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論語詳解466C微子篇第十八(8)子路以て告ぐ’

論語微子篇(8)要約:隠者の言葉を孔子先生に伝える子路。先生は隠者の修行不足を見抜いて、「人は人と共に生きていくしかないではないか。誰があんな連中の仲間になどなるか!」と高らかに宣言。道家への遠慮などありません。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

(前回より続く)

子路行*以吿。夫*子憮然曰、「鳥獸不可與同群*2。吾非斯人之徒與而、誰與。天下有道、丘不與易也。」

校訂

武内本

清家本により、群の下に也の字を補う。釈石経行の字夫の字無し。

※釈石経:『経典釋文』にそのような記述が見られない。「釋石經」「釈石経」で引いても何の本か分からない。「漢石経」の誤字と思われる。

後漢熹平石経

子路㕥吿子憮然白鳥獸不可與同羣也…

定州竹簡論語

……[]。子路a以告。子b撫c然曰:」鳥獸不可與同群d,吾559……誰與?天也有道,□弗與易。」560

  1. 阮本、皇本”路”字下有”行”字、漢石經無”行”字。
  2. 今本”子”上有”夫”字、漢石經無”夫”字。
  3. 撫、今本作”憮”。
  4. 皇本、高麗本”群”字下有”也”字。

→子路以吿。子撫然曰、「鳥獸不可與同群。吾非斯人之徒與而、誰與。天下有道、丘弗與易也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文路 金文㠯 以 金文告 金文 夫 金文子 金文尃 金文然 金文曰 金文 鳥 金文獣 金文不 金文可 金文与 金文同 金文群 金文 吾 金文非 金文斯 金文人 金文之 金文徒 金文与 金文而 金文誰 金文与 金文 天 金文下 金文有 金文道 金文 丘 金文不 金文与 金文易 金文也 金文

※撫→尃。論語の本章は、「以」「之」「也」の用法に疑問がある。

書き下し

子路しろもつぐ。夫子ふうしはらふがごとくしていはく、鳥獸てうじうともむれおなじくすからず。われひとしもべともがらあらざれば、したれくみせむ。天下てんかみちらば、きうためへざるなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

子路は(孔子の下へ)行って(長沮、桀溺の言葉を)伝えた。先生は顔を撫でつつ言った。「鳥や獣は、共に群れを共有するわけにはいかない。私はこの人たちの手下でも仲間でもないから、誰が仲間になるだろうか。天下に道理があるのなら、丘は変革に関わりはしない。」

意訳

そこで子路は立ち去って、孔子に長沮、桀溺の言葉を伝えた。先生は手の平で顔を撫でて言った。

「なんじゃ、流行りのにわか隠者か。好き勝手にケダモノの真似をすればよい。私はああいう連中の手下でも仲間でもないし、こんな連中に一体誰が仲間入りするのじゃ。人は人の世界で生きていくしかない。人の世がまともだったら、私だってめんどくさい世間いじりなど、やりはせんかったわい。」
書経図説

従来訳

下村湖人

子路も仕方なしに、先師のところに帰って行って、その旨を話した。すると先師はさびしそうにしていわれた。――
「世をのがれるといったところで、まさか鳥や獣の仲間入りも出来まい。人間と生れたからには、人間と共に生きて行くよりほかはあるまいではないか。私にいわせると、濁った世の中であればこそ、世の中のために苦しんで見たいのだ。もし正しい道が行われている世の中なら、私も、こんなに世の中のために苦労はしないのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子路回來告訴孔子,孔子失望地說:「人不能和鳥獸同群,我不同人打交道而同誰打交道?天下太平,我就用不著提倡改革了。」

中国哲学書電子化計画

子路が戻ってきて孔子に次第を話すと、孔子は失望して言った。「人は鳥獣とは群を同じく出来ない、私は人と付き合いの範囲を同じくしないが、では誰と付き合おうか? 天下が太平なら、私は必ず改革を提唱したりはしないのだ。」

論語:語釈

子路

子路

論語では孔子の弟子。最も早く入門し、弟子の中では先輩格で、孔子との年齢差は8歳しか無く、六十近い孔子にとっては友人のような存在でもあった。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。

夫子(フウシ)

夫 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。

「子」は貴族や知識人に対する敬称。論語語釈「子」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行く”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

告 金文 吿 解字
(金文)

論語の本章では”告げる”。初出は甲骨文。新字体は「告」。『学研漢和大字典』によると、『説文解字』では、牛の角に付けた棒が、人に危険を告知することから、ことばで告知する意を生じたとする、という。詳細は論語語釈「告」を参照。

行以吿→以告

論語の本章では”長沮、桀溺の所を去って孔子に話を伝えた”。ここでの「以」は下に目的語を持たず、”そしてその話を”を意味し、「以」以前の内容を指す。「行」は”去る”。詳細は論語語釈「行」を参照。

憮然

憮 篆書
「憮」(篆書)

現伝論語「憮」は、本章では”気落ちする・残念に思うさま”と古来解する。ただし原義から見て無理があるように思う。『大漢和辞典』の第一義は”いつくしむ”。

「憮」mi̯wo(上)は論語では本章のみに登場。初出は説文解字。論語の時代に存在しない。同音に語義を共有する漢字は見つからない。『学研漢和大字典』による原義は会意兼形声文字で、「心+(音符)無」。失望して心中がむなしくなること。無(ム)(ない、むなしい)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「憮」を参照。

定州竹簡論語の「撫」pʰi̯wo(上)は論語では本章のみに登場。”顔をなでる・ぬぐう”の意。原義は”手でなでさすって平らにする”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音同調の「尃」に「払う」の語釈が『大漢和辞典』にある。詳細は論語語釈「撫」を参照。

鳥獸不可與同群

論語の本章では、”鳥や獣は異種同士で群れを作ることが出来ない”。孔子は隠者としてもまだ修行の足りない長沮と桀溺を、”ケダモノ同然だ”とこき下ろしたわけ。

重複を恐れず記せば、前回前々回で検討した通り、長沮と桀溺は知識自慢をするなど、隠者としてもまだ未熟だった。孔子はそれを見抜いて、「あーあ」と言いながら顔を拭い、”あんな奴らの仲間になれるか”と言った。

これを「孔子にも道家に対する一定の評価がうんぬん」と書いている本があった気がするが、下らないので探し直す気にならないし、そういう本の書き手は(元)帝大教授だろうが、請け合っても良いがまともに漢文が読めていない。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

吾非斯人之徒與

論語の本章では”私はこのような人の手下でも仲間でもない”。伝統的には「吾の人之ともがらともにするに非ず」と読むが、「與」(与)の形式上の主語は「斯人之徒」であり、「斯人之徒」=二人の隠者が、「與」=仲間と思う、の意。従って「吾ひとともがらくみする(もの・ところ)にあらず」と読んだ方がよい。

上記では別解として、「徒」=目下の同類、「與」(与)=同格の同類と解して、「われひとしもべともがらあらざれば」と読んだ。「与党」とはもともとは、政権と同格の人間集団を言う。NHK用語で「政府自民党」と言っていたのは、存外漢語の語義に忠実でもある。

論語語釈「徒」論語語釈「与」を参照。

丘不與易也

論語の本章では”丘=私は変革に関与しないのだ”。ここでの「與」(与)は、「あづかる」と読んで”関与する”と解する。この場合は「易」は名詞で”変革”。または「ために」と読んで”~のために”と解さないと意味が取れない。この場合「易」は動詞で”変える”。論語語釈「易」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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藤堂明保
論語の本章につき藤堂本では、「長沮(背たかの力なし)・桀溺(はりつけの水死人)という名は、隠者のあだ名であろう」とし、前章次章と合わせて、楚のショウの地から蔡国へ戻ろうとした失意の旅の中での出来事としている。上記の通り、残念ですが今回は先生には従えません。

前々回で検討した通り、本章は孔子放浪中の話ではあるが、すでに政治的野望を捨てて教育に専念しようとした末期の話で、しかも下掲論語公冶長篇21に言う通り、意気軒昂としていた。また放浪による経験を積んだからこそ、孔子は長沮と桀溺の未熟をも見抜けた。

君子 諸君 孔子
我が革命同志諸君! 帰るべき時が来た! 留守を預かる若弟子は、血気にはやって運動しているが、経験不足からアジビラ一つしくじりかねない。今ぞ我らが帰国して、指導してやろうぞ!

前回桀溺が見せた恥じらいを、孔子はしっかと観察していたのだろう。また隠者のくせに、聞こえよがしに二人が放ったイヤミを、その耳でよく聞いたのだ。「聖人」の原義はこれで、耳がよく聞こえ、ものがよく言える人を言う。その意味でなら孔子は確かに聖人だった(語釈)。

また若き日の孔子が周の都に留学し、実在の老子に教わったのを訳者は疑わないが、その消息を伝える『史記』には、礼=貴族らしい行動規範を教わったとは書いてあるが、老荘思想のたぐいを教わったとは、ただの一字も書いていない(孔子世家6)。『孔子家語』も同様(観周1)。

それらの記事に引き続く老子の説教も、「あまり目立つと貴族から袋叩きに遭うよ」と言っただけで、無為自然を重んじろだの、隠居せいだのとは言っていない。そもそも孔子は、役人としての教養を学びに都に来たのだ。だから老子が説いたのは、役人としての処世術である。

吾聞富貴者送人以財,仁人者送人以言。吾不能富貴,竊仁人之號,送子以言,曰:『聰明深察而近於死者,好議人者也。博辯廣大危其身者,發人之惡者也。為人子者毋以有已,為人臣者毋以有已。』

老子
老子「世間で言うじゃろ。”富豪は富を贈る。知者は言葉を贈る”とな。ワシは貧乏じゃから、富豪の真似は出来ん。代わりに知者の振りして、そなたに言葉を贈ろう。

つまりじゃな、頭が良くて察しもいいのに、”いてもうたる”と人に恨まれるのは、人の批判を言い立てるからじゃ。誰にでも分かるように言葉を切り変えて知識も豊富なのに、気が付いたら牢にいるようなのは、人の悪事を言いふらすからじゃ。

人の子たる者、この二点をやっては親を泣かすし、人の家臣たるもの、二点をやっては主君もかばってくれぬぞ。」

すでに親を亡くしていた孔子は泣かせはしなかったが、主君の定公や後援会長の孟子、筆頭家老の季桓子とは、老子の言った後半の通りになった。そうでなくては他人いじりの好きな孔子が、「まるで龍のようなお方だった」(『史記』老子伝2)と老子を讃えるわけがない。

従って論語の本章などをタネにした、孔子の道家あっぱれ説はたわごとだ。晩年の孔子は政治いじりには飽きても、人に説教するのは相変わらず大好きだった。お金の掛かるお風呂屋で、ダメ男の客オヤジがおねえさんにすることと、孔子はこの点だけはよく似ている。

『論語』微子篇:現代語訳・書き下し・原文
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