原文
上諭
雍正二年甲辰秋七月。…丁巳。諭諸王貝勒公滿漢文武官員等。朕卽位後。於初御門聽政日。卽面諭諸王文武大臣。諄諄以朋黨爲戒。今一年以來。此風猶未盡除。聖祖仁皇帝。亦時以朋黨訓誡廷臣。倶不能仰體聖心。每分別門戶。彼此傾陷。分爲兩三黨。各有私人。一時無知之流。不入於此。卽入於彼。
朕在藩邸時。敬愼獨立。深以朋黨爲戒。從不示恩。亦無結怨。設若朕當年在朋黨之内。今日何顏對諸臣。降此諭旨乎。皇考深知朕從無偏黨。必能保全爾諸臣名節。故命朕纘承大統。今日大小臣工。所以安然無亊。得享太平之福者。皆我皇考之恩賜也。朕平日竝未樹立黨援。而登踐寶位。爾等亦可知朋黨之無益矣。
夫朋友亦五倫之一。徃來交際。原所不廢。但投分相好。止可施於平日。至於朝廷公亊。則宜秉公持正。不可稍涉黨援之私。朕今御製朋黨論一篇頒示。爾等須洗心滌慮。詳玩熟體。如自信素不預朋黨者。則當益加勉勵。如或不能自保。則當痛改前非。務期君臣一德一心。同好惡公是非。斷不可存門戶之見。卽爾等彼此亦當相互砥礪。時相訓誡。行事共求當理。
諸臣不負朕心。則朕可不負皇考付託之重。朕之不負皇考。全在爾諸臣之贊成朕。得爲天下之令主也。諸臣不負朕。朕豈忍負諸臣乎。朕之用人加恩。容有未當之處。或不能自信。至於治人以罪。無不詳愼。間有法外寬貸之處。不令人知者。亦求至當。從未隨意輕加呵斥。此朕可自信者也。
如七十之惡亂。舉國皆知。發遣在道。竟寬其械繋。臨行時。王大臣内。多有贈遺。此朋黨未消之明驗也。夫朕用一人。而非其黨者嫉之。罸一人。而是其黨者庇之。使榮辱不關於賞罸。則國法安在乎。嗣後朋黨之習。務宜盡除。爾等須捫心自問。不可陽奉陰違。以致欺君罔上。悖理違天。毋謂朕恩寬大。罪不加衆。
倘自干國法。萬不能寬。朕雖未必盡行誅戮。然或千人之中百人。百人之中十人。爾等能自保不在百人之列乎。爾等務期斷絕黨私。同心補佐。盡誠極言。勿使朕躬有過。此朕所厚望於爾等也。凡人於朋友箴規。尚不可背。况君臣大義耶。爾等當上念朝廷任用之恩。下爲身家子孫之計。各勉之愼之。
本論
御製朋党論曰。朕惟天尊地卑。而君臣之分定。爲人臣者。義當惟知有君。惟知有君,則其情固結不可解。而能與君同好惡,夫是之謂一德一心而上下交。乃有心懷二三。不能與君同好惡。以至于上下之情暌,而尊卑之分逆。則皆朋黨之習爲之害也。
夫人君之好惡。惟求其至公而已矣。凡用捨進退。孰不以其爲賢而進之。以其不賢而退之。或恐其所見之未盡當也。故虛其心以博稽衆論。然必衆論盡歸于至正。而人君從之方合于大公。若朋黨之徒。挾偏私以惑主聽。而人君或誤用之則是以至公之心。反成其爲至私之事矣。
孟子論國君之進賢退不肖。既合左右諸大夫國人之論。而必加察焉。以親見其賢否之實。洪範稽疑。以謀及乃心者。求卿士庶民之從。而皇極敷言。必戒其好惡偏黨。以歸于王道之蕩平正直。若是乎。人君之不自用。而必欲盡化天下之偏私以成大同也。人臣乃敢溺私心。樹朋黨。各徇其好惡以爲是非。至使人君懲偏聽之生姦。謂反不如獨見之公也。朋黨之罪。可勝誅乎。
我聖祖仁皇帝御極六十年。用人行政。邁越千古帝王。而大小臣僚。未能盡矢公忠。往往要結朋黨。聖祖戒飭再三。未能盡改。朕即位以來。屢加申飭。而此風尚存。彼不顧好惡之公。而徇其私暱。牢不可破。
上用一人。則相與議之曰。是某所汲引者也。于是乎遠之若浼。曰。吾避嫌也。不附勢也。爭懷妒心。交騰謗口。以媒蘗之。必欲去之而後快。上去一人。則相與議之曰。是某所中傷者也。親暱者爲之惋惜。疎遠者亦慰藉稱屈。即素有嫌隙者。至此反致其慇勤。欲藉以釋憾而脩好。求一人責其改過自新者。無有也。于是乎其人亦不復自知其過惡。而愈以滋其怨上之心。
是朝廷之賞罰黜陟。不足爲輕重。而轉以黨人之咨嗟嘆惜爲榮。以黨人之指摘詆訾爲辱。亂天下之公是公非。作好惡以陰撓人主予奪之柄。朋黨之爲害。一至是哉。且使人主之好惡而果有未公。則何不面折廷諍。而爲是陽奉陰違。以遂其植黨營私之計也。
書曰。予違汝弼。汝無面從。退有後言。當時君臣告語。望其匡弼。而以面從後言爲戒。夫是故一堂之上。都兪吁咈。用能賡歌颺拜。以成太和之運。朕無日不延見群臣。造膝陳詞。何事不可盡達。顧乃默無獻替。而狡獪叵測。蓄私見以肆爲後言。事君之義。當如是乎。
古純臣之事君也。必期致吾君于堯舜。而人君亦當以堯舜自待其身。豈惟當以堯舜待其身。亦當以皋夔稷契待其臣。孟子曰。責難于君謂之恭。陳善閉邪謂之敬。吾君不能謂之賊。夫以吾君不能而謂之賊。則爲君者。以吾臣不能。亦當謂之忍。語云。取法乎上。僅得乎中。茍不以唐虞君臣相期待。而區區傚法。僅在漢唐以下。是烏能廓然盡去其私心。而悉合乎大公至正之則哉。
宋歐陽脩朋黨論。創爲異說曰。君子以同道爲朋。夫罔上行私。安得謂道。脩之所謂道。亦小人之道耳。自有此論。而小人之爲朋者。皆得假同道之名。以濟其同利之實。朕以爲君子無朋。惟小人則有之。且如脩之論。將使終其黨者。則爲君子。解散而不終于黨者。反爲小人乎。設脩在今日而爲此論。朕必飭之以正其惑。
大牴文人掉弄筆舌。但求騁其才辯。每至害理傷道而不恤。惟六經語孟。及宋五子傳註。可奉爲典要。論語謂君子不黨。在易渙之六四曰。渙其群。元吉。硃子謂上承九五。下無應與。爲能散其朋黨之象。大善而吉。然則君子之必無朋黨。而朋黨之必貴解散。以求元吉。聖人之垂訓。亦既明且切矣。
夫朋友亦五倫之一。朋黨不可有而朋友之道不可無。然惟草茅伏處之時。恆資其講習以相佽助。今既登朝蒞官。則君臣爲公義。而朋友爲私情。人臣當以公滅私。豈得稍顧私情而違公義。且即以君親之並重。而出身事主。則以其身致之于君。而尚不能爲父母有。況朋友乎。況可藉口于朋以怙其黨乎。
朕自四十五年來。一切情偽。無不洞矚。今臨御之後。思移風易俗。躋斯世于熙皞之盛。故兼聽並觀。周諏博採。以詳悉世務。且熟察風俗之變易與否。而無知小人。輒議朕爲煩苛瑣細。有云人君不當親庶務者。信若斯言。則皋陶之陳謨。何以云云一日二日萬幾。孔子之贊舜。何以云好問好察。此皆朋黨之錮習未去。畏人君之英察。而欲蒙蔽耳目。以自便其好惡之私焉耳。
朕在藩邸時。坦易光明。不樹私恩小惠。與滿漢臣工。素無交與。有欲往來門下者。嚴加拒絕。聖祖鑒朕居心行事。公正無私。故令纘承大統。今之好爲朋黨者。不過冀其攀援扶植緩急可恃。而不知其無益也。徒自逆天悖義。以陷于誅絕之罪。亦甚可憫矣。
朕願滿漢文武大小諸臣。合爲一心。共竭忠悃。與君同其好惡之公。恪遵大易論語之明訓。而盡去其朋比黨援之積習。庶肅然有以凜尊卑之分。歡然有以洽上下之情。虞廷賡歌颺拜。明良喜起之休風。豈不再見于今日哉。
書き下し
上諭
雍正二年甲辰秋七月。…丁巳。諸王、貝勒(ベイレ)*、公、滿漢文武官員等に諭す。朕卽位の後、初めて門に御(い)で*政を聽くの日に於いて、卽ち諸王、文武大臣に面(む)きて諭すに、諄諄として朋黨を以て戒むべしと爲せり。今一年以來、此の風猶お未だ盡くは除かれず。聖祖仁皇帝、亦た時に朋黨を以て廷臣に訓誡せるも、倶に聖心を仰ぎ體する能わ不。每に門戶を分別し、彼れ此れを傾陷*し、分れて兩三黨と爲り、各の私人有り。一時、無知之流、此れ於入ら不らば、卽ち彼於入る。
朕藩邸に在りし時、敬い愼みて獨り立つ。深く朋黨を以て戒めと爲し、從りて恩を示さ不。亦た怨みを結ぶ無し。設(も)し若(も)し朕當年朋黨之内に在らば、今日何の顏ありて諸臣と對(むか)い、此の諭しの旨を降さん乎(や)。皇考深く朕の黨に偏る無きに從い、必ず能く全て爾諸臣の名節を保たんと知り、故に朕に命じて大統を纘(つ)ぎ承(つ)がせり。今日、大小の臣工安然無亊にして、太平之福いを得て享くるの所以者(は)。皆な我が皇考之恩賜也。朕平日竝びに未だ黨の援けを樹て立てず、し而寶位に登り踐めり。爾等亦た朋黨之益無きを知る可き矣*。
夫れ朋友も亦た五倫之一なり。徃來し交際するは、原より廢れ不る所なるも、但だ投分(なかよ)く相い好むは、止めて平日於施す可し。朝廷の公亊於至りては、則ち宜く公を秉りて正しきを持つべし。稍(やや)も黨援之私に涉る可から不。朕今朋黨論一篇を御(みずか)ら製りて頒ち示す。爾等須く心を洗い慮いを滌(あら)え。詳かに玩(あじわ)いて熟(よ)く體せよ。如し自ら素より朋黨に預ら不るを信ずる者は、則ち當に益す勉勵を加うべし。如し或いは自ら保つ能わ不らば、則ち當に痛く前非を改むべし。務めて期むらく、君臣德を一に心を一に、好惡を同じくし是非を公けにせん。斷じて門戶之見存る可から不。卽ち爾等彼此も亦た、當に相いに互いに砥き礪き、時相いに訓誡し、事を行うには共に理に當るを求むべし。
諸臣朕が心に負か不らば、則ち朕皇考付託之重きに負か不る可し。朕之皇考に負か不るは、全く爾諸臣之朕を贊成し、天下之令主爲るを得るに在る也。諸臣朕に負か不らば、朕豈に諸臣に負くを忍ばん乎。朕之人を用い恩を加うるは、容(まさ)に未だ當らざる之處有るべし。或いは自ら信ずる能わ不。人を治むるに罪を以いる於至りては、詳に愼ま不る無く、間ま法外寬貸之處有るも、人を令て知らしめ不る者、亦た當に至るを求め、未だ意の隨に輕く呵斥を加えざるに從る。此れ朕自ら信ずる可き者也。
七十*之惡亂の如きは、國を舉げて皆な知れり。發(いだ)し遣わして道に在るもの、竟に其の械繋を寬めり。行に臨みし時、王大臣の内、贈り遺るもの多く有り。此れ朋黨未だ消えざる之明かな驗也。夫れ朕の一人を用いば、し而其の黨を非(とが)むる者之を嫉む。一人を罸さば、し而其の黨を是しとする者之を庇う。榮辱を使て賞罸於關ら不らしむれば、則ち國法安にか在らん乎。嗣後朋黨之習い、務めて宜しく盡く除くべし。爾等須く心を捫(な)で自ら問うべし。陽に奉じ陰に違い、以て君を欺き上を罔し、理に悖り天に違うを致す可から不。朕の恩寬大にして、罪の衆に加え不ると謂う毋れ。
倘(も)し自ら國法を干さば、萬に寬がせにする能わ不。朕未だ必ず盡く誅戮を行わざると雖も、然れど或いは千人之中百人、百人之中十人、爾等能く自ら百人之列に在ら不るを保たん乎。爾等務めて黨私を斷絕するを期せ。心を同うして補佐し、誠を盡し言を極めよ。朕躬ら過有ら使むる勿れ。此れ朕厚く爾等於望む所也。凡そ人の朋友於箴規あるは、尚お背く可から不。况や君臣大義を耶。爾等當に上は朝廷任用之恩を念い、下は身家子孫之計を爲(はか)れ。各の之勉め之愼めよや。
本論
御製朋党論に曰く。朕惟うに天は尊く地は卑し。し而君臣之分定まる。人の臣爲る者、義として當に惟だ君有るを知るべし。惟だ君有るを知らば、則ち其の情固より結びて解く可から不。し而能く君與好惡を同じくせん。夫れ是れを之れ一德一心にし而上下交わると謂う。乃(すなわ)ち*心に二三を懷き、君與好惡を同じくする能わ不る有り。以て上下之情暌(そむ)く于至り、し而尊卑之分逆またる。則ち皆な朋黨之習い之が害を爲す也。
夫れ人君之好惡は、惟だ其れ公を至すを求むる而已矣(のみ)。凡そ用捨進退、孰か其れ賢爲り而之を進むるを以い不、其の賢なら不り而之を退くを以いん。或いは恐く其の見る所之未だ當を盡さざるある也。故に其の心を虛しうして以て博く衆論を稽う。然らば必ず衆論盡き至正于歸り、し而人君之に從うは方に大公于合うなり。若し朋黨之徒、偏り私なるを挾みて以て主の聽くを惑し、し而人君或いは誤りて之を用いば、則ち是れ至公之心を以て、反りて其の至私之事を爲すに成る矣。
孟子論ずらく*、國君之賢を進め不肖を退くは、既に左右諸大夫國人之論を合せ、し而必ず察るを加わえ焉りて、以て親しく其の賢否之實を見るべしと。洪範稽疑*にいわく、以て謀を乃の心に及ぼすと者、卿士庶民之從うを求めたり。し而皇極の敷言*に、必ず其の好惡偏黨を戒め、以て王道之蕩平にして正直于歸せよと。是の若き乎、人君之自ら用い不、し而必ず盡く天下之私に偏るを化して以て大同を成さんと欲する也。人臣乃ち敢えて私心に溺れ、朋黨を樹て、各の其の好惡に徇い以て是非を爲り、人君を使て聽くに偏る之姦いを生むに懲り、反りて獨り見る之公に如か不と謂わしむるに至る也。朋黨之罪、勝げて誅む可き乎。
我が聖祖仁皇帝極を御すること六十年、人を用い政を行うに、千古の帝王を邁(す)ぎ越す。而るに大小の臣僚、未だ能く盡くは公にして忠なるを矢(ちか)わず、往往にして朋黨を結ぶを要む。聖祖戒飭すること再三なるも、未だ能く盡くは改らず。朕即位以來、屢ば申飭を加えしも、而るに此の風尚お存り、彼の好惡之公なるを顧りみ不、し而其の私にして暱(わたくし)なるに徇うこと、牢として破る可から不。
上の一人を用うるや、則ち相い與に之を議りて曰く、是れ某の汲み引く所の者也と。是に于(お)いて乎、之を遠ざくこと浼(けが)るるが若しとし、曰く、吾れ嫌(うたが)いを避くる也、勢いに附か不る也と。爭いて妒みの心を懷き、交も謗りの口を騰げ、以て之を媒蘗(おとしい)*れんとし、必ず之を去り而後快からんと欲す。上の一人を去るや、則ち相い與に之を議りて曰く、是れ某の中り傷なう所の者也と。親しみ暱(ちか)き者が之が爲め惋(なげ)き惜しみ、疎遠なる者は亦た慰め藉(たす)けて屈(ぬれぎぬ)と稱す。即(も)し素より嫌い隙有る者は、此に至りて反りて其の慇勤を致し、藉りて以て憾みを釋き而好みを脩めんと欲す。一人だも其を責め過りを改め自ら新たならんを求むる者、有る無き也。是に于いて乎、其の人も亦た復た自ら其の過惡を知ら不、し而愈よ以て其の上を怨む之心を滋(やしな)う。
是れ朝廷之賞罰黜陟の、輕重を爲すに足ら不、し而轉じて黨人之咨嗟(ほめそや)し歎き惜むを以て榮と爲し、黨人之指摘し詆(そし)り訾(そし)るを以て辱めと爲し、天下之公けなる是と公けなる非を亂し、好惡を作して以て陰に人主の予奪之柄を撓む。朋黨之害を爲すや、一に是に至る哉(かな)。且(も)し人主之好惡を使而果して未だ公ならざる有らば、則ち何ぞ面に折(いさ)め廷(おおやけ)に諍わ不、し而是れ陽に奉り陰に違うを爲し、以て其の黨を植(た)て私を營む之計を遂げん也。
書に曰く、予違わば汝弼けよ。汝面に從いて退きて後言有る無かれと。當時君臣告げ語げて、其の匡弼を望み、し而面に從い後に言うを以て戒めと爲せり。夫れ是れ、故に一堂之上、都(ああ)・兪(しかり)・吁(ああ)・咈(いな)あり、用て能く賡(つ)いで歌い颺(あ)げて拜み、以て太和之運を成せり。朕は日に群臣を延(よ)び見不る無く、膝に造(いた)り詞を陳べたらば、何事か盡く達す可から不らん。顧みて乃ち默りて獻替(たす)くる無く、し而狡獪なるを測る叵(あたわず)、私の見(おも)いを蓄えて以て肆(ほしいまま)に後言を爲すは、君に事える之義、當に是の如くあるべき乎。
古えの純(まこと)の臣之君に事うる也、必ず吾が君を堯舜于致さんと期(のぞ)む。し而人君亦た當に堯舜を以て自ら其の身に待つべかりき。豈に惟だ當に堯舜を以て其の身に待つべきのみならんより、亦た當に皋夔稷契を以て其の臣に待つべし。孟子曰く*、難きを君于責むるは之を恭と謂い、善きを陳べ邪を閉ずるは之を敬と謂い、吾が君の能くせ不るは之を賊と謂うと。夫れ吾が君の能わ不るを以而之を賊と謂わば、則ち君爲る者、吾は臣の能わ不るを以て、亦た當に之を忍と謂うべし。語に云う、法を上乎取らば、僅に中乎得んと。茍し唐虞の君臣相い期み待つを以い不、し而區區として傚い法ること、僅かに漢唐以下に在らば、是れ烏(いづく)んぞ能く廓(ひろ)き然(た)りて其の私心を去(のぞ)くを盡し、し而悉く大いなる公乎合わせ之を正すの則に至らん哉。
宋の歐陽脩の朋黨論、創めて*異說を爲りて曰く。君子は道を同じうするを以て朋と爲すと。夫れ上を罔(なみ)し私を行わば、安ぞ道と謂うを得んや。脩之道と謂う所は、亦た小人之道耳。此の論有りて自り、し而小人之朋を爲る者、皆な道を同じうする之名を假るを得て、以て其の利を同じうする之實を濟(な)す*。朕の以爲らく、君子は朋無く、惟だ小人則ち之れ有り。且つ脩之論の如きは、將に其の黨を終うる者は則ち君子爲りて、解き散り而黨于終え不る者は反りて小人爲ら使むる乎。設(も)し脩今日に在り而此の論を爲らば、朕必ず之を飭めて以て其の惑いを正さん。
大牴文人は筆舌を掉(ふる)い弄び、但だ其の才辯を騁するを求め、每に理を害ね道を傷り而恤え不るに至る。惟だ六經語孟、及び宋五子*傳註のみ、奉りて典要と爲す可し。論語に謂く、君子は黨(つる)ま不と。易の渙之六四在りては曰く、其の群れを渙くは*、元(おお)いに吉しと。朱子謂く*、上に九五を承け、下に應じ與(くみ)する無きは、能く其の朋黨之象を散らすと爲し、大いに善くし而吉きなりと。然らば則ち君子之必ず朋黨無く、し而朋黨之必ず解り散を貴び、以て大いなる吉きを求むるが、聖人之垂れたる訓えにして、亦た既に明らか且つ切(あまりな)き矣。
夫れ朋友は亦た五倫之一なるも、朋黨は有る可から不るし而朋友之道無かる可から不。然るに惟だ草茅に伏し處る之時は、恆に其の講え習いて以て相い佽(たす)け助くるの資たらん。今既に朝(おおやけ)に登り官(かみ)に蒞みたらば、則ち君臣公の義を爲し、し而朋友は私の情いを爲す。人臣は當に公を以て私を滅すべし。豈に稍も私の情いを顧み而公の義を違うるを得んや。且つ即ち君と親之以て並びて重くも、而るに身を出して主に事うれば、則ち其の身の以て之を君于致し、し而尚お父母の有てると爲す能わ不す。況んや朋友を乎。況んや朋于口を藉りて以て其の黨を怙(たの)む可き乎。
朕四十五年自り來のかた、一切偽りを情(おも)わず、洞(あきら)かに矚(み)不る無し。今御に臨みて之後、風(ならわし)を移して俗(しきたり)を易えんと思わば、斯の世の熙皞之盛ん于躋(のぼ)さんとす。故に兼ねて聽き並びて觀、周く諏(と)い博く採り、以て世の務めを詳しく悉らかにし、且つ風俗之變え易うべき與(と)否とを熟く察(かんが)えんとす。而るに知無き小人、輒ち*朕を議りて煩苛(わずらわうるさ)く瑣細(こま)かしと爲し、人君の當に庶の務めを親しくすべから不と云う者有り。信に斯の言の若くんば、則ち皋陶之謨(はかりごと)を陳ぶるに、何ぞ一日二日に萬幾と云うを以いんや。孔子之舜を贊えるに、何ぞ問うを好み察るを好むと云うを以いん。此れ皆な朋黨之錮(かた)き習いの未だ去らず、人君之英察を畏れ、し而耳目を蒙まし蔽い、以て自ら其の好惡之私に便りし焉らんと欲むる耳。
朕藩邸に在りし時、坦(たい)らかに易(たい)らかにして光るく明し。私の恩、小さき惠みを樹て不。滿漢の臣工與、素より交り與かる無し。門下に往き來せんことを欲むる者有れども、嚴しく拒み絕つを加う。聖祖朕の心に居り事を行い、公けにして正しく私無きを鑒み、故に大いなる統(すぢ)を纘(つ)ぎ承が令む。今之朋黨を爲るを好む者は、其の扶け植(た)つるを攀(ひ)き援け、緩め急くあるときの恃む可きを冀うに過ぎ不、し而其の益無きを不知ら不る也。徒に自ら天に逆い義に悖り、以て誅め絕たるる之罪于陷つ。亦た甚だ憫れむ可き矣。
朕の滿漢文武大小諸臣に願わくは、合せて一心を爲し、共に忠(まめ)にして悃(まこと)なるを竭し、君與其の好惡之公けを同じくし、大易論語之明かな訓えに恪(つつし)み遵い、し而盡く其の朋比黨援之積みし習いを去かんを。庶わくば肅み然りて尊卑之分を凜(つつ)しむを以いる有りて、歡び然りて上下之情いを洽くするを以いる有らんことを。虞廷に賡(つ)ぎ歌い颺(あ)げて拜み、明かにして良きもの喜びて起つ之休(よ)き風(なら)い、豈に再び今日于見不らん哉。
現代日本語訳
上諭
雍正二年甲(きのえ)辰(たつ)(1724)秋七月。…丁(ひのと)巳(み)の日。我が大清帝国の宗室、貴族諸賢、満族漢族の文武百官に申し渡す。朕は即位して後、初めて決裁の場に出たとき、貴族諸賢や文武の閣僚に面と向かって、ねんごろに申し渡した。つるんで党派を作ってはならん、と。それから一年。党派の弊風は今なお根絶してはおらん。父上康煕帝陛下も、世継ぎの問題に苦悩され、同じように時にふれ党派の問題を廷臣に戒めたが、廷臣一体となって父上の言葉を噛みしめ、実現させることが出来なかった。どの者もどの皇子を帝位に就けるか、自他の党派を区別し、陰口をたたいては他派の者を陥れ、最終的に六派に分かれ、誰もが目当ての皇子に帝位を継がせようとし、一時期には無知なやからが、ある党派でなければ必ず別の党に入っているありさまだった。
朕はただの皇子として藩邸に住まっておった時、父陛下のお言葉を敬い慎んで、どの党派とも付き合わなかった。深く党派を心から禁じ、誰にもエサを見せつけて呼び込まなかったし、怨まれるようなこともしなかった。もし仮に、朕が当時どこかの党派に入っておったら、今日になってどの面下げて諸君と面談し、党派禁止の説教を説けるというのか。父陛下は朕が心底党派を嫌い他党派排斥と自分の即位運動をしないのをご覧になり、必ず諸君等廷臣の名誉を保ち、その節操を戒め正すとお考えになり、だから朕に命じて偉大なる帝位を継がせたもうた。今日、大小の諸官が安心無事に、太平の世の幸福を受けることが出来る理由は、全て父陛下のありがたいお恵みである。朕は平素から常に自分の党派を立てて頼ろうとしなかったから、そうして尊い帝位に上ってあとを継いだ。諸君等もまた、党派に利益など無いことを知ったら良いのだ。
そもそも、朋友は人が守るべき五つの倫理の一つである。互いに行き来して交際するのは、言うまでもなく止めてはならんことだが、仲良くし互いに好き合うのは、普段の私的生活に止めるべきだ。朝廷で公務に携わる時は、必ず公平を保って正しさを保つべきだ。僅かでも党派の利益を図ってはならん。だから朕は、いま自ら朋党論を書いて諸君等に配り読ませる。諸君等はこれを読んで、必ずすっかりと心を洗い欲望を清めよ。この文を一字一句味わいながら読み、欠けることの無いよう実現せよ。もしはじめから自分が党派に属していないと信じる者は、必ず一層の努力を払って党派を寄せ付けぬようにせよ。もし党派と無関係ではいられない者は、必ずこれまでの過ちを痛感して行いを改めよ。そうした諸君等の努力いかんによって、明るい未来が開けている。是非とも君主と臣下が行動規範と心を一つにして、好悪を同じくし善悪の判断を公平にしようではないか。すっぱりと党派の利益に沿った見解を断ち切ろうではないか。そのためには諸君等の誰も彼も、互いに磨き合って、時に触れて忠告し合い、政務に当たるには共同して理の当然に合致するよう求めるのだ。
そのように諸君が朕の願いに背かないなら、朕も必ず父陛下より委ねられた、重い責任から逃げ出さぬことができる。朕が父陛下に背かないためには、全て諸君の朕に対する協力が必要で、そのおかげで天下の主であり続けられるのだ。諸君が朕に背かないなら、朕はどうして平気で諸君を裏切ったりできるか。もちろん朕が決めた人事や褒美を与えたことには、当然妥当と言えないことがあったに違いない。時に、やり損なった、と思わないでも無い。だが罪人の刑罰に関しては、詳しく調べ慎重に慎重を重ねて、今のところ好き勝手に軽々しく罰を加えたことは無かった。朕には司法をやり損なった覚えが無いぞ。
そこでじゃ。外戚の満族・七十めは朕の即位を阻み、父陛下の晩年を汚したこと、天下こぞって知っておろう。だが朕が流罪に処して送り出したとき、護送役人の中には同情して、果ては途中で首かせを緩めてやった者までおる。出発の時も、貴族や大臣の中には、餞別を渡す者が少なからずおった。これは帝位争奪の派閥が、まだ消え去っていないことの明らかな証拠である。だから朕がとある役人を重用すると、反対党派の者が必ず出てきて妬みそねむ。とある役人を罰すると、同じ党派の者が必ず出てきてかばおうとする。公的な賞罰が世間で賞罰と受け取られないようでは、いったい国法がどうやって成り立つというのか。帝位争奪の党派は、徹底的に当然として一つ残らず消し潰せ。諸君は自分の胸に手を当てて、党派に属しているかどうか、自分に問え。表で朕の命を奉り、裏でないがしろにし、それで君主をだましお上を誤魔化し、道理に外れ天に逆らう結果になってはならぬ。朕が憐れみ深く、寛大で、一度に大勢の者を罰することなど出来はしない、などと思うな。
もし自分から国法に違反するなら、万に一つも目こぼしすることはありえない。朕は悪党をことごとく処刑し尽くしてはいないが、千人のうち百人、あるいは百人のうち十人は、首をちょん切るかも知れぬぞよ。諸君はその百人の内に入らずに済むかどうか、自分でどうにか出来ると思っているのかね。だから諸君はその前に、必死になって党派と縁を切るのが得ではないかね。この上で心を一つにして朕を補佐し、誠実をつくしウソの無い言葉でズケズケ申せ。朕に間違いを起こさせるな。これこそが、朕が諸君にとりわけ希望することである。そもそも交友には定めがあって、それはそれで背くわけに行かない。だが君臣の付き合いは、それ以上に優先すべき重大な定めがあること、言うまでも無い。諸君等は上を仰いで朝廷が取り立てた恩を噛みしめ、下を見て自分や家族や子孫の繁栄を図れ。諸君の一人一人、よく努力し、よく慎め。
本論
では朕自らしたためた朋党論を説く。朕はまず、天は高く地は低いという宇宙の根本原則を思う。ゆえに同様にして、君臣の分別は尊と卑に定まる。だから人の臣たる者は、ただ主君だけにひたすら仕えるのが正義だと知れ。主君だけに仕えることを納得したなら、必ずその性根は堅く定まってぐらつくことは無い。こうやって初めて、主君と好悪を同じに出来るのだ。これこそが、道徳も心も一つに定まって、君臣がよき交わりをする、と言えるのだ。それなのに臣下の分際で心に別のことを思い、主君と好悪を同じくできない者がおる。そうなれば君臣の感情に食い違いが出来、尊卑の区別が逆になってしまう。だがこれは、必ず朋党の習慣が起こす災いなのだ。
そもそも君主の好悪は、ひたすら公共の利益を願っての結果に他ならない。だから全ての人事を行うには、どこの君主が賢臣を取り立てず、馬鹿者を追い払わないでいられようか。だが君主も人間であるから、場合によっては臣下の力量を見極めるのに、し損ないが全くないとは言えない。だから君主は我欲を押さえて、広く世論の言うところを参考にする。そうすれば世論が全てくみ取られ、人事は理の当然に行きつき、その結果に君主が従えば、大いに公共の利益にかなうのである。ところが朋党のやからが、偏った自分勝手な理屈を言い立て、それで君主の判断をまどわせると、時には君主も間違ってそのようなやからの意見を採り上げてしまうことがある。それは必ず、君主の公共に仕える心を利用して、かえって身勝手な私欲を実現することになるのだ。
孟子は申した。国君が賢者を登用し馬鹿者を追い払うには、まず左右の重臣たちや士族たちの意見を聞き回ってから、それに必ず他の情報による検討を加えて、その上で自分で人材の善し悪しを見極めろ、と。『書経』洪範篇・稽疑にいわく、もし君主が世の者を疑うなら、貴族や庶民も同様に疑う時に限るように、と。『書経』洪範篇・皇極にいわく、必ず臣下の好悪の感情、一党に偏ることを戒め、それで王の政道を平らかに、かつ正道に基づくよう導け、と。全くその通りであろう。人の君主たる者、自分勝手な判断を慎み、同時に天下の利権に巣食う派閥のやからを躾けて、大いなる太平の世を乞い願うのは当たり前であるから。それなのに臣下の者の中には、好き好んで自分勝手に溺れ、朋党を建て、それぞれが勝手な理屈で善悪の判断をする者がおる。だからうんざりした君主が、どうせ意見を聞いてもこ奴らは勝手なことしか言わんと決めつけて、とうとう独裁こそが公共性より優れていると言い始めることになるのだ。朋党の害悪とはこれほどひどく、一々数え上げて責めてもきりがないのだ。
我が父陛下は帝位にあること六十年、その治世で人を用い政治を決済する手腕については、千古のどの君主より優れていた。だが大小の臣下の中には、まだ公正と忠実を尽くすことを誓えない者がおり、ともすれば朋党を結成しようと願った。それはいかんと父陛下は再三戒め諭したが、全ての者を改めさせることは出来なかった。朕が即位して以来も、何度も訓戒を垂れて朋党を禁じたが、それでもつるみたがる役人の習い性は改まらず、そうした者どもは、好悪を公共の利益を基準にせず、私利私欲のためを思って好悪を決めていること、どうにも頑固で崩す事が出来ない。
だから君主がとある者を重用すると、必ずよってたかって相談し、これは誰それが糸を引いているのだと言って、重用された者を汚物のように遠ざけ、「自分はこいつの一味だと疑われたくない。この政局には従えない」という。そうして我先に妬み心を抱いて、代わる代わる悪口を言いふらし、そうやって失脚させようと企み、追い落としてからしてやったりと大喜びする。君主がとある者を追い払うと、必ずよってたかって相談し、これは誰それが糸を引いているのだと言って、元からの仲間は追い払われた者のために歎き惜しみ、疎遠だった者も慰め弁護して濡れ衣だと言い回る。中には元は仲の悪かった者までが、こういう事になるとかえって丁寧になって、これを機会に不遇を慰め友好を深めようとする。ただの一人もその者を責め、間違いを改め自分から生まれ変わることを期待する者は、いたためしがない。こうなってしまうと、その者もまた自分の間違いに気付かず、かえって君主を逆恨みする心がますます激しくなるばかりだ。
こうして朝廷が公に行う賞罰降等昇進が、価値の基準ではありえなくなり、ひいては党人が誉めたり歎いたり惜しんだりするのを栄誉とし、党人があげつらい批判しおとしめるのを恥辱ととするようになった。これでは天下の公平な善と、公平な悪の区別が乱れ、臣下が勝手な好悪を言い出して、こっそりと君主の人事や賞罰を曲げる。朋党の害とは、つまりここに行きつくのだぞ。もし君主の好悪に、確かに公平でない点があるのなら、どうして面と向かって批判し、公の場で当否を争わないのか。それはつまり、表では従う振りをして、裏では舌を出すというもので、そうやって自分の党派を立て、私利私欲のたくらみを実現させようとするのである。
『書経』に曰く、「ワシが間違えたらそなたは助けよ、表で従う振りして後でブツブツ言うな」と。堯舜の世では、君臣が包み隠さず語り合い、君主は臣下の補佐を求めたが、同時に表で従う振りをして、後になって文句を言うのを戒めた。だから朝廷では臣下が、「やれやれ」「ごもっとも」「うわあ」「なりません」と平気で言い、その有様を臣下が歌い上げ、終えて顔を上げて君主を拝んだ。それで太平の世が実現したのだ。朕は一日たりともそなた等群臣を引見しない日はなく、膝を突き合わせて相談しているのであるから、どうして天下のことを知り尽くしておかないでいられよう。だから我が身をよく振り返れ。黙ったまま朕の間違いを正さず、ずる賢さを包み隠して見えないようにし、自分勝手な企てを腹に隠したまま、後になって言いたい放題に朕を批判するのは、主君に仕える道徳として、そのようであってよいのだろうか。
いにしえの純粋な臣下が君主に仕えるさまとは、必ず主君を堯舜のような聖王に仕立てようと望むものだ。そういう臣下を従える君主もまた、自分も堯舜のような聖王になろうと望んだものだ。それも、ただ自分だけが聖王を目指すのではなく、家臣にも堯舜の家臣のような賢臣であることを期待すべきであろう。孟子は申した。「主君に君主であることの辛さを思い知らせるのを恭といい、主君に忠告を述べよこしま者の動く隙間を閉じるのを敬といい、主君をバカに仕立てるのを賊という」と。かように主君をバカに仕立てるのが賊であるなら、君主も当然、そういう出来損ないの臣下を持ってしまった状況を、むごいと言ってしまってよかろう。ことわざに言うではないか。「上手く行く法を試しても、せいぜいほどほどの成果しか得られない」と。だから堯舜の世の、揃って出来のよい君臣を目指さず、どうせ出来ないからと言って、漢唐以降の君臣の真似をしたら、どうして自由闊達な朝廷の雰囲気を養い、私利私欲に走る連中をまとめて追い出し、政道を究極の公正に合わせ、それを実現すべく修正するのを原則とすることができようか。
それにもかかわらず宋の欧陽修の『朋党論』は、おかしな君臣関係を述べ立てて言った。「君子は道徳を共有するから朋党を作る」と。主君を無視して勝手な理屈を述べ立てるのの、どこが道徳か。こやつが言った道徳というのは、小人の道徳に過ぎない。この論が流行ってよりのち、小人が結託しただけで、それは正義の党だという表の言い訳が出来て、その裏で私利私欲にふけっていたのだ。欧陽修めは「小人に朋党なく、君子に朋党あり」と言ったが、朕の思うところ、君子こそ朋党を作らない。結託するのは小人だけだ。その上欧陽修めの言い分では、結託したままで朋党を維持する者が君子で、解散するのは小人であるかのようだ。もし欧陽修めが今日に生きており、こうした論を言い立てるなら、朕は必ず説教して、その間違いを正してやろうぞ。
そもそも文弱の徒という者は、筆や舌を振り回して、世間に偉い者だと評判が立つのを求め、いつも道理を曲げ道徳をバカにしておきながら、「これでいいのかしらん」と反省することがない。だから古来伝わる文章だろうと、儒学の六経・論語・孟子に、宋儒の付けた注だけを経典として重んじるべきである。『論語』に言う。「君子はつるまないものだ」と。『易経』に言う。「結託を止めて散り広がるのは、大吉」と。それに付けられた朱子の注に言う。「上に九五の卦が出ながら、下に相応する卦が立っていないのは、結託を解散する様を示すと言える。大善にして吉祥だ」と。まことにその通りであるからして、ゆえに君子には必ず朋党がなく、朋党は解散するのが尊いと言え、その結果として大吉を求めるのが、聖人の垂れた教えであり、その道理は明らかで、反論の余地がない。
そもそも朋友は、人の守るべき五つの倫理の一つではあるが、朋党はあってはならないし、朋友の原則は無しでは居られない。ただしまだ民間にあって無位無冠のうちに限るべきで、その条件でなら、ふだん教え合うのも助け合いを促すだろう。だが今、すでに朝廷に出仕して官位に就いたからには、必ず君臣の別を重んじ社会的公正の実現を図り、朋友は私的生活に限るべきだ。臣下たる者、必ず公正のために私情を滅ぼさねばならない。どうして少しでも私情を挟んで社会的公正を損なうことがあってよいものか。また主君と親は共に重んじるべきだが、家を出て主君に仕えるからには、身の及ぶ限り主君に尽くすべきで、すでに自分は父母のものではないと覚悟致せ。朋友はなおさらだ。「これは朋友である」と自分の結託を言い訳し、その勢力を頼みにするなどもってのほかである。
朕は生まれて四十五年間、一切誤魔化しを企まず、物事をありのままに見てきた。今朝廷を主宰する立場となったからには。これまでの弊風を断ち切り悪習を改めようと思い、堯舜の世を復活させようと願っている。ゆえに物事について、複数の者の意見を聞き、他と比較して観察し、全ての者の見解を問い、幅広く主張をくみ取り、それで政道のあるべき姿を詳しく明らかにし、これまでの政道のどこを変え、どこを維持すべきか考えようとしている。ところが馬鹿者どもが朕を捕まえて、「ちまちましている」「うるさい」「神経質だ」「うんざりする」と言い、「主君とはもっと大らかにあるべきで、いちいち世間に口だしすべきではない」と言う者がおる。本当にそうなら、堯舜の世の賢臣が、なぜ「一日二日の間に一万の決裁」と言ったのか。孔子が舜を讃えて、「質問を好み、観察を好んだ」と言ったのか。こういう馬鹿者が出ること自体が、朋党が堅く結束し、その習いが未だ消えず、君主に政治の隅々を知られるのを恐れ、よってたかって主君の耳や目をふさぎ、そうやって私利私欲を満足させようと企んでいることの証しではないか。
朕は一皇子として藩邸に住まっていた頃、開けっぴろげでまっさらで、誤魔化さず包み隠さなかった。個人的な恩恵や恵みを呉れてやったこともない(もし皇帝になれたら高位高官に就けてやると密約したことがない)。満族だろうと漢族だろうと、役人と私的な付き合いをしたこともない。朕と親密になりたいと訪ねてきた者が有っても、「帰れこの馬鹿者」と追い返してきた。父陛下は、朕がそうした日常を送り為すべき事だけを行い、公正で私利私欲に走らないのを見て、だから大いなる皇統を朕に継がせた。今なお朋党に結託するのを好む者は、互いに引き合って出世し、もしもの時に頼りになるのを願ってのことに過ぎない。だがそんなものは頼りにならぬ事を知っておらん。無駄あがきして天に逆らい正義に外れ、挙げ句には当人や家族を根絶やしにされる罪にはまる。まったく哀れな連中だ。
朕が満族・漢族の文武百官に望むのは、心を一つに合わせ、協力して忠義と忠実を貫き、君主と好悪の別、社会的公正の実現の理想を共有し、『易経』や『論語』のあきらかな教えに心から従い、朋党のたぐいはことごとく解散して、積もり積もった悪習を一掃することだ。朕は心から願っておる。身を慎み、尊卑のけじめをつけて、喜んで君臣一体となって心を調和させることを。堯舜の世に善政を歌い上げ、主君を仰ぎ、公正で善良な者があるべき地位に就いたよき政道が、どうして今日実現できないと言えようぞ。
訳注
貝勒:「ベイレ」と読み、清朝の爵位の一つ。親王・郡王に次ぐ第三位で、貝子の上。中世トルコのbek”殿様”、オスマン帝国以降のbeyベイ”殿様”、現代トルコ語のbeyベイ”殿”との関係を言いたいところだがその知識が無い。wikipediaによると、清朝支配下のウイグル人君公を伯克「ベグ」と呼んだらしい。
明清の中華帝国は、高校世界史的には「皇帝独裁権の確立期」とされる。ただし清は明と違って多民族に君臨する定義通りの帝国で、配下の満蒙回蔵(満洲・蒙古・ウイグル・チベット)の土侯を貴族に迎えざるを得なかった。ただし唐と違って国政の実権を渡さなかった。
満蒙回蔵のうち、ロシアという少しでも近代な存在と接することが無かった地域は、土侯どもの野蛮を理由に、もっと野蛮な中共がそのまま占拠することができた。例外はモンゴルのみだが、司馬遼太郎のような回し者にたよらず史実を調べるといい。
チョイバルサンらが現地の日本人に何をしやがったかを。さらに世界史上の史実を挙げるなら、人類の最先端文明地域だろうとも、一旦モンゴルに支配された地域と人間は、例外なく野蛮化している。
御門:清朝の皇帝が五日ごとに太和門、のちに乾清門に出御して政治を決裁したこと。
傾陷:人を傾け落とし入れる。
知る可き矣:漢語の「可」には”…したらよい”の、勧誘の語義がある。一つ覚えのように”できる”とばかり解するのはもうやめよう。
七十:「満洲人…雍正帝の弟、第八皇子の妻の父で、婿を帝位につけるため広く朝臣と結んで運動したので、雍正帝の怒りを買った…配流されたが、朝臣の中には餞別を贈ったり、途中で首枷を解いたりして優遇した者があった」(宮崎本)。『清史稿』に名が見えない。wikipediaによると「和碩額駙明尚」(ホショイ・エフ・明尚)。和碩は妃嬪を生母とする公主、額駙は駙馬都尉と同じで、公主の夫。「明尚」で清史稿に名が見えない。『大漢和字典』に、「七十一」条あって「清、満洲正藍旗人。…乾隆の進士」とあり、「七十五」条あって、「清、満洲正黄旗人。…乾隆中、金川の役に功あり」とあり、『清史稿』に伝がある。
乃:「すなわち」と読み、”それなのに”と訳す。
孟子論:『孟子』梁恵王下篇の14。
洪範稽疑:『書経』洪範篇の9。
皇極敷言:『書経』洪範篇の7。
媒蘗:「バイゲツ」。罪を醸成して陥れ害なう。媒・蘗は共に麹(『大漢和辞典』)。
咨嗟:「シサ」舌打ちして感心する。
歎惜:なげきおしむ。
詆訾:「テイシ」。そしる。
書曰:『書経』益稷3。
獻替:=献可替否。君主に忠告し間違いを諌めること。
叵:「ハ」できない。
孟子曰:『孟子』離婁上篇の1。
濟:でこぼこがあるのを平にならす。欠陥を調節して無いことにする。
宋五子:周敦頤、程顥、程頤、張載、朱熹。
渙:たまり水や氷が溶けて広がり流れること。
朱子謂:『易経』に朱子が書き付けた注と称する妄想で、そもそも易が人をだまくらかす文字列で、何を言っているのかわけワカメの上に、朱子とその引き立て役による宋学と称する妄想を加えたものだから、まともな人間には何を言っているかわけが分からない、𠮷外と𠮷外の積とするのが、学問的に誠実な解だと訳者は思っている。
洞矚:「ドウショク」明らかに見る。
輒:「すなわち」軽々しく。
創:「はじめて」と読み下すべきだろうが、雍正帝が欧陽修に先立つ李徳裕の朋党論を知らなかったとは断じがたい。こんにち李徳裕の朋党論が収められた『全唐文』は嘉慶年間の勅撰で、まじめな雍正帝のことだから、李徳裕を読んだ上で、その論が朋党の批判だったことを知り、それに対する「異論」として、欧陽修の朋党論を批判したと思う。
※出典:中华典藏网『大清世宗宪皇帝实录』巻二十二。
解説・付記
この文章は、ある意味無慮二千年以上積み重なった「漢文」の行き詰まりで、言語が本質的に持つ二つの機能を示している。一つは意図を他者に伝える機能=分かりやすいことで、中国史上指折りのまじめ君主である雍正帝は、本気で政治をこうしたいという願望があるから、読む者に何を望んだかがよくわかる。つまり結託するな、ワシに忠義を尽くせということだ。
もう一つの機能は、暗号性=ある程度漢籍の知識がないと解読できないことで、レ点と一二点だけで間に合わず、上中下点や天地人点が必要な、難解な修辞が施されている。漢文で、とある漢字が文中のどこまで意味づけをするか(支配するか)を管到というが、管到の及ぶ範囲が一目で分からず、あとへあとへと引きずっていく、鰻の寝床のような文がここには少なくない。
訳者の知る限り、この文章を初めて日本人に紹介したのは宮崎市定博士だと思うが、博士は『中国政治論集』と名づけた本の中で、歴代の中国人による政治論を何本か紹介し、その順序を新しいものから古いものへと遡って記した。従ってその巻頭は現代中国語で書かれた林彪の『毛語録』前言であり、漢文慣れした者には解読がやりにくいと言う。
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