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論語詳解441陽貨篇第十七(7)仏肸(フツキツ)よぶ*

論語陽貨篇(7)要約:西北の大国・晋で謀反が勃発。その首謀者である仏肸フツキツが、孔子先生を招きます。応じて行こうとする先生を、子路があきれ顔で止めました、というお話。ただし史実かどうかは、何かと事情が入り組んでいるようで…。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

佛*肸召、子欲往。子路曰、「昔者由也聞諸夫子曰、『親於其身*爲不善者、君子不入也。』佛*肸以中牟畔、子之往也、如之何。」子曰、「然、有是言也。*不曰堅乎、磨而不磷。不曰白乎、涅而不緇。吾豈匏瓜也哉。焉能繫而不食。」

校訂

武内本

清家本により、不曰の前に曰の字を補う。、唐石経佛に作る。親於其身、史記世家其身親の三字に作る。

定州竹簡論語

[膉a召,子欲往。子路曰:「昔者由也聞]諸夫子512……為不善者,君子弗入也。』……513b之何?」子曰:「然,有是言[也。不曰]堅乎,靡c而不514……[而]不緇。吾[幾d]515……

  1. 膉、今本作”肸”。
  2. 若、今本作”如”。
  3. 靡、今本作”磨”。
  4. 幾、今本作”豈”。

→胇膉召、子欲往。子路曰、「昔者由也聞諸夫子曰、『親於其身爲不善者、君子弗入也。』胇膉以中牟畔、子之往也、若之何。」子曰、「然、有是言也。不曰堅乎、靡而不磷。不曰白乎、涅而不緇。吾幾匏瓜也哉。焉能繫而不食。」

復元白文(論語時代での表記)

膉 金文召 金文 子 金文谷往 金文 子 金文路 金文曰 金文 昔 金文者 金文由 金文也 金文聞 金文者 金文夫 金文子 金文曰 金文 親 金文於 金文其 金文身 金文為 金文不 金文善 金文者 金文 君 金文子 金文不 金文入 金文也 金文 膉 金文㠯 以 金文中 金文矛 金文反 金文 子 金文之 金文往 金文也 金文 如 金文之 金文何 金文 子 金文曰 金文 然 金文 有 金文是 金文言 金文也 金文 不 金文曰 金文乎 金文 而 金文不 金文 不 金文曰 金文白 金文乎 金文 而 金文不 金文 吾 金文幾 金文苞 古文也 金文哉 金文安 焉 金文能 金文而 金文不 金文食 金文

※欲→谷・牟→矛・畔→反・幾→其・匏→苞(古文)。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「者」「有」「也」「身」「入」の用法に疑問がある。本章の少なくとも孔子の言いわけ部分は、漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

胇膉ひつえきぶ。かむともとむ。子路しろいはく、昔者むかしいうこれ夫子ふうしけり、いはく、みづか不善ふぜんものには、君子もののふつかなりと。胇膉ひつえき中牟ちうぼうもつそむく、これ如何いかんいはく、しかり、ことあるなりかたきをりてうすろがずと。しろきをめてくろと。われあに匏瓜はうくわならいづくんぞかかくらはれらむ。

胇膉召、子欲往。子路曰、「昔者由也聞諸夫子曰、『親於其身爲不善者、君子弗入也。』胇膉以中牟畔、子之往也、若之何。」子曰、「然、有是言也。不曰堅乎、靡而不磷。不曰白乎、涅而不緇。吾幾匏瓜也哉。焉能繫而不食。」

論語:現代日本語訳

逐語訳

子路 孔子
胇膉ヒツエキ(仏肸フツキツ)が孔子を招こうとした。先生は行こうとした。子路が言った。「昔、わたし由は、先生からこう聞きました。”自分からその身でよくないことをする者には、君子は仕えないものだ”と。仏肸は中牟チュウボウのまちに立てこもって謀反むほんを起こしています。先生が行くというのは、それはどういうことですか。」先生が言った。「その通り。そう言ったことはあった。しかし堅いものについて世間で言わないか、研いでもすり減らないと。白いものについて世間で言わないか、染めても黒くならないと。私はどうして大びょうたんになるだろうか。どうしてぶら下がったまま、食べられずにいられるだろうか。」

意訳

一門の工作員である仏肸が、中牟のまちを占拠して一門の根拠地にしようと旗揚げした。そして孔子先生を呼ぼうとした。先生がウキウキと行こうとしたところ、子路があきれて言った。

子路 あきれ 孔子
子路「先生はむかし言いましたよね、好きこのんで手ずから悪事を働く者には、君子たる者仕えるな、と。仏肸めは謀反人ですぞ? なぜ手を貸しなさる。」

孔子「確かにそう言ったな。でも世間じゃ言うじゃないか。”堅いな堅いな、すり減らない。白いな白いな、染まらない。ぶらりとしてもひょうたんは、ぶらぶら下がって食われない”と。私は食えないひょうたんのまま、人生を終えたくないのだよ。」

従来訳

下村湖人

仏肸が先師を招いた。先師はその招きに応じて行こうとされた。すると子路がいった。――
「かつて私は先生に、君子は、自分から進んで不善を行うような人間の仲間入りはしないものだ、と承ったことがあります。仏肸は、中牟に占拠して反乱をおこしている人間ではありませんか。先生が、そういう人間の招きに応じようとなさるのは、いったいどういうわけでございます。」
先師がいわれた。――
「さよう。たしかに私はそういうことをいったことがある。だが、諺にも、ほんとうに堅いものは、磨っても磨ってもうすくはならない、ほんとうに白いものは、そめてもそめても黒くはならない、というではないか。私にもそのぐらいの自信はあるのだ。私をあのふくべのような人間だと思ってもらっては困る。食用にもならず、ただぶらりとぶらさがっているあのふくべのような人間――どうして私がそんな無用な人間でいられよう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

佛肸召孔子去,孔子想去。子路說:「以前我聽您說過:『親自做了壞事的人那裏,君子是不去的。』佛肸占據中牟反叛,你卻要去,怎麽解釋?」孔子說:「對,我說過。沒聽說過堅硬的東西嗎?磨也磨不壞;沒聽說過潔白的東西嗎?染也染不黑。我豈能象個瓠瓜?光掛在那裏而不讓人吃呢?」

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仏肸が孔子を呼んで、孔子が行こうとした。子路が言った。「私は以前あなたがこう言うのを聞きました。”自分から悪事を働く者の所へ、君子は行かないものだ”と。仏肸は中牟を占拠して謀反を起こしています、お前はそれなのに行こうとする、どう考えたらよいか?」孔子が言った。「その通り、私は言った。だが硬すぎるものの話を聞かないか? 削っても壊れないと。潔癖すぎるものの話を聞かないか? 染めても黒くならないと。わたしはどうしてヒョウタンでいられるだろう? そんなふうにさらし者になって、人に食われぬままでな?」

※你は您の間違いと思う。

論語:語釈

佛肸→胇膉

仏 古文 肸 古文
(古文)

論語の本章では、人名。「ヒツキツ」とも読む。古注は仏肸を、孔子在世当時の西北の大国・晋の実力者だった趙簡子の家臣、と言っているが信用ならない。

「仏肸」のもっとも信用できる姿は、孔子と入れ替わるように春秋末・戦国を生きた、下掲・墨子の証言で、仏肸は孔子の弟子であり、その手先であり、中牟に立てこもって孔子党の根拠地にしようとしたので、呼ばれた孔子がホイホイと出掛けようとしたことになる。

孔丘與其門弟子閒坐,曰:「夫舜見瞽叟孰然,此時天下圾乎!周公旦非其人也邪?何為舍其家室而託寓也?」孔丘所行,心術所至也。其徒屬弟子皆效孔丘。子貢、季路輔孔悝亂乎衛,陽貨亂乎齊,佛肸以中牟叛,桼雕刑殘,莫大焉。夫為弟子,後生其師,必脩其言,法其行,力不足,知弗及而後已。今孔丘之行如此,儒士則可以疑矣。

墨子
孔子が弟子を集めて、こういう要らん説教をしたらしい。

「聖人聖人とワシは世間に言うたが、実は全部でっち上げだ。いにしえの聖王舜は、バカ親父の顔を見る時に限り、米つきバッタのようにペコペコした。王がそんなバカに頭を下げれば、舐められて国が滅びかねなかった。周公旦も人でなしだった。家族を放置して、留守にしっぱなしのまま趣味の政治いじりに励んだ。」

こういう発言を聞くと、孔子の腹は真っ黒で、仕出かした政治的陰謀はその表れだ。孔子の弟子どもはみな、そろって孔子の真似をした。子貢と子路は、衛国で小悪党の孔悝を焚き付けて反乱を起こさせ陽貨は斉国で謀反を起こし佛肸は中牟に立てこもって独立を企んだ。(『墨子』非儒篇下12)

従って論語の本章で孔子が行くのを子路が止めた部分も、史実かどうか疑わしい。

「佛」(仏)の初出は前漢の篆書。論語の時代に存在しない。同音は咈”たがう”(入)のみ。原義は”ぼやけてはっきりしない”ことであり”ほとけ”は仮借。『学研漢和大字典』によると「人+(音符)弗(フツ)」の形声文字で、よく見えないの意を含む、という。詳細は論語語釈「仏」を参照。

「肸」の初出は戦国時代の陶片。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音は不明(入)。『学研漢和大字典』によるともと「丂(つかえてまがる)+(音符)キツ」の会意兼形声文字、ひびきわたること、という。詳細は論語語釈「肸」を参照。

定州竹簡論語では「胇膉」(ヒツエキ)と記す。「佛膉」と記した可能性がないわけではないが、「佛」はおそらく唐石経による改竄。

「胇」(ヒツ)の初出、上古音不明。『大漢和辞典』によると”肺”・”乾く”の意であるという。詳細は論語語釈「胇」を参照。「膉」(エキ)の初出は西周早期の金文。『大漢和辞典』によると”肥える”・”首の肉”・”ブタが寝る”ことだという。詳細は論語語釈「膉」を参照。

結論として論語の本章の主人公は、論語の時代にあった漢字では「膉」しか名前が確認できないのだが、固有名詞だから当人そのものが居なかったことにはならない。

江川太郎左衛門
固有名詞でなくともそういう例はある。幕末、江川太郎左衛門は兵粮として日本語にまだ無いビスケット(今の乾パン)を焼いたが、「じゅうしょうめんぼう」(重焼麺麭)と言ってももはや誰にも分からないにもかかわらず、なおビスケットは幕末に存在したのと同じである。

召 金文 召
(金文)

論語の本章は”呼び寄せる”。『学研漢和大字典』による原義は、声をあげて呼ぶこと。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「召」を参照。

論語の本章では”~しようとする”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。ただし『字通』に、「金文では谷を欲としてもちいる」とある。『学研漢和大字典』によると、谷は「ハ型に流れ出る形+口(あな)」の会意文字で、穴があいた意を含む。欲は「欠(からだをかがめたさま)+(音符)谷」の会意兼形声文字で、心中に空虚な穴があり、腹がへってからだがかがむことを示す。空虚な不満があり、それをうめたい気持ちのこと、という。詳細は論語語釈「欲」を参照。

往 金文 往
(金文)

論語の本章では”行く”。『学研漢和大字典』による原義は、広がるように元気よく前進すること。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「往」を参照。

子路・由

子路 由 金文
「由」(金文)

論語では、最も早く入門した孔子の弟子。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。「由」は子路の本名=いみ名。文字的には論語語釈「由」を参照。

昔者(セキシャ/むかし)

昔 金文 者 金文
(金文)

論語の本章では二文字で”むかし”。ここでの「者」は、時間をあらわす語を強調することば。この用法は、春秋時代では確認できない。詳細は論語語釈「昔」論語語釈「者」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで下の句とつなげる働きと、「なり」と読んで断定の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

聞諸夫子。 由これを夫子に聞けり。
わたし由、こういうことを先生に聞きました。
君子不入。 君子入らざるなり
君子は行かないものだ

『学研漢和大字典』による原義は、サソリの姿。詳細は論語語釈「也」を参照。

聞 金文 聞
(金文)

論語の本章では”聞く”。『学研漢和大字典』によると原義は間接的に聞くことで、直接聞く事は「聴」を用いる。論語の中でも古い章とされる言葉でも、直接聞いているのに「聞」を用いている場合があるが、そこでの意味は”分からないことを聞く”事という。詳細は論語語釈「聞」を参照。

諸 金文 諸
(金文)

論語の本章では”~を~に”。「之於」(シヲ)がつづまって一文字となったことば。詳細は論語語釈「諸」を参照。

夫子(フウシ)

夫 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。

「子」は貴族や知識人に対する敬称。論語語釈「子」を参照。

親(シン)

親 金文 親 解字
(金文)

論語の本章では、”自分で”。初出は西周末期の金文。「辛」”針・小刀”+「見」。おそらく筆刀を使って、目を見開いた人が自分で文字を刻む姿。金文では”みずから”の意で、”おや”の語義は、論語の時代では確認できない。詳細は論語語釈「親」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

身(シン)

身 甲骨文 身 字解
(甲骨文)

論語の本章では”自身”。初出は甲骨文。甲骨文では”お腹”を意味し、春秋時代には”からだ”の派生義が生まれた。詳細は論語語釈「身」を参照。

入(ジュウ)

入 甲骨文 入 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”仕える”。君主のそば近くで仕えること。地方に赴任するのを出という。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。

仏肸はそもそも孔子の弟子で、立場としては当然孔子の方が上だから、”仕える”ことはありえない。

中牟(チュウボウ)

中 金文 牟 金文
(金文)

論語の時代、西方の大国・晋の領内にあったまち、とするのは儒者のデタラメ。下記するように実際は、大国晋・斉と、小国ながらやり手の霊公に率いられた衛の狭間にあって、コウモリのように小ずるく独立していたまちだった。だがやがて晋に占領され、晋から趙が独立すると、一時首都となった。

中牟
Map via http://shibakyumei.web.fc2.com/

「牟」は論語では本章のみに登場。初出は戦国時代の金文。論語の時代に存在しない。固有名詞のため、文字が無いことがまちの不在を意味しない。たとえば矛m(平、初出は西周中期の金文。韻母を含む王力系統でも同音でmǐu)などが置換候補になり得る。詳細は論語語釈「牟」を参照。

畔(ハン)

畔 金文大篆 畔
(金文大篆)

論語の本章では”反乱を起こす”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』による原義は”仲間割れ”。藤堂音を使うと、畔buan→半puan→反puǎnと繋がりそうに見えるが、実情は儒者どもの幼稚な自己顕示欲に過ぎず、付き合っていられない。詳細は論語語釈「畔」を参照。

上記のように中牟はどこの領地でもないから、そもそも”そむく”ことがあり得ない。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

如之何(これをいかん)

論語の本章では、”それはどういうことですか”。「如何」=”どうずる”の目的語が間に入った形。問いつめる意をあらわす。詳細は漢文読解メモ「いかん」を参照。

「如」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「口+〔音符〕女」の会意兼形声文字で、もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもない物をさす指示詞に当てる、という。詳細は論語語釈「如」を参照。

仮に子路の反論が史実だったとすると、それは「見込みがありませんからおやめなさい」という、孔子への勧告と受け取れる。後世の儒者がよってたかって子路を筋肉バカにしてしまったので史実が隠れているが、実際の子路は武人と言うより有能な行政官だった。

だからこそ出自も怪しいのにやり手の殿様である衛の霊公が、手の付けようのないまちの代官(宰)ではなく、領主(大夫)として迎えた。子路はみごとにそのまちを治め切っている。詳細は孔門十哲の謎についてを参照。

然(しかり)

然 金文 然
(金文)

論語の本章では”その通り”。肯定の意を表す。初出は春秋早期の金文。『学研漢和大字典』による原義は、犬肉の脂身を火で燃やすこと。「ゼン・ネン」という音を借りて、指示詞に転用されるようになった。詳細は論語語釈「然」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では、”存在する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

有是言也

論語の本章では、解釈が分かれる。子路に問い詰められて「確かにそう言った」と孔子が答えたのだとするのが一つ。伝統的にはこのように解する。もう一つは、下の「堅乎…」以下を指すとする解釈で、孔子が「しかしこういう言葉もある」と言ったと解する。

どちらに解しても構わない。いずれ漢儒のでっち上げだからだ。そして漢儒がどういうつもりでこう記したのかは分からない。

不曰堅乎。磨而不磷。

論語の本章では、”堅いものについてこう言わないか、磨いてもすり減らないと”。

堅 古文 堅
「堅」(古文)

「堅」の初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。臤(ケン)は、臣下のように、からだを緊張させてこわばる動作を示す。堅は「土+(音符)已」。かたく締まって、こわしたり、形をかえたりできないこと、という。詳細は論語語釈「堅」を参照。

磷 古文 磷
(古文)

「磷」(リン)の初出は不明。論語の時代に存在しない。論語では本章のみに登場。『学研漢和大字典』によると「石+(音符)粦(リン)(つらなる)」の会意兼形声文字。鱗で、うすらぐ、石がすりへって、うろこのように薄くなること、という。詳細は論語語釈「磷」を参照。

定州竹簡論語の「靡」の初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。平声に読んだ場合、”こする・すりへらす”の語義があると『学研漢和大字典』にある。詳細は論語語釈「靡」を参照。

不曰白乎。涅而不緇。

論語の本章では、”白いものについて言わないか。染めても黒くならないと”。

涅 古文 涅
(古文)

「涅」(デツ)の初出は前漢の篆書。論語の時代に存在しない。論語では本章のみに登場。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、右側の部分は「土+(音符)日」の形声文字。ねばる土のこと。涅はそれを音符とし、水を加えた字。捏(こねる)・粘(ねばる)と同系で、また、泥(どろ)とも近い。泥のような黒い染料、または黒く染めること、という。詳細は論語語釈「涅」を参照。

緇 金文大篆 緇
(金文大篆)

「緇」(シ)の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』によると右側の字(音シン)は、くろくにごった土のこと。緇はそれを音符とし、糸を加えた会意兼形声文字。詳細は論語語釈「緇」を参照。

豈→幾

論語の本章では”どうして”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しないが、『学研漢和大字典』によると「其」で置換できるという。詳細は論語語釈「豈」を参照。

定州竹簡論語の「幾」も同義で、初出は西周中期の金文。詳細は論語語釈「幾」を参照。

匏瓜(ホウカ)

匏 古文 瓜 古文
(古文)

論語の本章では”大びょうたん”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。『大漢和辞典』で音ホウ訓ひさごに近音の苞があり、初出は甲骨文。論語時代の置換候補となる。

匏
『学研漢和大字典』によると「匏」は会意兼形声。夸(カ)は、瓜(カ)に当てたもので、うりのこと。匏は「夸(うり)+(音符)包」で、ふっくらと包むような形をしたうりのこと、という。詳細は論語語釈「匏」を参照。

「瓜」の初出は戦国早期の金文。論語の時代に存在しない可能性がある。『学研漢和大字典』によるとつるの間にまるいうりがなっている姿を描いた象形文字、という。詳細は論語語釈「瓜」を参照。

繫(繋)

繋 古文 繋
(古文)

論語の本章では”ツルにつながってぶら下がる”。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』によると形声文字で、「糸+(音符)𣪠ケイ・ケキ」。系(つなぐ)・係・継(つぐ、つながる)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「繋」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章について、従来訳の注にはこうある。

下村湖人
本章もまた、四三九章の公山弗擾の場合と同様、孔子に対する批難の材料になつている。私のこれに対する見解はあらためて述べない。ただ、この場合も孔子が実際に仏肸の招きに応じたという史実はないということ、並に、仏肸の乱があつたのは孔子六十歳のころで、孔子が魯の大司冠を辞したのが五十五歳の時だから今更仕官のために一代官ぐらいの招きに応じようとしたとは想像されない、ということだけをつけ加えておきたい。

下村先生に失礼ながら、これは間違いであると言わざるを得ない。「史実はない」という証明がそもそも出来ない事もさることながら、これは孔子聖者説に立つゆえの見解で、一種の信仰だから、都合の悪いデータは目にも頭にも入っていないように見受けられるからだ。

吉川幸次郎 吉川幸次郎 論語
「仏肸の乱があつたのは孔子六十歳のころ」というのも思い込みである。吉川本で、『春秋左氏伝』哀公五年(BC490)・孔子62歳の条に、趙簡子が中牟のまちを包囲した記事を挙げて、論語の本章に描かれた出来事としているのと同じ誤りだ。

孔安国
吉川本の元ネタは明らかで、実在も怪しい孔安国が古注で「晉大夫趙簡子之邑宰也」と仏肸について記した個人の感想をそのまま書いているだけだ。あるいは新注の、「佛肸,晉大夫趙氏之中牟宰也」をコピペしたと考えてもぜんぜん構わない。だがそれらの元データは次の通り。

夏,趙鞅伐衛,范氏之故也,遂圍中牟。

(哀公五年、BC490)夏、趙鞅が衛国を撃ったのは、同じく晋の家老である范氏が衛を援助したからで、ついでに(コウモリを続けてきた)中牟のまちを、とうとう包囲した。(『春秋左氏伝』哀公五年2)

仏肸のフの字も出てこない。

しかもこの時南方諸国で何やら悪だくみをするのに忙しかった孔子が(→年表)、北方の中牟に出掛けるとは考えにくいし、この悪だくみには墨子の証言がある。また『春秋左氏伝』で中牟が出てくるのはこれ以外に、定公九年の記事だけだが、そこにも仏肸は現れない。

乃過中牟,中牟人欲伐之,衛褚師圃亡在中牟,曰,衛雖小,其君在焉,未可勝也,齊師克城而驕,其帥又賤,遇必敗之,不如從齊,乃伐齊師,敗之,齊侯致禚,媚,杏,於衛

(晋の援軍に向かった衛軍が)中牟の郊外を通りかかろうとした。中牟の国人は衛軍を撃とうとしたが、衛の貴族で、中牟に亡命していた褚師圃が言った。

「衛は小国だが、国公が親征しているから、士気が高くて勝てる見込みが少ない。そこへ行くと斉軍は夷儀を攻め落としたばかりで安心しており、指揮官も家臣だから士気が上がらない。我が軍をぶつければ必ず勝てる。斉軍を追い払うに越したことはない。」この意見に中牟の国人は賛成して斉軍を撃ち、勝利した。

この敗戦により、斉の景公はシャク・媚・杏のまちを衛国に割譲して講和した。(『春秋左氏伝』定公九年)

定公九年の記事は長いから全文は引かないが、興味のある諸賢はリンク先の訳を見て頂きたい。ともあれそこから知れるのは、中牟のまちは大国晋と斉にはさまれて、どっちつかずのコウモリのようなまちで、おまけにその争いに衛国までが絡んで事情が複雑だった。

つまりどこの国の領地でもなく、亡命者が逃げ込んだり、一旗挙げたい者が騒いだりするのにうってつけの場所だった。どこかの国に攻められても、その敵方に援軍を求めて他人のふんどしで相撲が取れるのである。成り上がりたい孔子とその一党が目を付けないはずがない。

呼ばれて孔子がホイホイと出掛けようとするのはもっともだが、子路が止めようとしたのは上記の通りバクチの見立て。だから論語の本章は孔子の言いわけが、論語の時代に存在しない言葉で書かれている。結局孔子が行かなかったのは、仏肸が謀反人だったからではない。

多分あっという間に仏肸が引きずり下ろされ、旗揚げはくすぶりで終わったのだろう。

ついでながら本章にも引用された「詩」について。現伝の『詩経』は文字を調べると、漢代以降のニセモノである証拠がボロボロ出てくる。口づてに音だけ伝わっていたうた﹅﹅に、漢儒がテケトーな漢字をあてがった可能性もあるが、元からでっち上げでないとは誰にも言えない。

あまりまじめに取り扱う対象ではなさそうだ。

『論語』陽貨篇:現代語訳・書き下し・原文
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