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論語詳解407衛霊公篇第十五(29)人よく道を°

論語衛霊公篇(29)要約:人が環境を作るのか、環境が人を作るのか。孔子先生は前者だと言いました。論語の時代屈指の読書家でありながら、経済や技術のもつ巨大な力に気付いていなかったのです。そんな先生の弱点を示す一節。

論語:原文・白文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰人能弘道非道弘人

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰人能弘道非道弘人也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「人能弘道。非道弘人也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 人 金文能 金文弘 金文道 金文 非 金文道 金文弘 金文人 金文

※論語の本章は、「弘」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、ひとみちひろむことあたふ。みちひとひろむるにあらざるかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 キメ
先生が言った。「人は方法を広げる事が出来る。方法が人を広げるのではないなあ。」

意訳

人間はいつも工夫して技能技術を高めようとする。しかしそうした技能技術が、人格を高めるわけではないぞ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「人が道を大きくするのであって、道が人を大きくするのではない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「人能弘揚道義,不是道義能壯大人的門面。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「人は道徳や仁義を広めることが出来る。道徳や仁義が人のうわべを壮大に出来るのではない。」

論語:語釈

、「  。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”人間一般”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。能力。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

弘(コウ)

弘 甲骨文 弘 字解
(甲骨文)

論語の本章では”広げる”。初出は甲骨文。字形は「弓」+「𠙵」”くち”。原義は明瞭でない。甲骨文、春秋末期までの金文では、人名に用いた。なお漢代の漢語では「廣」(広)は形容詞に用い、「弘」のように動詞に用いた例は見られない。詳細は論語語釈「弘」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”方法”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。

非(ヒ)

非 甲骨文 非 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。

也(ヤ)

唐石経は本字を記さないが、清家本は記す。

唐石経は漢石経に次いで古い文字列の一つで、晩唐の初め開成二年(837)に刻石が完工した、儒教経典の定本を定めた碑文群。言い換えると、それまで異同のある文字列を記した経典が何種類もあったという事で、論語もその一つ。つまり国家による情報統制政策だから、当然唐朝廷の都合で書き換えた箇所がいくらもあることが、定州竹簡論語や漢石経、慶大蔵論語疏との比較で分かる。

その例は論語郷党篇19を参照。

一方日本には唐石経が刻まれるより前の、おそくとも隋代に古注系の論語が伝わった。慶大本がその一つで、当然唐石経とは違う文字列が見られたりする。日本では本願寺坊主の手に成る文明本が現れるまで、後生大事に古注系の文字列を伝承した。清家本もその一つで、うち現存最古の東洋文庫蔵清家本は正和四年(1315)筆写と、唐石経より世に出たのは新しいのだが、文字列はより古いものを伝えていると考えて良い。

従って清家本に従い、「也」の字があるものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

也 金文 也 字解
(金文)

「也」は論語の本章では、「かな」と読んで詠歎の意に用いている。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、疑問あるいは反語の語義も確認できる。また春秋末期の金文で「也」が句末で疑問や反語に用いられ、詠嘆の意も獲得されたと見てよい。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は春秋戦国の出土物に見えず、前漢中期の定州竹簡論語にも全文を欠く。後漢末期の漢石経にも見えず、事実上最古の現存文字列は、唐石経と清家本になる。

武内本は本章が清家本と同じく「也」を伴って後漢初期の『漢書』董仲舒伝に引用されると言うが、「也」を伴わないなら、ほかに同礼楽志にも見える。さらに先行する前漢中期の『史記』外戚世家にも「人能弘道,無如命何。」”人が道を広める事が出来るのは、天命でなくて何だろう”とあるが、論語の本章の引用とは断じがたい。

だが文字史上は全て論語の時代に遡れるので、史実の孔子の発言として扱って構わない。定州本に無いのは破損の結果以外に、前漢中期までは論語の一章では無かった可能性がある。『漢書』芸文志が伝えるように、孔子の語録は論語のほかにも各種の「伝」として伝わっていた。後漢になってから論語に編入された可能性も否定できない。だがそのことが、本章の内容そのものの史実性を疑う証拠になるわけではない。

解説

上掲語釈の通り、孔子生前の「道」とは”通路”か”通路を行く”か”導く”かでしかあり得ない。作成数に自ずから上限がある漢字を用いる漢語の特性として、同じ「道」という記号を名詞にも自動詞にも他動詞にも用いただけ。そこに道徳的お説教の語義を本格的にねじ込んだのは帝政期の儒者で、孔子の与り知ったことではない。

権力の側にいる儒者は、まず絶対的に正しい道徳を定め、人々にその道を無理やり通らせようとする。そういう無茶をするから、「戦争になったら逃げる奴が立派」という、権力の無い大多数にはとうてい受け容れがたい不条理をも、世間に押し付ける結果にもなった。

曾子居武城…左右曰:「待先生,如此其忠且敬也。寇至則先去以為民望,寇退則反,殆於不可。」


曽子が武城に住んでいた。そこへ南方の越国軍が攻めてきた。…弟子が言った。
「先生ちょっとお待ちを。これが忠実で慎み深い者のすることですか。いくさが始まれば真っ先に逃げ去って民の希望を担い、敵軍が退いたら家に帰るのが君子の務めです。これでは君子らしくないと言われても仕方がありません。」(『孟子』離婁下59・通説に従った訳)

史実の孔子の言う道とはそうでない。物理的に、合理的に、当然そうなるはずの通路やそこを通ることで、絵空事を語れば商売になる帝政期の君子と違い、従軍義務のある春秋の君子が非合理的道徳に従えば、あっさり戦場で討ち死にする羽目になる。

君子が君子に必要な、自ずから望ましい結果に至る行動をその都度繰り返し、正解にたどり着く行為を繰り返すことで、やっと他人にも通りうる道が生まれる。孔門の中で武将として、また官僚として実績のあった冉有が、「本立ちて道生まる」と言ったのはその事だ(論語学而篇2)。

また押しつけの道徳は、通るよう強制する者がていていは得をし続けるから強制するのだが、強制された者が正解に至るかどうかはまぐれ当たりだ。だから老子は見抜いて、「誰かが道と呼んだ道は、いつも通れる道ではない」と言い切った(『老子道徳経』01)。

だから人が各々新しい道を見つける事はあっても(人能弘道)、決められた枠で人の能力が高まるわけではないわけだ(非道弘人)。儒家と道家を対立するものと捉えるのも、帝国儒者の勝手な決めつけで、権力と民衆に別れて受け継がれた、ともに中華文明の精華であるには違いない。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰人能𢎞道非道𢎞人也註材大者道隨大材小者道隨小故不能𢎞人也


本文「子曰人能𢎞道非道𢎞人也」。
注釈。器量の大きな人物は、その器量に従って行動規範も広がる。小さい者は狭まる。だから規範が人を大きくすることは出来ないのだ。

これは四庫全書に収められたあとの文字列で、例えば「弘」を「𢎞」と記すのは乾隆帝のいみ名「弘暦」を避諱(はばかって同じ字を使わない)したもの。これ以外にも、東洋文庫蔵清家本では文字列が異なっている。

王肅曰才大者道隨大材小者道隨小故不能弘人也

王粛の名が四庫全書では消えている。四庫全書が拠った根本本でも消えており、先行する足利本にはあるが、本願寺坊主の手に成る文明本、さらに先行する正平本には無い。上掲での図では日本伝承の論語を、単純に清家本→正平本→文明本→足利本→根本本としたが、清家本に東洋文庫蔵・宮内庁書陵部蔵・京大蔵の版本があるように、伝承は単純に時代の先後だけで決まらない一例と言える。

日本伝承本では、文明本が勝手な書き換えをしている例がちらほらあるので、筆写した本願寺坊主の人品を論語という「道が広げるわけではない」と訳者は思っているのだが、坊主のみに濡れ袈裟をかぶせてかかるのもまた、訳者の「人を広げるわけではない」わけだ。

新注は次の通り。「道」を道徳として解釈するのがどれだけ間抜けか分かると思う。

新注『論語集注』

子曰:「人能弘道,非道弘人。」弘,廓而大之也。人外無道,道外無人。然人心有覺,而道體無為;故人能大其道,道不能大其人也。張子曰:「心能盡性,人能弘道也;性不知檢其心,非道弘人也。」


本文「子曰:人能弘道,非道弘人。」

弘とは器が広くて中身も大きいのを言う。人と関係の無いところに道は存在しないし、道の無い所に人は生きることが出来ない。だが人の心には感覚があるが、人道やその具現化した姿そのものは、何一つ行動を起こさない。だから人は人道を広めることが出来るが、人道がそれに順う人を大きくすることは出来ない。

張載?「心は人の本来の存在を具現化し尽くすことができる。だから人は人道を広げることが出来る。人の本来の性質は人道とは関係が無い。だから人道は人を広げることが出来ない。」

余話

しきい値を超えると

論語の本章は、こんにちの世界ではすでに通用しないだろう。今やネット無き時代が想像もつかないように、科学技術は確実に人間の精神世界を広げている。蒸気機関無き時代も同様で、庶民は生まれた村に住み、生涯をそこで終えて外の世界を見ないのが当然だった。

また論語の本章は、孔子の弱点を示している。孔子が生涯政治に関わったにも関わらず、その経済政策は所得の平均化と倹約しか無かったように、論語の時代に指折りの読書家であるにもかかわらず、経済や技術に関して孔子は無関心だった。好みに合わなかったのだろう。

鉄器 鍛冶屋
Photo via https://pixabay.com/ja/

論語の時代は技術的に一大転換期で、中国では初めて鉄器が普及した。鉄は地殻中に約4%あるが、銅は約0.005%しかなく、青銅に不可欠なスズに至っては、約0.00022%しかない。石ころの主成分・ケイ素が地殻に28%と聞けば、ざっとその量が分かるだろうか。

石を7つ拾えば、鉄を得る勘定になる。対して銅は5600個以上拾わねばならない。スズに当たれば奇跡だろう。その代わり鉄は精錬が難しく、酸素還元するのに大量の木炭が要る。コークスが出来た近代まで、木炭代用に石炭を使った鉄は、刃物としては使いものにならなかった。

しかし、農具として使う分には十分だった。論語の時代をさかのぼること約一世紀、斉の名宰相・管仲の言葉として下記の通り伝わっている。ただし『管子』は管仲の言葉をそのまま伝えた書籍ではなく、戦国から漢にかけての議論を管仲に付託して書かれたものとされている。

  • 青銅は貴重ですから剣や矛を鋳て、鉄はふんだんにありますから農具や工具にしましょう。剣や矛は犬や馬で試し斬りし、農具や工具は木や土で試しましょう。
  • 天下に銅山は四百六十七ケ所、鉄山は三千六百九ケ所です。(『管子』)

しかし論語の時代より前の時代、斉の都城・臨淄リンシではすでに製鉄が行われた遺構が発掘されており、管仲は鉄を知っていた可能性が高い。『管子』が後世の作であるとしても、鉄器の普及は論語の時代すでに始まっていた。

鋼鉄の製造が始まったらしい記録もある。西の辺境である秦国の石鼓文は、いつ刻まれたか議論百出で確定しがたい。だがおおかたは、孔子生前だろうとwikipediaが言う。刻まれたのは花崗岩で、花崗岩に刻むには鋼鉄なみの硬度が要る。鋼鉄は孔子生前にあり得たのだ。

それは巨大な影響を春秋時代の中国に及ぼした。

森林
自然環境から言えば、論語の時代の頃までは、黄河下流域は森林地帯だっただろう。なにせサイやゾウがいたからだ。しかし製鉄の木炭目当てに森は切り払われ、今日のような枯れた大地になってしまった。論語の時代の経済や学問の発展は、森や動物の犠牲で実現したと言っていい。

経済から言えば、衛の霊公が孔子に、仕事も与えないのに現代換算で111億円もの年俸をくれたのは(論語憲問篇20)、鉄器の普及による。「悪金」と呼ばれた鉄だが、個々の農民も金属農具を持てたことは、時代に対する破壊力が巨大で、経済上の核兵器と言っていい。

これは無茶な比較になるが、律令体制下の日本では、農民は金属農具を所有できず、朝役所に出向いて借り出し、夕方洗って返すのが定めだった。中国でも青銅器しかない時代には、個々の農民が金属農具を持てたとは思えず、木製で我慢するか有力者に借りるかしただろう。

上掲の『管子』によると、鉄器普及の黎明期、大国の斉の政府ですら、満足な量の青銅を保有できなかった。論語の時代にはまだ普及していなかった、青銅銭の単位が重さで表されたことも、資源としての青銅の貴重さを示している。元は地金が通貨の代用品だった名残だ。
半両銭
秦の半両銭

しかし鉄器を手にした論語の時代の中国人は、生産力と共に欲望を増大させた。だから道徳の衰退が嘆かれ、戦争も絶えなかった。しかしそれ以上に人々は、自分の創意工夫で集団から自由になり、好きなように生きるのを望んだ。必然的に、地縁血縁集団も解体に向かった。

鉄器は爆発的に生産を高めるからで、つまりは地縁血縁に頼らなくても、庶民は生きやすくなった。同様に殿様は周王に従わず、家老は殿様の命令を無視したが、これも依存しなくて良くなったからだ。孔子が自由に放浪でき、論語を残せたのも、一つには鉄器のおかげ。

家臣集団からはじき出された者を食わせる生産力を、鉄器がもたらしたからだ。つまり道徳・秩序崩壊と孔子の自由は同根で、どちらも鉄器の影響。すると孔子が戸板で津波を止めるように、論語で秩序回復を叫んだのは矛盾であり、後世の儒者によるでっち上げを示している。

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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