論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子夏曰、「君子信而後勞其民、未信、則以爲厲己也。信而後諫、未信、則以爲謗己矣*。」
校訂
武内本:矣、唐石経也に作る。
書き下し
子夏曰く、君子は信あり而後其の民を勞ふ。未だ信あらざらば、則ち以て己を厲むると爲す也。信あり而後諫む。未だ信あらざらば、則ち以て己を謗ると爲す矣。
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逐語訳
子夏が言った。「役人は信用を作ってから管轄する民を労役に駆り出す。まだ信用がないと、必ず民はいじめられたと思う。信用を作ってから諌める。まだ信用がないと、必ず自分の悪口を言ったと思うに違いない。」
意訳
子夏「信用もないのに民を労役に駆り出すな。悪代官として怨まれるぞ。信用もないのに殿様の欠点を言うな。ただの悪口だと思われて危ないぞ。」
従来訳
子夏がいった。――
「君子は人民の信頼を得て然る後に彼等を公けのことに働かせる。信頼を得ないで彼等を働かせると、彼等は自分たちが苦しめられているように思うだろう。また、君子は君主の信任を得て然る後に君主を諌める。まだ信任されないうちに諌めると、君主は自分がそしられているように思うだろう。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子夏
論語では、孔子の若い弟子で孔門十哲の一人、卜商子夏を指す。
君子
(金文)
論語の本章では、為政者階級の末端である役人を指す。孔子塾生の志望でもあった。詳細は論語語釈「君子」を参照。
信
(金文)
論語の本章では、動詞として”信用がある・信頼される”。他人に対して嘘をつかない「まこと」ではなく、信頼の意味として「よせ」と読む。伝統的な読み下しでは「信ぜらる」と受け身に読んでいるが、原文には受け身を示す記号がないため、「信あり」と動名詞化して読んだ。
勞(労)
(金文)
論語の本章では”労働させる”。中国の税はつい最近まで、穀物・貨幣など財貨で取り立てるのと、労役を課すのとの二本立てだった。伝統的には「労す」と読み下すが、音読みのままで済ませるのは訓読とは言い難く賛成しない。
則以爲厲己也
「厲」(金文)
論語の本章では、”自分に辛く当たると必ず思う”。思うのは伝統的に「民」と解するが、主語が明示されていないので、ひどく分かりづらい。
「厲」は激しくこすり削る砥石のことで、牡蠣の殻でガリガリと肌をこするように、辛い目に遭わせること。
信而後諫
「諌」(金文)
論語の本章では、”信用が出来た後で(主君を)諌める”。ここも主語がないので文意が明瞭でない。
則以爲(為)謗己矣
「謗」(古文)
論語の本章では、”(主君は)自分の悪口を言うのだときっと思うに違いない”。ここも主語がないので文意が明瞭でない。「則」はAならば必ずBの意で、「レバ則(ソク)」といわれるように、順接の仮定条件の文で多く用いる。
「以為」は漢文では熟語として「おもえらく」と読み、”思うことには・考えてみると”と解するが、「以って~と為す」と返り読みする場合との判断基準は明悪でない。ただ全ての「おもえらく」は「以って~と為す」と読めるが逆はそうではない。
「謗」は甲骨文・金文には見られず、秦系戦国文字・古文から見られる。悪口を言う、言いふらすこと。『学研漢和大字典』によると「言+(音符)旁(ボウ)(両わき、わきに広げる)」の会意兼形声文字で、榜(ボウ)(広げた板に書いて公示する)と同系のことば、という。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では”である”を意味する。断定の用法。原義は人の振り返った姿で、絶対こうだ、と言い切る語感を含む。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、役人には上下からの信用が大事であると教えたには違いないし、民と政府との信用はあった方がいいに決まっているが、その後の中国史にそのような効能は全くもたらさなかった。有力者の悪口は言わない、民は一揆を起こさない程度に絞る、へと落ち着いた。
当たり前の結果ではあるが、孔子が言おうと高弟が言おうと、歯止めにはならなかったのである。