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論語詳解087里仁篇第四(21)父母の年は*

論語里仁篇(21)要約:後世の創作。孝行をしたい時には親は無し、とあまりに儒教が孝行を説くから、こうこを漬けたい時にはナスはなし、と江戸時代人はからかいました。しかし孔子先生は、それほど無茶な孝行は説かなかったのです。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰父母之年不可不知也一則以喜一則以懼

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰父母之年不可不知也一則以喜一則以懼

後漢熹平石経

…則以懼

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「父母之年、不可不知也。一則以喜、一則以懼。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 父 金文母 金文之 金文年 金文 不 金文可 金文不 金文智 金文也 金文 一 金文則 金文㠯 以 金文喜 金文 一 金文則 金文㠯 以 金文

※論語の本章は、「懼」の字が論語の時代に存在しない。「也」の用法に疑問がある。本章はおそらく後漢儒による創作である。

書き下し

いはく、父母かそいろはとしは、からなり。一はすなはよろこび、一はすなはおそる。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「父母の歳は知らないではいられないね。理由の一は喜び、もう一は恐れるために。」

意訳

孔子 人形
親の歳は片時も忘れてはならぬ。理由の一は長寿を喜び、もう一は残された歳月を大事にするためじゃ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「父母の年齢は忘れてはならない。一つにはその長命を喜ぶために、一つには老先の短いのをおそれていよいよ孝養をはげむために。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「父母年齡,不能不知道。一因長壽而喜,一因年高而懼。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「父母の年齢は、知らないわけには行かない。一つの理由は長寿を喜び、一つの理由は高齢を恐れる。」

論語:語釈


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

父(フ)

父 甲骨文 父 字解
(甲骨文)

論語の本章では”父”。初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。

母(ボウ)

母 甲骨文 母 字解
(甲骨文)

論語の本章では”母”。初出は甲骨文。「ボ」は慣用音。「モ」「ム」は呉音。字形は乳首をつけた女性の象形。甲骨文から金文の時代にかけて、「毋」”するな”の字として代用もされた。詳細は論語語釈「母」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では「の」と読んで”~の”。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

年(デン)

年 甲骨文 年 字解
(甲骨文)

論語の本章では”年齢”。初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…すべきだ”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

知(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

一(イツ)

一 甲骨文 一 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”一つには”。「イチ」は呉音。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「A則B」で”AはBである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”…で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

喜(キ)

喜 甲骨文 喜 字解
(甲骨文)

論語の本章では”よろこぶ”。初出は甲骨文。字形は「シュ」”つづみ”+「𠙵」”くち”で、太鼓を叩きながら歌を歌うさま。原義は”神楽”。「漢語多功能字庫」によると、甲骨文では原義のほか人名・国名に、”よろこぶ”の意に用い、金文では人名と楽曲名のほかは、”祭祀”(天亡簋・西周早期)、原義(井弔鐘・年代不明)に用いた。詳細は論語語釈「喜」を参照。

懼(ク)

懼 金文 懼 字解
「懼」(金文)

論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”おそれる”。「グ」は呉音。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「忄」+「瞿」で、「瞿」は「目」二つ+「隹」。鳥が大きく目を見開くさま。「懼」全体でおそれおののくさま。原義は”恐れる”。戦国の金文でも竹簡でも原義に用いた。詳細は論語語釈「懼」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、後漢末の漢石経を除き先秦両漢の誰一人引用もせず再録もせず、また定州竹簡論語にも無く、事実上の初出は漢石経、次いで後漢末から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』になる。古注には前漢の孔安国が注を付けているが、この男は高祖劉邦の名を避諱ヒキしないなど実在が怪しい。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰見其壽考則喜見其衰老則懼也

孔安国
注釈。孔安国「親の長寿を見て喜び、老衰を見て恐れるのである。」

本章後半の「一則以喜,一則以懼」は、もと正史として扱われていた『東観漢記』に見える。

中元元年正月…詔曰「…今予末小子,巡祭封禪,德薄而任重,一則以喜,一則以懼。…」

光武帝
後漢・建武中元元年(56)正月。(偽善者でオカルトマニアの光武帝は、ゴマスリ者の臣下に言い含めて”古今東西陛下ほどの功業を達成されたお方はおりません。ぜひ泰山の山の神をお祭り、つまり封禅ホウゼンして下さいませ”と書いた上奏文を出させ、”やってやらんでもない”と偉そうにに返答しつつ、翌年には62歳で寿命が尽きるという老齢にもかかわらず、ダッシュで泰山に向かい、ゴマスリ臣下が追いつくのを待った。そしてまたもやゴマスリ上奏文を出させたので、偉そうに返答した。)

「いま私のような小せがれが、尊い泰山の神の下に参上して祀る。徳の至らないにもかかわらず、封禅という重責を担うのは、一つには祭ることを喜び、もう一つには天罰神罰をおそれ敬うためだ。」(『東観漢記』郊祀志3)

ただしこの史料は一旦失伝し、清代に再建されたもの。従って史料的価値は低い。以上を合わせ考えて、論語の本章は、後漢儒がこしらえたと見るべきだ。

なお「正史」のなんたるかは、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。

解説

後漢は創業者の光武帝がこのていたらくで、「役人には孝行者と寡欲者を任じろ」と偽善的なことを言ったため、親を養うために我が子を殺したと宣伝する馬鹿者が出た。

この子殺しについては下記の通り後漢滅亡直後の証言がある。中国では庶民と役人との間に、奴隷と主人以上の身分差があり、それは帝政開始から現在の中共政権まで、少しのぶれも無い。だから子殺ししてでも役人になりたい者は常に、同時期の日本の総人口以上にいる。

葛洪
…郭巨は親のためだと言って我が子を絞め殺し、それで孝行者としてもてはやされ、「死罪に当たる罪を犯しても許す」と記した書き付けをお上から貰った。(『抱朴子』微旨5)

後漢のこのていたらくについては、論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。

孔子 変装
孔子の前半生は確かな史料が少なく、多くは想像によって補うしかない。こんにち、儒教と言えば親孝行と思われているが、論語時代の儒学に孝行の概念はそれほど重要ではない。政治論・人格修養論に比べると、論語での記述が少ないのは、孔子の家族経験の薄さからだろう。

孔子は父の名も顔も知らず、母も恐らく夫のそれらを知らなかった。そして孔子の母は巫女であり、巫女は冠婚葬祭のある場=顧客を求めて移動しなければならない。母の属する呪術者集団に、移動幼稚園の機能があったかも知れないが、おそらくは孔子は近所に預けられた。

父親の墓がどれか分からず、近所のおばさんに教えて貰ったと『史記』にあるのはそれを示しているだろう。

つまり母親との関係も希薄だった。従って孔子の家族論は多分に想像によるもので、具体性に欠け迫力がなかった。少なくとも政治論ほど孔子は熱心に語らなかった。論語時代には珍しく、息子が一人しか居ないのも傍証となる。孔子は家庭に重きを置かなかったのだ。

しかし儒学が孔子の母の土俗的呪術の色を濃厚に引き継いでいる以上、子とは先祖の祭祀を絶やさぬために生むものであり、いわゆるマイスウィートホーム的な家庭像を孔子が思ったのではない。その証拠に、論語では孔子が自分の家族を語った話が、たった三つしかない。

それと別に一章、息子の鯉に教えを語ったのはあるが、それは又聞きである。しかも聞いた当人は、「君子は子に冷たいと知ったぞ!」とひどいことを言っている(論語季氏篇16)。それが証拠立てるように、孔子は家族に冷たい人だった。

しかし親は死んでしまえと思ったわけではなく、このあたりは論語時代に常識的な孝行を説いたに過ぎない。ただし自分の教説として、虚偽を嫌い正直を重んじたから、心を込めて親に仕えなさいと言ったのだ(本章、論語為政篇7)。この点では孔子は革命家ではなかった。

余話

三大規律

既存の論語本では吉川本で、この章は虚字の「也」を軽く読めば、リズミカルな四字ずつで構成されるという。

子曰 父母之年 不可不知 一則以喜 一則以懼

文化大革命中の「革命無罪」や、八路軍兵士を躾けるために作った歌「三大規律、八項注意」のように、中国語は四字句で舌を転がすとリズムがいい。

革命軍人、記記牢記。三大規律、八項注意
クーミンチュンレン、チーチラオチー。サンタークィーリー、パーシャンチュウイー。

論語に限らず漢文で、「焉」や「之」が無くても通るのに、つけ加えられる理由の多くも同じ。

三大纪律如下:
(一)一切行动听指挥;(二)不拿群众一针一线;(三)一切缴获要归公。
八项注意如下:
(一)说话和气;(二)买卖公平;(三)借东西要还;(四)损坏东西要赔;(五)不打人骂人;(六)不损坏庄稼;(七)不调戏妇女;(八)不虐待俘虏。
《中国人民解放军总部关于重行颁布三大纪律八项注意的训令》(一九四七年十月十日),《毛泽东选集》第四卷第一二四一页


三大規律とは次の通りである。

  1. 一切の行動は命令に従え。
  2. 群衆から針一本、糸一筋も奪ってはならない。
  3. 敵から鹵獲したものは、全て司令部に差し出せ。

八項注意とは次の通りである。

  1. 穏やかに話せ。
  2. 売り買いは公平にせよ(奪ったり値引きを強制してはならない。足元を見て高く売りつけてもならない。)
  3. 借りた物は持ち主に返せ。
  4. ものを壊したら弁償せよ。
  5. 人を殴ったり怒鳴ったりしてはならぬ。
  6. 農民の田畑を荒らすな。
  7. 女性に無礼を働くな。
  8. 捕虜をいじめるな。(『毛主席語録』二十六・規律3)
必须提高纪律性,坚决执行命令,执行政策,执行三大纪律八项注意,军民一致,军政一致,官兵一致,全军一致,不允许任何破坏纪律的现象存在。
《中国人民解放军宣言》(一九四七年十月),《毛泽东选集》第四卷第一二三九页


必ず強固な規律を維持することが必要である。命令は絶対に実行しなければならない。政策を行うには、三大規律・八項注意に従え。軍と人民は(利害行動を)一致せねばならず、軍と政治も一致せねばならず、将校と兵卒も一致せねばならず、全軍が一致せねばならない。この規律を破る、いかなる事件も存在も許さない。(『毛主席語録』二十六・規律4)

この「三大規律、八項注意」によって、毛沢東は中国史上例外的に規律と士気に優れた革命軍を作り上げたが、それは先行したソ連にならったからではない。ソ連赤軍とOGPU(のちのKGB)は農村部で略奪と殺戮をほしいままにした。1千万人以上が犠牲になったと言われる

毒ガスをまいて村ごと皆殺しにもした。今でも人が入れないという。

毛沢東がならったのはむしろ自国史の裏と言うべきで、国軍は略奪暴行するのが当たり前だった。有名どころでは王莽の新軍が忌み嫌われ、それに反抗して建国した更始帝の軍隊も同様だった(wikipedia簾丹条)。前漢初期の班固は、『漢書』にこう記している。

東方為之語曰:「寧逢赤眉,不逢太師!太師尚可,更始殺我!」
東方、為に之を語りて曰く、むしろ赤眉に逢うも、太師に逢わざれ。太師なおよろしかるも、更始は我を殺さん。


東部の人々はこう歌った。「赤眉(反乱軍)が来るのはまだいいが、太師(国軍)が来たら逃げるに限る。太師に何とか我慢できても、更始が来たら皆殺し。」(『漢書』王莽伝)。

毛沢東の時代もそうで、当時の国軍だった蒋介石とその配下の軍閥が抱える軍隊は、「三大規律、八項注意」の裏返しをやって忌み嫌われた。当時中国にいた日本人のうち、軍人でない人による証言には、毛沢東の八路軍が信じられないほど略奪暴行しないのを讃えたのがある。

これが敗戦後の日本人の対中感情に、どれほど影響したか分からない。

『論語』里仁篇:現代語訳・書き下し・原文
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