論語詳解477子張篇第十九(6)博く学びて篤く志し*

論語子張篇(6)要約:幅広く学び、熱心に志し、出来る所まで答えを追求し、しかも他人事として扱わない。このような態度であれば、人の情けがきっと身に付く、と子夏。ここでもはぁそうですか、としか言いようのないお説教。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

子夏曰、「博學而篤志、切問而近思、仁在其中矣。」

書き下し

子夏しかいはく、ひろまなあつこころざし、せつちかおもふ、じんうちなん

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

子夏が言った。「幅広く学んで一途に志し、極限まで問い詰めて身近に考えれば、常時無差別の愛はその中にきっとある。」

意訳

子夏「幅広い教養と一途な追求心を持ち、ぎりぎりまで問いかけて自分事としてものを考えれば、きっと仁の情けが身に付く。」

従来訳

論語 下村湖人

子夏がいった。
「ひろく学んで見聞をゆたかにし、理想を追求して一心不乱になり、疑問が生じたら切実に師友の教えを求め、すべてを自分の実践上の事として工夫するならば、最高の徳たる仁は自然にその中から発展するであろう。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

子夏

論語 子夏

論語では孔門十哲の中でも若い弟子、ボク商子夏のこと。

博學而篤志

論語 篤 睡虎地秦墓竹簡
「篤」(秦系戦国文字)

論語の本章では、”幅広く学んで脇目を振らずに志す”。「博」は金文から見られ、『学研漢和大字典』による原義は多くのものが平らにひろがること。大きく、ひろがったさま。

「篤」は戦国文字から見られ、かけめなくゆきわたっている、人情がゆきとどいて手あつい、きまじめ。また、一つの事がらにうちこむさま。『学研漢和大字典』による原義は全身に欠けめのない馬。

論語の本章では”近く”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はghi̯ənで、同音に”ちかい”を意味する漢字は無い。詳細は論語語釈「近」を参照。

切問而近思

論語 切 金文
「切」(金文)

論語の本章では、”極言まで問い詰めて身近な問題として考える”。「近思」は”身近に引き寄せて考える”ことだが、他人事ではない、自分の問題として考える、と解した。

「切」は、刃物をものに押し当てて切ること。

矣(イ)

論語 矣 金文 論語 矣 字解
(金文)

原義は人の振り返った象形で、”きっと~である”という断定、または完了を表す助辞。詳細は論語語釈「矣」を参照。

論語:解説・付記

論語の本章は、言っている事は正しいが、何の役にも立たない好例。前章同様、孔子の弟子の中でも石頭で知られた子夏のお説教だが、読む者に何の感興も起こさせない。そのへんの出来の悪い老人でも言いそうなことで、優れた教師として大成した子夏の姿とは懸け離れている。

ただし子夏にも、まだ至らない時期はあったはず。そうした時期に石頭らしい本章のような事を言ったか、あるいは漢代あたりの儒者が、子夏の伝えられた姿から創作したかのいずれかだろう。どちらにしても、現代の読者がまじめに考え込む必要のない章と言える。

訳者はかつて教壇に立った経験から思うのだが、世の論語業者はこのような、つまらない章を教えるに当たって、どのような工夫を凝らしているのだろう。知る限りの漢学教授には、そうした工夫はまるで無かったが、弟子に逃げられると切に困る教え師も、世の中にはいるはず。

過去の日中なら分けないことで、弟子の飽きた顔一つでぶちのめした、玉木文之進のような狂人もいたが、現代日本でそれをやれば訴訟ものになる。訳者のように業界から足を洗っていれば、論語の言葉だろうと平然とつまらんとか下らんとか言えるが、業者はそうもいくまい。

一体どうやっているのだろう。本当に不思議だ。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。未だ人を斬ったことが無い。刀(登録証付)の手入れは毎日している。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回す。覚悟致せ。
斬首
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