論語043八佾篇第三(3)人にして不仁ならば

論語八佾篇(3)要約:孔子先生は教育の基本を、お作法と音楽に置きました。しかし心のないお作法はダマシに過ぎず、音楽もかえって人格に悪影響を与えると考えました。ではその心とは? 誰もが持っているはずの思いやり、仁でした。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「人而不仁、如禮何。人而不仁、如樂何。」

書き下し

いはく、ひとにしじんならざらば、れいごときやなににせん。ひとにしじんならざらば、がくごときやなににせん。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子 切手
先生が言った。「人であってあわれみの心を持たないのなら、礼法が何になる。人であってあわれみの心を持たないのなら、音楽が何になる。」

意訳

論語 孔子 たしなめ
人でなしにお作法? 音楽? 要らん要らん。

従来訳

 先師がいわれた。――
「不仁な人が礼を行ったとて何になろう。不仁な人ががくを奏したとて何になろう。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

論語 仁 篆書 論語 仁
(篆書)

論語における最高の道徳とされている。『字通』による原義は敷物を敷いてあげる姿。内容はあわれみの心だが、凡人はそれを一時的にしか保てない。従って途切れることなくあらゆる人間に憐れみの心を持つには、学習と修行が必要とされた。

孔子自身、「自分は仁者ではない」と言っているが(論語述而篇33)、弟子の顔回を「三ヶ月で仁者になった」あるいは「三ヶ月間仁を保った」と評している(論語雍也篇7)。詳細は論語における「仁」を参照。

禮(礼)・樂(楽)

論語 礼 金文 論語 楽 金文
(金文)

論語の本章では、”礼法と音楽”。既存の論語本では、吉川本にこうある。

楽という概念は、ひろくしては音楽一般であるが、おおむね礼の儀式を行う際に演奏される音楽を意識するから、大きくくくれば、楽も礼の中に含まれるが、この場合のように、礼と楽とを二つの概念として併称することもしばしばである。どちらも人間の文化の表現であるが、併称された場合は、礼は人間の秩序、敬意、厳粛さの表現であり、楽は人間の親和の表現であるとされる。

如禮(礼)何

論語 如 甲骨文 論語 何 金文
「如」(甲骨文)・「何」(金文)

論語の本章では、”礼が何になる”。伝統的な漢文の読み下しでは、「如何」(いかん)の間に目的語が挟まった形として、「礼やいかん」と読む。受験生を悩ます「いかん」だが、語順通りに読み解いていけば意味はわかる。ここでは「礼の如きや何せん」と読み下せばよい。

漢文はごく特殊な例外を除いて、主語-述語動詞-目的語の順に文を綴る。これまた受験生悩ませの「如何」と「何如」の区別も、語順で考えればよい。

如何A (無主語)Aを何の如くするか=Aをどうするか・Aが何になるか
何如A 何がAの如きか=何がAに似ているか・Aは何か

論語:解説・付記

論語によると、孔子は教育のうち徳育について、礼法の習得によって完成させるものとした。徳育の目指すべき境地である仁を、礼法に戻ることだと顔回に言っている(論語顔淵篇1)。礼法とは礼儀作法・儀式の次第に加え、あたかも箸の上げ下ろしまで指示する掟だった。

つまり人間のあらゆる行動様式を、身分別に分けて決めたもので、その通りに行動できれば、それが仁の実現だと孔子は言う。しかし礼の教科書が論語時代になかったことは、これまでたびたび書いた通りで、孔子自身がその発生源だったが、自分にも守れない規定だった。

論語 孔子 とぼけ
万能と仁は、私にはなろうとしても全くなれない。(論語述而篇33

従って理屈を言えば、顔回以外は礼も音楽も無用になるが、そう言うと弟子が怒り出すから、仁を目指して礼楽に励みなさい、ということだろう。露悪的にたとえるなら、仁者とはかくあるべしと想像のあまり、極めて繁雑になった礼法を、あっさり顔回だけがやってのけた。

孔子は仰天したに違いない。だからこそ論語にいくつも顔回賛歌や弔辞があるのだが、それは現在の素人絵師たちが、理想の女性を描くあまり、生身の人間にあり得ない容姿を描くに至った上に、それが現実になって目の前に現れたようなもので、訳者もまた仰天するだろう。
論語 仁 フィギュア 単体

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