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論語詳解464微子篇第十八(4)斉人女楽を

論語微子篇(4)要約:孔子先生が魯国の政権中枢にいた時、それが目障りだった隣国の斉は、女楽団を魯国に送ってその政治を退廃させようとしましたとさ、という昔話。本当とは信じられない点があり、むしろおとぎ話と言うべきかも。

(検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

齊人歸*女樂、季桓子受之、三日不朝。孔子行。

校訂

武内本

釋文云、鄭本歸を饋に作る。

後漢熹平石経

…不朝孔…

定州竹簡論語

人歸a女樂,季桓子受之,三日不朝,孔子。554

  1. 歸、『釋文』云”鄭作饋”。

復元白文(論語時代での表記)

斉 金文人 金文帰 金文女 如 金文楽 金文 季 金文亘 金文子 金文受 金文之 金文 三 金文日 金文不 金文朝 金文 孔 金文子 金文行 金文

※桓→亘。

書き下し

齊人せいひと女樂じよがくおくれり。季桓子きくわんしこれけ、三じつまつりごとせず。孔子こうしりぬ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

斉の人が女楽団を送ってきた。季桓子はそれを受け取って、三日間朝廷を開かなかった。孔子は(魯国を)去った。

意訳

魯国の政治を乱そうと、隣国斉が女楽団を送ってきた。魯国の執権だった季桓子はそれを迎え入れて楽しみ、三日間朝廷を開かなかった。そこで孔子は魯国を去って放浪の旅に出た。

従来訳

下村湖人

斉が、魯の君臣を誘惑してその政治をみだすために、美人の歌舞団をおくった。魯の権臣季桓子が喜んでこれをうけ、君臣共にこれに見ほれて、三日間朝政を廃するにいたったので、先師はついに職を辞して魯を去られた。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

齊國人送來一些歌女,季桓子接受了,三天不上朝。於是,孔子離開了魯國。

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斉国人が一団の女歌劇団を送ってきた。季桓子は迎え、三日間政務を摂らなかった。だから、孔子は魯国を出た。

論語:語釈

齊(斉)人

斉 金文 人 金文
(金文)

論語の本章では、”斉の人”。具体的には君主である景公とその側近を指す。漢文ではある土地Xの人物を、「X人」と書き「Xひと」と重箱読みする慣習になっている。

「齊」の初出は甲骨文。新字体は「斉」。『字通』によると語源は三本のかんざしを揃えた象形。揃える所から”整える”の意が生まれた。『学研漢和大字典』によると、◇印が三つそろったさまを描いた象形文字でのち下に板または布のかたちをそえた、という。詳細は論語語釈「斉」を参照。論語語釈「人」も参照。

歸/帰

帰 金文
(金文)

論語の本章では”送り届ける”。初出は甲骨文『学研漢和大字典』による原義はほうきを持った主婦の姿という。”送り届ける”の意に転じたのは、「饋」(キ・おくる)に音が通じた転用という。上掲定州竹簡論語の注釈が引く、鄭玄の言い分はこれに合致している。

ただし「帰」の初出が甲骨文であるのに対し、「饋」の初出は春秋末期の金文で、はるかに時代が下る。

季桓子

桓 金文大篆
「桓」(金文大篆)

論語では、孔子と同時代の季孫氏の当主。名は斯(シ)、?~BC492。

季孫氏は魯国門閥三家老家の筆頭。孔子を魯国から放逐した人物として後世の評判が悪いが、取り立てて孔子を排除したり迫害した記録は無い。孔子は若年時に季孫氏に仕えており、言わば主人筋の当主と言うことになる。辞書的には論語語釈「桓」を参照。

朝 金文
(金文)

論語の本章では、”朝廷を開いて政務をとる”こと。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると金文は「草+日+水」の会意文字で、草の間から太陽がのぼり、潮がみちてくる時を示す。篆文(テンブン)は「幹(はたが上がるように日がのぼる)+(音符)舟」からなる形声文字で、東方から太陽の抜け出るあさ、という。詳細は論語語釈「朝」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行く”→”去る”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

なお現代中国語(北京語)では、”行く”を「チィ」という。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

武内義雄『論語之研究』では、論語の本章を内容の信じがたい章として注記している。だが上記の検証通り、文字史的には本章の捏造を疑う要素が無い。

因膰去魯

論語の本章の背景は、『史記』によると、魯国の政権中枢にあった孔子によって魯が強大化するのを恐れた隣国・斉の景公とその政府が、魯国に女楽団を送って魯公とその重臣をふぬけさせようとしたという。

〔孔子の執権を〕斉の人は聞いて恐れ、言った。「孔子が政治をすれば必ず覇者になるだろう。覇者となれば我が国は近い。真っ先に併合されるだろう。どうして先手を打って土地を送り、魯国に媚びないのか。」黎鉏レイショが言った。「お願いです。まずは孔子の邪魔を試してみましょう。邪魔してダメなら土地を送りましょう。それからでも遅くはありません。」

こうして斉国中の女子の見た目の美しいもの八十人を選び、模様のある着物を着せて康の楽を舞わせ、飾り立てた馬の四頭立て馬車三十台を魯の定公に贈った。曲阜の都城の南の高門の外に女楽、飾り馬を並べた。李桓子はそまつな服装で再三見に行き、受け取ろうとした。そこで定公を誘って道を巡って歩き回り、一日中見物し、政治を怠った。(『史記』孔子世家20)

この記述を真に受けるわけにはいかない。いくら古代だからと言って、こんな見え透いた策にやすやすと乗るほど、定公も李桓子も間抜けではないだろうからだ。仮に血統によって決まる国君は務まっても、一国の執権がこれほど愚かなら、とうに季孫氏は滅びている。

孔子が魯国を去ったのは、過酷な取り締まりで庶民の支持を失い、根城破壊政策で貴族の支持も失ったからだ。国内から総スカンを食らった政治家は失脚せざるを得ないこと、古代でも現代でも変わらないし、いくら独裁政権だろうと、支持基盤のない政治家は成り立たない。

魯国 地図
Map via http://shibakyumei.web.fc2.com/

ただし根城破壊と貴族の不満は、少し説明がいる。三桓と総称される魯国の門閥家老三家は、国都曲阜を離れた場所に、それぞれ根拠地となる城郭都市を持っていたが、当主はふだん曲阜におり、根拠地は代官に任せた。子路も一時、季孫家の根拠地、費の代官を務めた。

だが子路はともかく、当時の代官は隙あらば独立をたくらんだ。論語陽貨篇5の公山不擾フジョウがその例で、手を焼いたからこそ季孫家はポッと出の孔子の弟子に代官を任せた。従って根城破壊はむしろ三桓にとって都合のよい政策で、季孫家と叔孫家の根城(郈)の破壊は成功した。

だが最も早く孔子の後ろ盾となった孟孫家(論語為政篇5)では、根城の成の代官が強硬に反対し、孔子の友人でもある孟孫家の当主・孟子は、その反対を抑え込めなかった。史料では理由を「成城が対斉国防衛の拠点だから」(『史記』孔子世家18)というが、それは大義名分だ。

当時の貴族には身分差があり、上から卿・大夫・士という(→春秋時代の身分制度)。代官を務めるのは最下級の士で、貴族ではあるが領地を持たない。当然持ちたいと大勢の士は願ったろうが、孔子による公山不擾の鎮圧と三桓の根城破壊は、士分の夢を砕く行為だった。

士分は孔子に言いたかったはずである。「お前だって成り上がり者じゃないか。」そして貴族の中で士分は最も数が多い。何せ男子の都市住民は、原則として全員士分だからだ。この大勢の士分から孔子はそっぽを向かれ、士分の突き上げに困った卿大夫の支持も失ったのである。

この時期の孔子は、どことなくドイツ農民戦争当時のルターに似ている。「祈っている暇があったら農民を殺せ」とドイツ諸侯をけしかけたルターは、農民から「うそつき博士」と嫌われた。この点孔子は先駆者である陽虎の失敗を、貴族の習慣を無視したからだと見ていた。

だから孔子は庶民の希望の星などではない。大貴族に都合のよい男として世に出たのだ。李桓子の行為は孔子の亡命に決定打となっただろうが、それは擁護しなかっただけであって、積極的にいびり出したわけではない。三桓には孔子を殺したり捕らえたりする動機がなかった。

『史記』は続けてこう書く。

子路が言った。「先生は去るべきです。」孔子が言った。「魯は今、天地の祭りの時期だ。私のような家老格に、お供えのお下がり肉が届くなら、私はまだここにいてよい。」しかし李桓子は斉の女楽を受け取り、三日間政治を摂らず、祭りのお下がりとそれをのせた台を、孔子に贈らなかった。

とうとう孔子は都城を去り、郊外の村に泊まった。(『史記』孔子世家)

定公と季桓子が女楽にうつつを抜かしたのを、「まじめな孔子先生は絶望して国を去った」と解するのは間が抜けている。政治いじりがしたくてたまらない孔子にとって、殿様と筆頭家老がボケてくれればコレ幸いで、好き放題に政治いじりが楽しめるのである。

孔子は社会の底辺から身を起こし宰相格にまでなったが、その目的は贅沢にはなかった。上級貴族にもかかわらず奥さんは一人だけ、亡命中に衛の霊公から莫大な捨て扶持を貰ってもなお満足せず、衛国乗っ取りを計った(論語憲問篇20)。好きなのは財産や酒池肉林ではない。

だから「孔子る」の理由が、たかが国公と筆頭家老の色ボケであるわけがない。祭礼のお下がりを渡されなかったのは、貴族団からの排除を意味しているだろうが、それは遠回しに匂わされただけで、正式に籍を削られた記録はない。孔子は空気を読みすぎたのだろうか。

時間です、同志艦長。/時間だ、今こそその時が来た。

そうではない。普通に空気を読んで、嫌われたから国を出たのである。だが決してしおたれて国を出たのではない。真っ直ぐ向かったのは衛国の、縁故のある顔濁鄒親分の屋敷で、顔濁鄒は春秋諸国に傭兵を提供する国際的大親分だった。孔子はいそいそと出掛けたのである。

参考動画

『論語』微子篇:現代語訳・書き下し・原文
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