論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰事父母幾諫見志不從又敬不違勞而不怨
※「敬」字:〔苟〕→〔茍〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰事父母幾諫/見志不從又敬不違勞不怨
- 「敬」字:〔苟〕→〔茍〕。
- 京大本・宮内庁本も「而」字なし。正平本なし。文明本あり。
後漢熹平石経
…志不…
定州竹簡論語
子曰:「事父母儆a諫,見志不從,有b敬c不[違,勞而d不怨]。74
- 儆、今本作「幾」。
- 有、今本作「又」。古文有・又可通仮。
- 皇本「敬」下有「而」字
- 而、高麗本無。
標点文
子曰、「事父母儆諫。見志不從、有敬不違、勞而不怨。」
復元白文(論語時代での表記)
志
※儆→敬・志→思・怨→夗。論語の本章は、「志」の字が論語の時代に存在しない。「事」「幾」「從」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、父母に事ふるには儆めながら諫めよ。志の從はれ不るを見ば、敬を有ち違は不、勞り而怨ま不れ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「父母の世話を務めるに当たっては、ものの言い方に気を付けながら意見を言え。もし自分の希望通りにならないのを見ても、それでも親を敬って(親の)望みに逆らわず、いたわって怨むな。」
意訳
年老いた親の世話は、思い通りにならないことが多い。それを覚悟した上で孝行に努めなさい。
従来訳
先師がいわれた。
「父母に仕えて、その悪を默過するのは子の道ではない。言葉を和らげてそれを諌めるがいい。もし父母がきかなかったら、一層敬愛の誠をつくして、根気よく諌めることだ。苦しいこともあるだろうが、決して親を怨んではならない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「父母有錯,要好言相勸,聽不進時,要尊重他們,要任勞任怨。」
孔子が言った。「父母が間違いをしたとき、やわらかな言葉で互いに歩み寄るようにせよ。聞き入れないときは、父母を重んじろ。どんなに手間が掛かり、怨みが積もってもだ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”臣従する”→”奉仕する”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。
父(フ)
(甲骨文)
論語の本章では”父”。初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。
母(ボウ)
(甲骨文)
論語の本章では”母”。初出は甲骨文。「ボ」は慣用音。「モ」「ム」は呉音。字形は乳首をつけた女性の象形。甲骨文から金文の時代にかけて、「毋」”するな”の字として代用もされた。詳細は論語語釈「母」を参照。
幾(キ)→儆(ケイ)
現存最古の論語本である定州竹簡論語は「儆」と記し、唐石経、清家本は「幾」と記す。時系列に従い、定州本に拠って「儆」へと校訂した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では”しずかに・おだやかに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。字形は「𢆶」”いと”+「戍」”人がほこを手に取るさま”で、「𢆶」は”ここ”の意があり、全体で”その場を離れず守る事”。春秋までの金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「幾」を参照。
漢文読解に当たっては、厄介な多義語だが、疑問辞”いくばく”と修飾辞”近い”と副詞”しずかに”を記憶しておくと、漢文読解のたいていは間に合う。
(戦国末期金文)
定州竹簡論語の「儆」は、論語の本章では”いましめる”。親の感情を害さぬよう、言葉使いや表情に気を付けながら、の意。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「敬」で、初出は甲骨文。字形は「亻」+「敬」で、「敬」は羊の角をかぶった異民族を後ろから棒で殴るさま。全体でいましめるさま。原義は”いましめる”。「敬」が”うやまう”意に転用されたため、「儆」が作字されたとされる。詳細は論語語釈「儆」を参照。
諫(カン)
(金文)
論語の本章では”意見する”。異体字は「諌」。初出は西周末期の金文。字形は「言」+「柬」で、字形からは語義を説明できない。原義は”とがめる”。金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「諌」を参照。
儆諫(いましめながらいさめよ)
「儆」の目的語を「諫」と同様”父母”と解して、”父母に気を付けるよう求め、間違いをしないようにと意見する”と解しても文法・語法的に誤りではない。「儆」の文献状の初出は戦国時代の『墨子』で、「共相儆戒」=共に相い儆め戒む、と天志篇にある。だが古注を編んだ儒者にとっては、「親をいましめるなんてとんでもない」と、勝手に「儆」を「幾」”かすか”に書き換えたようだ。
とんでもない連中だと、後漢儒の書き換えと偽善を重々承知しつつも、「有敬而不違、勞而不怨」=親が言うとおりにならなくても、怒ったりしないで、まめまめしく介護して怨まないように、とあるからには、「儆」の目的語を”自分”と解するのが理にかなっている。
なお日本古語「ながら」と「つつ」はどちらも、動作を並行して行うことを示し得るが、「ながら」が主に状態の維持を意味するのに対して、「つつ」は主に状態の反覆を意味するので、「AもBも同時に行う」を意味するには、「ながら」の訓読がより適切であると判断した。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”見る”→”様子を見て理解する”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”、”…される”の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
志(シ)
(金文)
論語の本章では”意志”。介護する子の意志のこと。『大漢和辞典』の第一義は”こころざし”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。
「志」は「忠」と同様に、戦国諸侯国が領民に忠義をすり込まないと生き残れなくなってから発明された概念で、論語の時代に存在しない。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
從(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”従う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。
又(ユウ)→有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”それでもなお”。初出は甲骨文。字形は右手の象形。甲骨文では祭祀名に用い、”みぎ”、”有る”を意味した。金文では”補佐する”を意味した。詳細は論語語釈「又」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語の「有」は、論語の本章では”し続ける”。そういう場合があっても、の意。「又」が去声に対して上声だが同音で、意味が通用する。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
敬(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”心から大事に思う”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
而(ジ)
定州本・唐石経は記し、清家本は記さない。定州本に従い、あるものとして校訂しなかった。現存最古の紙本の完本である宮内庁蔵論語注疏、新注は唐石経に従って記す。日本伝承論語では正平本(南北朝時代)までは記さず、文明本(室町時代。応仁の次)は記す。
(甲骨文)
論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
違(イ)
(金文)
論語の本章では”そむく”。親の希望通りにしないこと。初出は西周早期の金文。字形は「辵」”あし”+「韋」”めぐる”で、原義は明らかでないが、おそらく”はるかにゆく”だったと思われる。論語の時代までに、”そむく”、”はるか”の意がある。詳細は論語語釈「違」を参照。
勞(ロウ)
(甲骨文)
論語の本章では”苦労”→”努力する”。新字体は「労」。初出は甲骨文。ただし字形は「褮」-「冖」。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文の字形は「火」二つ+「衣」+汗が流れるさまで、かがり火を焚いて昼夜突貫工事に従うさま。原義は”疲れる”。甲骨文では地名、”洪水”の意に用い、金文では”苦労”・”功績”・”つとめる”の用例がある。また戦国時代までの文献に、”ねぎらう”・”いたわる”・”はげます”の用例がある。詳細は論語語釈「労」を参照。
怨(エン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”うらむ”。初出は楚系戦国文字で、論語の時代に存在しない。「オン」は呉音。同音に「夗」とそれを部品とする漢字群など。論語時代の置換候補は「夗」。現伝の字形は秦系戦国文字からで、「夗」”うらむ”+「心」。「夗」の初出は甲骨文、字形は「夊」”あしを止める”+「人」。行きたいのを禁じられた人のさま。原義は”気分が塞がりうらむ”。初出の字形は「亼」”蓋をする”+うずくまった人で、上から押さえつけられた人のさま。詳細は論語語釈「怨」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用せず、初出は定州竹簡論語か、あるいは漢代になって周代の礼法をでっち上げるために書かれた『大載礼記』に、膨らませた話があるに止まる。
單居離問於曾子曰:「事父母有道乎?」曾子曰:「有。愛而敬。父母之行若中道,則從;若不中道,則諫;諫而不用,行之如由己。從而不諫,非孝也;諫而不從,亦非孝也。孝子之諫,達善而不敢爭辨;爭辨者,作亂之所由興也。由己為無咎,則寍;由己為賢人,則亂。孝子無私樂,父母所憂憂之,父母所樂樂之。孝子唯巧變,故父母安之。若夫坐如尸,立如齊,弗訊不言,言必齊色,此成人之善者也,未得為人子之道也。」
弟子の単居離が師匠の曽子に質問した。「父母を介護する法はありますか。」
曽子「あるぞ。愛して敬え。父母の行いが過激でないなら、従え。過激なら、意見しろ。意見して聞き入れられないときは、自分で判断して行動しろ。おかしい親の言う通りヘイヘイと従うのは、孝行ではない。だが意見して親の言う得通りにしないのも、また孝行ではない。
孝行な子が親に意見するには、誰が聞いても善だと思うことを言い、親と口げんかしないものだ。口げんかは家庭崩壊の元になる。自分を振り返ってやましいところがないなら、おだやかに意見しろ。自分の言うことが全部正しいなどと思い上がると、家庭崩壊が起こるぞ。
孝行な子は、自分のつまらない自我を満たすために親に意見などしない。親が苦しく思う事を苦しいと思い、楽しく思う事を楽しいと思え。孝行者はそうやって親の気分を機敏に感じて態度を変えるから、親は安心するのだ。
型どおり、親の側で座るときは石地蔵のようで、立つときは肩肘を張り、黙ったまま放置して、意見の言葉が馬鹿丁寧な者は、大人らしい態度とは言えるが、人の子の道を心得ているとは言えない。(『大載礼記』曽子事父母1)
曽子を儒家の宗匠の一人に扱っていることから、この文はラノベと判定できる。論語の時代に於ける「志」の不在もどうにもならず、本章は戦国時代以降の儒者による創作と判断するほかない。
解説
上掲『大載礼記』で「親が過激なら意見しろ」と言いながら、現伝儒教の伝えでは曽子の親父・曽点はとんでもなく過激なサディストで、曽子はそのおやじ「の言う通りヘイヘイと従」っていたことになっている。
曽子が瓜畑を耕していたところ、うっかり瓜の蔓を切ってしまった。それを見た曽皙(曽点のあざ名)が真っ赤になって怒り、地面に突き立てておいたクワの柄を引き抜いて曽子の背中をぶん殴刂、倒れて意識不明になるまでやめなかった。その場に倒れた曽子はしばらく気を失ったままだったが、やがて息を吹き返すと嬉しそうに立ち上がり、家に飛んで帰って曽点に言った…。(『孔子家語』六本10)
詳細は論語の人物・曽参子輿を参照。また論語の本章の、『大載礼記』に次ぐ再出は、後漢初期の『白虎通義』に概要が記されている記事になる。
子諫父,不去者,父子一體而分,無相離之法,猶火去木而滅也。《論語》:「事父母,幾諫。」下言:「又敬不違。」臣之諫君何取法?法金正木也。子之諫父,法火以揉木也。臣諫君以義,故折正之也。子諫父以恩,故但揉之也,木無毀傷也。待放去,取法於水火,無金則相離也。
子が父を諌めて、それでも同居しているのは、父子が一体となりながら別物で、何か事情があって別居できないのだ。丁度木から火が出るのに、やがて火が木を焼き尽くすのと同じである。
論語に曰く、「事父母、幾諫」といい、下の句で「又敬不違」と言う。
臣下はどうやって主君を諌めるべきか? それは刃物で庭木を手入れするするようにすればよい。だから子が父を諌めるには、火で木を温めるようにすればよい。臣下が君主を諌めるに当たって従うべき道理は、あくまでも主君の政道を整えることを目指すべきだ。
子は父に感謝しているから、ひたすら温めるように意見を言う。火が木を焼き尽くすようなことはしない。親が無茶をするのが止まってから、水で火を消すように意見すれば、刃物で剪定するように円満な別居が出来る。(『白虎通義』諌諍10)
この文は、開祖の光武帝がオカルトに走った後漢らしい文章で、いわゆる五行説に基づいてものを言っている。木から火が生じ、火から土が生じ、土から金(属)が生じ、金から水が生じる関係を「相生」といい、生じた物が生じさせた物を損なう関係を「相剋」という。
この関係には異説がある上、どうしてそうなる、と問うても無意味だ。いずれオカルトだから。後漢の上流階級はこぞって、このオカルトに熱中していた。それゆえにもの凄くふざけた世の中になり、庶民はえらい目に遭わされたが、詳細は論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
現在の易者もこの五行を元に卦を立てているのだが、オカルトと承知するべきだろう。
諸君は貴族を目指すのであるから、迷信に惑わされてはならない。天命を占ったところで、信じるに足りる理由は何もない。他人を納得させるために占いの真似を見せはしても、自分が信じてどうする。(論語衛霊公篇37)
余話
坊主マシマシ
まずくだくだしさをかえり見ず論語伝承の系統図を示す。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
論語の本章の「而」の字は、日本伝承では正平本まで記されなかったが、本願寺坊主の手に成る文明本から記されるようになった。文明本は中国伝承にも無い勝手な改竄を行った箇所のある油断のならない本だが、本章の「而」字に限ってはしおらしく中国本を参照して訂正したように見える。
しかしそうでもないのは、唐石経や論語注疏(北宋)の「勞而不怨」だけでなく、「敬不違」まで「敬而不違」と書き換えたことで、やはり坊主の自己承認欲求は隠せなかった。これを受けて以降の足利本(1500-1578写?)、根本本(1750刊)も「敬而不違勞而不怨」と「而」を二つ記している。
この影響で日本伝承の論語は、現在広く流布している國譯漢文大成(大正11刊)系統の文字列に至るまで「而~而」のままだが、江戸時代の日本にとって先進国とはつまり中国で、しかも幕府の政策で新注が重んじられたから、早大蔵新注(1692刊)のように「勞而不怨」だけとしている本もある。
これは鎖国中も長崎を通じて盛んに漢籍の輸入があったからで、おそらく早大本より前に日本人は「而~而」の間違いに気付いていた可能性は高い。南宋版論語注疏が輸入されたからには、新注ももっと早く入っていておかしくないからだ。だが明治以降も「而~而」は改まっていない。
これはつまり、まじめに論語を読んだ漢学教授が、日本にほとんどいなかった事を示す。國譯漢文大成も服部宇之吉という帝大総長のお墨付きが付いちゃったもんだから、一般の読者は誰も疑わなかった。だが漢学教授が疑わないのは、仕事をまじめにしなかったと言われても仕方が無い。
- 論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」
なお上掲根本本は、いわゆる古注本だが、古注は中国では一旦一冊残らず亡失し、清代になって日本から逆輸入された。しかし「清帝室は野蛮人だ」と読めるような事が書いてあって、真っ青になった清儒が急いで書き換えた。その際のドタバタについては論語八佾篇5解説を参照。
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