論語詳解223子罕篇第九(19)たとえば山をつくるが

論語子罕篇(19)要約:教育者であった孔子先生は、積み重ねの重要さを知っていました。それは政治も同じ事。日常の小さな積み重ねは、小さくとも後の大きな成功に近づくのです。その心得を、あるいは革命の志士たちに説いた一節。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「譬如爲山。未成一簣、止吾止也。譬如平地。雖覆一簣、進吾往也。」

書き下し

いはく、たとへばやまつくるがごとし。いまらざること一なるに、むはなりたとへばたひらかにするがごとし。一くつがへすといへども、すすむはなり

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子 肖像
先生が言った。「例えば山を造るようなものだ。あと一かご土を盛るだけになって、そこで止めたら自分が止めたのだ。例えば地面を平らにするようなものだ。わずか一かご土を掘るなら、それは自分が進めたのだ。」

意訳

同志諸君!

論語 君子 諸君 孔子
革命とは山を築くようなものだ。たった一かごの土が足りなければ、それで終わりだ。
革命とは地をならすようなものだ。たった一かご土を取り除けば、革命はそれだけ成功に近づく!

従来訳

論語 下村湖人

先師がいわれた。――
「修行というものは、たとえば山を築くようなものだ。あと一簣というところで挫折しても、目的の山にはならない。そしてその罪は自分にある。また、たとえば地ならしをするようなものだ。一簣でもそこにあけたら、それだけ仕事がはかどったことになる。そしてそれは自分が進んだのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

譬(ヒ)

論語 譬 金文大篆 論語 螺旋階段 譬
(金文)

論語の本章では”たとえるなら”。『学研漢和大字典』による原義は、真っ直ぐ言わず、脇道を通って遠回しに言うこと。

簣(キ)

論語 簣 金文大篆 論語 簣
(金文)

論語の本章では”もっこ”。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、貴は「両手でもっこをかつぐさま+貝(品物)」の会意文字。簣は「竹+(音符)貴」で、貴の原義をあらわす、という。

日本のもっこは棒を通して二人で担ぐが、中国のもっこは一人で背負ったらしい。

論語 吾 金文 論語 吾
(金文)

論語の本章では”自分が”。

『学研漢和大字典によると会意兼形声文字で、「口+(音符)五(交差する)」。語の原字だが、我とともに一人称代名詞に当てる。▽古くは吾はおもに主格と所有格に用い、我はおもに目的格に用いた。ただし「不吾知=吾ヲ知ラズ」のような代名詞を含む否定文では吾を目的格に用いる。

孔子は一人称としては、「予」を用いたことが多い。目下に対する自称で、弟子相手の言葉。ここでは「吾」になっているから、孔子は自分がもっこ担ぎする気はないのである。

詳細は論語語釈「われ」を参照。

論語:解説・付記

論語の本章も、孔子の遺言に近い最晩年の発言と思いたい。

論語 斉景公
孔子の政治革命論は、論語の記録にある限り、孔子30歳の時魯を訪れた斉の景公と対談したときから始まっている(論語顔淵篇11)。「君君、臣臣、父父、子子」。それぞれが「らしい」ことを孔子は求め、言い換えると孔子の目に論語時代人は、らしくないのばかりだった。

その後五十代前半で魯の政治に関わり、失脚して仕えるにふさわしい主君を求めて放浪したが、63歳の時に楚の昭王への仕官話が失敗した後、孔子は仕えることを諦めた。第二の戦略として取ったのが、呉国を背後からあやつって、中原に打って出させることだった。

それが失敗したのは、孔子70歳の時、大軍を率いて晋と対峙していた呉が、留守を越に襲われて大敗したことだったが、そこから孔子の死に至るまでは、三年足らずの時間しかない。論語の本章がその間のこととすると、孔子は過去の政治活動を振り返って言ったのだろう。

論語 孔子
だとすると意訳のような元気溌剌なアジ演説ではなく、後を託すように言ったのかも知れない。「諸君、我が遺志を継いで、太平の世を実現させてくれ。もっこ一杯土を盛っても山は高くなり、一杯掘っても山は低くなる。決して止むことのない道だ」と。

『列子』湯問篇「愚公山を移す」は、そうすると論語を踏まえた説話かも知れない。

「足りんで気の毒なのはお主の方じゃ。分からんかのう、わしが死んでも子がおる。子は孫を生む。孫もまた子を生むじゃろう。そうしてずっと働けば、しまいに山は無くなるじゃろう。何せ山はもう、伸びはせんからのう。こんなこと、隣の子供でも知っておるぞ。」

また論語の本章に似た言葉を中国古典より探すと、周代初期の言葉とされた以下に出会う。

為山九仞,功虧一簣。
山を為すに九ジンいさおを一に欠く。(『書経』旅獒篇)

「高さ九仞の山を築こうとしても、最後のもっこ一杯を盛らねばやり遂げたとはいえないぞ。」いわゆる「九仞の功を一簣に欠く」の故事成語の出典だが、『書経』のこの部分も後世の偽作と言われる。儒者の言葉を真に受けると恥ずかしい目に遭うという、これも一つの例。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶった○る。覚悟致せ。

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