論語314子路篇第十三(12)もし王者あらば

論語子路篇(12)要約:常時無差別の愛を人々に降り注ぐ仁の情け。孔子先生は普通の政治的業績なら、一年か三年で挙げられる自信がありました。しかし仁を天下に行き渡らせるとなると、その十倍はかかります。しかしそれでもなお…。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「如有王者、必世而後仁。」

書き下し

いはく、王者わうじやあらば、かならにしてしかうしてのちじんならむ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

先生が言った。「もし聖王が現れても、仁に満ちた世の中になるには一世代かかるだろう。」

意訳

革命の同志諸君! 呉王をみっちり教育して、次の世代に仁の情けに満ちあふれた世を引き継がせようではないか!

従来訳

先師がいわれた。――
「たとえ真の王者が現われても、少くも一世代を経なければ、民をあまねく仁に化することは出来ない。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

論語では”常時無差別の愛”を指す。基本は人間が生まれながらに持つあわれみで、それを誰にでも・いつでも持ち続けること。孔子以前からこの言葉はあったが、孔子はそこにこのような、新たな意味をつけ加えた。詳細は論語における「仁」を参照。

王者

論語の本章では、”いにしえの聖天子のような君”。

王そのものなら論語時代にも周王は存続している。従って伝統的には、伝説の聖天子である堯(ギョウ)・舜(シュン)や、周王朝を興した文王・武王のような君主を指すと解する。

しかし孔子一門が革命政党でもあることを考えると、孔子のアジ演説として解釈も出来る。孔子一門は何かと新興の呉国に接触しており、その王・夫差はザンバラ髪に入れ墨という、論語の時代としては野蛮人だが、それだけに素朴で素直だから、孔子は教え込んで王者に仕立てようとしていたふしがある。

論語の本章では”一世代”。当時の平均寿命は30歳ほどだから、おおむね三十年と考えていい。統治の実績を見せるだけなら、論語子路篇10で孔子が言ったように一年か三年で実現できるが、さすがに仁を天下に満ちあふれさせるとなると、その十倍はかかると見積もったわけ。

必世而後仁

論語の本章では”必ず一世代は時間がかかる”・

「A而B」は、AとBが分かちがたく関係していることを示し、「非A而B」の場合も、AとBは共に否定の対象。となると「一世代あれば必ず仁になる」のではなくて、「仁になるには少なくとも一世代は必要だ」ということ。

論語:解説・付記

論語の本章をアジ演説とすると、そこまで論理的に考えて孔子が言ったわけではないかも知れないが、編集者にも頭のいい弟子がゴロゴロいる中で、論語にこの言葉が取られたのは、恥ずかしいほどの間違いではない、と判断されたからだろう。

つまり呉王を焚き付けても、失敗するかも知れないよ、と言外に言っているわけで、ある意味孔子は誠実かも知れない。政界は一寸先は闇だそうだから。

孔子にとっての王者とは、仁と分かちがたく結びついた人物で、若き日に身分差別で苦しんだ孔子が、王者が世を治めれば、自分は出世できると信仰のような気持であこがれた。創作された聖王たちは、血統ではなく能力で臣下を採用したと書いてあったのがその理由。

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