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『孟子』現代語訳:離婁下59

原文

曾子居武城,有越寇。或曰:「寇至,盍去諸?」曰:「無寓人於我室,毀傷其薪木。」寇退,則曰:「修我牆屋,我將反。」寇退,曾子反。左右曰:「待先生,如此其忠且敬也。寇至則先去以為民望,寇退則反,殆於不可。」沈猶行曰:「是非汝所知也。昔沈猶有負芻之禍,從先生者七十人,未有與焉。」

子思居於衛,有齊寇。或曰:「寇至,盍去諸?」子思曰:「如伋去,君誰與守?」

孟子曰:「曾子、子思同道。曾子,師也,父兄也;子思,臣也,微也。曾子、子思易地則皆然。」

書き下し

曾子武城に居たるに、越の寇(いくさ)有り。或るひと曰く、「寇至るに、盍ぞ諸れに去(ゆ)かざる」と。曰く、「人の我が室(へや)於(に)寓(やど)るを無からんとす、其れを毀ち傷りて薪木にせん」と。寇退けば則ち曰く、「我が牆屋(いえ)を修めん、我將に反りなん」と。寇退き、曾子反らんとするに、左右曰く、「待て先生、此の如きは其れ忠且つ敬なる也(や)。寇至らば則ち先ず去きて以て民の望みと為り、寇退かば則ち反るべきに、殆ど可(よ)ろしから不る於(に)あり」と。沈猶行曰く、「是れ汝の知る所に非ざる也。昔沈猶負芻之禍い有り、先生に從う者七十人あるも、未だ與(あずか)る有らざり焉(ぬ)」と。

子思衛於居たるに、齊の寇有り。或るひと曰く、「寇至るに、盍ぞ諸れに去かざる」と。子思曰く、「伋の如きが去かば、君誰か與(とも)に守らん」と。

孟子曰く、「曾子、子思道を同じくす。曾子は師也、父兄也。子思は臣也、微(わず)か也。曾子、子思地を易(か)えば、則ち皆な然り。」

現代日本語訳

曽子が武城(魯国南部のまち)に住んでいた。そこへ越軍が攻めてきた。

ある人「いくさが始まります。どうしてボンヤリしているのですか。」
曽子「どこぞの他人に、勝手に我が家に棲み着かれてはたまらない。逃げる前に叩き壊して薪にしてしまおう。」

やがて越軍が撤退した。曽子「では我が家を再建しよう。まちに帰るとするか。」
そう言って曽子が帰ろうとすると、身近な者が言った。

「先生ちょっとお待ちを。これが忠実で慎み深い者のすることですか。いくさが始まれば真っ先に参陣して民の希望を担い、敵軍が退いたら家に帰るのが君子の務めです。これでは君子らしくないと言われても仕方がありません。」

沈猶行が言った。「事の是非は君たちに分かることではない。むかし沈猶は負芻の戦乱をこの目で見たが、その時先生に従っていた者は七十人いた。だが従軍した者は一人もいなかった(先生はその時も従軍しなかったし、させなかったのだ)。」

子思が衛に住んでいた。そこへ斉軍が攻めてきた。

ある人「いくさが始まります。どうしてボンヤリしているのですか。」
子思「私のような(ひょろひょろ)者が戦場に出て行ったら(邪魔になるだけです)、あなたは一体誰と共に参陣するつもりですか(、もっと強い人を呼んだらいいでしょう)。」

孟子が申しました。「曽子と子思は同じ状況にあったが、曽子は大勢の弟子を引き連れていたし、老人でもあった。子思は一介の庶民に過ぎなかったし、何の力も無かった。曽子と子思が立場を変えても、どちらも正当な振る舞いと言える。」

語釈

曾子:孔子の弟子とされる。史実は弟子ではなく、孔子家の使用人と思われる。論語の人物:曽参子輿を参照。

武城:魯国南部のまち。孔門十哲の一人、子游が代官を務めたことがある(論語雍也篇14)。曽子の出身地とも言われる。

越:春秋諸侯国の一つ(wikipedia)。孔子一門との関係では、呉が魯を攻めようとした際、子貢が使者として越王勾践を動かし、呉の背後を牽制させた(『史記』伍子胥伝)。

寇:戦乱。正規軍によるものと山賊のたぐいによるものとを問わない。

或:ある人。

盍:「なんぞ…せざる」と読む再読文字。”どうして…しないのか”。

去:おもむく。現代中国語で「去(チィ)」と言えば”ゆく”が第一義で、この語義は甲骨文からあった。甲骨文の字形は「大」”人の正面形”+「𠙵」”くち”で、”立ち去る”・”離れる”を意味し、また”ゆく”・”おもむく”を意味した。

王其去告于祖辛
王其れ去(ゆ)きて祖辛于(に)告げんか。(『甲骨文合集』01724正.1)


甲申卜去雨于河 吉
甲申卜(うらな)う、去きて河于雨(あまご)いせんか。吉(よ)し。(『小屯南地甲骨』679.1)

『孟子』が相当する戦国時代までにでは、

  • ”避ける”(孟子、梁惠王下)「昔者大王居邠,狄人侵之,去之岐山之下居焉。」
  • ”取り除く”(孟子、公孫丑下)「子之持戟之士,一日而三失伍,則去之否乎。」

の意があった。詳細は論語語釈「去」を参照。

室:”部屋”

毀傷其薪木:”家を壊して薪にする”。(S)VOOの語形。

牆屋:屋敷塀と建物。

反:帰る。

先生:現代中国語では男性に対する軽い敬称”…さん”に過ぎないが、戦国時代までは”長老”(論語為政篇8「有酒食先生饌」)・”師匠”(『小載礼記』曲礼「遭先生於道,趨而進,正立拱手。」)の意があった。

如此其忠且敬也:”こんなので忠とか敬とか言えますか”。「忠」は戦国時代になって生まれた新しい概念で、領民に忠君愛国をすり込んで洗脳しないと困った諸侯の求めに応じ、当時のインテリがこしらえた戦時スローガン。

”武城の住人が曽子を敬っている”と解するのは、根拠も無く朱子が言い出した出任せの受け売りで、賛成できない。

忠敬,言武城之大夫事曾子,忠誠恭敬也。


忠敬とは、武城の領主が曽子に奉仕して、忠実で誠実で恭しく尊敬したということだ。(『孟子集注』)

寇至則先去以為民望:”いくさになったら真っ先に従軍して民の希望になる”。朱子が滅茶苦茶な理屈を付けて以降、誤読が世に広がっているが、庶民が徴兵されて殺し合いを強制された戦国時代、真っ先に逃げ出した男が「民望」になれるわけがない。

為民望,言使民望而效之。


為民望とは、民に曽子を拝ませて見習わせることだ。(『孟子集注』)

民が曽子を見習って逃げ出したら、兵がいなくなって領主は防戦に困るだろうに。

民望:”民の希望”。「望」は”遠くを見る”が原義。春秋戦国では”満月”の意に用いられ、転じて”仰ぎ見るもの”となった。詳細は論語語釈「望」を参照。

沈猶行:古来誰だか分からない。「昔沈猶」と自分を姓氏で呼んでいるが、これは春秋戦国の作法としてはもの凄く威張った言い方になる。『孔子家語』によると、孔子が法相を務めていたときに魯に沈猶という肉屋があり、毎朝羊に水を飲ませて太ったように見せかけ、客をだましていたという。この伝説は『荀子』にもあるから、戦国時代にはすでに広まっていたようだ。

負芻之禍:古来どんな災難なのか分からない。以下の朱子の書き付けは、どのような伝説に拠るのか全く分からない。

沈猶行,弟子姓名也。言曾子嘗舍於沈猶氏,時有負芻者作亂,來攻沈猶氏,曾子率其弟子去之,不與其難。


沈猶行は、弟子の姓名である。曽子はかつて沈猶氏の屋敷に居候しており、その時負芻に反乱を起こし、沈猶氏に攻めかかった者がいた。曽子は弟子を率いて逃げ出し、災難を逃れた。

「負芻」は「まぐさを負う」と読めるが(『新序』雑事51など)、”まぐさを担ぐ災難”と解してはわけが分からないので、古来地名と解する。そうするしか無い。また春秋戦国の人名でもあり(『春秋左氏伝』襄公十八)、楚の最後の王の名でもある(『史記』楚世家98)。

子思:孔子の孫。伋はいみ名(本名)。

衛:魯国の北にあった諸侯国。孔子の生前、やり手の霊公が統治し、よく治まっていた。孔門十哲の一人、子貢の出身地でもある。

君:”きみ”。戦国時代までに、”君主”・”大臣”の意があり、また男性貴族への敬称に用いた。

父兄:「子弟」に対する語で、原義は”年長者”。

臣:原義は”庶民”で、必ずしも仕官した者を指さない。

微:”かすか”。身分が低い。力が弱い。

易:”取り替える”。

皆然:”どちらも正しい”。()

論語内容補足
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