論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子釣而不綱弋不射宿
校訂
諸本
- 正平本・文明本:「綱」→「網」
※ともに「綱」とも読み取れかねない曖昧なつくり〔冂丷正〕で記している。 - 宋版論語注疏・足利本・早大蔵新注・四庫全書新注:「綱」
東洋文庫蔵清家本
子釣而不綱弋不射宿
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子釣而不綱、弋而不射宿。
復元白文(論語時代での表記)
※綱→岡。
書き下し
子釣り而綱せ不、弋し而宿を射不。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生は一本釣りはしたが、はえ縄釣りはしなかった。射ぐるみはしたが巣に休む鳥は射なかった。
意訳
先生は生き物もむやみにいじめなかった。魚を釣るのは一本釣りだけ、鳥を射るのは矢に糸を付けた射ぐるみだけ。
従来訳
先師は釣りはされたが、綱はつかわれなかった。また矢ぐるみで鳥をとられることはあったが、ねぐらの鳥を射たれることはなかった。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子衹釣魚而不撒網、衹射飛鳥而不射睡鳥。
孔子は魚を釣るだけで、投網はしなかった。飛んでいる鳥は射たが、眠っている鳥は射なかった。
論語:語釈
子(シ)
「子」
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
釣(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”釣りをする”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。ただし字形は「魡」。現伝字形の初出は楚系戦国文字。字形は魚を針で釣り上げる様。甲骨文の用例は欠損が激しく文意が不明。殷代末期の金文には「魡」(釣)一字しか鋳込まれていない。戦国中末期の竹簡では、”釣り”または”釣り針”の意に用いた。詳細は論語語釈「釣」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…であって同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
綱(コウ)・網(ボウ)
(篆書)
論語の本章では”はえ縄”。縄を長く水中に延ばし、幾本もの釣り針を付け、一度に沢山の漁獲を期待する漁具または漁法。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。字形は「糸」+「岡」。「岡」の原字は多数の糸を束ねてよじった姿で、”おか”と区別するためにいとへんが付いた。戦国の文献では「紀綱」として見られ、”規則”の意で用いた。論語時代の置換候補は部品で同音の「岡」。詳細は論語語釈「綱」を参照。
(甲骨文)
正平本・文明本「網」の初出は甲骨文。罔・网と書き分けられていない。字形は網の象形。「モウ」は呉音。論語語釈「罔」も参照。甲骨文の用例は画像が不鮮明だが、”網ですなどる”と解せる。戦国の竹簡でも”あみ”の意に用いた。詳細は論語語釈「網」を参照。
ただし正平本・本願寺坊主の手になる文明本は、「綱」とも読み取れかねない曖昧なつくり〔冂丷正〕で記している。おっかなびっくりでこっそり「網」へと書き換えようとしたように思える。
「唐還少林寺神王𠡠碑」刻「網」字
京大の「拓本データベース」で検索すると、唐玄宗期の天宝十四載(755。載は年をひねった言い方)の「唐還少林寺神王𠡠碑」刻に形が近い。ただし同データベースでは、「網」と釈文された「綱」字は少なくない。
論語の本章は全体を定州竹簡論語・漢石経に欠き、中国伝承の唐石経・宮内庁蔵南宋本『論語注疏』・乾隆御覽四庫全書薈要本新注では「綱」”つな”と記し、日本伝承の清家本・足利本・早大蔵新注・根本本も「綱」”つな”と記す。正平本、文明本とそれを底本とする懐徳堂本は「網」”あみ”と記す。以上を踏まえると、「綱」”つな”→「網」”あみ”と校訂する根拠は十分でない。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
弋(ヨク)
(金文)
論語の本章では”いぐるみする”。遊弋の「弋」。矢に紐を結わえ、鳥を絡め取って射落とす猟法。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は上下に「卜」+「辛」。上部が二股に分かれた棒杭が打ち込まれたさま。甲骨では”杭を打つ”の意に用いた。春秋末期までの金文では、”伝統を引き継ぐ”・”独りで””いぐるみをする”の意に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「弋」を参照。
射(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”射る”。初出は甲骨文。「シャ」の音で”射る”を、「ヤ」の音で官職名を、「エキ」の音で”いとう”・”あきる”の意を表す。甲骨文の字形は矢をつがえた弓のさま。金文では「又」”手”を加える。原義は”射る”。甲骨文では原義、官職名、地名に用いた。金文では”弓競技”(義盉蓋・西周)の意に用いた。詳細は論語語釈「射」を参照。
君子=当時の貴族は戦時の将校を兼ねており、武芸として弓術は必須だった。孔子塾の必須科目、六芸にも入っている。
宿*(シュク)
(甲骨文)
論語の本章では”巣で憩う”。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「人」+「因」”寝床”。宿舎の意。甲骨文では”宿る”の意に用い、春秋末期までの金文では、”早朝”の意に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「宿」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語に無いだけでなく、春秋戦国時代を含めた、先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。文字史的には全て論語の時代に遡れ、後世の偽作を疑えないのだが、事実上の初出は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注になる。
孔子の史実を伝える挿話とするしか無いのだが、訳者の心証では、後漢儒あたりの偽作を思いもする。
解説
論語の本章は、孔子の仁慈は動物にも及ぶ、と言いたい弟子による挿話。思い出話だから、事実かは分からないし、世間師や儒者官僚にとってはウソでもよかった。どちらも孔子を神格化することでのみ、食べる道があったからだ。現代の論語読者は話半分に読んだ方がいい。
無論、孔子は理由無く動物をいじめなかっただろう。孔子は肉体的にも智力的にも強者であり、弱い者いじめの趣味を持たずに済んだからだ。しかし後世の儒者はわずかな例外を除いてひ弱な者ばかりで、筆と箸とワイロ以上に重い物を持とうともしなかった。
もし孔子が論語の本章のようなことを実際に行ったとするなら、それは強者としての当たり前の振る舞いに過ぎず、そこに意義があるとするなら、政治家として資源保護を思ってのことだろう。食べ物を無駄にすればそれだけ飢える民が増え、税収も徴兵もままならないからだ。
孔子は祭祀に必要なら、躊躇無く牛を殺す人物だったし(論語雍也篇6)、もはや意味の無くなった祭祀でさえ、ヒツジを殺せと言っている(論語八佾篇17)。人命を尊びはしたが、動物の命は人間とはっきり区別して考えている。単に無駄といじめをしなかったに過ぎない。
なお孔子と魚については、次のような伝説が後世の前漢中期に語られた。後世と言っても、現伝の論語は成立が後漢末まで下がるから、それよりは古いと言える。
孔子之楚,而有漁者獻魚焉。孔子不受,漁者曰:「天暑市遠,無所鬻也,思慮棄之糞壤,不如獻之君子,故敢以進焉。」於是夫子再拜受之,使弟子掃地,將以享祭。門人曰:「彼將棄之,而夫子以祭之,何也?」孔子曰:「吾聞諸惜其務䭃而欲以務施者,仁人之偶也。惡有仁人之饋而無祭者乎?」
孔子が楚に行き、漁師が魚を差し出したことがあった。孔子は受け取らなかった。
漁師「暑い日和で、売るにも市場は遠く、調理するにも場所がありません。考えた末、肥溜めに捨てるよりは、君子の方に差し上げた方がいいかと思って。だからこうしたのです。」
それを聞いた孔子は漁師を二度拝んで魚を受け取り、弟子に地面を掃除させて、魚を祭ろう(漁獲を神霊に感謝を捧げる)とした。
門人「漁師は捨てようとしたんですよ? 何でわざわざ祭るのです?」
孔子「こういう話がある。まじめに働いた結果がダメになるのを惜しんで人に与えるのは、仁者と同じだと。どうして仁者から受け取ったご馳走を、祭らないでいられようか。」(『孔子家語』致思第八(2))
それでもやはり伝説で、孔子が楚に行った伝説の史実性が疑わしい事情については、論語述而篇10余話を参照。論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子釣而不綱弋不射宿註孔安國曰釣者一竿釣也綱者為大綱以橫絶流以繳繫釣羅屬著綱也弋繳射也宿宿鳥也
本文「子釣而不綱弋不射宿」。
注釈。孔安国「釣とは一本釣りのことである。綱とは長い綱を川に横たえて流れを遮り、それで網を固定して大漁を狙う綱である。弋とはいぐるみのことである。宿とは巣に宿る鳥である。
新注『論語集注』子釣而不綱,弋不射宿。射,食亦反。綱,以大繩屬網,絕流而漁者也。弋,以生絲繫矢而射也。宿,宿鳥。洪氏曰:「孔子少貧賤,為養與祭,或不得已而釣弋,如獵較是也。然盡物取之,出其不意,亦不為也。此可見仁人之本心矣。待物如此,待人可知;小者如此,大者可知。」
本文「子釣而不綱,弋不射宿。」
射は、食-亦の反切で読む。綱とは、長い縄に網を取り付け、川の流れを遮ってすなどる漁法である。弋とは、糸を矢に結わえて射る法である。宿は、巣に宿る鳥である。
洪興祖「孔子は若いとき身分が低かったので(論語子罕篇6)、親を養ったり祭祀のために、時にはやむを得ず釣りや射ぐるみをした。獵較(狩りのたびに獲物を神霊に捧げる祭)がそれである。だが獲物を取り尽くしはしなかった。そんな気は無く、しもしなかった。ここに情け深い性格の本物の見本がある。動物に対してもこのようだったから、人に対してはどうだったか類推できるだろう。小さきものをこのようにいたわったのだから、大きなものをどうしたか類推できるだろう。」
余話
皆様ご安航に
上記の通り「弋」の原義は”杭(を打つ)”なのだが、「杭」に”くい”の意があるのは日本語だけで、古代漢語では「航」と同義で”川を渡る”、近代以降では人名でなければ、地名の”杭州”。「打杭」と言えば”杭の奴を殴れ”か”杭州を攻めろ”という物騒な意味になる。
近代以降の中国語で似た言葉に「打釘」がある。
一人往妓館打釘畢。徑出。妓牽之索謝。答曰。我生員也。奉祖制免丁。俄焉又一人至。亦如之。曰我監生也。妓曰。監生又如何。曰只是白丁。
ある男が女郎屋に上がって一晩釘を打った(女郎を買う)。朝になってさっさと出て行こうとするので、女郎が引き止めて花代を払えという。男が答えた。
「俺は生員(科挙=高級官僚採用試験の一次試験合格者で、国立中等学校の生徒)だ。かたじけなくも国祖陛下の御みことのりにより、丁(税としての労役。あるいはそれに代わる税金)を免じられている。」
そういってスタスタ行ってしまったのを茫然と見送ったその晩、別の男が客にやって来て翌朝また言い訳をする。「俺は監生(科挙の二次試験合格者で、国立大学の学生)だ。」
女郎「監生だったらどうだって言うのよ?」
監生「白丁(”役立たず”の意と”タダ”の意がある)ってことよ。」(『笑府』巻一・監生打釘)
「遊弋」と言えば日本がRed政権だった頃より、中国人が持ち付けない軍艦を沖縄諸島にうろつかせてたびたび騒ぎになった。だが中国役人と海や船は徹底的に相性が悪く、潜ったつもりの潜水艦は、海自の同類や哨戒機に追い回されて肝が潰れる目に遭わされたらしい。
Redについては論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」を参照。水と火と土はヒトを人類にしたが、水と火と土の怖さは、体験した者でないと分からない。火はまだ分かり易いが、若年時山奥で土砂崩れに埋まって逃げ延びた訳者は、ほとほと水と土の怖さを実感した。
中国役人と海の相性が悪いのは、善悪は全て権力者が決める中華文明にどっぷり浸かっているからで、権力者が何を言おうと、海は荒れるときに荒れ凪ぐときに凪ぐ。現場の船乗りは権力と大自然との板挟みに遭って難儀し、結局はまじめに仕事をするだけ損という結論になる。
中華文明のなんたるかについては、論語学而篇4余話参照。
文革期の歌・李郁文作詞「大洋の航海は舵取り次第」
「大海航行靠舵手」大洋の航海は舵取り次第
「万物生长靠太阳」万物の生育は太陽次第
…
「毛泽东思想是不落的太阳」毛沢東思想は落ちること無き太陽だ(→youtube)
とある中国人がこういう漫画を描いた理由は自分で白状している。「最高指示、帝国主義者どもの侵略を防ぐために、必ず強大な海軍を作らねばならない。」つまり海軍軍人とそのおかげで食っている中国人が、もっとカネをよこせと社会に強制するためにこんなのを描いた。
「この世の沙汰は毛次第」という、抜け毛に悩む諸氏の思い詰めた感情そっくりの主張なのだが、「抜けたら剃っちまえばいいじゃん」というのを普通の中国人は思いつけない。老子先生のような賢者でないと、中華文明に染まりつつその奥義を実践するのは難しい。
役人と大自然の相性の悪さは、中国に限らない。
日本でも当の船乗りの間で、役人船員に対する批判があった。帝国海軍に商船を護る気がまるで無かったのに対し、今の保安庁は海が荒れたら出番だから別らしいが。それでもとある航海士さんの話では、海王丸の座礁事故は「玄人の仕事とはちょっと信じがたい」のだそうだ。
信号旗「UW」。
どうか皆様ご安航に。日本人には船乗りに感謝する、十分な理由があるのだから。
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