論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子曰、「君子不可小知、而可大受也。小人不可大受*、而可小知也。」
校訂
武内本:清家本により、受の下に也の字を補う。邢本也の字なし。
書き下し
子曰く、君子は小しく知る可からず、し而大に受く可き也。小人は大に受く可からず、し而小しく知る可き也。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「教養人たる諸君は、少し知ってはならない。大いに受けるがよい。教養のない凡人は、大いに授けることが出来ない。少し知らせるがよい。」
意訳
諸君は大いに学んで、知識と教養を高めなさい。勉学を中途でやめてはいけない。一方将来諸君が治める民は、無教養だから我らの意図が分からない。だから必要の無いことまで教えてはいけない。民に理解がないからと言って、それは仕方がないことなのだよ。
従来訳
先師がいわれた。――
「君子は、こまごましたことをやらせて見ても、その人物の価値はわからない。しかし大事をまかせることが出来る。小人には大事はまかされない。しかし、こまごましたことをやらせて見ると、使いどころがあるものである。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
君子
(金文)
論語の本章では”為政者階級の知識人”。
論語で「君子」と言った場合、庶民に対する貴族、無教養人に対する教養人、そして弟子に対する「諸君」という呼びかけで用いられる。本章の場合は三つ全てを兼ねていると言って良く、”教養人を目指しており、またいずれは仕官する弟子の諸君は”と解するのがよい。
詳細は論語語釈「君子」を参照。
可
(金文)
論語の本章では、”できる”という可能の意味と、”~のがよい”という適当・勧誘の意味二つを兼ねている。「君子」に対しては”せよ・するな”という適当・勧誘とその否定、「小人」に対しては”できる・できない”という可能とその否定で用いられている。
漢文で「べし」という言葉を、”~しろ”という命令に受け取るのは日本語に引きずられた「和臭」だが、なんでもかんでも”できる・できない”の意味に取るのもまた誤り。例を挙げる。
これを「民は従わせろ、情報を公開するな」と解し、「差別だ!」と怒る人は読み間違ってはいるのだが、怒る人をたしなめて、「漢文の”可し”とは可能の意味だ」と説教するのは、はてどうだろう。「可」にも日本古語の「べし」同様、当然や勧誘の意味はちゃんとある。
『学研漢和大字典』によると「~べし」と読んだ場合、以下の語義を挙げる。
- 「~できる」と訳す。可能の意を示す。「三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也=三軍も帥を奪ふ可きなり、匹夫も志を奪ふ可からざるなり」〈大軍でもその総大将を奪い取ることはできるが、一人の男でもその志を奪い取ることはできない〉〔論語・子罕〕
▽「可・不可」は、客観的に状況・道理による判断を示す。「能・不能」は、「可・不可」より主観的に、自身の本来的・生理的な能力・資格による判断を示す。「得・不得」は、機会・条件による判断を示す。 - 「~するのがよい」「~すべきだ」と訳す。当然・勧誘の意を示す。「皆曰、紂可伐矣=皆曰く、紂伐つ可しと」〈皆、紂は討つべきであると言った〉〔十八史略・周〕
- 「~にあたいする」「~してもよい」と訳す。認定・認可・評価の意を示す。「雍也可使南面=雍や南面せ使む可し」〈雍は南面させてもよい〉〔論語・雍也〕
知
(金文)
論語の本章では”理解する”。
論語独特の意味として、「知」は”孔子の主張する礼を知る”ことの意味がある。その場合の解釈は、論語における「知」を参照。本章では一般名詞として、知覚することや理解することを指す。
受
(金文)
論語の本章では、”授ける”と”受ける”の両方の意味を兼ねている。
論語の時代、「授」も「受」も共に「受」と書き、両者が書き分けられるようになった=別の言葉として認識されるようになったのは、早くとも論語の時代よりあとの戦国時代のこと。戦国時代に通用した古い文字にも、両者が混ざっていることがある。
「授」(古文)
論語の本章では、語る孔子と聞く弟子、ともに君子であり小人ではない前提なので、「受」は”受ける”と解釈出来る。一方「小人」に対しては、師弟共に”授ける”立場だから、「受」は”授ける”と解釈すべき。
『学研漢和大字典』によると「受」は形声文字で、「爪(て)+又(て)+(音符)舟」。舟は音符で、ふねには関係がない。Aの手からBの手に落とさないように渡し、失わないようにうけとるさまを示す。守(しっかり持つ→まもる)と同系のことば。類義語の承は、両手でささげてうけること。
「授」は会意兼形声文字で、受は「爪(て)+又(て)+(音符)舟」からなる形声文字。物を手から手に渡して受けとること。舟は音符で意味に関係はない。授は「手+(音符)受」で、渡して受けとらせること。守(シュ)(受けとってしっかり持つ)と同系のことば。
もらう側からは受といい、渡す側からは授という。受と授は、同じ動作の両面にすぎない、という。
論語:解説・付記
武内本は「徂徠云、此章用人の法をいう、小知は之を小用する也、大受は之を大用するなり」というが、論語の本章は、徹底的に孔子の統治論であり、従来訳のような人物評論ではない。この臭いの元はいずれ儒者だろうと思ったら、やっぱりそうだった。

張憑いわく、君子には深遠な哲理を理解出来る力があるのだから、必ずしもチマチマした仕事をやらせるには向いていない。一方凡人は浅はかだから、チマチマした仕事をやらせるがよい。(『論語集解義疏』)
対して朱子とその引き立て役はこういう。

君子はチマチマした仕事に必ずしも向いていない。しかし重い責務に耐えるのである。一方凡人は浅はかではあるものの、必ず取り柄がないとまでは言えない。(『論語集注』)
うっかりすると軍国主義者で頭がアレな朱子が、ものすごくまともな人に思えてしまう。古注を書いた後漢から三国初めを生きた儒者というのは、よほど人間が高慢ちきで独善的に出来ているようだ。だからこそ、信じられないほどの人間不信が三国の世まで続いたのだろう。
後漢の開祖、光武帝劉秀は、一般的に気さくな名君と言われるが、偽善がひどいオカルトマニアで、身内びいきが強烈で、姉の使用人が悪事を働き、それを法で裁こうとした裁判官を、杖で殴り●す寸前までぶちのめした。上これを好めば、下これにならうとは後漢のことだ。
論語に話を戻すと、朱子は奴隷的親孝行や忠義を論語に持ち込んだが、古注を書いた後漢の儒者の方が、論語をねじ曲げワケわかめにした責任は大きい。とかく君子や儒者を、この世にありえないような高潔な教養人に仕立てたがる。孔子を神格化したのも後漢の儒者。
彼らはどうにも筆がファンタジーというか、お花畑に出来ており、注釈やらも信用できないことがほとんどだ。論語を読んで、孔子が何を言ったか知りたい現代人にとっては、邪魔でしかないことが多い。そろそろ解釈の場からはお払い箱にして、ご退場願いたいと思っている。
ちなみに『学研漢和大字典』の編者である藤堂明保先生は、三重の旧藤堂藩の家老の家柄だが、藩祖の藤堂高虎は節操のない人として有名で、戦国時代ではそれが正義だった。幕末、藤堂藩は土壇場で幕府を裏切り崩壊させたが、司馬遼太郎氏は藩祖の影響だと言っている。
論語の古注を書いた儒者たちも、国祖の劉秀が偽善者だから、それに影響されたのだろう。
『三国志』で有名な話に、逃亡中の若き曹操が、かくまってくれた家の人を皆●しにしたのがある。寝室に落ち着いた曹操の耳に、家の主人が曹操をもてなそうと、飼っていた家畜を「〆る」と言ったのを聞き、自分を〆ると勘違いしたのだ。だから曹操は悪いと演義は言う。
しかしそうではない。後漢時代の救い難い偽善が、その反動で三国時代の、信じ難い人間不信を生んだのだ。この挿話が正史か演義か、最早忘れてしまったがどちらでもよろしい。後漢の儒者=役人の強欲とその裏腹としての偽善は、とうとう論語以来の中国を滅ぼした。
後漢が滅んで三国を経て、中国は長い分裂時代に入る。その過程で論語時代の中国人は遺伝子的に滅び、文化的に中国語は違う言語になり終えた。後漢の儒者が滅ぼしたのは、単に論語や儒教だけではない。当時の中国と中国人を、まるまる消し去ってしまったのだ。
何せ再統一した隋唐帝国は、北方遊牧民の政権だ。かくも偽善は恐ろしい。