人」の対比という点では後世の創作の可能性があるが、文字史的にはすべて春秋時代に遡れるので、史実として扱う。

解説

孔子塾生は、貴族へ成り上がろうとする平民がほとんどで、入門までに何度も貴族の「大」「驕」なさまを見てきただろう。だが見かけの姿は両者似ていても、内心まで見抜く者には、「大」が”裏付けのある大きさ”、「驕」が”裏付けのない大きさ”と知れた、というのを論語の本章は前提にしている。

漢語=中国語は元来一字一義で、字が異なれば意味が異なる、あるいは方言の違いがある。社会の底辺から宰相格に上った孔子は、その過程で両者の違いを見抜くようになったに違いない。だから今だ両者の違いが分からない弟子に、「大」と「驕」の違いを説いたのが本章ということになる。

余話

ふと従来訳の『現代訳論語』を見て思った。「泰然」と言われて現代の読者にどれだけ分かって貰えることか。下村先生の訳の初版は、wikipediaによると1954(昭和29)年とのことだが、当時は十分、読者に分かって貰えただろう。しかし現在ではむしろ、calmの方が通じるかも。

訳者は英語より漢文の方が得意という、現在では天然記念物(ぜひ指定して貰いたいものである)級の古物だが、敗戦後十年間程度なら訳者より漢文の読める人は町内に一人は居たかも知れない。だが21世紀の今、漢文を音読みしただけでは、それで現代語訳として通用はしない。

論語の本章は、孔子の人間観察の程度を示す一節で、人はなぜ威張るのかの答えでもある。素で美人の女性が、あえてすっぴんのまま通りを歩くのにも似ているかも知れない。対して男というのは虚勢を張りたがるように本能が命じるから、用もないのに不機嫌だったりする。

論語時代も同じだったろう。とりわけ孔子塾に入門してくる若者は底辺出身者が多く、身分差別やいわれのない屈辱にさらされた記憶が強烈だったろう。そんな弟子をまとめ上げるには、その不条理の原因を諭し、自分がそうなってはいけないことを教える必要があった。

これは論語の第一章の解釈にも関わる事だが、そういった言わばひねくれた弟子が多い中で、孔子が心のわだかまりを解いてやらねば、学級崩壊が起こる。それで済めばいい方で、稽古用の武器を持ちだして刃傷沙汰まで起こりかねない。だから孔子が「小人」差別を言う理由がない。

経験の浅い教師なら、事後に罰することで止めるのだろうが、漢方と同様、まだ病にならない前に収めてしまうのが上手というものだ。顔淵子貢といった、奇蹟のような能力を持った弟子が、なぜ孔子の下を離れなかったのか、その理由の一つが論語の本章にあるように思う。

従って論語の本章は前章と同様、君子を持ち上げ小人をけなしてはいるものの、史実と言ってよいと思う。孔子が新弟子に「小人としての君はこうだったかも知れないが、稽古して貴族になればこうなり、悩みや不安から解放される」と言った説諭なら、あり得る話だからだ。

心の平安と驕=激情や空威張りについて、別伝は次のように言う。

孔子遭厄於陳、蔡之閒,絕糧七日,弟子餒病,孔子絃歌。子路入見曰:「夫子之歌,禮乎?」孔子弗應,曲終而曰:「由來!吾語汝。君子好樂,為無驕也;小人好樂,為無懾也。其誰之子,不我知而從我者乎?」子路悅,援戚而舞,三終而出。明日,免於厄,子貢執轡,曰:「二三子從夫子而遭此難也,其弗忘矣!」孔子曰:「善惡何也?夫陳、蔡之閒,丘之幸也。二三子從丘者,皆幸也。吾聞之,君不困不成王,烈士不困行不彰,庸知其非激憤厲志之始於是乎在。」

孔子 子路 あきれ
孔子一行が陳・蔡国あたりで包囲されて、食料を七日断たれた。弟子は飢えて寝込んだが、孔子は一人チンチャカ琴を弾いていた。

子路がうんざりして問うた。「先生、そりゃ貴族らしい振る舞いと言えますか?」孔子は構わず黙って弾き続け、一曲終えてから言った。

「子路、ちょっと来なさい。話がある。貴族が音楽を好むのは、激情を鎮めるため、小人が好むのは、恐怖を紛らわすため。そんなことはいつも言い聞かせているだろうに、それでもワシの弟子かね?」

聞いた子路は喜んで、孔子の琴に合わせ、手斧を持って舞い始めた。三度舞って「失礼します」と孔子の前を下がった。翌日、包囲が解けた。孔子の馬車の手綱を執った子貢が言った。「みんな先生と、辛い経験を共にしました、いつまでも忘れないでしょう。」

孔子「うむ、だが人にとっての善し悪しとは何だろうな。こうして包囲されたのは、ワシにとってはよい経験だった。諸君等みんなにとっても幸いだった。なぜなら昔から言うだろう、”王家に生まれても苦労しなければ王になれない。勇士も苦労せねば名が挙がらない”と。こたびの苦労を経なければ、この程度のことで激情に駆られるべきではない、と思い知ることがなかっただろうよ。」(『孔子家語』困誓4)

激情に駆られる=怒りは怒るべき時に、怒るべき相手に怒って、そして勝って帰らねばならない。用も無いのに怒って、つまらない負け方をするから、人は心に鬱がたまる。勝てない相手とも戦わねばならないときはあるが、それは己の修業・修行不足だと、納得して負けられる。

驕りとはつまり、用も無いのに威張ってみせる行為であり、自信のなさの表れだ。孔子が塾の必須科目として武術を課したのも、一つは仕官のためだが、このことわりを理解させるためでもあろう。

『論語』子路篇:現代語訳・書き下し・原文
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