論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子曰、「飽食終日、無所用心、難矣哉。不有博弈者乎、爲之猶賢乎已。」
書き下し
子曰く、飽くまで食らひて終日、心を用ゐる所無きは、難き矣る哉。博弈なる者有らず乎、之を爲すは猶ほ已む乎賢れり。
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逐語訳
先生が言った。「腹一杯食べて一日中、考え事をしないでいるのは、過ごしづらいものだなあ。碁や双六があるではないか、それで遊ぶのは何もしないでいるより優れている。」
意訳
腹一杯食べて、ボケーッと一日中ぼんやりしているのは退屈この上ない。囲碁将棋、双六などして遊ぶ方がまだましだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「たらふく食ってばかりいて、終日ぼんやりしている人間ほど始末におえない人間はない。雙六とか碁とかいうものもあるではないか。そんなつまらん遊びごとでも、何もしないよりは、まだしも取柄があるよ。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
飽食
「飽」(古文)・「食」(金文)
論語の本章では、”腹一杯食べる”。「食に飽くこと」と読んでも差し支えない。
人類史的立場から言えば、農業の開始以降、人のほとんどは腹一杯食べる経験をせずに生涯を送る者がほとんどだった。論語の時代ならなおさらで、穀物の相対的価値は非常に高価で、当時の主食作物・アワの1リットルは、現代日本の約1万円に相当する。
なお「飽」の字は甲骨文・金文・戦国文字には未発掘で、古文より見られるが、字体は・
・
など、さまざまにブレがあって一定していない。詳細は論語語釈「飽」を参照。
終日
(金文)
論語の本章では「ひねもし」と読んで”一日中”。「日を終えるに」と読んでも差し支えない。
無所用心
論語の本章では”全く何も考えない”。無(形容詞)→所(被修飾語)←〔用(動詞)-心(目的語)〕と解すべき構造の句で、「所無きに心を用ふ」(何に対しても用心する)と解しては意味が通じない。
×〔無→所〕主部-〔用S-心V〕述部
語順からは構造が決定できない漢文の一例で、漢文の解釈は最終的には読み手の気分次第という実態を改めて示す。
難矣哉
「難」(金文)
論語の本章では”過ごしづらいものだなあ”。「矣哉」を詠嘆の熟語として「かな」と読む例が多いが賛成できない。「矣」は人の振り返った象形であり、心から言い手がそう思っていることを表す助辞で、孔子は暇をもてあましてぼんやりしていることに絶えられなかったのだ。
古注では、暇をもてあますと良からぬ事をたくらむから「難し」と言い、新注では「難」に注すらつけていない。ただ暇をもてあますことを非難しているのみ。
不有~乎
「不有」(金文)
論語の本章では「あらずや」と読んで、”あるではないか”。
博弈(バクエキ)
「博」(金文)・「弈」(古文)
論語の本章では”碁を打つ”・”双六をして遊ぶ”とお上品に古来解する。しかし「博奕」の読みに「バクチ」があるように、”バクチ”と解してももちろんかまわない。「博」は”打つ”ことで、「奕」の解釈いかんによって意味が変わる。
『学研漢和大字典』によると「奕」は会意兼形声文字で、亦は、人の両わきをあらわす指事文字。同じものがもう一つある意を含む。奕は「大+(音符)亦(エキ)」。繹(エキ)(あとからあとからと続く)・駅(次次とかさなり続く宿場)などと同系のことば、という。
『字通』によると亦を人間の両脇とするのは同じで、両手を広げて立つさまの、大きく立派なことを言う、とある。
猶(ユウ)
論語の本章では、”それでもなお”。詳細は論語語釈「猶」を参照。
爲(為)之猶賢乎已
論語の本章では、”何もしないよりは優れている”。ここでの「乎」は、格助詞”~に・と”に相当する助辞。高校の世界史教科書で必ずといっていいほど引用される、訓民正音諺解本の画像に見られる「乎」と語法は同じ。
「国之語音、中国乎(と)異なれり。」
論語:解説・付記
論語の本章について、武内義雄『論語之研究』では異議を唱えていない。「博奕」の解釈を除いては、素直に読める一節で、文字の古さにも問題はなく、孔子の肉声と言っていいだろう。
コメント
[…] 腹一杯食べて、ボケーッと一日中ぼんやりしているのは退屈この上ない。囲碁将棋、双六バクチなどして遊ぶ方がまだましだ。(論語陽貨篇22) […]