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論語詳解085里仁篇第四(19)父母いまさば’

論語里仁篇(19)要約:親思う心にまさる親心。普通の親なら、いつも我が子を心配します。よい親子関係には、まず心配させない事。遠出は避ける、どうしても旅に出るなら、変なところに行ってはいかん。そう孔子先生が説いたお話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰父母在不逺遊遊必有方

  • 「逺」字:「遠」の異体字。

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰父母在子不逺遊/〻必有方

  • 「子不逺遊」:京大本・宮内庁本同。
  • 「逺」字:「遠」の異体字。
  • 「〻」:京大本・宮内庁本「遊」。

後漢熹平石経

…白父母在不逺遊遊必有方

  • 「不」字:上下に〔一八个〕。
  • 「逺」字:「遠」の異体字。

定州竹簡論語

曰:「父母在,不a遠遊,遊必有方。」75

  1. 皇本「不」上有「子」字。

標点文

子曰、「父母在、不遠遊。遊必有方。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 父 金文母 金文在 金文 不 金文遠 金文遊 金文 遊 金文必 金文有 金文方 金文

※論語の本章は、「必」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、父母かそいろはいまさば、とほあそれ。あそばばかならよきところれ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「父母が存命であれば遠くに旅するな。もし旅するなら行き先を選べ。」

意訳

孔子 水面キラキラ
親に心配かけないよう、分けの分からん場所へ行ってはいかん。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「父母の存命中は、遠い旅行などはあまりしないがいい。やむを得ず旅行する場合は行先を明らかにしておくべきだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「父母在世時,不要走遠,必須遠走時,一定要留下準確的地址。」

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孔子が言った。「父母が生きている間は、遠くに行ってはならない。遠くに行く場合には、必ず居場所を知らせよ。」

論語:語釈

、「 。」

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。

父(フ)

父 甲骨文 父 字解
(甲骨文)

論語の本章では”父”。初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。

母(ボウ)

母 甲骨文 母 字解
(甲骨文)

論語の本章では”母”。初出は甲骨文。「ボ」は慣用音。「モ」「ム」は呉音。字形は乳首をつけた女性の象形。甲骨文から金文の時代にかけて、「毋」”するな”の字として代用もされた。詳細は論語語釈「母」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”生存する”。「ザイ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

遠(エン)

遠 甲骨文 遠 字解
(甲骨文)

論語の本章では”遠い”。初出は甲骨文。字形は「彳」”みち”+「袁」”遠い”で、道のりが遠いこと。「袁」の字形は手で衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”の意になったかは明らかでない。ただ同音の「爰」は、離れたお互いが縄を引き合う様で、”遠い”を意味しうるかも知れない。詳細は論語語釈「遠」を参照。

遊(ユウ)

游 甲骨文
「遊」(甲骨文)/「旅」(甲骨文)

論語の本章では、”一人でぶらぶら出歩くこと”。『大漢和辞典』の第一義は”遊ぶ”だが、論語の本章では”一人もしくは少人数での旅”。初出は甲骨文。字形は〔辶〕”みち”+「ユウ」”吹き流しを立てて行く”で、一人で遠出をするさま。原義は”旅(に出る)”。対して「旅」は旗を立てて大勢で行くさま。「遊」は甲骨文では地名・人名に用い、金文では人名に用いたほかは、原義で用いた。詳細は論語語釈「遊」を参照。

子不遠遊

校訂資料の内では清家本のみが「子」を記す。漢文は甲骨文の昔から、筆記材料に経費がかかるので、極端までに切り詰めて書くよう進化した。従って主語は必ずしも記されない。加えて「子」は孔子など”貴族”・”先生”と、”子供”の両義があるため、一章の中で同居すると紛らわしかったのだと想像できる。従ってあるいは、最初は「子」があったのではないか。

国会図書館蔵正平本は「子」字の上に×印を付ける。おそらく中国伝承本を参照したのだろう。文明本・足利本・根本本は「子」を記したまま。また年代不明の龍雩本(info:ndljp/pid/2553141)も同。

必(ヒツ)

必 甲骨文 必 字解
(甲骨文)

論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いなさい”。ちゃんとした所に居なさい、の意。「有」は「ユウ」が去声に対して上声だが同音で、意味が通用する。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

方(ホウ)

方 甲骨文 論語 方 字解
(甲骨文)

論語の本章では”場所”。新注から”たより”・”手紙”と解する例は、「方」(カールグレン上古音pi̯waŋ平)に”木札”の語義があるため。ただしこの語義は春秋時代では確認できない。”しらせ”を意味する漢字に「報」(同p去)があるが、上古音では同音とは到底言えない。

「邦」(同pŭŋ平)の方がまだ近く、もし「邦」だとするなら訳は”出掛けても国内に止まれ”。ただし音素の共通率が50%を超えないので「邦」と解するのも難しいし、定州本や漢石経は通例として、高祖劉邦の名を避諱して「邦」は「國」(国)と記す。

「方」の初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、字形は「人」+「一」で、甲骨文の字形には左に「川」を伴ったもの「水」を加えたものがある。原義は諸説あるが、甲骨文の字形から、川の神などへの供物と見え、『字通』のいう人身御供と解するのには妥当性がある。おそらく原義は”辺境”。論語の時代までに”方角”、”地方”、”四角形”、”面積”の意、また量詞の用例がある。”やっと”の意は戦国時代の「中山王鼎」まで下る。秦系戦国文字では”字簡”の意が加わった。詳細は論語語釈「方」を参照。

論語時代に紙がなかったのは高校世界史的知識で、発明は後漢の蔡倫によるAD105ごろとするが、最近では紀元前の紙も発掘されているという。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、先秦両漢の誰一人引用していない。定州竹簡論語にあるほかは、後漢末の漢石経、それからしばらく後の古注『論語集解義疏』まで再出がない。古注には後漢の鄭玄が注を付けているが、鄭玄は後漢が黄巾の乱によって絶賛滅亡中に活動した人物で、先秦両漢もたそがれ時ということになる。

後漢年表

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従って本章は、文字史的には史実の孔子の発言を疑えないのだが、「必」の用法に疑いがあり、前漢儒による創作の可能性を排除できない。

解説

論語の時代、中国人は城郭都市(邑・郷)の中に住んでおり、農地や牧地は城壁の近く、少なくともその日のうちに帰ってこられる範囲にしかなかった。それでも城壁近くに、言葉も通じないような異民族が住んでいたことは、『史記』衛康叔世家の記述から分かる。

詳細は論語郷党篇16余話「ネバーエンディング荒野」を参照。

そういう異民族の中には、中華文明圏に押し込んで略奪暴行を働き、拉致し、時に衛の懿公がやられたように、人を取って食う者がいた。だから親は子の遠出を心配したから、論語の本章が言うように、蛮族がウホウホと蛮行にふけるような辺境に行ってはいかんと説教したわけ。

孔子が世に出る前の姿は、信頼できる史料が少ないが、おそらく遠く旅に出ることがあったと創造する。巫女の私生児として生まれた孔子は、決して幸福に生まれつきはしなかったが、ただ一つ一般庶民と違うのは、巫女の子ゆえに読み書きを教わる機会があったことだ。

孔子は旺盛な好奇心を持っていたから、母親や母が属する呪術者集団の持つ文献に飽きたらず、つてを頼って貴族の蔵書を見せて貰ったり、諸国を歩いて名所旧跡を見て回っただろう。「はとるに足らざる」(論語八佾篇9)と断言しているのはそれが理由だろう。

孔子は自分の目で、杞国や宋国を見て回り、資料を探し歩いただろう。しかし自分で旅に出られるのは、現在で言えば中学生ぐらいからだろうから、13から母の死去する16まで、あまり時間が無かっただろう。晩年の母親の介護を考えると、1年ほどしかなかったのではないか。

その間恐らく、母親から安否を尋ねる手紙を受け取っただろう。巫女の集団は巡業するもので、集団相互のつながりもあっただろうから、連絡は論語時代にしてはつきやすかっただろうから。そのような過去を思い出し、弟子に語ったのが論語の本章と思われる。

大漢和辞典
論語の本章、「方」について論語憲問篇31に「子貢、人をたくらぶ」とあり、訳者は「方」を”並べて比較する”と解していたが、今回『大漢和辞典』を改めて引いて、語義の終わりの方に「(四七)そしるに通ず。」とあるのを知った。やはり辞書はまめに引かないとダメである。

なお新古の注は、「方」を次の通り解している、

古注『論語義疏』

方常也曲禮云為人子之禮出必告反必靣所遊必有常所習必有業是必有方也若行遊無常則貽累父母之憂也鄭𤣥曰方猶常也。

方は常也。曲禮に云く、人の子為る之禮、出づるに必ず告げ、反るに必ずまみゆ。遊ぶ所必ず常有り、習う所必ず業有り。是れ必ず方有り也。若し行き遊びて常無からば、則ちのこして父母之憂いを累ぬる也。鄭𤣥曰く、方は猶お常也。

鄭玄 古注 皇侃
方はおきてである。作法の細則に、人の子たる者は、出かける際には必ず父母に一声掛け、帰った際には必ず会って挨拶せよとある。出かけるに当たっても必ずおきてがあり、習うに当たっては必ず務めがある。だから「必ず方がある」と論語にある。

もし出かけたのにおきてに従わないなら、家に残した父母の心配が募ってしまうものだ。鄭玄も言った。「方はおきてのことだ」と。

新注『論語集注』

遠遊,則去親遠而為日久,定省曠而音問疏;不惟己之思親不置,亦恐親之念我不忘也。遊必有方,如己告云之東,即不敢更適西,欲親必知己之所在而無憂,召己則必至而無失也。范氏曰:「子能以父母之心為心則孝矣。」

遠く遊ばば、則ち親を去りて遠ざかり而日久しかり為り、定省むなしかり而音問まばらならん。惟れ己之親を思いて置か不るに不ず、亦た親之念いを恐れて我れ忘れ不る也。遊ばば必ず方有らんは、己告げて之に東と云わば、即ち敢えては更に西に適か不るが如し。親必ず己之所在を知り而憂無からんを欲し、己を召さば則ち必ず至り而失う無き也。范氏曰く、「子能く父母之心を以て心を為さば則り孝たる矣」と。

朱子 新注 范祖禹
遠方に出かければ、つまり親元を遠く離れ、日にちも過ぎてゆき、親の世話も出来ず音沙汰もまばらになってしまう。これでは親を思って放置しない事にならないから、かえって親の気持ちをくんで忘れないようにするのである。

「遊ばば必ず方有り」と論語にあるのは、東に出向きます、と告げたなら、西へ行くようなことをしない、ということだ。親に自分の所在が必ず分かるようにして、心配を掛けないようにし、呼ばれたら必ずすぐさま帰って、帰り損ねないようにする。

范祖禹「子は親の心を自分の心として思えるようなら、つまり孝行と言えるのである。」

*定省:親に仕えて、夜はその寝具を整え、朝にはその安否を尋ねる。子が親に仕えるときの礼を述べたもの。/音問:音信。たより。

余話

私立文系に計算は向かない

当時の農地のうち、城壁際の農地を「負郭田」といい、後世では単に”肥沃な農地”を意味するようになったが、原義は文字通り”城郭を背負うような近くの農地”の意で、これは下肥の供給と関係があるだろう。下肥の生産地の城壁近くなら、たっぷりと施せるというものだ。

蘇秦・張儀といった戦国の弁舌家が活躍した頃は、原義が忘れられていなかったようである。

蘇秦者、師鬼谷先生。初出游、困而帰。妻不下機、嫂不為炊。至是為従約長、并相六国。行過洛陽。車騎・輜重、擬於王者。昆弟・妻嫂、側目不敢視。俯伏侍取食。蘇秦笑曰、「何前倨而後恭也。」嫂曰、「見季子位高金多也。」秦喟然歎曰、「此一人之身。富貴則親戚畏懼之、貧賎則軽易之。況衆人乎。使我有洛陽負郭田二頃、豈能佩六国相印乎。」於是、散千金、以賜宗族・朋友。


蘇秦は鬼谷先生に弟子入りした。卒業してから諸侯に説いて回ったが、相手にされずに路銀に困った。やっと故郷・洛陽の自宅へ帰ってくると、妻は知らんぷりして機織りをしていたし、兄嫁も知らんぷりしてご飯も炊いてくれなかった。

ところがその後、諸侯に合従策が受け入れられ、秦以外の六国の宰相に就任して合従の事務総長にまで出世した。その仕事で洛陽近くを通り過ぎたが、自分とおつきの車・荷車の行列は、まるで王のようだった。実家の兄弟や女たちは、貴人のお通りゆえやむなく沿道で迎えたが、顔を上げられた者は一人も居なかった。

蘇秦は行列を止めて食事を摂ったが、家族たちはうつむいたままで蘇秦の食事の給仕を務めた。その中には兄嫁も居た。蘇秦が笑って言った。

「姉上様、どうしてむかしは知らんぷりだったのに、今はこうやってまめまめしく給仕してくださるのですか?」

兄嫁「それはあなた様が、高い身分となりお金持ちになったからです。」

蘇秦はため息をついて言った。

「昔も今も、私は私です。出世すれば親戚一同が恐れ入り、貧乏に身を落とせばよってたかって馬鹿にした。他人ならなおさらでしょうな。私がこの洛陽に、肥えた畑を二枚しか持っていなかった頃、こうやって六カ国の宰相を兼ねるなんて誰が思ったでしょうよ。」

そう言って一族や旧友に千金をバラ撒いた。(『十八史略』戦国・并相六国)

元ネタとなった『史記』蘇秦伝にも、「負郭田二頃」とある。1「ケイ」は真に受けて換算すると1.8ha(≒134m四方)という結構な広さになるが、その二倍程度では貧乏人扱いされるほど当時の収量が低かったのか、それとも漢学教授の単位見積もりが間違っているのか?

それは私立文系おたくをこじらせた、訳者には分かりかねる。訳者は日本史に暗いのだが、律令で五位以上に支給される位田が最低で8町(1町は109m四方)、最高で80町。訳本『李朝実録』によると位田にあたる科田は最低15結(1結は100m四方らしい)、最高で150結という。

作法として原漢文を検索したが、この記述を見つけられなかった。なお平成27年度の1戸当たり農地平均は日本全国平均で1.43ha、北海道20.5ha、都府県1.03haという(農業協同組合新聞HP)。

『論語』里仁篇:現代語訳・書き下し・原文
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