論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子路曰、「君子尙勇乎。」子曰、「君子義以爲上。君子有勇而無義爲亂。小人有勇而無義爲盜。」
校訂
後漢熹平石経
…亂小人有…
定州竹簡論語
子路問a曰:「君子尚勇乎?」子曰:「君子義之b為尚c,君α547勇而無義為[亂,小人有]548……[義為盜]。」
- 問、今本無。
- 之、今本作”以”。
- 尚、今本作”上”。
- 原文では「君」の字に、簡の終了符号が付いていない。「君」の下に「子」が無いと文意が通じない。「子」があったなら、さらにその下に「有」があった方が前後の句が揃う。ゆえに訳者の判断で補う。詳細は語釈に記載。
※定州竹簡論語では、本章と次章は分割されていない。
→子路問曰、「君子尙勇乎。」子曰、「君子義之爲尙。君子有勇而無義爲亂。小人有勇而無義爲盜。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「乎」「之」「亂」の用法に疑問がある。
書き下し
子路問ふて曰く、君子勇を尙ぶ乎。子曰く、君子は義を之れ尙しと爲す。君子勇有り而義無からば亂を爲す。小人勇有り而義無からば盜みを爲す。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子路が言った。「貴族は勇気を尊びますか。」先生が言った。「貴族は筋目正しさを高い価値あるものとする。貴族に勇気があって筋目正しさがないと謀反を起こす。庶民に勇気があって筋目正しさがないと強盗を起こす。」
意訳
子路「貴族は勇気を尊ぶものでしょうか!」
孔子「違うな。それより筋が通るかが貴族の証しだ。筋が通らない勇気は、貴族だったら謀反のタネだし、庶民なら強盗のはじまりだ。」
従来訳
子路がたずねた。
「君子は勇をたっとぶものでございますか。」
先師がこたえられた。――
「君子にとって何より大事なのは義だ。上に立つ人に勇があって義がないと、反乱を起し、下に居る人民に勇があって義がないと盗みをする。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子路說:「君子提倡勇敢嗎?」孔子說:「君子以道義為上,君子如果勇敢而不講道義就會顛覆國家,小人如果勇敢而不講道義就會成為強盜。」
子路が言った。「君子は勇敢を心掛けるものですか。」孔子が言った。「君子は道徳的正義を優先課題にする。君子がもし勇敢で道徳的正義を重んじなかったら、必ず国家を転覆させることになり、小人がもし勇敢で道徳的正義を重んじなかったら、必ず強盗を始めることになる。」
論語:語釈
子路
論語では、孔子の最も初期の弟子、仲由子路を指す。一門の中では武人として知られたが、冉有・樊遅とは異なって、具体的な戦場働きの記録がない。孔子からは政治の才を評価され、魯国や衛国の地方長官として赴任した記録がある。
その実像は武将と言うよりむしろ腕利きの行世官で、魯国筆頭家老・季孫氏が根城の代官を任せただけでなく、隣国の衛霊公は、手の付けようが無かった言うこと聞かん蒲のまちを、孔子に付き合って放浪中の子路に任せ、それも代官ではなくいきなり領主に任じている。
子路は最初は手こずったが、孔子の教えを受けてのち、みごとに治めてみせた。
子路治蒲,見於孔子曰:「由願受教於夫子。」子曰:「蒲其何如?」對曰:「邑多壯士,又難治也。」
子路が蒲の領主になった。しばらくして孔子の滞在先に出向いて挨拶した。
子路「ほとほと参りました。」
孔子「蒲の町人のことじゃな? どんな者どもかね。」
子路「まちの武装したヤクザ者が、ぞろぞろと大手を振ってうろついていて、手が付けられません。」(『孔子家語』致思19。訳の続きは下記「孔門十哲の謎」で)
論語の人物・仲由子路を参照。また、孔門十哲の謎も参照。
君子
論語の本章では”貴族”。領主貴族のみならず、従軍義務がある代わりに参政権がある都市住民をも含む。孔子より一世紀後の孟子が、”道徳のある教養人”などという曖昧な語義をなすりつけるまでは、単に参政権がある者を意味した。論語における「君子」を参照。
尙/尚
(金文)
論語の本章では”尊ぶ”。初出は甲骨文。カールグレン上古音はȡi̯aŋ(去)。『学研漢和大字典』による原義は建物に設けられた通気用の穴から、空気が立ち上って抜けていくこと。上に上がることから、尊ぶの意が生まれたという。詳細は論語語釈「尚」を参照。
勇
(前漢隷書)
論語の本章では”勇気”。現伝字形の初出は前漢の隷書。部品で同音同訓同調の「甬」の初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』による原義は足を踏みならすように奮い立つさま。詳細は論語語釈「勇」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…か”と訳し、疑問の意を示す。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
君子義以爲上→君子義之爲尙
「義」(金文)
現伝論語の本章では「君子義もて上と為す」と読み、”君子は正しいかどうかを高度な判断の基準にする”。君子の徳目として「勇」を問う子路に対して、それより価値を置くべき徳目「義」がある、と孔子が優先順位を示した事になる。
「義」とは筋が通っていること、原則があることを言う。目新しかった「勇」に対して、甲骨文の昔からある言葉だが、道徳うんぬんは関係が無い。戦乱の春秋時代、道徳より生き延びうる判断力がものを言い、参政権=自分の判断力が求められる君子=貴族ならなおさらだった。詳細は論語語釈「義」を参照。
定州竹簡論語では、「君子義之れ尚しと為す」と読み、「~を…する」と訳す。倒置・強調の意を示す。詳細は論語語釈「之」を参照。
定州竹簡論語の「尚」ȡi̯aŋ(去)が現伝論語では「上」ȡi̯aŋ(上/去)になった理由ははっきりしないが、共に甲骨文から存在し、同音同義と言ってよい。ただ”たかい”を示すまでの道のりに、違いがあったということになる。詳細は論語語釈「上」を参照。
君子有勇而無義爲亂
定州竹簡論語の原文通りなら、「君勇而無義爲亂」であり、「君勇あり而義無からば乱を為さん」と読むべきなのだが、日本史の承久の乱に「上皇御謀反」はあったが、中国史で君主が反乱を起こすのは理に反するし、「君」の字に簡の終了端末記号が無い。
また定州竹簡論語の「紹介」によると、簡1枚に記された文字は19-21字だったという(『定州竹簡論語』日本語訳を参照。)原文のままなら簡547号は、「子路問曰君子尚勇乎子曰君子義之為尚君」の18字しか無かったことになり、加えて冒頭の「子」には開始の端末記号がある。
そして次の簡548号の頭、「勇」のは開始の端末符号が無い。従って現状の簡547号のうしろにあと2字「子有」があったか、次の簡548号にまたがって2字記されていたと考える状況証拠は十分に揃っている。
また対句となる「小人有勇而無義爲盜」との釣り合いを取るためには、「子有」が後ろに記されていなければならない。
- 君子有勇而無義爲亂。
- 小人有勇而無義爲盜。
子路問曰君子尙勇乎子曰君子義之為尚君子簡547号
有勇而無義爲亂小人有簡548号
義爲盜子貢曰君子亦有□子曰有□簡549号
ただし簡548号と549号にまたがる欠損部分には「勇而無」の3字しか無かったことになり、簡2枚の字数が少なすぎる問題は残るが、どうなっていたかは想像の手立てが無い。シュワルツシルト半径の向こうと同じである。
ただし定州竹簡論語の「凡例」によると、章を改める際には簡も改めた(紙本で言う改行)というから、そのような簡があってもおかしくはない。
亂(ラン)
(金文)
論語の本章では、”反乱”。新字体は「乱」。初出は西周末期の金文。ただし字形は「乚」を欠く「𤔔」。初出の字形はもつれた糸を上下の手で整えるさまで、原義は”整える”。のち前漢になって「乚」”へら”が加わった。それ以前には「司」や「又」”手”を加える字形があった。春秋時代までに確認できるのは、”おさめる”・”なめし革”で、”みだれる”と読めなくはない用例も西周末期にある。詳細は論語語釈「乱」を参照。
小人
論語の本章では”庶民”。従軍義務と参政権がある君子に対して、それらが無い者を言う。「小人」を”くだらない人間”という差別的意味で用い始めたのは、戦国末期の荀子で、激しく差別し始めたのは、前漢帝国の儒者からである。詳細は論語の社会「国野制」を参照。
盜
(金文大篆)
論語の本章では”強盗”。初出は甲骨文。スリ・置き引きのたぐいのこそ泥ではなく、武装して堂々と押し入り、財貨を奪う者を言う。論語の時代、諸侯国や領主の支配下に入らず流浪する者も、同様に盗と呼ばれて集団を作っていた。
白川静『孔子』によると、盗は元来支配層からは嫌われるはずが、論語の時代には権勢家の私兵に近い存在となり、半ば公認されていたという。詳細は論語語釈「盗」を参照。
論語:付記
論語の本章の史実性について、武内義雄『論語之研究』は疑義を挟んでいない。
儒家に対する現代の常識とはうらはらに、孔子生前の一門は、本を読んだり説教をしたりするだけの文弱集団ではなかった。むしろ武闘派の集団で、これは弟子が成り上がりを目指した君子=当時の貴族が、従軍義務を負っていたからだった(→論語における「君子」)。
そして「勇」は論語の時代、「甬」と区別されず書かれ、その原義は戦車の車軸に付けた、チンチンと音を立てる小さなベルだった(論語語釈「甬」)。
驀進する戦車と共に聞こえる勇ましい音に、「力」を描き加えて、そのような力を意味する「勇」の言葉が前漢帝国になって出来た。その語感を示すには、あるいはこのような音楽がふさわしかろうか(→youtube)。イントロあたりがそれっぽく聞こえる。
もちろんこれ以外にも勇気を意味する言葉はあり、例えば「奮」pi̯wən(去)は西周早期の金文から確認できる。鳥の群が一斉に飛び立つ様を示した字だった。
それとは音も字形も違う「勇」は、『春秋左氏伝』では隠公九年(BC714)年の記事が初出で、鄭国に攻め込んだ北戎との戦いに出陣した公子の言葉「勇而無剛者」=”威勢はいいがこらえ性のない連中”として記されている。だがその次に出てくる記事が孔子一門と関わりがある。
夫戰,勇氣也。一鼓作氣,再而衰,三而竭,彼竭我盈,故克之,夫大國難測也,懼有伏焉,吾視其轍亂,望其旗靡,故逐之。
(BC684、庶民でありながら、従軍を願い出て、荘公に軍を任された曹劌は、攻め込んできた斉軍をみごと撃退した後に、荘公に勝利の理由を問われて答えた。)
「いくさとは勇気です。陣太鼓をひとたび打てば兵の勇気は上がりますが、二度目ではだらけ、三度目ではすっかりやる気を失っています。敵のやる気がなくなった頃合いを見て、意気盛んな我が軍をぶつけましたので、勝つことが出来ました。ただし相手は大国、どのような伏兵があるやも知れず、私は敵軍のわだちの乱れと、逃げていく旗の向きを見て、追撃したのです。」(『春秋左氏伝』荘公十年)
孔子生誕より130年ほど前の記事だが、庶民だろうと能力次第で、軍を預けられる場合があった。史料にはないが、曹劌はおそらく貴族に列なったことだろう。孔子一門が春秋時代の身分制を突破する勢力として現れる下地が、この頃から出来ていたことを示している。
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