論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
齊景公待孔子曰、「若季氏則吾不能。以季孟之閒待之。」曰、「吾老矣、不能用也。」孔子行。
校訂
後漢熹平石経
景公待孔子白若季氏…吾不能…
- 「若」字:〔艹〕→〔十十〕。
- 「不」字:〔一八个〕。
定州竹簡論語
(なし)
復元白文(論語時代での表記)
※景→京。論語の本章は、「則」「也」の用法に疑問がある。少なくとも曰~不能用也の部分は、戦国時代以降の儒者による改変が加えられている。
書き下し
齊の景公孔子を待つに曰く、季氏の若きは、則ち吾能はず。季孟之間を以て之を待たむ。曰く、吾老い矣り、用ゐること能はざる也と。孔子行りぬ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
斉の景公が孔子を召し抱える待遇について言った。「季氏のようには、どうあっても私には出来ない。季氏と孟氏の間で待遇しよう。」(時を置いて)言った。「私は年老いた。用いることが出来ない。」孔子は去った。
意訳
孔子が斉にに一時亡命した三十六歳ごろのこと、斉の景公が孔子を召し抱えようとして言った。
景公「済まぬが、そちが魯で季孫氏から受けたような条件では雇えない。孟孫氏との間ぐらいの待遇でどうか。」
しか景公は、重臣の晏嬰の反対により、孔子の雇用を考え直した。
「済まぬがわしは歳を取った。家臣の反対を押し切ってまで雇うことは出来ぬ。」
孔子は斉を去った。
従来訳
斉の景公が、先師を採用するにつき、その待遇のことでいった。――
「季氏ほどに待遇してやることは、とても力に及ばないので、季氏と孟氏との間ぐらいのところにしたいと思う。」
しかし、あとになって、またいった。
「自分も、もうこの老年になっては、孔子のような遠大な理想をもっている人を用いても仕方があるまい。」
先師はそのことをもれ聞かれて、斉の国を去られた。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
齊景公談到對待孔子的打算時,說:「要我象魯君對待季氏那樣對待孔子,我做不到,我可以用季氏和孟氏之間的待遇對待他。我老了,不能用孔子了。」於是,孔子離開了齊國。
斉の景公は、孔子の待遇を検討する時に言った。「魯公が〔筆頭家老の〕季氏に対するのと同じ待遇を孔子が求めるかも知れないが、私には出来ない。季氏と孟氏の間の待遇ならできる。〔しかし〕私も老いた。孔子を用いることは出来なくなった。」ということで、孔子は斉国を離れた。
論語:語釈
齊
論語の本章では”斉国”。初出は甲骨文。新字体は「斉」。『字通』によると語源は三本のかんざしを揃えた象形。揃える所から”整える”の意が生まれた。『学研漢和大字典』によると、◇印が三つそろったさまを描いた象形文字でのち下に板または布のかたちをそえた、という。詳細は論語語釈「斉」を参照。
景公
「景公」(金文)
論語では東方の大国・斉の君主。?-BC490。BC547、孔子5歳の年に即位し、BC490、孔子62歳の年に在位のまま没した。名君とは言いがたいが、賢臣である晏嬰の助けを得て大過なく斉を治めた。
BC522、孔子30歳の年、魯を訪問して孔子に政治を問うている(論語顔淵篇11)。BC517、孔子35歳の年、斉国に亡命した孔子を受け入れ、領地まで指定して召し抱えようとしたが、晏嬰の反対にあって取りやめた(『史記』孔子世家)。
「景」の初出は初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。”大きい・さかん・めでたい”の語義の時のみ、「京」が論語時代の置換候補となる。詳細は論語語釈「景」を参照。
「公」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「八印(開く)+口」の会意文字で、入り口を開いて公開すること、という。詳細は論語語釈「公」を参照。
待
(金文)
論語の本章では、ある待遇を整えて、人をもてなし、または雇うこと。「待遇」の「待」。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると寺は「寸(て)+(音符)之(足で進む)」の会意兼形声文字。手足の動作を示す。待は「彳(おこなう)+(音符)寺」の会意兼形声文字で、手足を動かして相手をもてなすこと、という。詳細は論語語釈「待」を参照。
季氏
(金文)
論語では、魯国門閥家老家筆頭の季孫氏のこと。孔子が季孫氏に仕えた記録は『史記』に見え、論語本章の話が史実であることを否定できる史料もない。辞書的には論語語釈「季」。論語語釈「氏」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
孟
(金文)
論語の本章では、魯国門閥家老家の一家、孟孫氏のこと。『史記』によると孔子より一世代上の当主・孟僖子が孔子を見込み、跡継ぎの孟懿子とその弟の南宮敬叔の教育を任せたという。ここから見られるように、元来は、孟孫氏と孔子の関係は良好だった。論語語釈「孟」も参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行く”→”去る”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
なお現代中国語では”行く”を「去」という。
論語:付記
論語の本章は、定州竹簡論語に無い。無いからと言って前漢宣帝期以前に、本章が存在しなかったと断じることは出来ないが、後漢になってからつけ加えられたと主張する理由の一つにはなる。そして本章は『史記』に入っていそうな話で、論語の章としてはそぐわない。
論語の本章の時間軸について、『史記』が記す所に従えば、孔子は魯公の昭公が国外逃亡するのに付き合うように、一時斉に亡命している。この時35歳と史記は言う。
BC | 魯昭公 | 孔子 | 魯国 | その他 | |
517 | 25 | 35 | 内乱を避けて斉の高昭子のもとへ避難 | 宮殿に九官鳥が巣をかける。闘鶏が原因で家老同士が私闘、乗じた昭公は季氏を討伐するが、返り討たれて斉に逃亡、さらに晋に行き乾侯に住まう。叔孫昭子死去。 | 斉、魯の昭公に領地を与えようとする |
516 | 26 | 36 | 斉で音楽を聴き、「三ヶ月肉の味を知らず」。斉の景公に仕官が内定するが、家老・晏嬰が反対して取りやめ | 斉、魯を攻撃して鄆を取る。周王朝再統一。彗星現る | |
515 | 27 | 37 | 斉の家老に殺されかけ、魯に帰る。途中、帰国中の呉の公子・季札が行った葬礼を参観。この頃までに主要な弟子を取る。弟子の樊遅生まれる | 季平子、范献子に賄賂し晋は昭公の受入拒否(晋世家) | 衛と宋、晋に魯君の受入要求。呉王・闔閭即位 |
亡命の前年、孔子は孟孫氏の後押しで洛陽に留学して老子から礼を学んだことになっている。そのころ、孔子は季氏の倉庫番、牧場管理人として働いたと『史記』は言う。孔子が亡命した理由を白川静『孔子』は陽虎の実権掌握のゆえと言うが、年代が合わない。
『史記』によると陽虎の奪権は季氏の当主の代替わりに際してであり、すでに魯では定公が即位しその五年(BC50)、孔子47歳の時のことだった。陽虎は孔子と同じく、どこの馬の骨とも分からぬ身分から身を起こし、一国の宰相格になった、孔子の先行者だった。
若年時の孔子が陽虎から追い払われた記録は『史記』にあるが(孔子世家1)、孔子が陽虎を恐れたという白川博士の説はただの思い込みで、魯国政界を三桓(門閥三家老家)が握っていたのは確かだが、孔子がそれを憎んで三桓と権力闘争に入ったというのはウソである。
ウソの具体像は、すでに実権を奪われた魯の国公・定公を孔子が擁護し、定公に逆らう実権者だった三桓の根拠地を、「礼に反する」という理由で破壊した。城二つまでは破壊できたが、残る一つに抵抗されて失敗し、孔子は失脚を悟って国を出たという(孔子世家8)。
事実は、三桓も孔子の政策を支持していた。たびたび根城の代官に立てこもられて反乱を起こされていたからだ(論語陽貨篇5)。だから孔子の出国に追っ手もかけず、すでに出国していた前国公の昭公のように、まるで核廃棄物のように扱って帰国を差し止めた訳でもない。
加えて、政争に敗れたら国公だろうと殺されるのが珍しくない春秋政界で、孔子は処刑どころかあからさまな追放処分も受けておらず(孔子世家9)、言わば勝手に放浪に出たと言ってよい。孔子自身も弟子の子路も、季孫家に重用されており、三桓との仲は良好だった。
三桓を悪者呼ばわりし、孔子との対決を言い出したのは、主に帝政開始以降の儒者官僚で、儒家がどれほど帝権の維持に寄与するかを訴えるため、うそデタラメを言いふらした。
そういう「常識」とはうらはらに、三桓の横暴や孔子一門との対立について、現代の論語読者が信じるべき元データは、ただの一つもありはしない。陽虎についても同様で、孔子は先達として陽虎をじっと観察し、参考にしていた。
「陽虎の失敗は、貴族界の常識を無視したからだ」(下掲)と見抜き、自分は貴族らしさ=礼を身につけ、弟子には当時の貴族にふさわしい技能と教養を伝授した(論語における君子)。それゆえの孔子の出世、失脚後の自由自在、そして後世に名を残した一因である。
陽虎既犇齊,自齊犇晉,適趙氏。孔子聞之,謂子路曰:「趙氏其世有亂乎!」子路曰:「權不在焉,豈能為亂?」孔子曰:「非汝所知。夫陽虎親富而不親仁,有寵於季孫,又將殺之,不剋而犇,求容於齊;齊人囚之,乃亡歸晉。是齊、魯二國已去其疾。趙簡子好利而多信,必溺其說而從其謀,禍敗所終,非一世可知也。」
陽虎が斉へ逃げ、そこでも追われて晋に逃げ、趙氏の客分になった。
子路「…だそうです。」
孔子「こりゃあ趙氏の家はしばらく荒れるな。」
子路「なぜです? まだ陽虎が執権になったわけじゃありませんよ。」
孔子「いや荒れるな。
お前さんは知るまいが、陽虎は権力を盗る悪ヂエばかり働いて、社交界での礼儀を知らなんだ。だから貴族のお坊ちゃんたちが、ボンヤリ鼻を垂らしている中で出世はできた。季孫家の執事に成り上がり、当主殿をあの世へ送って成り代わる寸前まで行った。
じゃが結局は袋だたきに遭って逃げ出した。斉へ逃げても、誰も引き受けなんだのは、悪い評判が広まっていたからじゃ。じゃからとっ捕まった。抜け出して晋に逃げたのは、魯や斉にとってコレ幸いというものじゃ。
趙氏の当主、簡子どのはやり手じゃが、しょせんはお坊ちゃんで、陽虎の言うがままになるじゃろう。そのせいで趙の家は数代はひどい目に遭うじゃろうが、寿命のある人間には一生かかっても、陽虎のまき散らす災いの終わりを、見届けることは出来ぬのよ。」(『孔子家語』弁物7)
儒教が今のような地位を獲得したのは偶然で、幼少期の前漢武帝を竇太后がいじめ、太后が道教の熱心な信者だったことによる(→論語郷党篇は「愚かしい」のか)。しかも前漢のうちは儒教も圧倒的ではなく、事実上の武帝の後継者宣帝は、儒教を忌み嫌った(『漢書』元帝紀)。
ゆえに帝国儒者のうそデタラメを真に受けるのは、21世紀のこんにち、「偉大なる指導者同志ナニガシ」の英雄譚や、「〒冫丿-はカミサマじゃ」を言って回ると同程度には間が抜けている。もし自分からそういう間抜けの仲間に入るつもりなら、現代人が論語を読む価値もない。
孔子はその程度には、突き抜けた合理主義者だったからだ(→孔子はなぜ偉大なのか)。
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